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OB'sコラム

Tatsuru'sチェック!

2004 / file02

ユニフォーム

向島 建
Mukojima,Tatsuru

1966年1月9日静岡県生まれ。静岡学園高-国士館大-東芝を経て1992年清水エスパルス入団。1993年Jリーグオールスター戦出場。1997年川崎フロンターレへ移籍。以来2001年の引退まで要衝としてチームを支える。2002年から川崎フロンターレフロントスタッフ。2003年にはフットサル日本代表候補に選出。「SUKISUKI!フロンターレ(iTSCOM)」やサッカースクール・サッカー教室・講演・フットサル解説など川崎のサッカー伝道師として多方面で活躍中。

2004年シーズン、川崎フロンターレのユニフォームが新たにモデルチェンジしました。1stユニフォームは水色と黒を基調として、それほど変わりはありませんが肩の部分がそれぞれ互いの色にチェンジして、より強くフロンターレのカラーを前面に出したデザインになりました。2ndユニフォームは5年ぶりに変更され、白を基調として、水色と黒のラインが左肩からタスキがけになっており、クラブ一丸となって戦うことをイメージしています。ユニフォームを一新したことで選手たちも新たな気持ちで頑張ってほしいと思います。きっとこのユニホームがJ1復帰の記念になることでしょう。
 最近のユニフォームは、カラーも豊富でデザインが奇抜だったり、素材も考えられて作られています。夏場に対してはメッシュ素材を利用していて通気性がよかったり、試合中相手に引っ張られることがないようサイクルスポーツのシャツをイメージして、肌にフィットするようなものだったり工夫されています。カメルーン代表が2002年アフリカ・ネーションズカップで暑さ対策のためノースリーブのユニフォームを着用し、相手に引っ張られたときに主審にわかりやすいように、非常に伸びやすく切れやすい素材を使っていて話題になりました。結局、暑い日本でのW杯では着用が認められなかったのですが、どのメーカーも選手たちがいいパフォーマンスを発揮できるよう心がけ、常に研究されているようです。そして各国やクラブチームのユニフォームにもしっかりとした意味があり、例えば日本代表の青は「日本の国土を象徴する海と空、スピード感」を、白は「フェアープレー精神の象徴、信頼感」を、赤は「日本国旗、情熱の象徴」を表しています。2002W杯では日本の象徴である富士山がデザインコンセプトされ作られました。
 私がユニフォームで印象に残っていることは、1974年のW杯決勝を深夜、父と眠い目をこすりながら見た、「西ドイツvsオランダ」です。シンプルな西ドイツの白に対してオランダの鮮やかなオレンジが緑の芝生の上に実に映え、とても美しかったことを思い出します。世界の人たちが注目したW杯決勝という素晴らしい舞台で、オレンジ色のユニフォームを着たクライフというスーパースターのプレーを始めて見た瞬間だったため、特別印象に残っていたのかもしれません。子供ながらに「あんなオレンジ色のかっこいいユニフォームを着てプレーしてみたいな!」と、どこかで願っていたのかも知れませんね・・・。

