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[2003─2020 中村憲剛選手 引退]
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KAWASAKI FRONTALE

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Columnsコラム

スペシャルインタビュー vol.02アウグストからケンゴへ

インタビュー&翻訳、テキスト、現地撮影:藤原清美 Fujiwara Kiyomi

 アウグストが川崎フロンターレに刻み込んだのは、戦う姿勢、しかも、サポーターとクラブが共に戦い、共に乗り越えていくという、強いスピリットだと言われている。

 現在、ブラジル全国選手権1部の下位にあえぐゴイアスECの再建を担い、監督を引き受けた彼が、その厳しい戦いの中で、フロンターレ時代の思い出と、中村憲剛について振り返ってくれた。それも、心の底から楽しそうに、そして、幸せを噛みしめるように。(文中敬称略)

アウグスト

「あきらめるぐらいなら、出て行け」

 アウグストについて、今なお語り継がれているのが、2003年のことです。チームはJ2から、J1昇格の達成間近となった、湘南ベルマーレ戦。最終節の前の試合であり、そこで勝てばホーム最終戦で昇格をかけた戦いになるという状況の中、最後の最後で失点し、引き分けてしまいました。

 その試合後、あなたは選手だけでなく、スタッフのみんなにも叱咤激励したそうですね。

「僕の人生にも刻まれる出来事だった。僕がフロンターレに入った時、チームの目標はJ1昇格だったんだ。でも、結果的にその試合の引き分けが響き、勝点1の差で昇格を逃してしまった。湘南戦の結果はすごく悔しくてね。サポーターはシーズンを通して、ずっと僕らを支えてくれていたのに。

 でも、僕らが成長するしかない、ということは分かっていた。立ち止まるわけにはいかない。だから、みんなで集まって、ショック療法ではないけど、強く話したんだ。可能性はかなり少なくなったけど、最終戦にわずかな望みはある『絶対にあきらめるな。あきらめるぐらいなら、出て行け』と。

 フロンターレはサポーターだけでなく、川崎という街そのものを代表する存在だった。だから、俯くな、みんなでサポーターと共に戦うんだ、とね。」

アウグスト

アウグスト

あの試合では、アウェーにも関わらず、多くのフロンターレサポーターが来ていて、試合直後はあまりの落胆にスタッフが暴動を心配するほどの雰囲気になった。でも、そのサポーターが、バスが出る時には、とっくに切り替えていて大歓声で激励してくれたんですね。

「フロンターレの成長は、あの悔しさから始まっているんだ。どんな困難が立ちふさがっても、目標に向けて、あきらめることなく戦わなくては、とね。

 そういう歩みを刻みながら、サポーターとの絆も、さらに強いものになっていった。あの時、みんなで顔を上げて、前を見つめたから、今、チームは幸せを享受している。J1に昇格後、多くのタイトルも獲っている。何度も悔しくて泣いたサポーターが、今はスタジアムで歓喜している。

アウグスト

中村憲剛引退に寄せて

中村憲剛が言っていたのは、アウグストは最初から彼を信頼して、いつも話をしてくれた、ということです。

「ケンゴは僕やジュニーニョと同じ、2003年にフロンターレに入ったんだ。とても素朴な人間で、信じたことに一生懸命取り組む選手だった。

 まだ22歳だったけど、技術的なクオリティはすごく高かったんだ。そして、ユーティリティさも見せていた。それと、スピードだね。練習でボールを競って走ったりすると、たいてい彼にアドバンテージがあった(笑)

 しかも、若い時から、ピッチでの強いパーソナリティを持っていたんだ。そういうわけで、彼の活躍はすぐに目立ち始めた。

 僕から彼への尊敬の念が最高潮に達したのは、等々力での試合のことだ(訳注:2003年J2第20節-川崎フロンターレ対サガン鳥栖)。僕が左サイドから、右サイドにいる彼にパスを出したんだ。彼がペナルティエリアに走り込んで、トラップをして、シュートできるようにね。

でも、彼がしたのは、ファーストタッチでシュートすることだった。本当に美しいゴールでね。今でもはっきり記憶に残っているし、彼に質問したいよ。どうしたら、あんなシュートが出来たのか。あれで、僕は彼のファンになってしまったんだ。」

アウグスト2003年6月28日(土) J2リーグ 第20節 vsサガン鳥栖

アウグスト

あなたがフロンターレを去る前の、最後の練習の日、クラブハウスのロッカールームで荷物を整理していた時、ケンゴに頼まれて、シャツにサインをしてプレゼントしたそうですね。彼は家宝にすると言っていたとか。

「(笑)ケンゴには、いつでも驚かされるよ。その謙虚さや、僕に対する愛情にね。正直に言うと、そのエピソードは覚えていないけど(笑)、それを聞いて、また驚いた。

 ケンゴには、考え得るありとあらゆる幸せを願うばかりだ。彼は川崎市民を、日本国民を代表して、“サムライ”のように戦ってきた、桁外れに素晴らしい選手だからね。

 で、シャツの話だけど、いつか、彼がその背番号4のシャツを着ているところを、見てみたいな(笑)。」

あなたはよくスタジアムに、家族を連れて行ったんですね。ケンゴは当時小学生だったあなたの息子さんと、中学生だった娘さんのことをよく覚えていて、「あのやたらと元気だった男の子はどうしているかな。」と、様子を知りたがっているそうです。

