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  • ピックアッププレイヤー 2018-vol.12 / MF41/ 家長昭博選手

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マネージャーの仕事って?

MF41/家長昭博選手

追い求めるもの

テキスト/原田大輔 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Harada,Daisuke photo by Ohori,Suguru (Official)

 家長昭博に次の言葉を投げかけられて、正直、何と返せばいいか正解が分からなかった。それはどこか唐突で、それでいてどこか核心めいてもいたからだ。「今、僕、楽しそうって思いますよね?」

 ひととおり、ここまでのキャリアを振り返ってもらった後だった。そのうえで、自分自身にとってのターニングポイントはどこだったのかを改めて尋ねたのだ。そう聞いたのは、こちらにも、川崎フロンターレでプレーしている今の家長が充実しているように見えたからだ。

 だから、突然の逆質問に思わずフリーズしてしまった。我に返って、目まぐるしく頭を回転させてみたが、やはり正解は分からない。結果的に、しばらく経って、「うん」と頷くしかなかった。すると、家長も少し時間を置いてから、こう答えた。

「全然、楽しいとは思えていないんですよ。別に日々、悩んでいるってことではないんですけど、だからといってハッピーかと言ったら、そうじゃない。満たされることはないんですよね」

 全身をぞわっとした感覚が包み込む。インタビューをしていると、まれに選手の言葉に感化されて鳥肌が立つことがある。フットボーラーとしての家長が満たされることはないのか——思わず尋ねていた。

「ないですね。ひとつクリアしても、まだまだ課題はあるわけじゃないですか。究極なことを言えば、明日どうなるかなんて分からない。だから、いつも僕はそう思うんです。自分が1試合で4得点、5得点すれば満足するのかもしれないですけど、実際、そんなことはしたことがないですからね。だから、今の何に満足できるのか。客観的に自分を見ても、満足するようなプレーはできていないですから。きっと、他の選手もそうだと思うんですよね。結果を出した試合で、口では『満足しています』って言っているかもしれないけど、心の内では満たされていないはず。言葉では何とでも言えるじゃないですか。だから、自分は正直に言うてますけどね」

 その言葉を聞いて、家長という人間が少しだけ分かった気がした。彼は、サッカーを始めてから今日までずっと、大小ある壁を登り続けているのだ。

 家長がそのサッカーに出会ったのは、小学校2年生のときだった。

「仲の良い友だちがサッカーに通っていて、僕のことも誘ってくれたんです」

 それが生まれ育った京都府長岡京市にある長岡京SSSだった。当時はどんな子どもだったかと聞けば「普通にやんちゃで、元気な少年やったと思いますよ」と話す。「外で遊ぶのが好きだった」という家長は、他にも水泳を習っていたというが、続いたのはサッカーだけだった。

「水泳ってある程度、習ったらというか、階級が上がったら終わりみたいなところがあるじゃないですか。だから、ある段階までいってやめたんですよね。でも、サッカーは違う。みんなで勝つ喜びだったり、大会に優勝したりとかがモチベーションとしてあったんだと思います。漫画を読んだり、ゲームをやったり、人並みにいろいろなことをやりましたけど、自分の太い幹になるかといったら、そうじゃなかった。サッカーをやっていたら、自然とプロサッカー選手になりたいと思うようになって、いつ、それが夢に変わったのかは明確に覚えていないですけどね」

 キャリアを振り返ってもらう過程で、この後、さんざん苦戦するのだが、家長は過去のことを“あきれるほど”覚えていない。あまりに記憶が残っていないものだから、最終的には本人も「ホント、すみません。これじゃあ記事にならないですよね」と心配して気遣ってくれたほどだ。それでも微かな記憶の糸を辿ってもらった小学生時代の思い出はこうだった。

「コーンを置いてドリブルする練習はたくさんしましたね。近くに友だちが住んでいたこともあって、公園や学校でもドリブルの練習をしてました。といっても、遊びながら、楽しみながら、ボールを蹴ってるって感じでしたけどね」

