vol.01
三笘 薫Mitoma Kaoru
「1997年生まれ、三笘 薫」
スペシャルインタビュー第1回に登場してもらうのは、川崎フロンターレがプロ化したのと同じ1997年生まれの三笘薫選手。
2006年、セレクションを受けて小学3年生でフロンターレアカデミーに加入。
U-18までの10年間を過ごし、自身の選択で筑波大学でプロ選手となるための成長期間を設けて、2020年にプロとして再加入。
新人最多となる13ゴール、12アシストを決め、ベストイレブンに選出されて、J1リーグと天皇杯の2冠に貢献した。
2021年8月に欧州へ移籍。ベルギー1部リーグ(期限付き移籍)を経て、イングランド・プレミアリーグに戦いの場を移し、2022年にはワールドカップ・カタール大会に出場した。
戦いの舞台が変わっていく中でも、フロンターレアカデミー時代から培った分析力や逆算思考、継続する力を育み続けた。
自分に矢印を向け、できることを増やし、武器を磨きながら成長し、壁を乗り越えてきたから今がある。
ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCでプレーする三笘薫選手に、フロンターレで過ごした時間を振り返ってもらった。
*本インタビューは2025年12月半ばに実施したものです
アカデミーでの学びは、技術的なアドバンテージになっている
フロンターレが創設30周年を迎えるということで、同じ1997年生まれの三笘薫選手に第1回に登場してもらいたいというのが依頼の理由です。厳密には、2026年にフロンターレは30歳、三笘選手は29歳と1歳違いですが…。
三笘 薫(以下、三笘)なるほど、そういうことなんですね。僕でいいんですか?
うれしいです。シーズン中に協力してもらい、ありがとうございます! さて、フロンターレ創設30周年と聞き、どう感じますか?
三笘Jリーグが1993年に始まり、その後にフロンターレが生まれ、いろいろ積み重ね、応援してくれるサポーターが徐々に増えていった中で迎えた30年なので、重みがあると思います。
三笘選手は、2006年小学3年生でフロンターレアカデミーに入り、U-18までの10年間、筑波大学を経てトップチームで1年半、トータル11年半フロンターレに在籍しました。(大学時代も、2年生の9月以降は特別指定選手として選手登録)
三笘そうですね。
子どもの頃からたくさん試合を観ていたそうですが、どの試合を覚えていますか?
三笘すごくたくさん観ました。ACLのセパハン戦(2007年9月26日/準々決勝)は、初めてのアジアの戦いで、クラブにとっても大事な試合で応援にも気合が入っていたし、PK戦を観ることもほとんどなかったのですごく覚えています。あと、2007年と2009年の(ヤマザキ)ナビスコカップ決勝は、どちらも国立で観ました。負けてしまいましたけど…。2009年決勝のFC東京戦では、レナチーニョ選手と手を繋いで入場したし、リーグ戦のアウェイ大宮戦(10月17日J1第29節)ではケンゴさんと手をつないで入場しました。
中村憲剛さんに憧れていたそうですが、子どもの頃から“学び”の視点で観ていたんですか?
三笘そうですね。ボールの蹴り方を真似したり、なんであんなにパスがうまいんだろうと思いながら観ていました。
小学3年生から高校3年生までの10年間を過ごしたアカデミー時代のことで、今につながっている指導者からの教えや学びはどういうものがありますか?
