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  • ピックアッププレイヤー 2016-vol.15 / 原川 力選手

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SEASON 2016 / 
vol.15

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Harakawa,Riki

力むことなく

MF15/Harakawa,Riki

テキスト/田中 雄己(報知新聞社 運動第二部) 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Yuki Tanaka (The Hochi Shinbun) photo by Ohori,Suguru (Official)

原川「力」。両親が大ファンだという俳優・安岡力也から一文字取り、「力」(最初は、力也だったが、いつの間にか力になっていたとか)と命名された。だが、名とは裏腹に、普段は『力』むこと無く、自然体が魅力の23歳。「日本に帰ってきてから焼けました。ブラジルよりも暑い!」。こんがりと日焼けした顔に、柔和な笑み。そして、時折見せる真剣な表情。それらは、幼少時から「天才」と呼ばれたからこその苦難や困難を乗り越えたからこそ辿り着いた顔だ。

 山口県山口市で生を受けた原川は、幼稚園時代にサッカーと出会う。3歳上の兄・凌が小学校の少年団でサッカーボールを蹴る姿をいつも横目で眺めていた。だから、兄と同じ道を辿るのは必然で、「いつの間にかサッカーを始めていた」。

 学校の部活活動をしていた兄とは異なり、今年創設20周年を迎えた地元クラブのレオーネ山口(現レノファ山口FCアカデミー)の門を叩いた。

 ・学年・年齢にとらわれず、個性を活かす
 ・目先の勝利にとらわれず、スキルアップを重視する
 ・幼稚園から中学生までの一貫指導を行い、「観ている人も、選手も楽しいサッカー」をする

一風変わった指導方針を掲げるクラブは、練習メニューやルールも独特で、たとえば、テニスボールでリフティングを100回できるまで練習には加われない。厳しくもユニークな環境下で、サッカーの面白さを体全体で感じ取った。「走るメニューなどはほとんど無くて、ボールを触る時間が長かった。サッカーを楽しむことから始められた。一番最初にそういうチームに入ったことで、大好きになれたのだと思う」。あっという間にサッカーの虜になった。

 練習日は月・木を除く週5日。授業が終わると、すぐさま集合場所のスーパーへと駆け、バスに乗り込む。片道30分かけ、練習場に着くと、約2時間のトレーニングをこなし、また30分かけて帰る。ただ、それだけでは飽き足らず。自宅に帰るなり、荷物を置き、再び家を飛び出し、自宅真裏にある公園に走った。そこは何の変哲もない広場。ブランコや滑り台いった遊具は何もなかったが、ボールを思い切り蹴り当てられる大きなフェンスがあるだけで十分。毎日、毎晩暗くなるまでボールを蹴り続けた。夕暮れの公園では、もっぱら『宿題』に取り組むのが日課だった。レオーネ山口では毎日、様々な宿題が出された。なかでも夢中になったのは「オリジナルのフェイントを考えること」。優れたフェイントを生み出せば、優秀賞として有名選手のユニフォームやボールが景品としてもらえた。「子供だったし、それら欲しさに必死だった」と自宅裏の『秘密基地』で特訓を重ねた。当時、参考にしていたのは、両親からプレゼントされた海外サッカーのDVD。自身が中盤だったこともあり、元フランス代表のMFジダンのマルセイユルーレットが大好きで、「何回も真似ばかりした」。

「ご飯できたわよー」。終了の合図だった母の呼び声がかかるまで、時間も忘れ、ただただ目の前のボールにだけ夢中になっていた。

 余談になるが、レオーネ山口では、ノジマステラ神奈川相模原に所属する田中陽子と4年間一緒にプレーしていた。なでしこジャパンにも選ばれた経験がある彼女とは現在でも頻繁に連絡を取り合い、年末には地元で必ずフットサルをする間柄。「あの歳で1人だけ男子の中に交じってプレーしていたけど、何の遜色も無い位上手かった。僕らも女の子とサッカーをしている感覚ではなかった。今でも彼女は、良い刺激になっている」。

