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 2006/vol.01



“左サイド”の相馬直樹がフロンターレに加入したのは2004年。「1年でチームをJ1に昇格させる使命」をもって加入し、まずは「声が出せて、リーダーシップがとれる」(関塚監督)という理由からリベロを務めた。だが、開幕前に右足を負傷。開幕前日、練習を終えたマルクスに「あした、ごめん。がんばって」と告げていた相馬を思い出す。そして、相馬にとっての開幕戦は、第6節対水戸戦だった。リードされる展開のなか、チームは5対2で勝利。試合後、緊張感がこちらにも伝わる表情をみせ「勝ってホッとした」と語った。
 転機となったのは、第8節対横浜FC戦だった。試合途中で、ボランチに入った相馬のプレーは、まるで俯瞰の視点からピッチをみているかのような、ボールのないところの動き、パスの供給、カバーリング、“効いている”と思わせるプレーがちりばめられていた。当時、そう感想を告げたところ「俯瞰でなんて、もちろん見えてないですよ。もしも、そういう風に見えているとしたら、それこそ小さい頃からの“センス”ということになるのかもしれない」
 そこに相馬がサッカーのおもしろさに魅入ったなにかがあるのだろう──。
   
 
──引退会見のとき、フロンターレでの印象深い試合として横浜FC戦をあげられました。ボランチとしてプレーしたその試合で「いままでと違うサッカーができるかなと感じた」と言われましたが、具体的にどういう感じだったのでしょうか。
「子供のころから中学までは、そこのポジションだったんです。自分のチームでは前に出て行くことが多かったけど、選抜とかになるほど前に攻められる人間がいたので、後ろのポジションをやってました。よく僕らの世代だとマラドーナが好きな人が多いけど、僕はあんまり好きじゃなかった(笑)。もちろん、すごいなとは思うけど、僕が好きだったのは、攻めても守ってもいいポジションにいるティガナとかだった。『うわっ、気が効いたポジションにいるなぁ』『またあいつが、そこにいるよ!』っていう。そういう選手になりたいなって思ってたんです」
 
──小さいときから、ボランチとしてプレーするおもしろさ見出してたんですね。
「ボランチってバランスをとるポジションじゃないですか。やっぱり中央にいて声も通るし、ボールに触る回数も多くなる。だから、ゲームをコントロールしてる感じがある。もちろんすべての試合であるわけじゃないですけどね。そういう意味では、あの試合は完全に自分がゲームをコントロールできたっていう印象があった。サッカーって楽しいよなって。サイドにいると、触らない試合は全然ボールに触らないですしね。難しいのは、サイドとボランチでは、角度が変わることです。サイドは、ラインに守られてるから180度みればいいですが、ボランチの場合、自分がプレーする角度も360度に増えるわけだけど、プレッシャーも同じだけ増えるわけですから」

──危険なところを察知したり、という部分は、やはりセンスなんでしょうか?
「うん、多分。もちろん、セオリーはありますよ。でもセオリー通りにプレーしなくても、危険なところにポジションをとると思います。あんまりセオリー通りにすると、セオリー通りに動かない人、それは味方も相手もですが、そういうときに修正がきかなくなりますから。結局、人を動かすことも含めてセンスだと思う」

──子どもの頃からボランチで、そういう効いているプレーを拝見すると、なぜ左サイドでプレーするようになったのか気になります。
「左サイドは、高校1年のとき、たまたまポジションが空いてたからなんです。すぐに左サイドとして選抜にも入って、そしたらだんだん評価がついてきて経験も増えていって、そのまま今に至るということなんです」
 
 2004年9月26日。フロンターレはアウェイの水戸の地でJ1昇格を決めた。バックスタンドのサポーターに選手たちが両手を振ってガッツポーズを送る。しばらく勝利の喜びをともに味わったあと、選手たちがその場を後にする。相馬は、「もっと、やらないの?」と問いかけ、その後も残って何度も手を振って声援に応えていた。例えば、練習グラウンドでも、訪れてくれたファンに対し、丁寧にひとりひとりに対応する姿がある。
 相馬の好きな言葉のひとつに「感謝」がある。「応援してくれる人がいるから自分が在る」「たくさんの人の尽力でいまのサッカー界があるから、サッカーで飯を食えている」
 相手がいるから自分がいる──。プロ選手としても、ひとりの人間としても「どうすべきか」という根本に立ち返り、いつでも行動できることは尊いことだ。

