2003~2005
アカデミー加入と同時にファンになる
東京都世田谷区出身の安藤駿介が、フロンターレアカデミーに加入したのは2003年、中学1年のこと。
「中1の頃は、まだ155cmぐらいしかなく、ジャンプしてバーに届くかどうか。周りからもこのままだとGKとしてどうかと悩ませた時期もあったかもしれません。成長期が遅かったので、母は『いずれ来る成長期に備えてしっかりごはんを食べさせてください』と言われていたそうです。結果的には、成長期と食べる時期も重なって、中学を卒業する頃には180cmぐらいになっていました。中学3年で15cmぐらい伸びたんですけど、『おはよう』って起きてくると、背が伸びてたって母から言われました(笑)。中学時代は、ユース(U-18)に上がれるかどうかの選手だったし、目標はまだ漠然としていました」
アカデミーに入ると同時に、安藤はフロンターレが好きになり、“ファン・サポーター”として応援するようにもなった。
トップチームの選手たちに憧れた。
「僕が入った、2003年はターニングポイントだったと思うんです。
攻撃的で観ていて面白かった。わずか勝点1が届かずJ1昇格ができず、後の歴史を語る上で大事な1年でもあり、ジュニーニョとケンゴさんというクラブにとって大きな存在となるふたりが加入した年でもありました。
それから、クラブも少しずつ大きくなっていき、ジュニアユース(U-15)のメンバーが試合の手伝いをするようになり、コレオで使用する旗を試合後に回収したり、ハーフタイムにゴミを拾ったりしました。トップチームの試合に関われることが楽しかったし、うれしかった。
悔しい想いをした2003年の翌2004年は圧倒的な強さでJ1昇格を決めました。J2優勝は確実な状況だったので、安心感はありましたけど、やっぱりうれしかった。J1でどれぐらい通用するのかワクワク感がありました。
実際、2005年はJ1リーグである程度戦えていたし、鹿島に勝利した『K点超え』というプロモーションとか、当時はまだ子どもだったからプロモーションという概念が分かってなかったですけど、今になるとクラブスタッフが頑張ってたんだなと思います。1試合だけアウェイのヴェルディ戦にチケットを買って味スタまで観に行きました。それが、4対0から4対4に追いつかれた試合で、帰り道は、サポーターのひとりとして、本当に肩を落として帰りました。
基本的にアカデミーの試合も週末にあって、なかなか観に行けないので、ワクワクして電車やバスに乗って等々力にも行きました。チケットをもらっていたので、2、3人で等々力に行くこともあったけど、ウォーミングアップでGKが練習するところから観たかったので、僕は相当熱量が高かったと思います」
2006~2008
トップチームに練習参加、クラブは右肩上がりに成長
2006年にU-18に昇格した安藤は、3年生でアカデミーからは2人目となるGKとしてのトップ昇格が内定する。
「高1の夏に初めて2週間トップチームの練習に参加しました。当時は、吉原(慎也)さん、植草(裕樹)さん、リキ(杉山力裕)さん、ザワ(相澤貴志)さんの4人がいて、やっぱりプロってすごいなと実感したし、同時に、自分の中でプロになりたいと決意を固めた時でもありました。
僕は当時、猪突猛進だったので、プロに行くと決めたら他の進路を考えていませんでした。夏の全国大会の宿舎で3年生の面談があって、監督から『安藤は、プロ希望でしょ? 大丈夫だから』と言われたのですが、仮契約をしたのが11月だったので母はその間、心配していたようです。僕自身は、大丈夫だと信じ切っていました」
憧れだったトップチームが目標に変わっても、安藤はフロンターレに魅了され、“箱推し”していた。
「大人になってから、クラブによってはビッグマネーが動いたり大型補強や移籍で選手が度々入れ替わることもあると知りました。フロンターレは、主軸となる選手を生え抜きからしっかり育てる方針があって、僕が加入した2009年もアカデミー出身の僕と高卒ルーキーのノボリ(登里享平)、ヤジ(矢島卓郎)さんが清水エスパルスからの移籍加入、ザワさん(相澤貴志)さんがレンタルバックしたぐらいでした。
僕が高校生の頃、ケンゴさんを筆頭に、フロンターレの主軸となる選手たちが揃って成長していく過程を観ることができ楽しかったです。J1リーグ2年目の2006年は、開幕戦で6対0、第2節は7対2で勝利。2試合で13得点ですからね。リーグ戦で2位になって翌2007年にACLにも初めて出たし、あの頃、3バックのチームで、あれだけ攻撃的だったのはすごいと思うし、本当に観ていて面白かったです。2007年は(ヤマザキ)ナビスコカップ決勝で負けて、現地には行けませんでしたけど、すごく悔しかったです」
2009~2016
雨のデビュー戦。シルバーコレクター時代
安藤は、2009年にトップチームに昇格。プロ生活をスタートさせた。