三笘セレクションを受けて入った最初の頃に、目標設定を学びました。自分が何歳でプロになり、そのためにどう行動するのか。そういうビジョンを掲げることから指導を受けました。まだ子どもだった自分には知らない方法だったので、考えるきっかけになりましたし、プロをめざすために逆算して考える手法を与えてもらったと思います。
技術的には、まだ風間(八宏)さんが就任される前でしたが、アカデミーの指導者は「止めて蹴る」を重要視してトレーニングしてくれました。また、利き足にこだわる監督の方針もあったので、僕自身も徹底的に磨いて、パス、運ぶドリブル、ボールの置き所を数センチ単位で考えるということを取り組んでいました。それは今でも技術的なアドバンテージとしてつながっていると感じています。
U-12の頃の経験や気づきも、今につながっていると実感されているんですね。
三笘はい。もしそれがなかったら、自分のプレースタイルが変わっていたと思いますし、クラブの指導方針によって選手は変わる面もあると思います。
ドリブルという武器を磨いた、あの頃。そして、アカデミーの後輩たちへ
中村憲剛さんもそうですが、中学生の頃、身長がまだ伸びていない時期にフィジカルの差に壁を感じて、技術を磨いたり考えてプレーすることを身につけてきた選手たちがいると感じます。三笘選手も足りないところを分析して成長をしてきたとよく言われていますが、実際はどうでしたか?
三笘僕も中学生の頃は、すごく小さかったし体重も少なく細かったので、だからこそ技術を大事にしたし、相手の逆を取ることやタイミングなどを考えながらずっとプレーしてました。頭を使って身体を当てない、当てられないようにすることを考えてプレーした結果、自分の身体が大きくなった時に、そこにスピードが加わった状態で、その技術やプレーが使えれば、ただ速い選手よりもアドバンテージになりますよね。つまり、その時にやれることをやっていた結果、その後に追いついた時には、“武器”になっている。順番を変えただけで、“うさぎとかめ”じゃないですけど、コツコツやっていくことで気づいたらちょっと上に立っている、みたいな状態を作ってきたという感じなのかなと思います。
コツコツやった結果が、“武器”につながったということですね。アカデミー時代の指導者からは、「薫は試合前日でも、『もうその辺で』と、こちらが止めても1対1のドリブル練習をやめなかった」と聞きました。
三笘僕もやめられない性格なので、ちょっとやりすぎちゃうというか、それで試合に影響することもありましたけど…。でも、納得するまでやるとか、疲れるまでやっていると何か見えることもあるんです。それに、楽しくやることが一番伸びると思うので、1対1のドリブル練習をひたすらやっていたのは、そういう状況になっていたなと思います。
素晴らしい施設が整ったAnker フロンタウン生田は、行ってみてどうでしたか?
三笘恵まれていると思います。僕の頃は、川崎球場など曜日ごとに練習場が変わったり、22時ぐらいに食事を終えて、それから家に帰ると23時ということもあり大変なこともありました。今は、トレーニング施設も食堂もグラウンドも一か所になり、そこですべてが完結することは非常に大きなことです。毎日同じ場所に通えるので、トレーニングの仕方も仕組みも自分で作れると思うし、何より食事面が一番大きいと思います。プロのように必要な栄養素が摂れるので、練習やリカバリーにも集中できる。環境面で最大限活用できる状況を作ってもらっているわけで、全員がそれを活かせると思います。より自分の意識次第で変わると思いますし、いかにトレーニングするか、そのやり方を考えて取り組むだけだと思います。
アカデミーの選手たちにメッセージをもらえますか?
三笘アカデミーに所属する選手たちの目標は、プロ選手になり、どうやって活躍するか、ということだと思います。今はよくない状況であっても、いい状況であっても、最終的にプロになるのは、高卒だったら18、19歳、大卒だったら22、23歳の頃。その年齢になった時に自分がプロで活躍するところを「今」の自分がイメージを持って練習できるかどうか。つまり、今を見過ぎないというか、今の自分だけを見て才能がないんじゃないかと思うのではなく、最終的にピークに持って行くために今できることを探すことが大事だと思います。もちろん現実を受け入れることも必要なので、そのバランスをうまく自分の中で考える。満足すればすぐ抜かれるし、先を見過ぎて今を頑張らないのも違う。先と今、そのふたつの軸を考えていくことは大事なんじゃないかなと思います。
大学を経て、トップチームへ。競争がある高いレベルの環境で鍛えられた
周知のことですが、三笘選手は、U-18からトップ昇格の話がありながら、あえて筑波大学進学を選び、フィジカル面の強化や人間力を高めるなど、プロ選手になるための4年間を過ごして、2020年にプロ選手として戻ってきました。加入当初は、プロの環境に適応するためにどのようなことを考えていましたか?