──とくに昇格を決めた水戸戦での相馬選手のファンに対する真摯な対応は心に残ります。
「あのとき、ホームで決められるチャンスがあったのに昇格を決められなくて水戸に行ったわけで、そこにあれだけの人が来てくれてたんです。だから、僕はあのときは、いくらやってもやりたりない場面だったと思う。僕もそうだったけど、若いころはなかなか感謝の気持ちを表現することは恥ずかしかったりして難しいかもしれない。でも、当たり前になっちゃいけないんです。
 
 
最後のフロンターレのインタビューで、オヤジくさいことを言っているかもしれないけど、そういう話を振っていただいたので答えると、やっぱり僕は『ありがとう』という気持ちを素直に表現できてほしいなぁと思います。だって、チケット代払ってバスツアーでナイターの試合に来てくれるわけじゃないですか。仕事じゃなくて、自分のお金と時間を使ってね。鹿島のときも、東京から家族4人で観に来てくれるとなると、ディズニーランドに行くのと同じだけお金がかかる。要は、どっちにエンターテイメントがあるかってことなんです。そこで最後に選手みんなで頭を下げてくれることによって、『よかったなぁ』って思って帰れるかどうかなんです。その最後の印象って大きいですよね」

──感謝の気持ちを表現できることは、大事なことですね。
「それは、サポーター以外に対しても同じです。掃除をしてもらったり、ボールやユニホームを用意してもらったり、グラウンドを整備してもらったり、いろんな人たちが協力してくれている。もちろん仕事なんだからやってもらうのは当たり前だし、お互いに責任をきちんともってやることは大事。でもそこに、必ず感謝やお互いを尊重する気持ちがないとダメだと思う。その人が選手じゃないから、サッカーがうまくないからってバカにすることではないしね。大学のとき、サッカーがうまくなくてもサッカーが好きで体育会に入ってくる人もいたんですよ。なかには一生懸命やっていても、サッカーがへただからとバカにしちゃう態度をとる人もいたけど、それは本当に違うと思う。目標もってはいってきた人間が、好きでサッカーをやっているんだから、そこはサッカーがうまい、下手じゃなくて“人”として見ていかないといけない。そういう人間関係については、その時期に考えさせられたかなって思ってます」

──お互いを人として尊重しあうということですね。
「どっちかが上に立とうとするのが違うと思うんです。お互いに尊重しあってお互いの存在を認めてお互いの主張を認める。もちろん、すべてを認められるわけじゃないけど。これからフロンターレがもっと大きくなっていくうえでは、サポーターはもっと増えていかなければいけないだろうし、そのなかでサポーター内でいろいろなことも起きるかもしれないし、クラブともなにか起きることもあるかもしれない。でも、いま言った大事なところをお互いに忘れていなければいいと思う」



 相馬が引退を決意したのは、2005年の夏だったという。度重なるケガ、痛いところを毎日ケアする日々、そしてそれに伴う体力の衰え。選手が引退をするということは、それまで積み上げてきた毎日、試合という輝ける場所でプレーすることが、終わりを告げるということ。引退する決断、気持ちの区切りのつけ方は、選手の数だけある。もちろんそこに至る気持ちの揺れはあっただろうが、自分で決意し、そして引退発表をする相馬の姿は、潔く清々しくさえ映った。

──もちろん相馬選手も引退を決断するにあたり、悩む日々があったと思いますが、引退会見の際の相馬選手は、12年間やるべきことをやったという充足感と潔さを感じました。もちろん、その悩んだ気持ちを人には言わないだけなのでしょうけれども。