MF15/Harakawa,Riki

 中学進学後もレオーネ山口に通い続けたが、鴻南中で運命的な出会いを果たす。のちに京都ユース、京都、そしてリオデジャネイロ五輪代表でも共闘した久保裕也と初対面を果たす。もう10年以上前のため、お互いが「第一印象の記憶は無い」と笑う。3年間で同じクラスになったことは一度も無く、原川はレオーネ山口、久保は中学の部活で活動していたため、接点が何ら無くても不思議ではない。それでもサッカーが2人を結びつけた。「知らず知らずの内に朝練を一緒にやるようになっていた」。学校の真横にある維新公園で午前7時から1限目が始まる8時20分まで約1時間、毎日ボールを蹴り合った。原川は「裕也のシュート力はすごかった」、久保も「力のコントロールはすごかった」と回想するが、決して最初から認め合う間柄では無かった。当時、中学の部活を指導し、原川の担任も務めた松野下真氏は「中学3年生の国体の県選抜で2人が選ばれ、それでようやくお互いに認め合ったように見えた。それまでは、(原川は)鴻南中に負けるか、(久保は)レオーネに負けるか、という感じ。バチバチしていた印象がある」と証言する。また原川の当時の印象については、「天才肌。空間認知能力に優れていて、ボールのコントロールの質が違った。ノールックで止めて、パスを通す。右でも左でも繰り出すから、相手はたまったものじゃない。2、3人きても奪われない。相手をいなして、いなして。今と同じポーカーフェイス(笑)」。県選抜で指導した際には、「プロになりたければ守備しないとなれないぞ、と口酸っぱく言っていたのを覚えている。当時の彼は、ハイハイといった感じだったけど、今ではしっかり守備もする。人は成長するもんだな」。笑って明かしてくれた。

 異なる場所で切磋琢磨した2人は京都のスカウトの目に留まり、ともに京都ユースへ進む。06年から「スカラーアスリートプロジェクト」と呼ばれる育成プログラムが確立されており、U-18の選手は選手寮「RYOUMA」に入寮し、提携先の立命館宇治に通う。サッカー選手としてのみならず、人間育成に力を注ぎ込むプロジェクトは寮費や食費のみならず、入学金や学費なども免除され、まさにVIP待遇。「環境は本当に良いし、ご飯も出てくるし、練習場も近い。申し分無い環境を与えてもらえていたことは、高校生ながらに分かっていたし、自覚は持っていた」。  トップチームの選手たちのプレーも間近で見られ、ときには練習に混ぜてもらえることも、これ以上ない刺激になった。「トップとの距離感が近いので、早い段階でプロとはどういうものか知ることができたのは良かった」。特に、影響を受けたのは柳沢敦(現・鹿島コーチ)。「柳沢さんは本当に模範というか、プロとしての姿勢を間近に見られてよかった。今やらなければいけないことも分かるので、早い段階で何をしなければいけないか明確になってよかった。チームに合わす合わさないという問題はあるが、自分がどういうプレーを出来るか示さなければダメ。特徴を出すこと。それは高1で感じた」

 恵まれた環境下でメキメキと頭角を現したが、ピッチ外では思わぬ苦戦を強いられた。……勉強が苦手だった。1日1時間。寮の食堂で家庭教師と向き合う「勉強タイム」が何より苦痛だった。「何か勉強をしないといけないんですけど、それがしんどくて。5分に1回位見回りに来る時、いかに何かをしているようかのように見せかけるか。そればかり考えていた」。週に一度の英単語テストはクリアしないと居残りで練習に遅れてしまうので、「そこだけは必死でした」。赤点を取ったら合宿などにも帯同できないことになっていたが、そこはなんとかクリア……したことになっているが、原川曰く、「赤点はそれこそ数え切れない位、何回も取っていた」。だが、各教科の先生がうまく取りはからってくれたおかげで合宿も全て参加できたのは、ここだけの話にしておこう。

 プロ候補生として順調に階段を上り、11年には2種登録でトップチームに帯同。12年には晴れてトップチーム昇格を果たした。だが、入団2年で出場はわずか10試合。「1年目はある程度出来るやろと少し舐めていた部分もあったが…思ったようなプレーができなくて。サッカーが初めて楽しくなかった」。順風満帆なサッカー人生を送ってきた原川にとって、初めてともいえる挫折だった。選手寮では誰にも心の内を打ち明けられず、自分だけで抱え込んだ。「うつ病とまではいかないけど、何をするわけでもなく、ただただ落ち込んだ。落ちてはまっていくという感じ。試合に出られると思ってプロに上がって、でも出られなくて。あの2年間は本当に空っぽだし、あそこで出場できていたら違っていた」。この時の苦しく、辛い思いを力に変えた側面はあるが、「あの時があったから今があるとは、まだ言えない」程苦しみ抜いた2年間だった。

 さらに、1つの『事件』が勃発する。12年3月。U-19日本代表候補合宿での一コマだった。千葉との練習試合。原川はボランチで先発したにも関わらず、「自分が前に行った方が得点できる」と独断でポジションを変更。監督の指示も、困惑するチームメートの顔もどこ吹く風。するすると前線に移動。ハーフタイムでは監督から雷を落とされたにも関わらず、意見を曲げず。「テクニカルエリアにいる監督が戻れと叫んでいたが、無視していた。今、考えたらすごいですね、ただのアホ(笑い)。その試合で、負けたのがさらにダサイ」と今だからこそ笑いも交えて振り返られるが、当時はその行動が問題視され、しばらく代表から声がかからなくなった。インターネット上ではしばらく「原川 前科」などと叩かれたが、それを機に考え方が変化。「代表にも入れなくなって、色々と考えるようになった。自分よりもチームの勝利から逆算してプレーするようになった」。それまで才能を全面に押し出したプレーをしていた男が、勝利や仲間のために思考を巡らせる契機となった。

