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  • ピックアッププレイヤー 2017-vol.07 /吉田勇樹アシスタントコーチ

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フロンターレが好き。だから、恩返しがしたい

吉田勇樹アシスタントコーチ

テキスト/隠岐満里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Oki,Marina photo by Ohori,Suguru (Official)

2002年──。
下野毛グラウンドの照明が19時半に落ちると、それから自転車で等々力競技場へ。J2だったフロンターレのスタンドはその時間に到着しても、好きな席に座ることができた。同じポジションだった、伊藤宏樹に注目しながらゲームをよく観ていた。
13歳だった吉田少年は、15年経った今でもフロンターレ 一筋で、チームのために尽くしている。

 2017年、鬼木フロンターレが発足すると同時に、新たにコーチングスタッフの一員として吉田勇樹の名が発表された。
 クラブとしては、コーチングスタッフの陣容を決めるにあたって、人材育成、練習に入ることを想定して体が動かせることなどいくつかの条件を満たしたアシスタントコーチを必要としていた。そんななか白羽の矢が立ったのが吉田で、ジュニアユースからフロンターレに在籍し、長年クラブのことを知り尽くしている、ということも決め手になったという。

 長年クラブに在籍している──。
 吉田勇樹は、フロンターレアカデミー出身で、2002年にジュニアユースに加入し、ユースを経てトップチームに昇格。U-15日本代表など年代別の代表選手としても選出された。トップ昇格後は、なかなか試合に出るチャンスには恵まれず、2011年末にフロンターレとの選手契約を終えた。選手たちへの挨拶の場でも、天皇杯で敗れた最後の等々力の試合でも、泣いていた。という、当時のエピソードを聞いてみると、トレードマークの笑顔で話し始めた。

「俺、すぐ泣いちゃうんで。選手の前でも泣きましたね。あとで、オニさんに『俺も泣きそうになっちゃったよ』って言われました。天皇杯の湘南戦で思いがけず負けてしまって、まだ負けないだろうと思っていたんですけど…、泣きましたよね」

吉田勇樹は、ひとことで言えば「愛されキャラ」だった。

 吉田は、その後、フロンターレで引退し、翌年からフロンターレで第二の人生を歩むことになった。その決断は、どういうものだったのだろうか。

「俺、子どものことも好きですしね」

 こうして2012年、22歳の若さで第二の人生をスタートした。
 フロンターレ普及コーチとなり、その後もスクールのコーチなどを主に務めるようになった。2015年からの2年間は川崎市のトレセンを担当したり、アカデミーのサポートに入るなどの忙しい日々にまい進していた。仕事の切り替えも、思ったより苦労はなかったという。

「特に苦労したわけじゃなかったし、ヒデさん(佐原秀樹)とかもいたので、すんなり入りやすかった。今まで皆さんに俺はよくしてもらってきて、選手もそうだし、スタッフもそうだし、スクールコーチになっても知っている人たちもいて、今度はお世話になった人たちと一緒に、自分もフロンターレの力になれるのだったらいいんじゃないかと思いました」

 

 姉の子どもの面倒をよく見ていた吉田は子どもの扱いに慣れていたこともあり、あっという間に人気コーチになった。
 「自分でいうのもなんですけど、けっこう好かれるんですよ(笑)。別に俺がなんかしてるわけじゃないんだけど。たぶん、ニコニコしているというのもあるのかもしれないけど、食いついてくる子が多いっていうかね。それはうれしかったですよ」

 

 一緒に楽しんだり、サッカーの楽しさを実感させることができた一方で、「教える」「指導する」という難しさも当然味わったという。
 「コーチという職業はやっぱり難しいと思いました。小さい子、5年、6年とかいろいろな年頃の子を教えましたけど、小さい子はボールが蹴れない子もいる。なぜ蹴れないかがわからないから、そこをどう説明してあげるか。できない要素はボールをちゃんと捕らえられていないとか、軸足が遠いとか、体全体を使えていないとかいろいろあるんだけれど、それをどういった言葉で伝えて、理解させるかが一番難しかったですね」

 