私は藤枝市の青島サッカースポーツ少年団で本格的にサッカーをスターさせたとき、人生で最初にユニフォームというみんなと揃いのものを身につけ選手としてグランドに立てたとき、「サッカーの楽しさ!選手として試合ができる喜び!」というものが芽生えました。今でも青と白の背番号15のユニフォームを見ると、当時小柄だった私は、ユニフォームが大きすぎ母に袖を短く縫ってもらいプレーしていたことを思い出します。そして、憧れだった静岡学園高校では、緑のユニフォームを監督から渡されたとき、OBが築き上げてきた伝統の重みを感じさせられました。そして清水エスパルスというゼロからスタートのチームでは真新しい奇抜なデザインのオレンジに驚かされ、しかも静岡には空港もないのにスポンサーが「JAL」、それでも選手たちは何の違和感もなくプレーしていました。そして川崎フロンターレに移籍し、水色と黒の縦じまのユニフォームを着たとき、まず思ったことは、「このユニフォームでJ1に昇格しなければ!」そのために川崎に呼ばれたんだと自分の役目をはっきりと認識させられました。
 サッカー選手は、ユニフォームを着て大舞台でプレーすることを誰もが望みます。当たり前のことかも知れませんが、戦う準備をしていても試合に出られなければ、誰からもその姿を見てもらうことはできず評価されません。ユニフォームを着てグランドでプレーすることがどんなに大事か、自分の歴史を作って行くことができます。どんなにデザインが悪くても、地味でもチームが勝ち続け強くなること、素晴らしい選手が出てくることでユニフォームのイメージは変わってきます。ユニフォームは「あの時代のあんなサッカー、あの選手のあんなプレーが懐かしいな!」などと振り返えることができ、サッカーを愛する人にとって、思い出や感動の場面を蘇らせることができます。それだけユニフォームはサッカーの歴史を作り辿るうえで、切り離すことはできない貴重なものなのです。そして2002W杯では多くの人たちがユニフォームを着て応援したり街を歩く姿を見かけました。選手が試合で身につけているもので一番グッズ化されているため、プレーしている選手と同じものを身につけてみたいと思う人も多かったのでしょう。お気に入りのユニフォームを着て共に戦い、応援することで、選手たちは普段以上のパフォーマンスを出せるのです。ユニフォームは人それぞれ持つ意味があります。チームを応援するために購入する人、スーパースターが好きでその選手のものを購入する人、ファッション性で購入し着る人、海外に行ったお土産として購入する人、サッカー仲間でチームのユニフォームを作る人など様々です。そして昨年、私自身が初めて『Tatsuru's Wear!』というユニフォームを作り、プレーすることが出来ました。
 2003年7月から2004年1月までの間、このユニフォームを着用しいろいろな活動をすることが出来ました。
 このユニフォームの胸スポンサーは「FUNKY'S」で、株式会社エフ・トゥー・ワンさんです。ホームゲームのスタジアムなどで出店している黄色い車のホットドッグ屋さんです。背中のスポンサーは「World Eleven」で、株式会社ゼット・プロジェクトさんです。ワールドサッカーという携帯サッカーサイトが有名です。左袖は「魚建」さんです。平間商店街にある魚屋さんで、「建」という字が同じということもあり、現役時代から応援していただいています。そして右袖には「Tatsuru's チェック!」を入れさせていただきました。そして、チームユニフォームスポンサーの「アシックス」さんの協力で他にない特別なユニフォームが誕生しました。
 そもそもこの『Tatsuru's Wear !』を作ろうと思ったきっかけは、フットサルの日本代表候補に選出されたことです。フロンターレがローソンカップなどフットサルに力を入れていることもあり、最近競技人口の多いこのスポーツで自分自身がチームに何か役に立てないか?そんな思いが、前々から誘われていた日本代表候補という場での参加を決めました。自分自身もう一度、身体を鍛え、作り上げてフットサルで燃えてみたい、フットサルというこれからまだまだ伸びていくであろう競技に興味があったことも事実です。クラブ関係者の皆さんの協力や理解があったことで、初めてフットサルに参加することができました。しかし、現役を引退してプロサッカー選手という状態から1年以上が経っていることや、37歳を越える年齢からの復活は私にとって想像以上に大変なことでした。

 2003年2月末に代表コーチから代表候補選出の話がありました。3月1日からトレーニングを開始し、3月30日の合宿までにプレーできる身体を作りらなければいけないという厳しいものでした。自分の業務もあるため、自宅に帰ってから近くの公園でランニングからスタートしました。スクール指導終了後には下野毛グランドでアジリティやスピード系のトレーニングをしたり、若いコーチを誘って多摩川をランニングしたり、24時まで使用できるスポーツクラブで筋力トレーニング中心の毎日が続きました。自分をどこまで追い込めれば戦える状態になるかは、長年の経験により身体が覚えているため、苦しいことは承知で自分を苛めました。スケジュール的にも体力的にもかなりハードな状態は覚悟していましたが、現役時代のように身体を動かしている生活は意外と充実していて、楽しい日々を送ることが出来ました。

