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 2003/vol.10

 平成12年、第8回ナンバー・スポーツノンフィクション新人賞において「背番号『1』への途中。」という梅田明宏氏の作品が受賞した。サブタイトルは「1030日間の『こころ』の記録」とある。この作品は、高校卒業後に横浜マリノス(当時)に加入したゴールキーパーが、メンタルトレーナーと出会うことによって失った自信を徐々に回復していく物語だ。彼は、アルビレックス新潟に期限付き移籍をし、1999年のJ2開幕戦で公式戦初出場を果たし、勝利を掴む。
 このキーパーこそ、吉原慎也である。そして、アルビレックス新潟が倒した相手は、川崎フロンターレだった──。

 


 小学校4年でサッカーを始めた吉原は、当初スイーパーをやっていたが、密かにかっこいいと思っていたキーパーを遊びがキッカケでやることになった。
 転機は、高校進学の時に訪れた。鈴木隆行を擁する強豪・日立工業高校の監督と吉原が所属する駒王中学サッカー部の監督が知り合いで、声がかかったのだ。
「最初の選択で、これが始まりでした」
 1年の時、予選から出場したインターハイで、見事に本大会の出場権を獲得する。それ以降、関東ユース選抜、東西対抗、国体メンバーに選ばれるほか、U−18代表候補にも名を連ねた。高校時代は、外の世界を知り、ふたつの大きな刺激を受けることになる。ひとつは、選抜で全国レベルの選手たちと凌ぎを削ったこと。もうひとつは、鈴木隆行が加入した縁で鹿島アントラーズのキャンプに参加したことだ。そこで、初めてGKコーチの指導を受けた。
「茨城県はレベルが低かったから、小野、俊輔、柳沢なんかのプレーは、ほんとにすげぇなって感じでした。アントラーズの練習は、バテちゃって全然ついていけなかった。こんな練習毎日やってたら、体がもたないんじゃないかってプロとの差を実感しました。当時、(古川)マサさんもいて、もう雲の上の存在でしたね」
 プロ入りの選択肢は、ふたつあった。地元チームのアントラーズと日本代表のゴールキーパー、川口能活が所属するマリノスだった。吉原は悩んだ。
「川口能活がいるところでやってみたい。逃げたくない」
 その思いが決め手となり、1997年、マリノスでプロとしてスタートを切った。
 心躍らせて加入した吉原だったが、慣れない環境で、伝統あるチームの雰囲気に呑まれ、自信を喪失してしまう。徐々にサッカーから心が離れていった。
「1年目は、のびのびプレーすることもできなくてキツかった。でも、2年目からは割り切って自分のことを考えてうまくなろう、努力しようって思った」
 そして、「2年間練習して、あとは実践だけだと思った」吉原は、オファーがあったアルビレックス新潟への期限付き移籍を決意した。
 
 

 
 

 1999年3月14日、J2リーグ開幕。乞われて移籍した吉原だったが、正キーパーの座が保障されていたわけではなかった。だが、木寺浩一の負傷により、チャンスがきた。
「前日は、寝られなかった。緊張というか興奮で。すごい楽しみだったし、ピッチは、どんな感じなんだろうって」
 前半28分、リカルドが挙げたゴールを守りきり、新潟が勝利をあげた。前年度、博多の森で潰えた昇格の夢を3度目の正直として掲げていたフロンターレは、敗戦に沈み、勝者と敗者の対照的な姿が等々力のピッチにあった。
「とにかく、無我夢中でした。あの勝利はでかかった。それから7連勝したし」と吉原は興奮気味に語った。
 新潟での2年目、吉原は背番号「1」を手にした。この年、Jリーグは「Join.」を合言葉に全クラブの代表選手の表情をアップでモノクロ撮影したポスターを制作している。吉原は、新潟の「顔」に選ばれた。
「あの頃は、背番号『1』になりたいっていう思いがあったから嬉しかったですね。若かったし、そういう執着心はありました。でも、いまは『17』が好きです」
 2年間で44試合に出場。ケガもあったし、永井監督の方針で、結果が出ないとキーパーが代わることもあった。
「逆に言うと突然、使ってもらえることもあった。モチベーションを落とさずにやっていればチャンスも来るっていう経験になりました。新潟の2年間は、人生のなかの財産です。最初はゴールもないところでの練習だった。でも、あそこで頑張ったことが次につながったし、行って正解だったなぁって思います」
 
 そして、吉原はマリノスに戻った。
「レンタルという宙ぶらりんな状態は、もうイヤだなって気持ちもあったし、もう一回マリノスで試したかった」
 実は、リーグ戦終盤で吉原は大ケガを負っていた。2000年10月28日対湘南ベルマーレ戦で相手選手と交錯し、右ひざの靭帯を負傷。それでも、その試合でゴールマウスに立ち続け勝利をもぎとったのだが…。全治6ヵ月と診断され、マリノスに戻ってもリハビリの日々だった。
「ヒザも曲がんないし、サッカーできないんじゃないかって不安でしょうがなかった。でも、少しずつ、きょうはサイドステップができた。きょうは、ボールが蹴れたっていうのが嬉しくて、それを励みに地道にやった」
 やっとの思いでケガを治したものの、今度は自分が思い描くプレーをすると体のバランスが崩れ、肉離れを繰り返してしまう。出口が見えない状態に陥ってしまった。
「あの頃が一番辛かった。焦るし、ほんとへこみました。動ける日を夢見て、やっと動けるようになると他のところをケガして。取り残された感じがしていた」
 さらに肩を亜脱臼して、落ち込む吉原のもとにフロンターレから話が舞い込んだ。
「マリノスであんまりやれなかったっていうのは、心残りではあったし、ぎりぎりまで悩んだんです。でも、完全移籍になって、これもまたチャンスだなって決めました」

