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SEASON 2015 / 
vol.12

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DF20/SHINTARO

勝利に、こだわりぬく

DF20/車屋 紳太郎選手

テキスト/竹中玲央奈 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Takenaka,Reona photo by Ohori,Suguru (Official)

2015年5月3日、味の素スタジアムで行われた”多摩川クラシコ”。ここで最も印象的なシーンは何か?と問われたら、答えは一択だ。それは、大久保嘉人が“三浦知良超え”の140ゴールを決めたそのときでも、FC東京での活躍から一気に日本代表の常連へと上り詰めたシンデレラボーイ・武藤嘉紀が決めた逆転ゴールの瞬間でも、ない。64分、左サイドからスピードに乗って中へ切れ込んでいった武藤嘉紀を車屋紳太郎が手で引っ掛けて倒した、あの場面である。井川祐輔がカバーに入っていたこと、そこで突破を許しても”決定的な大ピンチ”が訪れたとは言い難いことを考えれば、不用意なファールだった。そして、彼はこの日2枚目の警告を受け、ピッチを後にした。

「そんなことはないですよ」と本人は否定するが、”負けたくない”という強い思いが先立ち、あのプレーに繋がったのではないかと感じるし、車屋を取り巻く人々の話を聞くと、それはより確信に繋がっていくのである。「あれは紳太郎の性格が出た」と学生時代の彼をよく知る知人のカメラマンはこう言い、車屋が学生時代、懇意にあった筑波大学蹴球部の友人は「ああいう、負けん気の強さが面に出る部分では、彰悟くんと違いますね」と語った。決して谷口が持つ勝利への執着心が薄いということではないが、車屋のそれはかなり大きなもののように思えるのだ。ただ、それが彼の良さでもある。

小学校の廊下ですれ違った谷口の一言

小学校に入る前にはサッカーを始めた車屋だが、自分の意思からのスタートではない。サッカー好きの両親が車屋の6つ上の兄が所属するうクラブへ連れて行ったことがきっかけだ。そのときの感じたサッカーの魅力は、22歳になっても忘れていない。
「凄い楽しかったのは覚えています。”楽しい”しかなかった」 
そうやって始まったサッカー人生だが、その後、小学校3年生のときに一旦、この競技から離れることになる。上記の理由で入ったクラブに同年代の仲間が少なく、「自分が1,2年生くらいで(チームに)人がいなくなってしまった」(車屋)のだ。それで仕方がなく他のクラブを探して入団をするものの、今度はそのクラブの最年長学年が3年生であった。その年になると一旦”卒業”せざるを得ず、その後はチーム探しも意欲的には行わず。結果的に入団することになる熊本ユナイテッドの練習に参加はしたものの、1回に留まり、サッカーをやらない日々が続いた。しかし、ここで車屋のサッカー人生を再スタートさせるきっかけとなった人物が現れる。こういうとかなり大げさかもしれないが…。それは谷口彰悟である。
「1回練習に参加して、また行かなくなったんです。そしたら彰悟さんにたまたま学校ですれ違って『監督が呼んでいるからまた来いよ』って言われたんですよね。そこでもう一回参加しようかなと思ったんです」

「紳太郎が練習に来たあとに、監督に『あいつどうしたんだ、呼んでこい』と言われて。それで学校でたまたま会った時に、監督が呼んでいるから来いよ、って誘ったんですよね。覚えていますよ」誘った谷口本人はこう振り返った。
これにより”再び”サッカーを始めることになった車屋は攻撃的なポジションを任され、1学年上のチームにも合流するなど、頭角を現していく。中学はそのまま熊本ユナイテッドに上がらず、「たまたま対戦したときに”いいチームだな”と思った」という理由で熊本市立長嶺中学校へ進学。そこでは目立った成績は残せなかったのだが、それもあり、更なる高みを求めて、名門・大津高校の門を叩いた。

「自分の中では熊本といえば大津。中学校の時とか小学生の時とかによく高校サッカーに連れて行ってもらっていて。親も高校サッカーがすごく好きだったし、やっぱり大津は別格な存在だったので、そこに行きたいなと思いました。憧れでしたね」