「それは、言わないですよ」

──その気持ちを自分のなかで消化したうえで、「引退」を決断したんだな、と。
「そうですね。僕は、言葉にした時点で物事は決まっていると思ってるんです。人に相談した時点で決まってるんですよ。だから、僕は相談しないし、話すときには決めたっていうこと。もちろん、そこまでは自分のなかで悩みましたけど、最後に決めるのは自分。僕はそうありたかったし、人から肩をたたかれて、そこであがいたとして行くところがない。だから、やめますっていうのはイヤだったし。だから、決めてからは腹が据わっていました。もう終わりは決まっているんだから、長くても3ヵ月という残された時間をとことんやろう、と思いました。やめるって決めたから適当にやるのはイヤだったし、試合も出られないんだったら適当にやればいいじゃんって思われるのもイヤだった。チームの雰囲気を悪くさせるようなこともしたくなかった。自分のなかで、『相馬直樹っていう人間は、一回も手を抜かなかったよ』っていう風に最後までやりきろうって」

──引退を決めた後、残り時間が限られたなかで、この生活がもうすぐ終わるんだなぁという感傷はありましたか?
「それは、ありますよ。ああ、フィジカルきついなぁって思ったけど、次の試合に負けたらもうやることないんだなぁとか。10日のマリノス戦の前日も、最後の練習になるかもしれないと思ったし。それは、本当にそう思ってますよ。本当に、それはね」
 

相馬は、幼い頃にめぐり合ったサッカーに魅せられ、夢を思い描き、その芯がぶれることなく目標に向かってエネルギーを注いできた。本当にサッカーを愛して、その世界で自分の目標や夢を叶えるために人生を捧げてきた人だ。それをやり遂げた、やりきったと言えるのは、相馬のもつ「意志の力」、そして「努力」。そういう「力」をもっていたからこそ。そして、そう思えるだけサッカーを愛していたから、なのだ。
 

──タイトルや代表選手としての経歴など数々の結果を残している相馬選手ですが、目標を定めては結果を出す、という繰り返しだったんでしょうか?
「僕はね、遠い目標を作るほうなんですよ。だからタイトルや代表というのは、その過程ですね。それこそ、子どもにときに『サッカーでメシが食いたい。でも、マラドーナにはなれない』って思ったわけです」
 
──それは、どういうことでしょう?
「中盤の後ろで勝負しようと、思ったわけです。まぁ、それが途中で予定外にサイドとなり、それが近道となったわけですけど」
 
──そのときに、将来の職業はサッカー選手と決めていた。
「はい。『サッカー選手になりたい』と。それは、女の子であれば『安藤美姫になりたい!』でも、その子にとってどんなことでもいいと思うんです。でも、言っただけじゃダメで、本当に持ち続けられるだけの目標であるかなんです。そこが揺るがなかったら、その過程で失敗があろうが、壁があろうが、クリアしながら近づいていける。僕の場合、単純に『サッカーがうまくなりたい』っていう気持ちがいまでも強くあるということなんですよ」

──プロになってからは、どこに目標を置いていたんですか?
「高校ぐらいのときから、海外でプレーをしたいと思ってました。当時は、Jリーグがなかったから海外でしかプロになれなかったので。そのためには、代表で評価されるしかない。だから、代表のほうが、目標の過程なので手前でした。ワールドカップっていうのは、当時は次元が違ったしね。日本は出ていなかったから、目標じゃなくて本当に夢だった。でも、本当の夢っていったらワールドカップで優勝することですよね。あれ掲げてるのってメチャクチャかっこいいじゃないですか。大事なことは本当にそれを思えるかですよね。どこかで現実的になって、それは無理だろうってこともある。でも、現実をみるのも能力だと思いますけど、本当に思い続けなければなにも近づいてこないと思いますよ」