MF16/三好康児選手

 5年間はあっという間に過ぎていったという。子どもたちとの間で育まれた絆もあったし、コーチとして大事なものも見えた。

「子どもたちがチャレンジしようとしていることは逃さないようにしようと。チャレンジしようとしてミスしてもまったく問題ないし、ミスを恐れていたらうまくならない。だから、そういうものが見えたらほめてあげようとは気にしていました。チャレンジを否定しないように。あと、最初の年に教えた子のことも覚えています。ちょっと前に嬉しかったのは、俺が2年目に教えた6年生の子が、中学生になって進路相談を俺にしたいって、お母さんが俺がやっているスクールにわざわざたずねて来てくれたことがあったんですよね。本人は部活で来られないからって」

 

 最近では川崎市のトレセンを担当するなど地域の活動に顔を出したり、2017年はそのままフロンターレの育成スカウトを担当する予定だった。

 ところが、2016年12月の半ばになり吉田のもとにトップチームのアシスタントコーチ就任の話が舞い込んだ。

 フロンターレ育成部長の山岸にフロンターレ事務所の一室に呼ばれていくと、「お前、来年トップに行って来い」と言われた。「マジか!?」という言葉が頭に浮かび、それから1日だけ心が揺れ動いた。
「ケンゴさんとか一緒に選手として過ごしたメンバーがいるなかで、俺はコーチとしてトップに行けるのだろうか、という若干の不安がありました。でも、翌日に麻生グラウンドで強化部スタッフから話を聞いて、俺はまだ動けるから練習にも入れるし、若手の対応というところでは試合に出られない選手の気持ちもわかるだろう。フォローしてやってほしいって言われて、そういう役目だったらやれるんじゃないか。やってやろうと1日でポジティブな気持ちに変わりました」

 強化部と話を終えて、クラブハウス内を歩いていると、鬼木が向こうからやってきた。

「やれるか?」

「やらせてください」

それが、12月の半ばの出来事だった。

 吉田のトップチームアシスタントコーチの就任が決まると、かつてともにプレーした選手や先輩たちは、喜んだ。

 伊藤宏樹からは叱咤激励のLINEが届いた。
「経験を積むっていう意味では、お前にとってすごいチャンスやろ。監督がオニさんだったからということもあるだろうし、チャンスだよ。タイミングでしかないから、これ逃したらチャンスないよ」

 トップチームのアシスタントコーチの経験がある寺田周平とは食事に行った。
「役割がハッキリしているし、そうなったらお前しかいないよ。みんなそう思っているから自信もっていってこい」と、言ってくれた。

 吉田勇樹が現役だった当時、フロンターレの若手層が厚くなった頃で、たくさんの若手選手たちが切磋琢磨し合うような関係だった。皆が寮生活を送っており、まだ寮が中原区にあった頃には車を相乗りして麻生グラウンドまで1時間かけて通ったり、いつも一緒にいて同じチームで試合に出る目標を掲げて刺激し合ってきた。小林悠や登里享平、安藤駿介もその中にいた。 「連絡したら、みんな凄く喜んでくれたんですよね。ユウがキャプテンになった年にこうして一緒にやれることも嬉しかったし、力になれたらいいなと思いました」

 吉田は、ある選手にも電話をかけた。
「タサですね。同期ですからね。そしたら、『また勇樹と一緒にやれてうれしい』って、すごい喜んでくれたんですよね。本当にそれは、俺としてはうれしかったし、俺もまた彼らと一緒に立場は違うけど働けるのがうれしかった。スタッフもそうだし、俺は本当にみんなにお世話になったので、そういう人たちと一緒に働けるのはうれしいじゃないですか」

 田坂にとって、吉田は2008年の同期加入の仲間である。当時、菊地光将(現大宮)、横山知伸(現札幌)と大卒出身の3選手とフロンターレアカデミーから加入の吉田勇樹の4人が同期加入だった。つまり年は4歳離れているが、吉田は軽くその年齢さを飛び越えてしまうキャラだったため、自然に「タサ」と呼んでいたし、そう呼ばれるほうの田坂も違和感がないほど「同期」だった。

