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2007 / file03

ライバル!

向島 建
Mukojima,Tatsuru

1966年1月9日静岡県生まれ。静岡学園高-国士館大-東芝を経て1992年清水エスパルス入団。1993年Jリーグオールスター戦出場。1997年川崎フロンターレへ移籍。以来2001年の引退まで要衝としてチームを支える。2002年から川崎フロンターレフロントスタッフ。2003年にはフットサル日本代表候補に選出。「SUKISUKI!フロンターレ(iTSCOM)」やサッカースクール・サッカー教室・講演・フットサル解説など川崎のサッカー伝道師として多方面で活躍中。

スポーツに限らず様々な分野でライバル(競争相手・対抗者)というものが存在する。
私はサッカーを通してライバルとして意識した相手がいた中学生頃を思い出した。私の中学生時代は、いい思い出は少なく辛くて悲惨な思い出が多く、できれば多くは語りたくはないが...。

私は青小のエース、青島君は東小のエース、そんな二人が同じ中学校に入学、勿論サッカー部に入部した。小学校低学年からよく試合で対戦し、6年生時には二人ともオール藤枝にも選ばれていただけに、顔見知りでもあり入学してからもお互いに、どちらが早くレギュラーになれるか、背番号も小学校からつけていたものを二人とも獲得、青島君は10番、私は9番(9日が誕生日だから)、いつも刺激しあい練習に励んだ。

2年生になると突然、私だけ左サイドFWで3年生の中にレギュラーとして出場した。自分のプレーが監督に認められ嬉しくて益々やる気が出た。しかし、レギュラーになったことで同級生から僻まれ、関係が難しく。(関係が難しいといっても自分は何もしていないのだが…)その後、私なりに「チームに貢献しないと!」と夢中で試合に出場していたが、3年生の父兄からも「なんであんな小さい選手を使うのか!」などの批判めいた声が監督の下に届いていたそうで、これにより「体格が理由?」ということでレギュラーから外された。
私が初めて味わった挫折、人生のどん底に突き落とされた最悪で辛い出来事だった。それまでサッカーを始めてからというもの順調に駆け上がってきただけにショックは大きい。自分のプレーはダメなのか?小さい選手は試合に出場できないのか?様々なことが頭を駆け巡り、悩んだことも事実、監督に対して不信感を抱いてしまったことも事実だ。

東小のエースだった青島君の活き活きとした表情やプレーが嫌でも目に飛び込んでくる。サッカーが楽しくできない最悪の日々が続いた。しかし、苦しい状況にもかかわらず「サッカー部を辞めたい!サッカーが嫌い!」とは思わなかった。それは誰かにサッカーをやれといわれて始めたわけではなく、自分自身の意思でサッカーが好きになり続けてきたことだ。
サッカーが楽しくて好きで上手くなりたかったから諦めるなんて考えられなかった。自分からサッカーを奪ったら何も残らないことも知っていた。このまま終わることは私の性格上許せなかった。同級生とも、まともな会話もない日々が続いたが平気だった。といっても弱いところを見せたくなかっただけだ。父からは「小柄な選手は人と同じことをしていてもダメだ!」と常に言われ続けていたことも十分理解していただけに、これを機に「皆よりもっと練習して上手くなって絶対に試合に出てやる!」と心の中で思った。(内に秘めた闘志とでもいうのか…)

その後、青島君は順調にレギュラーの座に定着、私は外から試合を眺めている日々が永遠と続いた。青島君には自分には無いものがたくさんあった、スタミナ、キック力、ヘディングの強さ、フィジカルの強さ、激しい闘争心と根性、とてもいい選手だった。
しかし試合に出場している彼と同じものを自分自身に求めることはしたくなかった。いくら彼と同じようなプレーをしても、彼を追い越すことは勿論、追いつくことさえもできないことはわかっていた。いくら彼のプレーを真似してもそれはできない、できたとしても不自然で、それ自体偽物であり本物ではない、向島建のプレーではないからだ。パワーがなくても自分にはスピードと切れのあるドリブルがある、これをもっと上達させ自分の特徴を活かし、自分のスタイルでプレーするしか彼を追い越すことはできない。
その後、同級生ともいつの間にか普段どおりの状態に戻っていたが、3年生になって追い討ちは成長痛のケガで完全にピッチから離れることになった。それから最後までピッチに戻ることはなく、中学生時代を不完全燃焼という想定外で終えることとなった。

卒業後、青島君は地元の藤枝北高校に進学、私もサッカー部監督から青島君と同じ藤枝北高校を薦められていたが反対、父は校長先生に呼び出される始末になったが私の考えを尊重、あえて遠い静岡学園高校を選択しサッカーを続けた。
私は静岡学園高校、井田監督の下で個人技を学びサッカー漬けの生活の甲斐あって2年生の12月には県ジュニア強化メンバーに選ばれ合宿にも参加するまでになった、そこで再び青島君と顔を合わせることになった。久しぶりの再会で自分自身もその場所にいることに喜びを感じた。「彼も頑張っているんだ、俺ももっともっと頑張らないと!」と更に高い意欲で練習に取り組んだことを覚えている。

私にとって彼は本当によきライバルだった。彼はどう思っていたかは知らないが、私には常に彼の存在が前にあった。しかし人間ははかないものだ、年が明けた1月24日(月)悲しい知らせが届いた。青島君の死だった。高校で行われたマラソン大会にトップでゴールした直後亡くなったそうだ。気持ちが強く、根性がありすぎた分頑張りすぎたのだろう。
人が亡くなったところを間近で見たのはこのときが初めて、横になっている彼を見ていると今にも起き上がり走り出しそうな雰囲気さえ感じさせていた。中学3年生では私と彼が副主将を務めたことも思い出す、昔からずっと意識してきた相手が亡くなったことは、とても悲しく辛かった。少なからず彼の存在があったからこそ、ここまで自分を高めることができ強くなれた。このとき、彼の分までサッカーを一生楽しもうと誓った。

人間は挫折して、それを乗り越えてこそ大きく成長できる、挫折が自分を強くさせたことは間違いない。サッカー人生において自分がライバルとして意識できる存在がいたことにとても感謝している。ありがとう青島君!


※参考文献:高校時代のサッカーノート

2007年08月20日 向島 建

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