あの頃の君へ〜日比 威さんより

ソウタ

が最初に颯太を見たのは、中1から中2になる頃のことです。小柄で骨格もまだできあがっていませんでしたが、ボールの持ち方、止める蹴る、身体の使い方などが目に留まりました。2015年に私が帝京高校のコーチから監督に就任したタイミングで声をかけ、颯太は一番最初に「お世話になります」と言ってくれた選手のひとりでした。入学前の2月から遠征や練習試合にも参加し、諸手続きをして入学式前の4月1日から公式戦でスタメンとして使い始めました。線は細くても柔軟性があって、プレーにも幅があり、高校時代はケガもほとんどしませんでした。1年生の頃からリーダーシップを発揮し、言葉が多いタイプではありませんでしたが、仲間に求めるだけではなく、自分も惜しみなく行動で示し、背中でも見せるタイプの選手でした。勉強もコツコツやり、普段は穏やかでしたが、いざサッカーになると切り替わる。内に秘めたものを覚悟を持って表現できるのが彼の強さで、環境や人のせいにしませんでした。

 2年生からゲームメイクを颯太がする彼が中心のチームで、3年生の時はチームとしても優勝を狙える力がありましたが、選手権予選決勝で敗退しました。私は、負けた直後など互いに感情的になるタイミングで選手に話をすることを好みません。「お疲れ様。まだあるからな。いつも通りキレイに掃除しろよ」とだけ伝えて、ロッカールームを後にしました。まだ、プリンスリーグに参入するためのT1リーグ(都リーグ)の最終節が控えており、そこで勝って優勝し、さらに1ヵ月後のプリンスリーグ関東参入戦で2試合勝利して、14年ぶりとなる昇格を決めました。颯太たち3年生には彼らの意志に任せましたが、全員「まだやります」と練習に取り組みました。彼らが、帝京の新たな始まりを築いてくれたことには巡り合わせを感じますし、本当に多くのことを学ばせてもらった楽しい3年間でした。

 私が試合での颯太について一番心に残っているのは、3年生の選手権予選準決勝での出来事です。0対2から2対2に追いついた展開で、私はフォワードを196cmあった赤井(裕貴)から、動き回るタイプの選手へ交代することを考えていました。すると颯太が「いいリズムになっていて、あいつがターゲットになっているから代えないでほしい」と言うのです。監督としてあらゆる場面で自分で決断をしてきましたが、その時だけは、珍しく颯太が言うので、彼の言葉を信じてみようと、すでに本部に出していた交代用紙を取り下げました。その後すぐに颯太のハットトリックとなる3点目が決まり、結果的に4対2で勝利しました。選手たちには「楽しめよ」と言ってきましたが、満員の西が丘という状況で、もしかしたら彼が私の冷静さを保たせてくれたのかもしれません。

 私自身は帝京で優勝も経験しましたが(日比さんは、第70回全国高等学校サッカー選手権大会で四日市中央工業高校と両校優勝した時のキャプテン)、その3年間のトレーニングには辛い思い出しかなく、一瞬の輝きのためにその辛さがあるのではなく、365日×3年間がもっと楽しければ、その一瞬がさらに嬉しいものになるはず。ならばそれを追求した方がいい。そういう考えの元、今の学生たちの考え方や時代に即したやり方に変えながら選手たちと一緒にやってきました。例えば朝練習は強制ではなく、自主性に任せるなど颯太たちが入ってきた頃は180度やり方を変えた、その過渡期でもありました。その結果がプリンスリーグ昇格、それを継承した先に2021年の10大会ぶりのインターハイ出場、翌年のインターハイ準優勝へとつながったのだと感じています。2022年は出場権を得るタイミングで颯太がちょうど教育実習に来ており、彼から話を聞いたことで学生への影響はかなりあったと思います。

 颯太は今年フロンターレに加入し、そこからまた代表に呼ばれ定着することが理想だろうし、選手としていろんな選択肢があるなかで、サポーターからもフロントからもチームメイトからも「ここにずっといてほしい」と引き留めてもらえるような選手になってもらいたいです。私自身も今年から母校の順天堂大学蹴球部の監督に就任し、選手200人、学生スタッフ50人、スタッフとともに、今年1部に昇格させることがスタートラインだと思って取り組んでいます。これまでと同じように、「ここに来てよかった」と学生が思える時間にできるよう、彼らと対話をしながら、監督として責任を持ち、学生を次のステージに送り出すためにやるべきことをやっていきます。いろんな意見や考え方があるのは教育でもサッカーでも社会生活においても同じですが、そういう中で1日1日の積み重ねが全てにつながっていくはずです。そう思うと改めて、颯太の現状は、彼が怠らず積み上げてきたことがプレーに正直に表れていると感じますし、華麗なプレーも献身的な姿も、自分で気づいて努力して作りあげた個性であり、彼自身の能力の高さによるものだと思います。

 私としては、颯太がいずれキャリアを終えた後、母校の帝京高校で指導者になってくれたらという思いもありますし、彼にはそう言えるほど、冷静にいろんな判断ができ、間違いなく育成にも携われる能力と人間性があり、それを求められる人材だと思っています。

サッカー選手になりたい!

