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2004 / file06

スパイク

向島 建
Mukojima,Tatsuru

1966年1月9日静岡県生まれ。静岡学園高-国士館大-東芝を経て1992年清水エスパルス入団。1993年Jリーグオールスター戦出場。1997年川崎フロンターレへ移籍。以来2001年の引退まで要衝としてチームを支える。2002年から川崎フロンターレフロントスタッフ。2003年にはフットサル日本代表候補に選出。「SUKISUKI!フロンターレ(iTSCOM)」やサッカースクール・サッカー教室・講演・フットサル解説など川崎のサッカー伝道師として多方面で活躍中。

私は、サッカーが盛んな静岡県藤枝市に生まれた。物心つく頃から、隣に住んでいたお兄さんがサッカーをやっていたことから、サッカーボールを夢中に追いかけ、蹴り続けた。お兄さんは、サッカーに興味を示していった私に、時々読み終わったサッカー雑誌や、履けなくなった短パン、ソックススなどをくれた。私は毎日のように一緒にボールを蹴って遊び、とても可愛がってもらった。

 ある時、お兄さんがとても大切にしていたスパイクを私にくれた。当時ではとても高価なPUMAの皮革製で『KING』と記されていた、ぶかぶかの大人のスパイクだった。もちろん直ぐには履けないが、ボールを蹴って遊ぶことが好きだった私にとって嬉しい出来事だった。これを履いて、いつの日かサッカー選手として試合に出たい! そのスパイクを眺めながら、自分なりに夢を描き、少年団での本格的なサッカーにのめりこんでいくことになった。

 サッカーが盛んな藤枝市には、藤枝東高校があった。ここは、以前天皇杯の決勝が行われたことでも有名で、天皇陛下も訪れたくらいサッカーの伝統ある学校だった。男子生徒全員が入学時にスパイクを購入し、体育はすべてサッカーというくらい珍しい学校であった。
 本格的に小学校3年からサッカーを始めたとき、私が親に購入してもらったスパイクは、オニツカタイガーのボンバー55で、当時の小学生の間では軽さ履き心地、価格的にも手ごろで主流のスパイクだった。それ以来、高校3年生までこの型のスパイクを愛用していった。

大学に入学してすぐの新人戦(1・2年生の大会)に、履きなれたオニツカタイガーのボンバー55で当然のごとく試合に臨もうとしたとき、コーチから「それは、ちゃんとしたスパイクではない! 皮のスパイクを履け! そのスパイクじゃぁ試合に使わないぞ!」と言われた。サッカーが盛んな静岡では皮革製のスパイクより、軽さやボールタッチがしやすい柔らかいスパイクを選ぶのは普通だった。皮革製はいいスパイクだということは認めてはいたが、ボールを遠くへ飛ばすことや、強いシュートを打つことはそれほど重要視されてこなかったため、ショックを受けたとともに、これから行っていくサッカーは、いろんな意味で生易しいものではなく、厳しい大人のサッカーになるということを感じさせられた。
 試合を翌日に控え、出場できないのでは困るため、慌てて町田にあるアドホックというスポーツショップに、皮革製のスパイクを購入するために出かけた。新しい皮革製のPUMAのスパイクは重くて履き慣れず、プレーもぎこちなく、後半はこっそり長年使い続けたボンバー55に履き替え、自分らしい動きを取り戻した。その後、大学2年から、チームの先輩に「PUMA」を紹介していただき、スパイクを支給してもらえるようになった。当時、大学リーグは盛んでトップチームで試合に出場できる可能性のある選手には積極的にスパイクを支給してくれていた。

 スパイクにはそれぞれ役割がある。例えば短い芝のピッチには固定式でスタッドが短めのスパイクを使用することが一般的であるが、雨で滑りやすいピッチや長い芝のピッチにはスタッドが高くて芝に刺さりやすい取替え式のスパイクを使用する選手が多い。特にDFはたった一度滑ってしまったことが失点を誘い試合を落としてしまうというケースも考えられなくわないため、試合前のスパイクを選ぶことは選手にとってとても大事なことだ。

 1993年Jリーグ、鹿島アントラーズvs横浜マリノス、鹿島スタジアムでの試合で、キックオフ直後から、横浜マリノスの選手たちが、スパイクを取替え式から固定式にチェンジするシーンがあった。この普通でない事態に多くの観戦している人たちや関係者はとても驚いた。それは鹿島スタジアムの芝の状態が普通の競技場とは異なっていたため、スパイクが合わなかった選手が多かった。鹿島の選手たちは、ホームグランドだったため慣れた状態で当然取り替える選手などいない。試合前のウォーミングアップがグランド内でできず室内を使うため選手たちはスパイクを履いて芝の状態を確かめたり、慣れることができないままキックオフを迎えざるを得なかった。
 鹿島スタジアムの芝は長いため、ほとんどの選手は取替え式でスタッドが高くて刺さりやすいスパイクを使用する選択をしたが、地面は思った以上に堅かったため、スタッドが刺さらずかえって滑ってしまう結果になった。この状態により横浜マリノスの選手たちはスパイクを替える時間を必要とされ、その隙に鹿島アントラーズに攻められ失点をしてしまった。とても珍しいシーンで記憶に残っている人も多いことだろう。横浜マリノスの選手たちは試合前にピッチの状態を見てスパイクを選んだのだろうが、もっと慎重にスパイクを選ぶ必要があった。勝敗にかかわってくる大事なことだった。