──今後の目標はありますか?
「これから見つけたいなぁ、と思います。具体的にはまだわからないですが、でも、やっぱり感謝じゃないですけど、いろんな人が礎を作ってJリーグを作ってプロとして飯を食える環境を作ってくれたから今の僕がある。じゃあそこで、『ありがとうございました』で終わるのは、ちょっと違うんじゃないか。サッカーが好きだし、やっぱりサッカーに携わっていきたいとは思いますね。ただ、さっきも言ったように僕は遠い目標を設定するほうだから、子どものときに『プロサッカー選手になりたい!』って言ったように、将来あと10年後に同じようになにがやりたいかっていう自分の内から湧き出るものを持ちたいですね。サッカーのなかで、これまでにかわる目標を見つけたいです。本当に好きなものじゃないと、エネルギーは注げないですから。本当に“ドリームズカムトゥルー”なんですよ。ドリームがドリームである限りは本当に近づいてきますから」
 

 鹿島アントラーズでの数々のタイトル、そして死闘を繰り広げたフランスワールドカップ予選、そしてワールドカップ。素晴らしい経験に彩られたキャリアは、やはり相馬を語るうえでは切り離すことができない。ギリギリの戦いに、どういう心理状態で臨んでいたのか。そのとき、どういう思いでいたのだろうか?。 

──タイトルを賭けた試合、ワールドカップ・フランス大会の予選などギリギリのところでの戦いも数多く経験されています。そういう試合に臨むときの心境としては、やはり自分のなかの揺ぎない目標がある、という部分が支えているのでしょうか
「そこは、関係ないですね。試合に、純粋に入れるほうがいい。これで海外に行けるとか、そういうことは関係ないです。もう、メンタルコントロールっていうか、純粋にそこでサッカーを楽しめる状態であるかどうかですね。コンディションがあまりにもいいから楽しめる状態のときもあるし、あまりにも苦しいから開き直って「苦しんでもしょうがない。楽しもう」っていうときもある。それが、ある意味ワールドカップ予選だったと思う。他のことが“なし”になるときっていうのが一番強いですよね。それは、絶対に。背負っちゃうものや、こうしなきゃ次がないっていうものもない。
 
『それで死ねばいいじゃん』っていうぐらいになったときが一番強いです。本当はね、昨年そういうゲームがあるかな、もしかしたら昇格に際して、そういう絶対に負けられない本当に痺れる試合ができるんじゃないかっていうのがあったんですけどね」

──そういう痺れる試合を経験してきたわけですね。
「そういう意味では、ワールドカップ予選のアウェイの韓国戦が一番ですよ。そこで勢いに乗って、そのあとは、なんでもいける、恐くないっていう感じになった」

──相馬選手は、物事を筋道だてて考える頭のいい人だと思いますが、一方で、感情が爆発して気持ちが一番振り切れたときっていうのは、ありますか?
「…………。それは、やっぱりジョホールバル。そこまで苦しかったものがすべて終わったというか、報われたと思えた、あの瞬間。たぶんジョホールバルだね」

──いままでにない感情が出てきた?
「そうだね。僕はそれに近いこと(タイトル獲得の試合)を経験していたけど、そういうことがなくて、いきなりあれを経験したらどうにかなっちゃうと思う。それぐらい、爆発という意味では、あれが一番です。次にも1試合可能性は残っていたけど、でも、あそこで例えばVゴールを最後とられて負けてたら、そこでの絶望感っていうのは、相当なものだったと思います。やっぱり、ドーハのときのそういう気持ちっていうのは一生あると思います。そっちのほうが残っていると思う、喜びよりも。クラブで優勝を逃した試合やチャンピオンシップで負けたことも相当悔しいけど、すべてがなくなるほどのものではないじゃないですか。極端なこといえば、次の年があるし。でも、あれはやっぱりね。ドーハにいた人でジョホールバルにもいた人は数人いたけれど、4年という歳月は確実に流れているわけですから」
 

 2005年12月3日、ガンバ大阪戦終了後に行われた引退セレモニーは、本当にフロンターレらしい手づくりの温かいものだった。引退の挨拶を力強い言葉で絞り出し、家族から花束をもらった相馬の目にも光るものがあった。相馬直樹の応援ソングが鳴り響き、いつもは両手を挙げて、ポンポンと手をうつ仕草をみせる相馬も、この時は、拳を作った左手をあげて、最後まで手を振ってリズムに乗った。Gゾーンには、「日本最強の左サイドバック・相馬直樹」と書かれた横断幕が掲げられていた。