 14年には自ら志願し、J2の愛媛FCに移籍。エリート街道を歩いてきた原川にとって、衝撃の連続だった。ピッチは人工芝の上に凸凹で、ユニホームは自分で手洗い。練習場も毎日違う場所に転々とする放浪生活。それでも「試合に出られることが何よりの喜びだった。環境が悪いが、楽しかった。ボコボコのピッチや人工芝でもプレーできる喜びの方が大きかったので、全く苦にならなかった」。背番号10を任され、32試合に出場。プロ初得点もあげた。高萩洋次郎(FCソウル)、斎藤学(横浜M)らと同様、愛媛で飛躍する下地を作り上げた。「サポーターが温かく、のびのびと、かつサッカーに集中できる環境が整っている。街も含めて、好きなクラブの1つになった。改めていつか恩返しできればと思っている」。

 翌15年には、京都に復帰。心身共に成長した姿をみせ、定位置を確保し、29試合に出場。そして、今季。「J1にステップアップしたい」と川崎入りを果たした。だが、ファンの期待に見合う出場機会を得ているとは言い難い。それでも焦り、苦しむ姿はもう無い。「川崎のサッカーにフィットするには、ある程度時間がかかることは分かっていたし、自分自身も京都の時よりも大人になった(笑)」。慌てすぎずに、己の力を信じ、虎視眈々とその時に向けて準備を続けている。

 今年の夏には、リオデジャネイロ五輪で、『世界』と対峙した。五輪の連続出場が危惧された「勝てない世代」。メンバーには、幼なじみの久保も選出された。1月のアジア最終予選の準決勝イラク戦では2人でゴールを奪い、五輪切符を勝ち取る。まさに漫画のようなシナリオで、本大会に辿り着いた。だが、チームは1勝1分1敗、1次リーグで姿を消した。原川自身も初戦のナイジェリア戦にこそ先発したが、残り2戦はベンチを温めた。「日本は本当に良いチームだったし、初戦で勝てばもっと上までいけたはず。だからこそ初戦の負けが悔やまれる。バタバタしてあのチームらしくなかったし、僕としてもプレーが落ち着かなかった」。

 失意の帰国となったが、敗退から1か月以上経過した今でも『世界』の感触は残っている。特に色濃く刻まれたのは、サッカー王国ブラジルの記憶。現地での最終調整として対戦したが、あまりの実力差に声を失った。「速さ、強さ、上手さ。身体能力は違うし、全てで違った。別次元」。高揚しながら「一番の衝撃」と振り返るのは、やはり王国の10番。「ネイマールとマルキーニョス以外はイメージの想定内だったが、ネイマールは足すら出せなかった。足を出したら、蹴って走られる。何度か対峙している内に、足を出せなくなり、駆け引きの部分でこちらが止まっちゃっていた」。圧倒的な実力差を見せつけられながらもどこか嬉々とした様子なのは、肌で『世界』との差を確認できたからだろう。

 脳裏に焼き付いた世界の力量、そして世界トップ選手の残像を頼りに、新たなトレーニングにも着手した。トレーナーにメニューを作成してもらい、背中や下半身(主に臀部回り)中心の強化をスタート。「ブラジルの選手はゼロの状態からマックスになるまでの早さが段違いだった。背中が動きの中で軸になるし、僕はお尻が弱いので、その辺りの筋力アップが必要。そういう部分を意識し出すようになったのだけでも変化だと思うし、世界と戦うためにも成長曲線をより早めたい」。

 肩甲骨周辺もパワーアップするため、自宅には20㌔のダンベルも購入。高校時代からずっと支え続けてくれている妻と8月に2歳になったばかりの愛娘・結愛ちゃんがいる傍ら、自宅でも筋トレが日課となった。「五輪が終わって、この先、国を背負えるのはA代表だけ。国同士の戦いは特別なものだし、そこでしか返せないものはある。そのためにもまずはフロンターレで定位置を確保したい。今季はあと僅かだが、初タイトルへの力になれればファンもきっと認めてくれるはず」。蓄え続けた『力』を爆発させる瞬間は、もうすぐだ。

   

profile
[はらかわ・りき]

京都サンガF.C.から完全移籍で加入したMF。パス、ドリブルといった基本技術の高さに加え、献身的なプレーでチームの攻守をつなぐ。年代別の日本代表にも選出されており、U-23日本代表では大島僚太とともにプレー。フロンターレの中盤を活性化させるユーティリティプレーヤーとして、チームのスタイルに新たなエッセンスを加えてもらいたい。

1993年8月18日/山口県
山口市生まれ
ニックネーム:リキ

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