2010年には、広州アジア大会で7試合のうち6試合で出場し、日本チームの優勝に貢献。

フロンターレでの初出場は、2011年5月29日、J1第13節の大雨のガンバ大阪戦。
中村憲剛の試合終了間際ラストプレーのFKが決まり、安藤の初出場は、語り継がれる等々力劇場での勝利となった。




2012年、ロンドン五輪代表としてメンバー入りし、試合出場は叶わなかったが、安藤にとっては、プロ入りしてからの数年間のひとつの区切りになった大会でもあった。
一方で、クラブも右肩上がりに成長を続けながらもシルバーコレクターと呼ばれ、なおかつ、優勝争いからは一歩離れる時期も経験しながら、クラブとしては耐えながらも、選手たちは成長曲線を上げていく時期を迎えていた。
「ノボリと僕が加入した2009年は、本当にタイトルが獲れると思っていましたが、リーグ戦、カップ戦ともに2位でした。当時のチームの雰囲気は、練習からバチバチやっていたし、なおかつ、ハツラツした感じでした。今の選手たちの方が上手さはあると思いますけど、若い選手も多くて、中堅、ベテランとバランスがよかったと思います。
僕自身は、ルーキーイヤーは正直試合に出られると思っていなかったですし、まずは身体作りを念頭にトレーニングしていました。GKコーチ・イッカの練習がハードだったので、揉まれてタフになったと思います。当時、(川島)永嗣さんが正GKで、落ち着き、しなやかさが優れていて、(日本)代表クラスになると、こんなにすごいんだと思いました。
2010年にワールドカップ・南アフリカ大会があり、その後、クラブとして初めて海外移籍をする選手たちが出ました。その後は苦しい時期も経て、2012年シーズン途中で風間(八宏)さんが監督に就任。そこから初優勝の2017年までは時間がかかりましたけど、その期間は、方向性が定まり、ブレずにやり続けて耐えたから今につながっていると思います。


『止めて、蹴る』など技術的なこと、風間さんのサッカー観に触れられたことは、僕個人としても大きな経験になりました。それを知れたことで少しは自分もうまくなった実感があるし、今も大事にしています。
振り返ってみると、僕が加入した頃は右肩上がりに成長した時期、その後の厳しい時期、再度そこから上がっていった時期、それぞれ違うフェーズだったし、初優勝までの数年間は土台を作りながら緩やかに上がって行き、ボールを握って圧倒するサッカーなど、立ち返る場所ができた。だから、強くなったのだと思います。
GKの選手としては、2012年から約10年(菊池)新吉さんに指導してもらいましたが、イッカに基礎体力などの土台を作ってもらい、新吉さんに理論や技術を含めて、選手一人ひとりの成長を考えて接してもらいました。試合に出ていない今の時期にやることが大事だからやっておこうと言い続けてもらい、トレーニングをしてもらったおかげで、長く選手を続けられたと思います」

2017~2024
初優勝。そして、7つのタイトル
2017年に初優勝し、川崎市内をパレードした際に、自分がアカデミーの頃に通った道を、たくさんの人が埋め尽くしている景色を見られて感慨深いと安藤は話していた。
「初優勝から何度もタイトルを獲りましたが、やっぱりターニングポイントは2017年の初優勝。鹿島が勝てば優勝が決まる状況のなかで、最後に僕たちが優勝できたのは、運命のように感じます。これも後づけではありますが、もしも、2007~2009年の頃に何かひとつでも獲れていたら、また歴史は変わっていたかもしれないし、悔しい想いをしてきたフロンターレにとって、あの頃何度も2位や準優勝で悔しい想いをした経験は無駄ではなかったと思えた初優勝でした。



運命的なものもありましたが、生え抜きの選手たちに加えて、ソンリョンさん、アキくん(家長昭博)、阿部ちゃん(阿部浩之)などタイトルを知る人たちの加入もありました。彼らは、オラオラするタイプの人たちではないし(笑)、うまくフロンターレにマッチしてくれたと思います。2017年は、悠さん(小林悠)がチームに残り、得点王を獲ったことも印象深かったし、僕自身は、GKとしてソンリョンの存在はやっぱり大きかったですね。
いくつものタイトルを獲りましたが、2020年はベストイレブンに9人選ばれ、優秀選手に13人。その数字通りに、練習ではサブ組が圧倒する日もあったし、バチバチのポジション争いがあり、参考にできるのかと思うぐらいに例外的に強かったように思います。当時いた選手たちが、海外を中心に抜け、チームが新しくなったからこそ、今のやり方で頑張らないといけないし、上をめざしたいです」