「うれしかったですね。勇樹、出世したな〜って。同期のLINEでも、その話題が飛び交いました。立場は違うけど、昔に戻った感じですごい懐かしい。加入当時はみんな仲良かったし、いる時間も長かったから、寮でもグラウンドでも一緒。単純に共有した時間が長かった。勇樹は、人の懐に入るのがうまいし、誰とでも分け隔てなく接することができるキャラ。今、若手についてコーチとしてやっている姿をみると、教えるのもハキハキしていて、育成をやってきたのが活きてるんだなぁと思う。しかも、プレーがうまくなってるし。若手にとっては、話しやすい存在だろうし、もし俺が若手の時に勇樹がいたら、すごい話していただろうなぁと思う。あとは…、いると落ち着く」と言って、田坂は笑った。

 トップチームのアシスタントコーチとして始動した吉田にとって、自分がどういう存在になるのか、どういう方向をめざせばよいか、文字通り手探りの状態で始まったと言えよう。しかし、現役時代から、もっと言えば、もともとの人柄がそうであったように、人の変化に対して気づいたり、声をかけたり、話を聞いたりということは、自分が「出来る」ことだろうと気づいていた。また、そうしてくれることが、試合になかなか出られるチャンスがない若手選手にとって、どれほど救われるかということも身をもって知っていた。

 現役最後の年の夏、吉田自身にとって調子がよく、チャンスを掴めると手応えを感じたことがあった。だが、結果的にメンバーに入ることは出来なかった。
すると、声をかけてくれた人がいた。

「オニさんだったんですよ。今は懐かしいプレハブの外の人工芝のグラウンドを眺めながら、ベンチにふたりで座ってね。お前が調子いいのはわかっているから。でもやっぱり兼ね合いとかもあるからさ。切らさず頑張っていこうよって。もしかしたら俺が落ち込んでいた変化を見逃さず声をかけてくれたんだろうけど、すごいありがたかった。俺も、変化を見逃さず寄り添えたり、時には突き放すことも必要だろうし、そういう見極めができる指導者になれたらいいなと思います」

 今、吉田の日常は、8時に麻生グラウンドに来て、映像チェックなどをして9時からコーチングスタッフのミーティング。練習30分前にフィジカルコーチと一緒にグラウンドで準備をし、練習には選手が不足していたら入るなどして、全体練習後は若手と練習をするというのがルーティンだ。

 日々、若手選手と接する中で、吉田なりにもどかしい想いや伝えたい気持ち、変わってほしいと願う心などが入り混じっているという。それは、やっぱり自分自身の経験に重ねているからだろうか?

「すごく重ねてしまいますよね。それも自分の経験を通してわかるから、そういう面でアドバイス出来ることは自分がここにいる意味があるのかなって思う」

 そして、吉田は力強い口調で話し始めた。
「若手には言っているんですけど、自分に矢印を向けろよって。俺も含めて大成していない選手って矢印が外に向いている選手だと思うんですよ。そうするとなんであの選手が出ているのに俺は出られないのか、ってなる。やっぱり外に矢印が向いているとたぶん自分も成長しないだろうし、極端な話、試合に出られていないということは出てる選手よりもよくないっていうことじゃないですか。特に若手が外に矢印向けたら絶対ダメだと思う。人間は弱いから外にどうしても向きやすいけど、そこでどれだけ自分に矢印を向け続けられるか。そこがいい選手になるかどうかの差なのかなって俺は思う。自分から逃げない。弱い自分から逃げないこと」

 現役時代、仲間たちと切磋琢磨していた自分ともリンクする。
「あの頃、ユウは最初大きな怪我をしていたけど、やっぱりストイックにやるところはやっていた。あと(田中)雄大(現札幌)もすごい真面目で、ひたすら壁にボールを蹴ってた。壁当てをやりすぎて、当時監督だった相馬さんに『休め』って怒られていたぐらい、超真面目でしたね」

 かつての自分と照らし合わせながら、後悔してほしくないという思いが、あふれ出す。

「でも、極論は他の人がどうかじゃなくて、結局は自分自身の問題。選手も職業だし、ダメだったら契約が終わるっていう厳しい世界。だから、自分のためだぞって。オニさんが戦う気持ちを鼓舞することを言ってくれているけど、頑張ることってプロだったら当たり前のことだし、うちのチームじゃなくても出来ていなかったら出られないわけだし、当たり前のことが出来てないから言われるんだし、だから、あいつらのためにも言い続けなきゃいけないなって思う」