DF20/車屋 紳太郎選手

 その”憧れ”の大津高校での3年間は、彼にとっては衝撃的な経験の連発だった。
「1年生のときは4時起きですね。慣れてきて4時半とかになりますけど、テレビとか見る余裕もないし、というかテレビもやってないんですよ(笑)。30分で支度して、5時には家を出ないと厳しい。ダッシュで自転車を漕いでいました。行きは下りだからいいんですけど、帰りは辛いんですよね。上りなので、40分くらいかかる。相当漕いで20分ですからね」
全力疾走で自転車を漕ぎ、着いた駅から電車に乗る。ただし、1年生は電車内の座席に座ってはいけないというルールがある。30分間、学校の最寄り駅に到着するまで立ちっぱなしだ。毎朝のタイヤ引きの練習も含め、「これでだいぶ足腰が鍛えられました」と笑いながら振り返る。
大津高校サッカー部の”ルール”はこれに留まらない。
「駅について学校まで行く途中のルートはゴミ拾いをしなければいけないですし、なおかつ先輩より先に着かなければいけないんですよね。あとは、タバコは拾うなとか。勘違いされるからですね。それと、通学路の途中に歩道橋があるんですけど、そこがけっこう揺れるところなので、他の道は走っていいけど、歩道橋は絶対に歩けとか。なんか、そういう独自のルールがありました。携帯電話を1年生は触っちゃだめだし、持っては行っていいんですけど、“使っているところを見られたら知らないよ”という空気もありましたし。もちろん帰りにコンビニもよっちゃだめですし、1年生は買い食いもダメです。ただ、3年生になったら全部許されます。衝撃でしたよね、なんだこれ、と(笑)」
 サッカー部の1年生は毎日、昼休みにはグラウンド整備に始まり部室・階段・水回りの掃除を全て行い、残された休み時間の3分ほどで昼食を取らなければいけない。そして、雨の日の翌日は水抜きも任される。
「グラウンドもボコボコで。引くだけじゃなくて、押しながら行くんですよ。平になるまでやらなければいけない。平岡先生(大津高校サッカー部の顧問)はものすごくグラウンドの整備とかにうるさいんですよ。すごくこだわっていた。その中で一個、名言があるんですよ。水たまりがあるときはスポンジを持って抜くんですけど、めちゃくちゃ雨が降っている中で水抜きしていて、もはや意味がないじゃないですか。なのに、そこで平岡先生が『雨より先に水を吸うんだよ!』と(笑)。まあ、そんなところで育ってきたので、ある程度のことは耐えられるようになりましたよね。毎日そういう何かしらのエピソードがあるんですよ」
 ザ・体育会と言わんばかりの環境であった高校生活を懐かしそうに、笑みを浮かべながら振り返った車屋だが、サッカー面については言葉少なになる。インターハイでベスト4まで進み、大学を経由してではあるが、谷口を始めとした多くのJリーガーを輩出した1つ上の代の影に隠れてしまう。自身が最高学年になったときには前年度を上回ることはできず、目立った結果も残せなかった。そして、次なる舞台の選択に、迫られることになる。

筑波大学に入り、サッカーの概念が変わった

「めちゃくちゃ緊張しましたよ」とは筑波大学のスポーツ推薦を受けにきたときの心境だ。大学の選択肢としては国立校が第一であり、それを成し得なかった場合の次の選択肢は”就職”という話を両親としていたという。高いレベルでサッカーをやれる国立大学という基準で考えた中で、関東大学サッカーリーグの強豪校である筑波大学が志望校に入ってくるのは必然的な流れだ。大津時代の恩師、平岡和徳氏の母校でもある。
「親から筑波は反対されていたんです。彰悟さんみたいな、高校時代からトップレベルの選手しか受からないようなチームだと親は思っていたので。あとは、親としては九州にいさせたかったみたいですね。それだったら鹿屋(体育大学)へ、と。それで僕も最初は鹿屋を考えていたんですよ。でも、平岡先生と話しているうちに、『もしお前がサッカー選手としてやっていくのであれば筑波が良い』と言われて。そこで筑波に行こうと思いました」
 こういう経緯で志望校を決めた訳だが、そんな筑波大学蹴球部のスポーツ推薦枠はわずか5つであり、なにより選考試験の開催時期が遅い。これが就職と進学の狭間に居た車屋にプレッシャーをかけることとなった。つまりどういうことかというと、この筑波大学の試験に不合格となると、いわゆる強豪校の入学試験は残されておらず、進学を断念せざるを得なくなるのである。文字通り崖っぷちに立たされたこの状況は、容易に想像できるものではない。そんな中、車屋はこの試験をパスし、晴れて筑波大学蹴球部の一員となる。そして、当時チームを指揮していた風間八宏監督に出会ったことが、彼のサッカー人生の転換点となった。
 「僕の中では30cm先のところにボールを置くことはボールを"止める”と思っていたのだけど、それも違うと。"止めて蹴る”の概念が変わりました。大学で風間監督に教わったのは1年間ですけど、この1年がサッカー人生で最も上手くなったと感じましたね」
この風間監督のマインドを吸収することができたことももちろんだが、もう1つ、彼の人生を大きく変えたのが、ほぼ経験がなかったセンターバックへの転身である。
「人がいないというのもあったけど、ボランチでやるにはテンポが速すぎてついていけないなと。だから、後ろから。それは(谷口)彰悟も同じ。あとは、紳太郎は足が速かったからね」攻撃的な選手であった車屋を最終ラインで起用した意図を風間監督はこう語るのだが、今や車屋本人も「CBで勝負したい」と口にするほど、この起用は当たった。