三笘僕は、自分のプレースタイルを確立するために大学に行ったところもありました。自分がやりたいプレーで活躍できればそれが一番いいわけで、出来る限り取り組んだ上でプロで通用しなかったらそこで(やりたいプレーを)あきらめればいい。もし高校卒業後にプロに行っていたら、プレースタイルを変えなければいけないところもあったと思いますが、僕は、やりたいプレーを伸ばし切って、自分のプレースタイルでプロに行きたいと思っていたので、4年間を使いました。それでも4年を経てプロの練習に参加した時には、まだ足りないなと思って練習していたことは覚えています。でも、22歳で卒業した時にすぐ即戦力として活躍できるようにと考えて大学時代に毎日練習していたので、結果的にそれは良かったのかなと今感じています。
2020年は、4-3-3にシステムが変わり、三笘選手が入ったウイングのポジションがあり、交代枠が3人から5人に変更され、中村憲剛さんのラストイヤーでもあり、チームはリーグ戦と天皇杯の2冠を獲得するなど様々な要素があったシーズンでした。
三笘それは間違いなく持っていたと思いますが、その運を掴めるかによっても違うので、掴めたということなのかなと思います。
巡り合わせもありながら、努力して結果を出して掴んだものですね。
三笘あの時のメンバーはなかなかすごかったので、その競争力も含めて試合に出るために鍛えられたと思います。鬼木(達)監督はジュニアの頃から僕のプレースタイルは知ってくれていたので、競争はまた別の話ですが、自分のプレーを表現する上で、知っていてくれたことは良かったことなのかなとは思います。
ベストイレブンが9人選出された年でもあり、例えば三笘選手が紅白戦にサブ組で出たら、対面は山根視来選手と家長昭博選手だったということですか?
三笘そうです! もう気が抜けないですし、逆にそこでアピールできればいいという見方もあって、常にレベルが高い練習ができていたのは大きかったです。
自分の成長のために、チームメイトのプレーは観察していましたか?
三笘全員のプレーを見て、一人ひとりのいいところを盗んでモノにしようと思っていました。もちろん、レアンドロ ダミアン選手などは参考にできないとかありましたけど……。
フィジカル面で?
三笘それもそうだし、アクロバティックなプレーとか背負うプレーなどはできないですよね。でも、日本人選手は特に見ていました。技術的に高いものを持っているボランチの選手もそうだし、同じポジションの選手は、例えばプレスの行き方、クロスの上げ方、ドリブルの仕方など毎日観察できる場所にいたなと思います。
ここは、すごいと思っていたのはどんなプレーですか?
三笘それはもう全員すごいんですけど、フロンターレの中盤を担う選手は首を振る回数が圧倒的に多いし、ボールを見ないでプレーできる選手が多かったので、そこの意識は練習から取り入れましたし、身体を開いてパスをするとか、止めた足をすぐ抜いてパスをするとか、シンプルなことですけど、少しでも技術的なことは取り入れたら変わってくるので。風間さんの時代から取り組んでいた外す動きなども、悠さんとかやっぱりうまい選手たちがいたので見ていたし、全員のプレーを見て、一人ひとりのプレーから活躍できる理由を探していました。
2020年、2021年シーズン途中まででJ1リーグで50試合出場、21ゴールを記録しています。自分の中で残っている試合やゴール、アシストなどはありますか?
