モバイルフロンターレ

OB'sコラム

鬼さんと一緒

2007 / file03

出会い

鬼木 達
Oniki,Toru

市立船橋高校を卒業後、鹿島アントラーズに加入。1998年、当日JFLに所属していた川崎フロンターレに期限付き移籍。わずか1年で鹿島に戻るも、在籍中、サポーターから「川崎の宝」とまで呼ばれ愛された男は待望の復活。以来、無尽蔵のスタミナでピッチを走り回り、キャプテンとしてチームを強烈に引っ張る。現在、フロンターレ育成普及コーチとしてピッチを走り回る。
1974年4月20日生まれ、千葉県船橋市出身。

今まで生きてきた中でどれだけの人と出会ってきただろう?本当に多くの人達と出会ってきたと思う。近所で友達ができて幼稚園、小学校、中学校、高校、プロ、そして今。忘れてしまった出会いあれば、一生忘れることのできない出会いもある。
出会いで人生は大きく変わると思う。それは人だけに限らず、スポーツ、勉強、音楽など様々な出会いがある。僕はその中で人とサッカーとの出会いに救われてきたように思う。そして出会ってはいけない人や物事はないと僕は考えている。

僕は小学生の時にサッカーを始めて6年生の時には全国少年サッカー大会で3位なって優秀選手賞を貰った。(自慢)当時の先生たちは非常に熱意もあって厳しかった。しかし本当に多くの事を学んだし、心から自分たちのことを考えてくれていると子供ながらに理解できた。しかし中学生になると僕のサッカー環境は大きく変わった。小学生の時はほとんど負け知らずの中、育ってきた僕にとって中学校生活は苦労の連続だった。先ず顧問の先生が全くサッカーを知らなかった事。そして自分たちの学年は部員が11人集まらなかった事。

当然大会には参加できなかった。そして1年生は球拾いが基本。そのころの僕は小学生時代の栄光を捨てきれず、自分のいる環境に非常に不満でやる気を失っていた。そうなると当然良くない方向に興味が沸いてしまい悪さばかりしていた。サッカーは大好きなのに球拾いだったり、顧問の先生の都合で練習がなくなったりと。今まで毎日当たり前のようにしていたサッカーができず、先生の情熱も感じず部をやめた。そんな時、僕を理解してくれていた先生たちが、小学生時代の仲間たちが声をかけてくれた。退部届を出してからの1週間は本当に多くの人に支えられた。その中で先生が僕に言った「お前はサッカーをしているときが一番輝いている。お前が今の部を変えてみろ」中学生の僕にとって非常に大きな言葉だった。今まで自分の置かれている環境のせいにしていたが、大事なことは自分自身のサッカーへの情熱に問題があることに気づかされた。そして僕は変わった。

3年の時には選手兼、監督という立場で練習メニューから試合の時のメンバーまで全部決めていた。今考えてみると自分でメンバーを決めて自分が試合に出るというのは不思議なことだ。しかもどんなに調子が悪くても自分は試合に出続けていたのだ。調子が悪いときはプレッシャーもあった。
しかし僕にとって最悪の環境だと思われたこの時期が僕自身に大きな成長を与えてくれた。選手としては周りに恥じないプレーを心がけ、監督という立場では毎日選手を観察した。決して強いチームではないチームをどうやって勝たせるか。どうやってチームを一つにするかなど、今まで考えもしなかったような事を本当に多く考えた。

僕の思い出話のようになってしまったが、大事なことは最期は全て自分次第で変わるという事。出会った人や物事、環境など全ては自分自身の捉え方でプラスにもマイナスにもなるということ。僕の場合、はじめ顧問の先生がサッカーを知らないからダメだと思った。しかし最終的には自分がやればいいという結論を出し、結果的にこの出会いは僕にとってプラスだった。また退部届を出した時にも多くの人から支えられていることにも気づかされた。生きている限り毎日何かしらの出会いがある。そのときその事に対してその人に対してどう感じるかが重要なのだ。

そう考えると出会いほど人生で貴重なことはないと思います。僕自身今までの出会いとは全く違った出会いが増えています。子供たちや父兄のかたなどこれかもっと多くの出会いがあると思うが、その全てを大切にして力にしていきたいと思います。

2007年07月01日 鬼木 達

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