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ピックアッププレイヤー orihica

 2007/vol.16

「ただ、悔しかったんですよ。『このままじゃ終われない!』ってことをチームメイトにわかってもらいたかったし、何よりもたくさんのサポーターがこんな状況でも自分たちを応援してくれているのを感じていたので。最後までやるんだっていう気持ちを見せたかったんです」

 ACLノックアウトステージ第1戦と第2戦の合間に行われたリーグ第26節、柏レイソル戦。連戦の上にイラン遠征帰りという選手の疲労を考慮し、メンバーを大幅に変えざるをえなかったこの試合は、前半こそ粘り強い守備で柏と互角に渡り合ったものの、後半、一瞬のスキを突かれて失点。その後は勢いに乗った柏に立て続けにゴールを許し、あっという間に0-4と大差をつけられてしまう。だが、この敗色濃厚な試合で、相手にいいようにボールを回されながらも、最後まで諦めずに鬼気迫る表情でボールを追い続ける選手の姿があった。今シーズン、チームに加入した河村崇大だった。どんな状況でも淡々としているイメージがある彼が、あそこまで感情を前面に出してプレーする姿は珍しい。あのときの気持ちを聞いてみたくて質問してみたところ、そんな答えが返ってきた。

「あの試合で勝ってたら周りからいろいろといわれることもなかったでしょうし、本当に責任を感じています」

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 河村といえば、2002シーズンには年間成績26勝3敗1分という驚異的な成績を残し、前後期制だったJリーグで史上初の完全制覇を成し遂げた黄金期のジュビロ磐田の一員というイメージが強い。だが、彼自身は華々しい形でプロ入りを果たしたわけではなく、磐田ユースからのトップ昇格ではあったものの、トレーニー(練習生)契約だったために入団会見にも出席できなかったというエピソードがある。プロ入りしてから3年間は、練習グラウンドで地道にトレーニングを積む日々が続いた。

「高校2年生のときによくサテライトリーグに出場させてもらっていたんですが、そこで変に勘違いをしてしまった自分がいたんです。調子づいてしまったというか、自分の実力を過信したというか。3年生になってユースのキャプテンをやらしてもらいましたけど、その年は思うように力を発揮することができなかったような気がします。同世代の選手のレベルが高かったとはいえ、静岡県選抜に入ることもできませんでしたし。いま思えば、あのときもっとしっかりやっていれば、また違ったのかなって」

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 サッカーを始めたのは小学校1年生の頃、自宅の近所に住んでいたサッカー少年団のコーチに誘われたのがきっかけだった。ポジションはMFだったが、足の速さを買われて右ウイングに入ったり、練習ではGKもやったことがあるという。中学のサッカー部では1年生でDF、2年生ではMF、3年生のときにはFWと、いつもチームの中心選手としてプレー。だが、本人が初めてプロを意識したのは、磐田ユースに受かってからだったと、当時の自分を振り返る。

「中学校の先生とジュビロのジュニアユースのコーチが知り合いで、よく練習試合をやっていたんです。いつもボロ負けでしたけどね。でも、先生に勧められてユースのテストを受けたら合格したんです。自分でもびっくりしましたけど、このまま頑張ればプロの道が開けるかもしれないと、初めて意識した瞬間でもありました」

 高校時代は寮から学校へ通い、授業が終わるとすぐ帰宅。夜は磐田ユースのグラウンドでみっちり練習という生活を3年間やり通した。
「同じクラスの友達とは仲が良かったですけど、部活に入っていなかったので他のクラスの生徒とは接点がまったくなかったですね。卒業式のときも、式が終わったら感慨にふける間もなく普通に練習に行きました。でも、毎日が充実していましたよ。ユースはトップチームと同じ練習をしていたので学ぶことが多かったし、中学校時代のサッカー部とはまた違った指導方法だったので、自分でも日々サッカーが上達していくのがわかるんです。楽しかったです」

 ユースからトップチームに練習の場を移したプロ1年目。だが、当時のジュビロ磐田はトップとサテライトの練習が別だったため、主力メンバーと一緒にプレーできるのは紅白戦のメンバーに選ばれたときのみ。新人時代はトップチームの選手と寮で会っても挨拶をかわす程度の間柄だったという。
「もう雲の上の存在の人たちばかりでしたから。ユース時代は中心としてやらせてもらっていましたけど、トップに上がったら周りがすごい選手ばかりで、レベルがまったく違いました。最初の頃は練習についていくこともできなかったです。『俺、いままで何やってたんだろう?』っていうぐらいの大きな差がありました。だからプロに入って1年目は、地道に練習してサテライトで自信をつけて、少しでもトップの選手に追いつこうという気持ちしかなかったですね」

taniORIHICA

 プロ入り2年目は「スポニチ・Jリーグサッカー留学制度」の指定選手に選ばれ、10ヶ月間のアルゼンチン留学を経験した。留学先はアルゼンチンの名門、リーベルプレート。試合に出場する機会は与えてもらえなかったが、ブエノスアイレスでの生活が河村の人生のひとつの転機になったと話す。