 小学生のときから目立つ存在だったのかと聞けば、「多少じゃないですか」と笑う。本人だから謙遜するのも当たり前だろう。ただ、うまくなければ、県をまたいでガンバ大阪のジュニアユースから声は掛からない。

「ガンバから誘ってもらって、親とどうしようかって話になって。もちろん、うれしかったはうれしかったですよ。事前に試合を見に来てくれていたみたいで、それがテストだったのか、セレクションを受けるようなことはなかったんですよね」

MF41/家長 昭博選手

 そうして通い始めたガンバで、家長はジュニアユース、ユース、そしてトップへと階段を駆け上がっていく。ようやく、挫折や困難にぶち当たったのではないかと思い、ぶつけると、ここでも彼は飄々としていた。

「挫折はありましたよ。それはもう、毎日ですよ。できないこともたくさんありますし。でも、それって当たり前というか、普通のことじゃないですか。というよりも、小中高と、挫折している暇なんてなかった。ゆっくり考えたり、見つめ直す時間なんてなかった。ガンバ大阪のジュニアユースは、やっぱり、みんなうまかったですよ。大阪のほうがうまい子はたくさんいる。井の中の蛙ではないですけど、京都にいた自分は、そこで知らない景色を初めて見た」

 サッカーをやめたくなったことはないのかと聞けば、「あります、あります」と即答する。

「中学2年生か3年生のときですかね。サッカーがおもんなくなったんですよね。もっと遊びたいなと思うようになったというか、自分の中でサッカーに対するモチベーションが下がってしまったというか。それで練習をさぼってしまったときもありましたけど、長期間、練習に行かなくなるようなことはなかったですね」

 それなりに反抗期もあったというが、思春期特有の難しい時期をどう切り抜けたのかを聞くと、家長はこう答えた。

「親とかに相談したことってあんまりないんですよね。あんまりというか、たぶん一度もないと思う。いつも自分で考えて、自分で決めてきました」

 そこに家長という人間が、また見えてくる。話を彼のキャリアに戻せば、ユース時代についても淡々と答える。

「(ユースに昇格してからは)もうプロを意識してやっていました。トップの練習には、高校1年生のときに初めて参加させてもらったんですけど、最初は外でボールを蹴っているだけで、一緒に練習に混ぜてもらえるわけではなかった。そのあと、何度か行くうちに、練習に入れてもらえたんですけど、体も大きかったし、スピードもあるので、すごいなと思いながら見ていた記憶はありますね」

 その迫力に、怖じ気づかなかったのかと聞けば、「いや、びびったと思いますよ」と笑う。あまりに正直に答えるものだから、こちらの表情も思わずほころんだ。

「でも、それが高校1年生だったので、ユースに戻っても年下。どっちにいても一緒だったんですよ(笑)。ただ、みんなと違ったところと言えば、僕はユースいる年齢のうちに2種登録選手としてJリーグの試合に出て、プロ契約したということ。トップに昇格してから試合に出たのとは逆だったということです。たまたまトップチームの選手にケガ人が多く出て、たまたま自分が試合に出られるチャンスが巡ってきて、それでユースの年齢なのに試合に出て、そうこうしている間にプロになったという感覚だったんですよね」

 その家長が、初めてJリーグのピッチに立ったのは、2004年6月26日、当時はまだ高校3年生だった。J1リーグ1stステージ第15節、アウェイのアルビレックス新潟戦で先発に抜擢されたのだ。さすがの家長も、これはしっかりと覚えていた。

「急にメンバー入りした記憶はあります。さすがに緊張しましたよね。だから、試合内容はあまり覚えていないですけど、新潟のスタジアムだったことは記憶に残っていますね」

 初先発したその試合で初得点を記録するのだが、それもさすがに記憶に残っていた。

「中央より、ちょっと右サイドですかね。ペナルティーエリアの少し後ろくらいから、シュートを打ったら、相手に当たってコースが変わって入ったんです。うれしかったですよ。得点を決められたこともそうですけど、プロの試合だったので、足を引っ張らなくて良かったなという思いのほうが強かった」