 2年の頭に風間監督が筑波大学を離れた後も、車屋は中心選手としてチームを支え続ける。副主将も務めた4年次には同部史上初の二部降格を味わうものの、同期の中野嘉大と共にその存在感は大学サッカー界の中でも随一のものであり、そんな車屋には多くのクラブが関心を寄せた。ただ、彼の中での行く先は、固まっていた。
「風間さんのおかげで自分は1年のときに大学選抜にも入ることができたし、そこでもっとやりたい、うまくなりたいというのがフロンターレを選んだ理由です」内定が発表された直後の2014年の4月に、彼はこうコメントしている。

 早々に進路を確定させ、残りの期間を大学サッカーに費やし、プロの準備をする。そういう思いで過ごしていた車屋だが、卒業を前にしてJデビューを飾ることになった。2014年の第32節が終わった直後、大学の卒論に取り組んでいたところで、風間監督から直々に呼び出しの電話を受けたのである。呼ばれた直後、そのまま選手寮入りをし、トップチームの練習に翌日から参加すると、週末の広島戦では3バックの一角としてスタメン出場を果たして85分までプレー。最終節の神戸戦も続けてメンバー入りを果たし、チームの勝利に貢献した。この2試合の出場とその出来が川崎のサポーターが持つ期待感を大きくさせたことは間違いない。実際に彼はその期待に沿い、2015年の開幕戦スタメンも危なげなく勝ち取り、デビュー間もない3月にはA代表のバックアップメンバーに選ばれた。ただし、それに留まり、本選出はまだ果たせていない。それゆえ、”正式”に代表入りを果たすということに対する思いは、本人の中に強く存在している。

 「(代表への思いは)ありますね。漠然ですけど。あとは、海外もドルトムントとやってすごく行きたいなと思いました。でも、自分はそこの目標を見るよりも、目の前のもの1個1個をやっていく感じなので。そこで、満足するところまでやらないとやめないタイプなんですよ。ちょっとでもここがダメだなと思ったら、やれるところまでやる。昔からそういうタイプです」

確かに、と思った。普段の練習後、自主練に取り組む選手が多い中で、車屋は人一倍、グラウンドでの居残り時間が長い。年は違うが同期入団であり、プライベートでも時間を共にすることが多い三好も「紳太郎くんは、こだわりが強いですね、トラップであったり、1つのプレーであったり、1個のことにこだわり始めたら、練習に付き合わされますしね(笑)」と言う。
先に紹介した大学時代の同級生も、こう言っていた。
「ミニゲームになってもガチだし、遊びでボウリングに行ったときとかでも、テレビゲームとかでも、勝ちにすごくこだわるんです」
やっぱり、彼は人一倍の負けず嫌いなのだ。練習であればトラップ1つ、パス1つが上手く行かなれば納得いくまでやり直すことができる。ただ、試合となればそうはいかない。いくら納得いくプレーを続けたとしても、敗北という結果を消化させるには至らないだろう。そういう意味では、戦いにおいて最もこだわるべき部分は勝利という結果であり、車屋の中でそういった図式が先天的にインプットされているように感じるのである。
「僕たちはサッカーをしてご飯を食べていかなければいけない。だから、全員がライバルですよ」これは、彼が大学3年生のときに発した言葉だ。
「自分があと何年ここにいられるかわからないですけど、とりあえず結果を残せないと生き残れないですからね」少々言い方が和らいではいるが、ルーキーの選手ながらこんな、危機感をも露わにする。
この世界で生きていくには結果を残さなければならないし、そのためには負けを容認しているようでは話にならない。だから、負けられない。彼にとっては、それが当たり前なのだろう。些細な勝負でも、こだわりぬく。その強い思いは時に、冒頭の場面のような悲痛な瞬間を生むことがある。だが、それよりも、歓喜に繋がる勝利の瞬間を呼ぶ回数のほうが多いはずだと信じたい。何よりも、その瞬間に立ち会う資格が、彼にはあるように思える。

「僕の世代は僚太も健勇も嘉大もそうですけど、いい選手がいっぱいいるし、1つ上には彰悟さんもいる。今のこのメンバーと一緒にタイトルを取りたいという感じはありますね。ベテランに頼るだけではダメですし。それに、このサッカーで取れたらもっと注目されるし、勝利主義だけじゃなくて内容もこだわるということを示せば日本のサッカーは変わると思います。フロンターレが頂点を取れば」

マッチデー

   

profile
[くるまや・しんたろう]

筑波大学から加入。巧みな足技と冷静なプレースタイルを武器とする左利きのDF。昨シーズンはJFA・Jリーグ特別指定選手として登録され、リーグ第33節、第34節に先発出場。大学生らしからぬ落ち着いたプレーぶりを披露した。同郷で先輩でもある谷口彰悟とともに、チームをけん引する将来の中心選手として期待がかかる。

1992年4月5日/熊本県、
熊本市生まれ
ニックネーム:シンタロウ

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