「前に留学した先輩のなかにはサテライトリーグに出場した人もいましたが、僕はチャンスをもらえませんでした。実際のところ、サッカーはほとんどやらせてもらえなかったような気がします。練習でも『お前に何ができるの?』みたいな感じでパスをもらえませんでしたし。一緒に留学した日本人選手はいましたけど、チームが別々なのでクラブの寮で生活する日本人は僕1人。最初の1、2ヶ月で体重が一気に5キロ落ちました。きつかったですね」

 いきなり放り込まれた未知の世界。だが、自分で行動を起こさなければ状況は何も変わらない。河村はスペイン語の辞書を片手に、積極的にアルゼンチン人に話しかけた。

「食事の時間すらわからないので、朝食前に部屋のドアを開けておいて、みんなが食堂に行くのを見て時間を覚えました。練習場に行くのにも路線バスを使わなければいけなかったので、まずバスの乗り方から覚えなきゃいけない。こちらから話しかけて聞かなければ何もわからない環境だったので、それだけでもひと苦労でした。試合に出られないから週2日は休みだったので、休日はアルゼンチンの生活に慣れるためにひとりで街に出かけて、知らない人に積極的にスペイン語で話しかけたりしましたよ。サッカーは思いどおりにはいかなかったですけど、ブエノスアイレスで過ごした経験がいまに生きていると思うし、いまの自分があるのはアルゼンチンでの1年間が大きかったかなって。それまでは自分から話しかけるようなタイプではなかったので、日本に帰ってきて周りの人から『変わったね』といわれました。向こうでいろいろと失敗もしましたけど、あの経験があったからこそ人間としてひとまわり成長できたと思います

4 日本に帰ってきて迎えたプロ3年目には、サテライトリーグである程度納得のいくプレーができるようになっていた。トップの試合に出るにはあまりにも厚い選手層のジュビロ磐田ではあったが、当時のチームには中山雅史、高原直泰、名波 浩、藤田俊哉、奥 大介、福西崇史、服部年宏、田中誠、西紀寛といった日本代表に呼ばれる選手が多く在籍していたため、代表の試合で抜けたときのカップ戦などでは若手選手が抜擢される。まずはそのチャンスに起用されることを目標にして練習に励んだ。そして翌年の2001年、河村はついに念願のトップデビューを果たす。

「いまでもはっきり覚えていますよ。堅くなってミスばかりでした。無我夢中でプレーしていたと思います。まぁ、その時期は何もかもが必死でしたけど。周りの選手がうまいから、自分のミスが目立ってしまうんです。チームメイトに迷惑をかけちゃいけないという気持ちで一杯で、対戦相手よりも味方にプレッシャーを感じるような状態でした。おもいきったプレーはなくて、セーフティーなプレーばかりをやっていたような気がします」

 2002年には完全優勝を果たし、一時代を築いたジュビロ磐田の一員として、おもに右アウトサイドのバックアッパーとして出場。その後は年々出場機会も増え、サッカー選手としての自信を身につけていった河村だったが、磐田での生活が7年目に差しかかったとき、彼の胸のなかに1シーズンを通して出場したいという思いが芽生えてきた。

「あの頃のジュビロでプレーできて、自分は本当に幸せ者だと思います。後にも先にもないと思えるぐらいすごいチームでしたから。試合に出られなくても、あの当時のメンバーと一緒にできたのは良い経験です。でも、サッカー選手として年間を通して試合に出たいという気持ちも、シーズンを重ねるにつれて湧いてきました」

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ORIHICA 2006年、河村は出場機会を求めてセレッソ大阪に活躍の場を移した。移籍した当初はチームのスタイルの違いに戸惑ったものの、徐々にセレッソのサッカーにも馴染んでいった。
「チームの個性がまったく違っていたので思うようなタイミングでパスがこなかったですし、チームメイトもそう思っていたんじゃないですかね。個人的に怪我もありましたし、チームの流れも良くなくて最初はうまくいきませんでした。でも、そんななかで自分のやりたいプレーもできるようになっていったし、ジュビロにいた頃は周りに合わせるイメージが強かったですけど、セレッソに来てからは自分がやらなきゃいけない、チームの中心に加わろうという意識に変わっていきました。ただ、チームはJ2に降格してしまい、応援してくれる人たちにはすごく申し訳ない気持ちで一杯でした」