「僕の長女ミシェリは、今32歳で、僕に2人の孫をくれた。息子セーザル・アウグストは体育の先生になったんだ。

 そうそう、セーザル・アウグストはいつも試合の後、ロッカールームの前で、クラブの社長と一緒にみんなを待っていたんだよね(笑)。まるで首脳陣みたいに、1人1人を出迎えて、挨拶して(笑)

  ケンゴは、いつも楽しそうに、彼とふざけてくれた選手の1人だった。僕は1度、その場面を撮影して、今も大事に取ってあるよ。

 それにしても、ケンゴは良く覚えているね。クラッキ(ポルトガル語で「名手」の意)である上に、また謙虚な人間である上に、記憶力まで良いんだな(笑)」

アウグストアウグストとその家族。長女 ミシェリ、長男 セーザル、孫 ダニエウ(ミシェリの子)もう一人孫もいるそうです。

今、あなたはゴイアスECのプロチームの監督を務めているんですよね。

「フロンターレを離れた後、帰国して、ブラジリエンセでプレーしたんだ。サッカーを始めたクラブで、選手生活を締めくくるために。その希望通り、ブラジリア州選手権優勝を達成して現役を引退し、そのままそこで、監督としての経歴をスタートしたんだ。

 ゴイアスでは、選手として4年間プレーしたこともあって、U-20チームの監督に招聘された。その世代の幾つかの大会でタイトルを獲得した後、今年から、プロチームの仕事もするようになったんだ。

 以前にも何度か、代行監督を務めたことはあるけど、今は正式にプロチームを指揮している、というわけだよ。」

アウグスト

アウグスト

ケンゴへ

「彼の新たな人生に、大いなる幸せを祈っているよ。彼を尊敬しているし、彼のことが大好きだ。彼と共に戦い、共に過ごせたことを、とても幸せに思っている。

 フロンターレは僕らに、素晴らしい日々を与えてくれた。あの日々は2度と戻らないけど、彼は今も僕の心の中にいる。いつか、また抱き合えることを願っているよ。そして、フロンターレでの思い出を語り合えることをね。

 そうだ。ケンゴに忠告しておこう。『泣くなよ』って。

 僕は自分のお別れのセレモニーの時に、すごく泣いたんだ。20年間の選手生活の中で、フロンターレにいた時ほど、感動が多く、心に刻まれた日々はなかったからね。

 …そうか、やっぱり泣いていいよ、ケンゴは泣いてもいい。彼は本当に長年、フロンターレで頑張ったんだからね。

 彼のフロンターレでの経歴の始まりに立ち会えたんだから、締めくくりの場にも、一緒にいたかったな。それでもここで僕は、彼の人生に大いなる幸運を、それだけを願っているからね。」

アウグスト

サポーターへ

「川崎フロンターレのサポーターへ。とても恋しいよ。特に、あの歌を思い出すとね。

♪アーウーグスト!オレタチト、トモニ。アーウーグスト♪

 僕がピッチに入った時、彼らが歌い始めるんだ。ゴールを決めた時も、クロスを上げた時も、歌ってくれた。それが、僕の人生に刻まれている。

 僕が最後に帰国する時も、川崎から成田は遠いのに、ユニフォームを来たサポーターのみんなが集まって、あの歌を歌ってくれたんだ。空港だったから、警察が騒がないようにと頼んで(笑)、でも、サポーターは歌ってくれて。すごく嬉しかったよ。感謝しかない。

 最後に、このインタビューを掲載する時、大きく書いて欲しい言葉があるんだ。それは、“ワスレナイ”。

 本当に素晴らしい言葉だよね。

“ワスレナイ”“ワスレナーイ!”

 お別れのセレモニーで、サポーターのみんなのところに行って、みんなを抱きしめて、そして叫んだ。“ワスレナイ!” 心に刻まれているよ。“ワスレナーイ!”叫んで、泣いて。人生でも最も深く刻まれていることだ。

 僕は遠く離れていても、気持ちはいつでもすぐそばにいる。みんなを一生愛し続けていく。ああ、 “ワスレナーイ!” 本当に、忘れられないよ。

 共に戦い、共に乗り越え、共に歓喜したみんな。“ワスレナイ!”」

インタビュー:2020年11月30日、ブラジル・ゴイアス州 アウグストの自宅にて

アウグスト

Augusto’s Profile
アウグスト"AUGUSTO" Augusto Pedro de Souza

2001年〜2002年まで鹿島アントラーズ、2003年〜2005年まで川崎フロンターレにそれぞれ在籍。ポジションはDF。

サッカー選手としての強烈なカリスマ、圧倒的な存在感を発揮する左サイドの番人として活躍。メンタル面でも技術面でもJ2時代のフロンターレサッカーを底上げしたメンバーのひとり。

アグレッシブなプレイや熱いサッカー愛に対して、チームメイトや家族にそそぐ眼差しはあくまで穏やかで、情に熱くユーモアも忘れないナイスガイ。

2005年に家庭の事情で日本から離れる事になり、フロンターレを退団。同年12月4日の帰国セレモニーでの最後の言葉は、本人たっての希望で日本語だった。

「サヨナラ、チガウ!! マ・タ・ネ ダヨ!!」

その言葉を実行するように、2016年にはクラブ20周年記念「OBドリームマッチ」へジュニーニョ、ジェシ等と共に参加。年齢を感じさせないそのプレーに、懐かしいアウグストへのチャントがサポーターから贈られた。

帰国後はブラジリアFCで現役を退き指導者に転身。現在ゴイアスEC (ブラジル・ゴイアス州ゴイアニア)の監督を務め低迷するチームの梃入れに奮闘している。

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