三笘初ゴールは一番大きかったです。ホーム湘南戦(7月26日J1第7節)でしたが、あの試合はあんまり自分のプレーはよくなかったですけど、途中出場して短い時間で結果を残したことで、次も何かあるんじゃないかという期待が次の出場につながり、また結果を出せたら、その次に……、とつながっていく。それが連続していくものなので、もしあのゴールがなかったら、次の試合に監督も出そうと思わなかったかもしれないし、そういう意味で、最初のゴールになりますね。
「この10分で」とか「この試合で」結果を出さないと、とよく言われますね。
三笘そうです。とくにニューフェイスの時には最初がカギになってくるので、どれだけいい印象を残せるかとか結果を残せるかで次も使おうとなるし、もし最初の数試合でダメだなと思われたら、そういう印象になってしまう。その印象とプレーというのは、間違いなく結果を求められていた中で、あの頃もなんとか残せた方なのかなと思います。
ルーキーとして加入し、同世代にも切磋琢磨できる選手たちがいて、経験ある先輩たちもいました。若手だったあの頃の自分は、どんな振る舞いや感じ方をしていましたか?
三笘チームの馴染みやすさで言えば、アカデミー時代から練習参加も何度もしていたし、知っている選手たちも多かったので問題はなかったです。でも、大学から戻ってきて、チームのフロントやスタッフ、選手たち、全員が僕がどれだけできるかを見ていたと思うので、そこは相当気合が入っていました。1年目でどれだけできるかで、その後のキャリアも変わるし、海外にも行きたいと考えていたので、何もできないと声がかからないだろうという意味でも意気込みがありました。近くには(旗手)怜央など同期が僕含めて4人いて、刺激も、負けられないという気持ちもありましたし、ビジョンを描いていた中で、1年目の自分に対して思い描いていたことは、うまく結果として出せたのかなと思っています。
今思う、“フロンターレらしさ”とは。そして、皆さんへのメッセージ
離れてみて、改めて感じるフロンターレらしさとは、何でしょう。
三笘そうですね。“魅せて、勝つ”ということを掲げて、勝利して、なおかつ面白いからサポーターがついてくるのだと思うし、選手のプレーだけではなく地域密着やファンサービスも含めて大事にしてきたクラブなのかなと思います。それは、僕たちがアカデミーにいた小さい頃から、「自分たちだけでやっているんじゃないんだよ」と言われてきたことなので、選手に染みついていると思います。
クラブの在り方や振る舞いをアカデミー時代から教えられてきたんですね。
三笘そうですね。
三笘選手も、プレー以外の部分でも、いろいろ無茶ぶりにも応えてきましたね(笑)。
三笘そういうことも含めてやらないと、という伝統がフロンターレにはあるので。
やる時は、やり切る姿勢で。
三笘やり切った方が、サポーターはうれしいでしょうからね。
それで、ずいぶん楽しませてもらいました。
三笘はい。
川崎市内で懐かしいなと感じる場所や思い出の場所はありますか?
三笘アカデミー時代に練習していた場所は全部懐かしいかな。鷺沼の方とか中原とか、いろんな練習場を見に行きたいなという気持ちはあります。あとは、出身中学とか高校の辺りとかですかね。麻生(グラウンド)は、今でも顔を出しているので、懐かしい感じではないかな(笑)。
代表や欧州でフロンターレ出身選手と会うでしょうし、逆に麻生に三笘選手が来た時には、伊藤達哉選手や同い年の選手たちとも交流していましたね。
三笘彼は、世代別の代表で一緒だったり、それこそジュニアの頃から対戦相手のチーム(柏レイソル育成組織)でやっていました。大学時代から知っている山本悠樹とか河原(創)とか、同期が増えてフロンターレで頑張っているのはうれしいです。
“97世代”は、今とても活躍されていますね。
三笘高校卒業時は、1個上や1個下に比べてあんまり言われてなかった代だと思うんですよ。大卒組が意外と多かったので。同世代がいろんなところで頑張っているので僕も負けられないです。
代表でもフロンターレ出身選手が多くいますが、フロンターレ時代の話にはなりますか?