 つねにタイトル争いを続けてきたチームとはまた違うプレッシャーのなかで経験を積んだ河村に、別のクラブからオファーが届く。ACLを控えて中盤の選手層を厚くしようと考えていた川崎フロンターレだった。セレッソ大阪の降格が決定したのが最終節のフロンターレ戦だったこともあり複雑な気持ちだったが、また違った環境で自分の良さを出したいというチャレンジ精神と、ACLという国際大会に参加できるという魅力が、彼の決断を後押しした。

「フロンターレは上位に入ったチームだし、ポジション争いは厳しいことはわかっていました。でも、そんな状況でも自分の良さを出せればという思いで、フロンターレにお世話になろうと決めたんです。フロンターレというと、やっぱり攻撃的なチームという印象が強いですね。前にボールを入れて、そこから中盤の選手がどんどん押し上げてゴールに向かっていくイメージ。そのなかに自分を当てはめるとしたら、やっぱりバランスをとる役割かなと考えていました。サッカー以外では、すごくアットホームなクラブです。選手とサポーターとの距離が近くて、新体制発表もサポーターの前でやってもらいましたし、純粋に面白いと思いました。ファンサービスも積極的ですよね。まず、サインを書く枚数の多さにびっくりしました。どれだけ書けばいいんだろうっていうぐらい、たくさんのサインを書きます(笑)。でも、時間がたつにつれて、そういったファンサービスがいろんなことに使われていくことがわかりました。川崎市民あっての温かいクラブなんだなって感じます」

  こうしてフロンターレの一員となった河村は、リーグ第3節・横浜FC戦で早くもスタメンに名を連ねてチームに順応し、攻守にわたって活躍を見せた。試合は6-0と快勝。チームの勝利に貢献した。ACLでは予選リーグから準々決勝でイランのセパハンに敗れるまでの8試合すべての登録メンバーに入り、うち3試合でスタメン出場。とくに予選リーグ第6戦のアウェイゲーム、バンコクユニバーシティ戦では、キャプテンの佐原が前半途中に怪我で交代というアクシデントのなか、若い選手をまとめ上げてチームを勝利へ導いた。

「ACLでは貴重な経験をさせてもらいました。決勝ステージでは敗れてしまいましたけど予選リーグを突破することができましたし、自分自身もある程度試合に出ることができました。海外遠征をともにすることで、チームメイトとの距離も近くなったような気がします」

 今年で28歳になった河村は、チーム内では年上の部類に入る。若い選手に態度で示して、これまで自分が経験してきたことを伝えていくのが自分の役割でもあると話す。たとえ自分が控えに甘んじていても、必ずハーフタイムを終えてピッチに出てくる選手を待って激励し、サテライトリーグでは自分だけではなく周りの若い選手がプレーしやすしように積極的に声を出してチームを引っ張る。

 「自分がスタメンで出場したいのはやまやまですけど、試合に出ている選手には頑張ってほしいですから。そういったちょっとしたことを含めて、どんな立場でもどんな状況でもベストを尽くすことで、若い選手に何かを感じてもらえれば嬉しいです。僕の憧れの名波さんや(藤田)俊哉さんは、サッカーだけじゃなくて人間性もすごかった。あのときのジュビロのメンバー全員に追いつきたいし、その一員としてやってきた自分がフロンターレに何か伝えることができたらなって」

 ナビスコカップ準決勝、横浜F・マリノスとの2戦では、いずれも途中出場ながらディフェンスを引き締める役割を担い、チームの決勝進出に貢献した。シーズンはすでに終盤に差しかかっているが、すべてにおいて結果を出したいし、もっと自分の色を出していきたいと話す。

「とにかく最後までサポーターが喜びを感じてもらえるような試合をしたいです。クールなタイプに見えるかもしれないですけど、そんなことないですよ。オンとオフの切り替えははっきりしていますけど。慣れるまでに時間がかかるタイプなんです。どちらかというと僕のプレースタイルはしれっとしていると思うので、サポーターにはなかなか伝わりにくいかもしれません。河村はこういう選手だっていわれるプレーがないし、じゃあバランスをとるって具体的に何なんだと聞かれると難しいところですけど。自分の特徴を出す、自分を表現する。それが僕のテーマなのかもしれません」

 [たにぐち・ひろゆき]
アグレッシブな攻撃参加が魅力で、チームのバランスが取れるボランチ。
>詳細プロフィール

www.orihica.com

ORIHICA's FASHION NOTE

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トップス

コットンショート
トレンチコート
16,800円

インナー

ボタンダウンシャツ
5,040円
Vネックニット
7,140円

ボトムス

コットンパンツ
8,190円

オリヒカ担当者から

今回は秋から冬にかけて活躍するショートコートです。ミリタリーディテールが満載のトレンチをショート丈に仕上げました。今季はモノトーンで着こなす、きれい目スタイルがおすすめです。まだまだ若い河村選手ですが、今回は少し大人っぽいスタイルに挑戦してもらいました。とても似合ってました。

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