 その後、高校生にして正式にプロ契約した家長は、デビューイヤーとなる2004年にリーグ戦8試合に出場する。高校を卒業した2005年はJ1で24試合に出場し、J1優勝を経験。2006年はJ1で28試合、2007年もJ1で27試合に出場と、若手ながら着実にチャンスを得ていった。ただ、転機となった試合はあったかと尋ねれば、「転機は毎試合やったと思いますよ」と返ってくる。もはや家長節とでも言いたくなる。

「まずプロのスピードに慣れるのも、プロの生活になれるのも大変でしたし、徐々にそうしたリズムに慣れていったというのはあると思います。それとプロは、常にいいパフォーマンスを求められますし、当時のガンバは強かったので、そのハイレベルなプレーについていくのも大変でした。だから、確かに2005年にJ1優勝を経験していますけど、そのときは、先輩の後ろにくっついて、試合に出ているだけで、自分はたいしたことは何もしていなかったと思います。若手の自分は、自分のことだけに集中していればいい環境だったので、それだけ周りがすごかったということですよね」

 数字上では着実なステップアップを刻んでいた家長だが、途中出場も多く、2008年には大分トリニータへの移籍を決断する。

「一度、違う環境に身を置いてみたいというのもありましたし、そのタイミングで話をもらったというのもあります。それに知らない土地に住み、知らない人と接すれば、また全部、変わるじゃないですか。大変な分、自分が知ることのできる世界も変わるし、見えなかったものも見えるかなと」

 ただ、新天地ではシーズン開幕前に右膝前十字靱帯を損傷し、全治6カ月のケガを負った。

「自分にとっても初めて大きなケガをしたのが、そのタイミングだったので、本当に大変でしたね。今思えば、いい経験になりましたけど、リハビリも長かったですから。気持ちの浮き沈みもありましたけど、リハビリも周りの人に支えてもらって、コツコツやることができた。これまでのキャリアを振り返れば、嫌な思い出もいっぱいありますよ。でも、その反面、うれしいこともいっぱいあったと思うんですよね。だから、その、弱音を吐くとか、悔しい思い出とか、そうことをあんまり覚えていないのかもしれない」 少しだけ懐かしむようにそう言った後、家長はさらに言葉を吐き出した。

「だって、振り返ったら、しんどかったことのほうが多すぎて分からないですよ(笑)。ケガしたこのときもそうですけど、プロになってから今まで、しんどいこといっぱいありましたから。誰がどうみても、僕の人生、順風満帆じゃないじゃないですか」

 その表情はちょっと苦々しく、それでいて清々しくもあった。そして、その言葉を聞いて、彼にキャリアを振り返ってもらうことをやめた。なぜなら、それ以上に興味を抱いたのは、家長昭博という人間そのものだったから……。

 大分から2010年にセレッソ大阪へ移籍した家長は、海を渡り、欧州でのプレーにも挑戦した。スペインのマヨルカ、さらには韓国の蔚山現代、その後はガンバ大阪に復帰し、2017年に川崎フロンターレに加入するまでの3年間は大宮アルディージャでプレーした。そのいずれの決断もそうだったように、次の二文字が彼を動かしてきた。

「挑戦。自分の行動や決断を言葉にするのは難しいですけど、シンプルやと思いますよ。どんなときも、結果が出ないときでも、挑戦するしかない。周りの人から見たら、サッカー選手として変わらない日常を送っているように見えるかもしれないですけど、その中で、自分自身は、いろいろなことがあって、いろいろなことを感じ、いろいろな気持ちを抱いて生活している。その中で、常にどんどん、どんどん、前に進んできたという感じですね」

 だから、苦しかった日々を聞けば、「全部ですよ、全部」と答える。冒頭に記した「楽しく見えるか」の問いは、ここに通じていた。

 では、なぜ、家長は苦しいのか。そこには追い求める理想への「欲」があるからだ。

「自分でも分からないんですけど、きっと何かあるんでしょうね。自分の中で、こう生きたいとか、こうしたいという何かが。それに従って、今までやってきた。その欲が自分を突き動かしているのは確かで、今はそれが“タイトル”になっている」