2025
9年ぶりの出場。そして、引退
2025年2月18日、ACLEリーグステージ第8節セントラルコースト・マリナーズ戦で、安藤は9年(3,191日)ぶりにホーム等々力で出場した。
そして、結果的には、この試合が現役最後の出場となった。
安藤自身が、心掛けてきた「フロンターレで試合に出るため、日々のトレーニングがあること。そして、何があるかわからないから、常に健康な状態で準備をしている」ことが現実に活きた日でもあった。
「心がけてきたことが役に立ち、実ったのがACLでの9年ぶりの試合出場でした。自分がいい状態でスタンバイしていて、連戦だったこともあったし、アクシデントもあったなかで、僕が出るチャンスを掴んだ。その時に、もし自分が体調不良だったりケガをしていたら掴めなかった。いろんな意味で運がよかったとしか思えませんが、9年ぶりの出場で、勝利できた。あの時、元々決まっていたフランスの大手通信社の取材が、たまたま翌日に入っていて、その試合出場の話をすることもできました。残念ながら試合に出たシーズンで引退するという区切りにはなりましたけど、僕は運がよかったんだなという捉え方をしています」





安藤が等々力で試合に出場し、その姿を観て、応援できて救われた気持ちになった人もいただろうし、心に響いた人も多かっただろう。それは、本人にも周囲にとっても選手生命の灯のようにも感じられた。
「そうですね。それは、やっぱりめちゃくちゃ大きかったです。何気ない1試合だったけど、僕にとってはすごく大きな1試合でした。僕のことを見続けてきてくれた方たちの気持ちも感じたし、囲み取材でたくさんのメディアの方が話を聞いてくれました。取材を受けて帰りが遅くなったのですが、等々力のミックスゾーンから外に出る時に、スタッフが花道を作ってくれて。若い事業部のスタッフもそこにけっこういてくれたんですよね。
やってきてよかったなと思えましたし、プレーに関しても、長い間かけてできるようになったことはひとつ、ふたつだったりもします。でも、やっぱり感情のコントロールに関しては、GKとしても、人間としても一番大事だと思っているし、もしかしたらそれは僕の武器なのかもしれない。武器になった。そう思えるような長い年月を過ごしてきたのかなと思います。
人間って喜怒哀楽がある。でも、それを表していい場面もあるし、いけない場面もあると思うんです。例えば、若い選手たちを見ていて、今そういう態度を取るんだ、とか、それを今言っちゃうんだ、と思うこともありますから。メンバー発表があった後でも、何があるかわからないから準備をしておこう。そう思ってずっとやってきました」
GK仲間
長いプロサッカー生活の中で、安藤は、一度だけ環境を変える決断をし、湘南ベルマーレで1年間過ごした。そのことも貴重な経験となったし、長い現役生活の間、たくさんのGKとフロンターレで切磋琢磨する時間を過ごしてきた。
そのなかで、自分自身とも照らし合わせて参考になった選手がいるという。
「ザワさん(相澤貴志)のことは、すごく見本にしていました。丹ちゃん(丹野研太)もザワさんと似ていました。あのふたりは、すごく出番をたくさんもらえたGKではなかったかもしれませんが、いざ出番が来た時に、力をきちんと発揮する。そして、そのために常日頃から準備をして、ブレずに取り組んでいました。常に同じ温度感で同じようにやり続けていました。出番が来て、しっかり結果を出しても、ファーストと呼ばれる選手が戻ってきたら、その選手が再びピッチに立つことは現実として多いですけど、それは能力の話であって。でも、僕が尊敬している選手たちは、その能力の違いに対して敵対心のようなものを持つのではなく、自分自身がやるべきことをやって自分の力で勝負をしていました。ルーティンをしっかりやり、出番で力を発揮する姿は、僕も僕のやり方でやり続ければいいんだと思わせてもらいました。僕自身も若い頃は背伸びをしてしまうこともありましたけど、ここ数年は自分ができないことをやろうとするようなアプローチはしていませんでした」
また、2016年からは、チョン ソンリョンという圧倒的な守護神がフロンターレには存在した。
「10年間、ずっとソンさんに挑み続けたのは僕だけ。まぁ、一回も勝てなかったですけど。ソンさんは、技術レベルとかGKとしての格が違いました。(セレモニーで)ショウタ(新井章太)くんが『ソンリョン、強すぎたな』って言ってたコメントに表れてますよね(笑)。それぐらいソンさんという壁は大きかったですけど、一緒にやることで、いろんなものを吸収し、いろんな考えを知れたことは、自分にインプットして、これからのGKにも伝えていきたいと思います」
引退セレモニー
2025年シーズンを持って引退をすることになり、ホーム最終戦では、車屋紳太郎とともに引退セレモニーが行われた。
安藤らしいスピーチだったが、とくに印象に残った言葉がある。
“普段の生活のなかで落ち込んでしまう時は、等々力にきて選手たちからパワーをもらってください。
選手たちは必ず皆さんのことを大事にしてくれます。
でも、そんな選手たちも人間ですので、元気がない時やうまくいかない時期も必ずあると思います。
そんな時は、皆さんが元気を与えてください。
等々力に来て、声援を送ってあげてください。”
「長い間在籍していたとはいえ、紳太郎のように試合に出て力を示していた選手ではなかったので、あれだけ盛大にやってもらえて感謝しています。それに、ノボリが来たことは知らなかったのでびっくりしました。唯一の同期で、お互い高卒から長い間フロンターレでずっと一緒で、選手会長もノボリから引き継ぎましたから。
本当に終わるんだなと不思議な気持ちでした。
でも、2026年の今は、違うステージにいるので、選手に戻りたいとはまったく思いません。
たまたま2025年で選手としての契約が終わることになり、クラブからも新しい道を示してもらったことで、1日考えて引退を決断し、次に進もうと切り替えました。もちろん、告げられた当日はビックリして感情も揺れたし、自分の口からそのことを発せられないぐらいに重かったです。まだ認め切れていない自分もいました。でも、家に帰り妻に伝えて、車で実家に向かって報告をし、『自分の運命』だとその時、伝えたと思います。次の日には、決心していました。悩んだり、選択肢が多いと、いい答えが出せない自分の性格もわかっているし、直観的に運命を信じてやった方が何事もうまくいくと思うタイプなんです。
1年1年やり切ってきましたし、いつ終わったとしても、ある意味、心の準備はしてきましたから。
フロンターレに中学生で入って、クラブが大きくなる過程にいられて、現役最後までいることができたのも運命。
僕はこれまで運命に逆らわずに生きてきたからこそ、いろんな巡り合わせで今の僕がいるのだと思います」