三笘なりますよ。例えば、同じテーブルに谷口(彰悟)、守田(英正)、板倉(滉)、旗手(怜央)、田中(碧)、僕となったら、そういう話になったりします。今、内容までは思い出せませんが(笑)。
三笘選手がフロンターレを離れる際に、長文で書かれたメッセージを改めて読んでみると、素敵なことが書いてあって。当時はコロナ禍だったので、「昨年、僕の応援歌を作っていただいたのですが、その歌をスタジアムで聞けなかったことが心残りではあります。いつかまた等々力に帰ってきたときに、その応援歌を聞けたら嬉しいです」と。未来のことはわからないので、ここで聞くつもりはありませんが、チャントを歌うということが当時、コロナ禍でなかなかできなかったですからね。
三笘まだコロナ禍になる前、開幕戦は応援してもらう声が聴けて、その後は、ゴールした時などに応援を受けましたけど、満員の等々力で常に歓声を受けるというような雰囲気は当時、味わってみたいなと思っていました。それができればうれしいですけど、今言われたように未来はわからないですからね。
そうですね。それでは、フロンターレを応援する皆さんにメッセージをいただけますか?
三笘僕がU-18から大学へ行き、戻って来た新体制発表会見で、「ただいま」と言ったら、「お帰り」と言ってもらいました。それぐらいにアットホームな雰囲気で育ててもらったクラブであり、サポーターであり、プロになってからの1年半の間も応援してもらい、出来る限りのサポートをしてもらったことで今、ここ(ブライトン)に来られています。それは、アカデミー時代から指導をしてもらった指導者の皆さん、スタッフ、サポーター、プロになってからお世話になった監督始め関係者の皆さんが架け橋となっているので、関わってくれたすべての方に「ありがとう」という気持ちがあります。
また、僕自身が知らなくても、応援をしてくれている方もいると思うので、もちろんそういう方たちのためにも結果を残したいと思っています。その後、僕が日本代表選手になって、ワールドカップ出場など、そのような影響を及ぼすところにまで来ていること、またフロンターレからそういう選手がたくさん出ることでフロンターレの価値が上がり、僕たちが見せることでアカデミーの選手たちも、もっと野心を持つことにつながると思います。それがいい循環になれば、クラブとしても、もっともっと大きくなっていけると思います。そういうことを担っていると思うので、これからも頑張りたいと思います。
profile
三笘 薫
みとま・かおる
1997年5月20日、大分県生まれ、神奈川県川崎市出身。
3歳上の兄の影響でサッカーを始め、さぎぬまSCなどを経て、セレクションを受けて小学3年生でフロンターレアカデミーに加入。
U-18に所属していた高校3年生の時にトップチーム昇格の誘いがあった中、筑波大学に進学することを選択。
4年後の2020年に川崎フロンターレでプロキャリアをスタートする。
なお、2017年9月(大学2年)にJFA・Jリーグ特別指定選手に承認され、選手登録し、2018年7月に
2020年からの川崎フロンターレへの加入内定が発表される。
大学4年の2019年9月8日、ルヴァンカップ・準々決勝名古屋グランパス戦にて公式戦デビューを果たす。
2020年は、ルーキーイヤーながら新人最多得点となる13ゴール、12アシストを決め、ベストイレブンに選出される。
2021年8月、プレミアリーグのブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCへの移籍が決定。
ベルギー1部リーグ(ロイヤル・ユニオン・サン=ジロワーズへの期限付き移籍)を経て、
2022年にプレミアリーグデビューを果たした。
2022年開催のワールドカップ・カタール大会に出場し、スペイン代表戦での
“三笘の1ミリ”からの田中碧の決勝ゴールは話題を呼んだ。
現在も、ロンドンから電車で1時間程、南に位置する海辺の街をホームとするブライトンに所属し、
世界最高峰のイングランド・プレミアリーグでプレーを続ける。
フロンターレ在籍時代から、独特のドリブルでサポーターを沸かせる存在だったのはもちろん、
トレーニングや栄養面にもこだわり、思考法やメンタリティなども含め自身の成長のために
研鑽する姿もアスリートとして注目される存在だ。