 川崎フロンターレに加入したのは、そのためである。昨シーズン、彼に話を聞いたときも、力強く、それでいてシンプルにこう言っていた。

「チャレンジです。はい。それだけです。常にチャレンジしてきたし、今もチャレンジし続けたいからです」

 それと同時に、まだあの奇跡とでも表現したくなるJ1初優勝を前に、こうも語っていた。

「タイトルは獲れていないですけど、このチームに何が足りないかって言われたら、僕は別に足りないものは何もないんじゃないかって思ってるんですよね。あとは獲れるか、獲れないか。それだけだと思う。何が足りないのかってよく聞かれますけど、僕はもう、タイトルが獲れるチームだと思ってますけどね」

 今でもそのはっきりとした口調を覚えている。だから──今シーズンを迎えるに当たって、家長には他クラブから破格とも、好条件とも言えるオファーが届いた。だが、彼はフロンターレでプレーすることを選択した。その理由も欲望に素直で、シンプルだった。

「悩みましたよ。でも、タイトルが獲りたい。今はまだフロンターレでタイトルが獲りたいんですよね。サッカー的なことで言えば、自分にはそれほどこだわりはなくて、例えば、守ってカウンターのチームでもやれるとは思っていますし、ポゼッションするチームでもやれるとは思っているんですよね。だから、自分の価値観として、サッカーのスタイル的なものは優先順位の上には来ない。もちろんフロンターレのサッカーは魅力的ですけど、それ以上に純粋にタイトルが獲れるチームだと思う。だから、今はこのチームでプレーしたいと思ったんですよね」

 そう言ったあとで、「ただ、未来のことは分からないですけどね。自分を縛ることは誰にもできないので」と付け足すところも実に家長らしい。

 そんな家長も加入した昨シーズンはフロンターレのサッカーに馴染むのに苦しんだ。彼の特徴が発揮されるようになったのは、夏になって3−1で勝利したJ1第22節の鹿島アントラーズ戦以降だった。

その後は、得意のドリブルを含めて、随所に個の能力の高さを発揮。ただ、それでも当の本人は「自分の良さが100%出ているかと言ったら、どうかなと考えるところもある」と、意に介さなかった。それは、もはや欠かせない存在となった今シーズンになっても変わらない。だから、家長は満たされないし、悩みが尽きることもないのだ。

 最終的にその欲はどこに向かっているのか。聞けば家長の口から出てきたのは、フロンターレのバンディエラの名前だった。

「具体的にいつまでプレーしたいというのはないんですけど、(中村)憲剛さんは37歳でここまでやっている。その年齢までプレーできる人は一握りかもしれないですけど、その姿を間近で見ていたら、負けていられないですよね。今、自分は32歳。だったら、もっとやらなあかんって思えるし、僕が先に引退することはあってはならないですよね」

 その家長に最近の課題を聞けば、こう明かしてくれた。

「なかなか自分自身にスイッチが入らないことが悩みなんですよね。それこそ32歳になって、こんなこと言ってちゃダメなんですけど、スイッチが入るときは入るけど、入りきらないときがある。パッと集中できるときはできるけど、できないときは客観的に見ている自分がいて、スイッチが入っていないのが自分でも分かるんです。性格的にテンションが低い時間が多いので、それを上げるために、試合前に着る服の色なのか、聞く音楽のテンポなのか、見るものなのか、そういうことも試みて変えていかなければならないのかなって思っているんですよね」

 家長のプレーを見ていて、後半になればなるほど、存在感であり、輝きが増していく理由が分かった気がした。そこは家長が一目置く中村憲剛も指摘しつつ、ふたりの関係性について教えてくれた。

「アキはスイッチが入ると、とんでもないプレーをするんだけど、入っていないときはやっぱり分かる。彼はそういう育ち方をしてきたし、プロになってからもそういう環境で過ごしてきたんだと思うんですよね。でも、去年、彼はすごく変わったんですよ。僕がそれまで知っていた家長昭博ではないというか、それだけうちに来て努力したと思うんです。今までも走ってはいましたけど、あれほどハードワークする選手ではなかった。それに今では、ふたりだけの世界があるというか、プレーしていて楽しい。ふたりでプレーしていると、(小林)悠が『ふたりだけでパス交換してて、全然ボールが来ない』って、たまに文句を言うくらい。それだけ僕とアキにしか分からないパスコースというものがある。他の人ならば来ないと思う場面でも、アキからならパスが来るって分かるんです」