幸せの価値観
フロンターレのファンだった安藤にとって、等々力で一生懸命応援していたアカデミー時代のあの頃、今の未来が想像できただろうか。
「まさかプロになれると思っていなかったし、こんな人生になるとは想像もしていませんでした。
僕は背も低かったし、失点も多かったし、なんであんなに小さいGKがフロンターレに受かったのだろうと思っていた人もいたと思います。学生時代、世代別の代表とも無縁だったし、エリートでもない。僕は自分のことを凡人だと思っていました。
だから本当に、アカデミーのセレクションで僕を取ってくれたフロンターレには感謝しています。プロに行くには努力や運が必要で、誰と巡り合うか、タイミングもあります。もし仮に僕がプロに昇格するタイミングで、トップチームのGK枠が埋まっていたら、上がれなかったわけですから。それは自分に力があったからという要素ではない部分もあるし、その頃のクラブの方針でGKを育てようというタイミングもきっと重なったのだと思います。そういう巡り合わせや運が僕は人一倍あったし、良すぎるぐらいだと思います。
プロに入ってからも、アジア大会の監督を関塚(隆)さんがしていて、GKコーチのイッカに『GKを探している』と連絡が来て、僕を招集することになった。それがキッカケとなり、ロンドン五輪のメンバーにまでつながったわけですからね。
振り返ったら、ここまであっという間でした。
僕のプロサッカー人生は、試合にたくさん出たわけではありません。でも、濃かったし、すごくいいクラブにいられた。すごく楽しいチームに長い間いられたんだなとしみじみと感じられました。こういう世界にいると、望んだようにいくことなんてなかなかないことです。
僕は、自分のことを理解してくれる人たちがたくさんいる環境で楽しく仕事をすることが幸せでした。もちろん、居場所を変えながら新しい環境に飛び込んでいく人たちのことは本当に尊敬するし、自分には考えられない精神力があるなと思います。僕は、長くお世話になったクラブに対して、何か恩返しもしたいと思っていたし、ここで頑張りたいと思ってやってきました。
シュート練習で、入ったとシューターが思ったシュートを止めることも楽しかったし、それを悔しがる表情を見ることが好きでした。僕のキャラ的に、煽ってこられることもよくあったので(笑)、その煽りに負けずに止めた時の“煽り返し”とか、本当に楽しかった。それで悔しそうな表情が笑顔に変わったり、そういう明るい雰囲気で仕事ができる環境が大好きでした。
シンプルに、フロンターレにいることが楽しかったし、幸せでした」





