 Jリーグでプレーしていた選手がフットサルをはじめたことで、ちょっとした話題になり取材が入ってくるようになりました。私自身フットサルチームには所属していないため、他の選手がチームユニフォームを着用する中、取材で着用するチームユニフォームは私には存在しませんでした。そこで自分なりの特別なものを作り形としても残したい、作るだけでなく露出してしまおう、いろんな活動をこのユニフォームで展開していこうと思い、チーム関係者やスポンサーさんのご好意により『Tatsuru's Wear !』が完成しました。
ユニフォームを一から作成する過程は、私にとって楽しい時間でもあり、少しずつ出来上がっていく様子は、これから展開していく活動が頭の中でイメージとして少しずつ沸いてきて、自分のチームが出来上がっていくようなものでした。完成が待ち遠しく、想像するだけでわくわくしてきたのを覚えています。
『Tatsuru's Wear !』 完成のお披露目は、7月13日のファン感謝デーでのサッカーコーナーでした。この日以降様々な活動を行ってきました。主なところでは8月30日の「FULLCAST CUP FUTSAL CHAMPIONSHIP 2003」(等々力アリーナ)。フロンターレ創設当初の選手中心に集まっていただき、OBドリームチーム(向島建、中西哲生、ベッチーニョ、野口幸司、桂秀樹、戸倉健一郎、長谷部茂利、源平貴久、高田栄二、笹原義巳、竹内弘明)を結成し大会に出場しました。勿論このユニフォームを全員着用しプレーしました。懐かしい選手たちが集まり、一つのチームとして真剣に楽しくプレーできました。その後もフットサルのエキシビジョンマッチは2試合行いました。富士通地方工場サッカー教室にはコーチ3名で参加しました。10月12日長野、10月25日岩手、10月26日会津若松、11月1日小山で行い。コーチ全員がユニフォームを着用しプロのチーム、選手のプレーを少しでも身近で感じてもらおうと行いました。テレビではファイトフロンターレにおいてTTSコーナー、ITSCOMインタビュー、そしてSKY PerfectTV ケーブルTVなどで放送しているVieWsicという音楽番組で「サッカルチョ7/チコ・チェアーのフットサルチームを作ろう!」でコーチ役として出演し、共演者であるチコ・チェアーというサッカー未経験者で、デビューしたての4人組みミュージシャンにもフットサルの試合でユニフォームを着用していただきました。当初試合は練習着で行う方向でしたが、揃いのユニフォームを着て試合をやることで選手は気持ちが高まり、試合をすることの楽しさや緊張感を実感できると思い、ドラマのクライマックスにと、ユニフォームを用意することにしました。コーチとしてサッカー未経験の彼らと半年間付き合ってきて、サッカーやフットサルを純粋に好きになってくれたミュージシャンの彼らに、自分からのプレゼントにしました。彼らも出来の良さには感激し、等々力でのトップチームの試合にはそれを着て応援に駆けつけてくれました。

 この『Tatsuru's Wear !』により、いろんな活動ができ、昔のチームメイトやたくさんの子供たち、サッカーやフットサルに関わらず、いろんな人たちと知り合うことができました。また自分自身のユニフォームを着用することで気持ちもフレッシュになり、充実した指導や楽しい生き生きとしたプレーを魅せることができ、今までにない新しい自分を出すことができました。

 2004年1月31日をもって、『Tatsuru's Wear !』の契約を終えることになります。スポンサーである株式会社エフ・トゥー・ワンさん、株式会社ゼット・プロジェクトさん、「魚建」さん、本当にありがとうございました。サッカーを始めたときのユニフォームや伝統の静岡学園高校のもの、社会人として川崎で初めてプレーした東芝のもの、Jリーガーとしてプレーできた清水エスパルスのもの、93年Jリーグのオールスター戦のもの、J1昇格や長い現役生活を終えることになった川崎フロンターレのものなど、この『Tatsuru's Wear !』も、同じように私にとって思い出に残る一つとなるでしょう。
特別な素晴らしい『Tatsuru's Wear !』を着て活動を出来たことを心から感謝したいと思います。

『いつの日か、このホームタウン川崎で、フロンターレのユニフォームを着ている人で溢れるときが来ることを願っています・・・』

2004年02月06日 向島 建

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