 スパイクを購入したり、新しいものの選びかたは人それぞれだ。例えば、好みのメーカー(puma・asics・adidasなど)、デザイン(色)、価格、軽さ、素材(天然皮革・人口皮革など)、スタッドの形(○型・ハ型など)、ソールの形、なんといっても自分の足(甲高・幅広・偏平足など)や目的にあっているものを選ぶのが大切。最近は有名選手(ベッカム・ロナウドなど)が履いているものを購入する子供たちが非常に多い。それは、子供たちにとって自分が憧れの選手になった気持ちでプレーできる喜びでもあり、サッカーを楽しく続けられる要素でもある。スパイクを履いてプレーすることは、サッカー選手としての自覚をもつことにつながる。

 Jリーガーとして清水エスパルスでプレーしていたとき、チームカラーのオレンジラインのスパイクを履いてみればと、マネージャーに言われ契約していたPUMAに特注のものを作っていただいた。当時レギュラークラスの選手はほとんどが自分の足型をとり、独自のこだわりのスパイクを作った。私のこだわりは、PARA MEXICO(パラメヒコ)というモデルで、軽量かつソール(スタッド)が自分の足裏(指)にぴったりとマッチし地面を掴める感覚のもので、しかも誰も履いていないオレンジラインが希望だった。軽量の部分ではスパイクの中綿を取り一枚皮だけにして軽量化を図り、ソール(スタッド)は別モデルのスパイクのものを使用し自分の指とスタッドの位置が上手く合い今までにない感覚のスパイクに完成した。しかし最初はライン(べラ・マーク)全てがオレンジにはならなかったが、時間をかけて出来上がっていった。

 スパイクも年々デザインや素材など変化している。例えば、昔は足に合っていて履きやすければよかったが、今はそれだけではなくカーブをかけられるような素材や紐が隠れるようになっていたり、黒だけでなく白いスパイクを履く選手が当たり前のようにいて、あらゆる工夫が施されている。ある時、PUMAの方から試作のものを渡され「今までにない軽量スパイクを作りました! 試しに履いてください!」と、履いた瞬間、心地よい感触で重さはまったく感じられない。軽量で足にいい柔らかい皮革、ソールも今まで愛用していたものとまったく同じで問題ない、間違いなく自分のプレースタイルに合っている新しいものだ。あとは若干の足型の変更とオレンジラインにするだけだった。後に引退までこのLEGGERO(レッジェーロ)というモデルのスパイクを履くことになった。

 スパイクはサッカー選手にとって身体の一部のようなもの。いい選手ほどスパイクを大切にしケアーを忘れない。選手によっては少しでもはやく自分の足にフィットするよう、新しく堅いスパイクはお湯や水に濡らし柔らかくしてから使用することがある。そして、選手によっては、スパイクのつま先部分をあらかじめ薄く削って剥がれにくいようにしたり、スタッドを自分の理想の姿勢に会うような角度に削ったりする。
私は、よく靴墨を使用しスパイクの手入れをするのが好きだったが、ある時ラインを塗りすぎ、契約していたPUMAから「靴墨がラインにかかりすぎスパイクのラインが分かりにくいから、黒く塗りすぎないように!」と、チェックを入れられたこともあった。逆に外国人選手は、あらかじめラインを黒く塗りつぶして真っ黒にし、どこのメーカーのものか分からないようにして、契約していないことをアピールすることもある。

 また、紐の結びかたでも、それぞれこだわりがあり、昔、流行っていたのは「マラドーナ結び」という変わったもので、みんなでよく真似して、ディエゴ・マラドーナになった気分でプレーしていたのを思い出す。私は選手時代に練習用と試合用を分けて履きこなし、取替え式1足、固定式3足を常に用意して試合に臨んだ。選手によって、いろいろな履きかたやこだわりがあるが、履いたとき少しでも違和感があっては、いいパフォーマンスを発揮することはできない。

 引退した現在、スパイクはほとんど履く機会が減ってしまった。小学校3年から大学1年まで履いた「ボンバー55」、エスパルス時代自分の足型に合わせて作ってもらったPUMAの特注「オレンジラインのスパイク」、フロンターレで現役引退の試合で使用したゴールドラインの「LEGGERO」、など自分自身が使用した思い出のあるスパイクは、幸運にも大切に保管できている。

どのスパイクも思い出深く歴史があるが、その中でも、隣のお兄さんから頂いたPUMAの『KING』は一度も履いてプレーすることはなかったが、今でも時々眺める度に昔を思い出す。毎日のようにお兄さんと暗くなるまでボールを蹴っていた頃、サッカーが楽しく楽しくて、好きで好きでたまらない頃のことを思い出す。このスパイクは私がサッカーの楽しさや選手になりたいという気持ちにさせてくれた原点でもあり、最高の宝物としてこれからも大切にし、眺めていくことになるだろう。

2004年05月22日 向島 建

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