フロンターレ選手たちも、かつてはプロを夢見たサッカー少年でした。そんな彼らに プロを目指していた日々について語ってもらう連載。三浦選手に振り返ってもらいました。

は5歳上と3歳上の2人の姉がいる末っ子で、僕がサッカーを始めてからは外に出ていることが多かったし、年も離れているのでケンカにもならず、今でもたまに揃うと年末に3人でご飯に行ったりします。三浦家はお父さんがラグビー、お母さんがバスケやダンス部、姉たちもバスケや水泳をやっていたので、スポーツ一家でした。

 6歳の時に周りにやる子が多かったし、自分もやりたかったので自然な流れでサッカーを始めました。FCゴロアーズはクラブチームでもなくお父さんたちがコーチをやっている小学校のサッカーチームでしたが、メンバーもよかったし、結果を追求するというより楽しくサッカーをやることで結果もいい方向に行き、楽しい思い出しかなく、いいチームでした。僕は左サイドハーフのドリブラーで、あの頃は、考えてサッカーをやっていなかったので、ただ楽しさと負けず嫌いで自分が伸びたような気がします。

 小4からFC東京のスクールにも入り、セレクションを経て中学時代はFC東京U-15むさしに所属しました。僕は3年生の時には公式戦に出た覚えがほぼないし、中学時代、公式戦で点を取ったことも1回もありません。小学生時代はスピードもありましたが、中学生になり周りの背が伸びていくなか、僕は一番小さかったし、スピードも抜かれていきました。その頃を知る人は、今の僕に驚いていると思います。もちろん当時は悔しかったとは思いますが、自分ではそんなに悲観的に感じていなかったし、挫折とも思っていませんでした。傍から見たらそう見える状況だったのかもしれませんが、心が折れることもなかったし、かといって過剰に頑張らなきゃと思い込んでいたわけでもありませんでした。周りの環境や自分が置かれた状況のなかで、ブレずに毎日やるべきことができたことは、自分の強みなのかもしれません。

 むさしを卒団する前ぐらいから身長が伸びてきたのですが、練習試合で帝京高校の日比(威)監督が僕のことを見つけて声をかけてくれ、帝京に進学しました。最初から試合に出させてもらい、帝京は練習試合数も多いので、経験値が増え、1年生からたくさん試合に出られたことは僕の大きな経験と転機になりました。日比先生には、技術というより、対人で負けないこと、メンタル面についても教えてもらい、やりながらタフになっていきました。自由にやらせてもらったなかで自分の長所を出せと言ってくれました。高校時代は、やらなきゃという気持ちも強かったので、サッカーをしているときは周囲に強く言うことも多かったと思います。

 自信もあったなかで迎えた3年生の選手権予選決勝での敗戦は、3年間めざしていたことの集大成だったので、悔しさというか終わっちゃったという喪失感が大きかったです。高校3年間、いいサッカーをしているけど、惜しかった、とたくさん言われてきましたが、輝かしいタイトルや結果は出なかった。それは自分にも原因があって、自分を変えないといけないと感じたことは日体大に進学してからも心にありました。大学時代、矢野(晴之介)監督から、この先の自分を想像してワクワクするぐらいの未来を描いたら、今やるべきことが見えてくると教えてもらいました。大学時代は最初はBチームだった僕が、4年生が教育実習で抜けた時期に左サイドバックが空いて、後期開幕戦でたまたま出ることになりました。なんとなく、サイドバックもできそうだなと自分でも感じていたのは、中学時代に身体能力が伸びてきた中3の最後に少し左サイドバックをやっていたからかもしれません。それでたまたま左サイドバックでのプレーを甲府の森スカウトに見てもらい、練習に呼んでもらうことになりました。2年生の時はケガをして、あんまりよくなかったので、3年の時にこのままだと自分はダメだなと思って、プロ選手になること以前に大学のチームの力になれるようにと考えて取り組んでいたら、久しぶりに甲府の練習に参加できることになりました。森さんからは、まだそのタイミングで獲るつもりはないと最初は言われていたし、僕も経験のつもりで参加した練習だったのですが、調子がよくて、監督や選手も話してくれたようで、内定の話が思いがけず進みました。それまでは選抜にも選ばれていなかった僕が、内定してから選手としても伸びたと思うし、リーグ戦がない時は甲府の練習にも行き、リーグ戦に森さんが来てアドバイスをもらい、そういうなかで成長できたと思います。4年の時には、甲府の公式戦に6試合出させてもらったことも、いい経験をさせてもらいました。

 学生時代の僕は、タイトルを獲れるような強豪チームには一回もいなかったけど、今思うと長い期間、試合に出させてもらったことで成長できたんじゃないか。そういう意味で、これまでいい選択をし、運に恵まれてきたと思います。

三浦颯太選手プロへのあゆみ

2000年9月7日生まれ、東京都昭島市出身。6歳の時にFCゴロアーズでサッカーを始め、小4からFC東京のスクールにも通う。FC東京U-15むさしを経て、帝京高校へ。3年の時にプリンスリーグへの昇格を決める。日本体育大学1年の時に左サイドバックへ転向し、ヴァンフォーレ甲府からスカウトされ、大学3年の6月という異例の早さで内定、JFA・Jリーグ特別指定選手となる。2024年1月1日、タイ代表戦で日本代表デビュー。

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