 ジュニアユースに吉田が在籍した頃、ひとつ上の学年を指揮していたのが曺貴裁(チョウキジェ 現湘南監督)で、吉田は上の学年にまざって練習をしていたことも多く、その頃、曺監督から「オニキ」と呼ばれていたという。
「現役時代のオニさんのプレースタイルと似ているからってことらしいです。これ、オニさんに言ったことないですよ」

 鬼木監督、そういうことだそうです。

「確かに、俺と似てるかもね(笑)。勇樹は、今、アシスタントコーチになって、選手と年齢が近いから、スタッフとのパイプ役になれるし、コミュニケーションがとれる。あいつのキャラクターもあるから、スタッフも明るくなるし、チームを明るく出来るところがある。でも、ああみえて根は真面目。本人の根っこのところが愛されるのは、真面目というよりも、誠実だからだと思う。これからは、そういうキャラクターや自分が持っている“らしさ”を出しながら、指導できるようになればいいと思う。今いろんなインプットをしているところで、これからアウトプットしようとしているところ。実際、勇樹は指導者になってからもプレーもうまくなっているから、そういうことも実践して実感して、選手に伝えられるんじゃないかなと思いますね」(鬼木)

 実際にアシスタントコーチになって、トップチームの練習に合流してからというもの、吉田は自分のスキルがあがっているのを実感しているという。

「最初はみんなうまいから俺足ひっぱるなって思ってたけど、俺のちょっとしたレベルでもボールがとまるようになってきたなって思ったりする。そうなってくるとすごく楽しくなってくる。よく、オニさんが試合の前とか楽しんで勝とうって言うんですよ。楽しむってなんだろうなって。俺、現役の時、楽しめていなかったかなって思うところがあって。というのは、楽しむには自信が必要だと思う。うちのサッカーやるんだったら技術が必要だろうし、俺なんかは上達する喜びがわかったから楽しくなって、その積み重ねが自信になる。だから、若手にもチャレンジしてできなかった部分をチャレンジし続けることでできるようになったら楽しくなって上達して自信になるって流れになるかもしれないし、そういう部分では改めて感じられる部分がありましたね」

 今、アシスタントコーチとしてスタートを切ったばかりの吉田だが、持ち前の明るさや人柄は、彼にしかないものだろうし、自分の経験を反面教師にして若手にぶつかっていく姿は清清しく、そして、何より、フロンターレのことが大好きである、という愛情の大きさがひしひしと伝わってくるインタビューだった。

「だって、俺、世話になりましたもん」と何度も何度も繰り返し言う。

 なぜ、そんなに世話になったと感じるのだろうか?

「中学生の時から所属して人として成長させてもらった場所だし、それこそ怪我をした時にはトレーナーさんにも世話になったし、他のスタッフにも世話になったし、俺は選手の時に活躍できていないから、恩返しができていないから、恩返しをしたいという気持ちをずっと持っているしね。現役最後の時に泣いたのも、本当にみんなによくしてもらったのにそれに応えられなかった自分が情けないっていうのがすごいあったから」

 だからこそ──。

「プライベートでもみんなに可愛がってもらって、オニさんとか今野さん(章)とかコーチにも練習残ってみてくれたり、話も聞いてくれて、その他の人たちも、そう。フロンターレが大好きなんで」

 人柄がいいとか愛されキャラだと吉田勇樹は言われ続けてきたけれど、それは持っている素質のようなもので、それは何にも代えがたいものである。そして、これだけの愛情をもってフロンターレの一員としてクラブが発展することを願い続けられることもまた、フロンターレと吉田勇樹の相思相愛の物語であり、それがこれからも続いていくのだろう。

profile
[よしだ・ゆうき]

川崎フロンターレ・アカデミー出身。2002年にジュニアユースに加入し、ユースを経てトップチームに昇格するも、なかなか試合に出るチャンスには恵まれず、2011年末にフロンターレとの選手契約を終えた。2012年、22歳の若さで第二の人生をスタートし、フロンターレの普及コーチを務めた後、2015年からの2年間は川崎市のトレセンを担当。今年、2017年よりトップチームのコーチとして鬼木監督を支える。

1989年5月3日
東京都世田谷区生まれ
ニックネーム:ユウキ

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