 うれしそうに中村は家長について話してくれたが、まさにその真骨頂が見られたのが、7−0で快勝したJ1第26節のコンサドーレ札幌戦だった。大量得点の皮切りとなった前半28分の家長のゴールは、中村がアシストしたもので、前半30分に中村が決めたゴールは、家長のボール奪取がきっかけだった。その試合、家長は5得点に絡む大活躍。ただ、試合後、本人に聞けば、やはり変わらぬコメントが返ってくる。

「今日はやれた部分もありましたけど、自分自身としてはもう1点取りたかったところはありましたね」

 彼が追い求めているのは、永遠に満たされることのない欲なのかもしれない。そんな家長は自分自身をこう表現する。

「僕は動物的な人間だと思いますよ。経験も加味されて、理論的にプレーできる部分も増えてきているとは思いますけど、でも動物的でありたいと思うんですよね」

 決断も、行動も、そしてプレーも、本能の赴くまま。心の声に従っているから天才肌にも見えてしまうのだろう。

 ただ、自分については言葉数の少なかった家長だが、フロンターレについて聞けば、キャラクターが違うのではと見間違うほど、流暢に言葉が出てくる。

「このチームは、在籍年数が長い選手がたくさんいて、その選手がちゃんと試合にも出ている。僕はいろいろなチームでプレーしてきたから、それが実は難しいことだというのが分かるんですよね。しかも、そうした選手たちが、日本代表にも選ばれて、活躍している。だからこそ、ファンもサポーターもより親しみやすいチームになっているというか、より愛着が持てる。自分も加入してみて、フロンターレが応援される理由、ファンになりたくなる気持ちが何となく分かったところはありますね」

 ちょっと感心すらして、こちらが笑みを浮かべていると、さらに家長は言葉を続けた。

「あとは等々力でプレーしてみて、このクラブが応援される気持ちがより分かったところもありますよね。何より、等々力での勝率が高いというのは、それだけスタジアムの後押しがあるから。自分は体力を温存しているところもあるのでやらないですけど、チームメイトがゴールを決めて、Gゾーンに走っていってサポーターと一体になって喜んでいる姿を眺めるのは好きだったりするんです。ああ、いい光景だな、いい景色だなって。それにサポーターを獲得するために、クラブがいろいろと取り組んでいるところもそうですけど、選手たちも率先してそこに協力している。性格的にも、自ら楽しんでというタイプではないですけど、周りが喜んでくれたり、楽しそうにしてくれるのはうれしいですよね」

 ターニングポイントについて聞いたこともあって、最後にありきたりだが、これまでのベストゲームを聞いてみた。すると家長はこう即答した。

「いや、まだないですね。きっと、これからじゃないですかね。自分のこの1試合というものにいつか出会いたいですよね」

 キックオフの笛が鳴ると同時に、家長が本能のままにプレーできればできるほど、その欲は満たさていく。そして、それはフロンターレに2つ目、3つ目……と続く、タイトルという星になっていくのだろう。そのとき──家長にとって、とびっきりの1試合が生まれるはずだ。そして、そのとき──もしかしたら家長はGゾーンに向かって走っていくのかもしれない。

profile
[いえなが・あきひろ]

抜群のテクニックを駆使してチームのリズムにアクセントをつけ、天才的なセンスで得点シーンに絡むレフティー。加入1年目の昨シーズンは開幕直前に怪我を負い、辛い時期が続いたが、復帰後はチーム躍進の立役者として大車輪の活躍を見せた。フィジカルの強さを生かしてチームに推進力を生み出すだけではなく、守備でもハードワークを続ける献身性も高い評価を受ける。

1986年6月13日、京都府長岡京市生まれ
ニックネーム:アキ

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