──フロンターレで1年間通じて活躍したかったけれど、ケガがあって思うようにできなかった。そこは理想とはかけ離れた形だと言われていましたが、最後にきてチャンスを掴みました。そのときの心境とは、そういう意味では変わりましたか?
「いや、それは違いますね。やっぱり、1年間通して働いて、結果を残して、それで僕はやめたかったわけですよ。実際は、体が本当にギリギリだったわけですけど。いま、こうして最後に試合に出られていることは、もちろん幸せですが、昨年はケガがあったけど、昇格してJ1にあがって、相馬はこれだけできるよっていうのを世の中にみせて、でもやめます、これ以上はできませんっていうところでやめるのが理想でした。そういう意味では今年のシーズンは、かけ離れたものになってしまったかな、というのはやっぱりあります」

──確かに1年間通してという意味では、相馬選手にとって納得いくシーズンではなかったかもしれませんが、記憶に残るプレーを1分でも長くみせてくれていること、最後、左サイドでのプレーを観られることをうれしく思う人たちはいっぱいいると思います。
「本当にめぐり合わせだと思うけど、それは幸せなことだと思う。がんばったからすべてがついてくるわけじゃないし、そういう意味では最後に試合ができてることは本当に感謝しています。引退を決めたときに、国立でやりたいなぁってふと思ったんですね。このインタビューが掲載される頃にはもう終わってるかもしれないけど、そのチャンスが、いまあるわけです。結局、僕はフロンターレに来てから鹿島との試合に出ていないし、そういう意味でも次、もし勝って国立で鹿島とやれることがあったら…とは思いますね」

──先日のセレモニーを見て、「あぁ、フロンターレの相馬直樹だな」っていう実感を相馬選手自身が感じられる素晴らしい送り方だったと思いました。
「本当に、スタッフの皆さんにもサポーターに対しても、月並みだけどすごく感謝しているし、幸せだと思ってます。家族とも話したけど「本当に幸せだよね」って。それに尽きます。本当に感謝しています。そうしてもらいたくても、実際にああいう風にしてもらえる人は限られてるし、本当にすごく大事な時間をもらったなって思っています」
 

 
  2005年12月24日。相馬直樹、最後となった試合は天皇杯準々決勝対浦和レッズ戦となった。奇しくもアウグストの帰国により、現役最後は左サイドでの相馬が見られることになった。この試合も絶妙なポジショニングから攻守にわたって、相馬らしいプレーをみせてくれ、彼が望む「記憶に残るプレー」として目に焼きつけられた。
 90分が終わり、フロンターレの天皇杯敗退とともにプレーヤー相馬直樹、最後の時が訪れた。その瞬間、ちょっと笑顔になり、天を見上げた。
 
 
「やりきった、という気持ちです。最後は、攻めあがって点を取ろうかとも思いましたが(笑)、僕は、そういうタイプの選手じゃない。しっかり最後まで自分の役割を果たそう、と思ってプレーしました」と試合後に記者に囲まれて、スッキリした表情で語った。

 試合が終わり、ゴール裏のサポーターに応え、それからロッカールームに戻る途中、やまない相馬コールに、何度も振り返り手を振って深くおじぎをした。
 
 そうして、ピッチから続く階段を少し下りたところで止まり、もう一度振り返って階段を上って、サポーターに姿をみせ、やっぱり両手を振って最後に深くおじぎをした。

 相馬直樹らしい、終わり方だった。
 

清水東高、早稲田大学を経て1994年、鹿島アントラーズに加入。その後、2002年、東京ヴェルディ1969、2003年鹿島アントラーズを経て、2004年に川崎フロンターレに加入。国際Aマッチ通算59試合4得点。1971年7月19日生まれ、静岡県出身。175cm、72kg。

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