 今季からGKコーチに就任した古川昌明は、シーズン前から、こんな話を選手たちにしてきた。
「年齢や経験は関係ない。例えばケガをしてチャンスを失って、戻ってきた時にすぐに出られるほど甘い話はない。大事なことは向上心をもつこと。自分のなかでイメージを描いて、少しでも近づく。グラウンドで選手生命がかかっているからこそ、それができなければ単なる夢物語で終わってしまう」
 新潟出身の相澤貴志にとって吉原は、高校時代、地元チームのゴールマウスを守っていた選手だ。
「町のTSUTAYAでヨシさんを見かけて、当時は『あっ、吉原だ』なんて思ったことも(笑)。縁がありますよね」
 浦上壮史は、ゴールキーパーというサッカーにおける特殊なポジションについて、こう語ってくれた。
「サッカーのなかで特別、点を入れさせないっていうポジションだから、変わっているやつが多いよね(笑)。キーパーは、ポジションが一個しかないからライバルでもあるんだけど、仲間だし連帯感がある。新潟戦は、出てる選手もベンチもスタジアムもひとつになった。ヨシも昇格が現実的になってきて、危機感とか経験で、安定感みたいなものが出てきたと思う。ここから気を抜かないで、いまは、チームみんなで乗り切っていこうって感じだよね」
 
 昨年の終盤から試合に出続けている吉原だが、それまではベンチで試合を見守ることが多かった。キーパーはポジションがひとつしかない分、じっと我慢しなければならない時期もある。その思いをチャンスが与えられた時に、爆発させた。
「それまで観てるだけだったんで、溜まってたものが出た感じですね。そういうタイプなんですよ。でも、いつチャンスが回ってくるか、なんて読めないじゃないですか。仮に来るかなぁって思っても来なかったりすることもあるから1日1日をしっかりやる。試合には出たいけど、そういうことばっかり考えてても不満とか出てきちゃうし」
 
 10月11日、埼玉スタジアムに立った吉原は、新潟を封じ込めた自信がそうさせたのだろう。ファインプレーを連発し、オーラさえ感じさせる存在感を示した。試合後、石崎監督は「きょうはヨシのおかげで勝った」と語った。
 夏を迎えようとしていた頃、新潟に0対4で負けた試合を皮切りに失点が増えた時期があった。
「入れられ方にもよるんですけど、やっぱり4点とか取られると切り替えるのは難しいし、ストレスも溜まりました。次の試合で取られたくないって気持ちが強くなりすぎて空回りしちゃったり、コントロールが難しかった」
 それだけに、新潟、大宮と勝ち星のなかったチームとの2連戦は、言葉に出さなくとも思い入れが強かったという。とくに、マルクスとバレーには絶対にやられたくなかった、と語気を強めた。
「新潟戦の前は、ナーバスになりました。3回負けてるんで、どうしても負けるイメージも出てきちゃうんですよ。でも、『できる、できる』って自分自身に言い聞かせた。試合の途中で新潟のサポーターからも名前が聞こえてきて嬉しかったし、あれだけの観客のなかでやって、『俺は本当にフロンターレの一員なんだなぁ』って強く実感した今までで一番印象深い試合でした」
 新潟には、吉原がかつてチームメイトだった選手も数人いる。GK野澤洋輔も、そのひとりだ。
「やっぱり意識するし、あいつも意識していると思う。でも、あんなやつに負けたくねぇよっていう気持ちじゃなくて、一目置いているし、いい選手だって認めている。だから、俺もしっかりやろうって思える」
 
 新潟戦の前に感じた恐怖感を、吉原は勝利で乗り越えた。ふっきれた表情は、ずいぶんと明るかった。
「苦しさを乗り越えるか乗り越えないかで、いろんなものに影響するんだなぁって思いました。そこで結果が出れば、自分にとって大きな財産になるし。今年は試合に出ることでプレッシャーを味わうこともあるけど、やっぱり新潟に勝って変な力が抜けたところはあります。(大宮戦のファインプレーは)運もありますけどね。でも、ゼロで終われて自信になった。気迫で勝てたんじゃないかなぁ」
 
 昇格を決め、喜ぶ輪のなかにいる自分──。そんなイメージを思い浮かべる。
「すごく目の前にきている夢かなぁ。ひとつの、一番近い将来の夢…ですね」


 
 

 

日立工業高校から1997年、横浜マリノスに加入。1999年から2年間、アルビレックス新潟に期限付き移籍。2001年秋より川崎フロンターレへ。
1978年4月19日生まれ、茨城県出身。185cm、76kg。

 
 
 

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