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 2008/vol.03

ナビスコカップ予選リーグ第1節・千葉戦で、念願のトップチーム初出場を果たした植草裕樹。第5節の札幌戦では何本もの決定的なシュートをスーパーセーブで防ぎ、チームの勝利に貢献した。プロ4年目にしてようやくつかみ取ったチャンス。市立船橋高校、早稲田大学といわゆるエリートコースを歩んできただけに、はたから見れば遅いデビューと思われがちだが、本人は「いまサッカーをやれているだけでも自分はラッキーなんです」と、過去を振り返る。さまざまな逆境を乗り越えてきた植草裕樹のサッカー人生をたどる。

1目覚め

 兄の影響で小学校2年生の頃にサッカーをはじめ、4年生でサッカー部に入った植草。だが、サッカー部といっても頭数が揃わない日が多く、集まった子供たちのなかでセンタリングを入れる役、ゴール前で待ち構える役を決め、ひたすらシュートを打つといった程度の練習内容だったという。本人も「サッカーというよりはボールを蹴って遊んでいただけ」と当時を振り返る。それでも植草自身は年1回の大会に出場しただけで市の選抜チームに選ばれたというのだから、やはり子供の頃から光るものを持っていたのだろう。

「でも、GKをやるのが決まったのは大会の前日だったんですよ。それまで誰がどのポジションをやるかは決まってなかったんです。大会の前日、誰がGKをやるかということになって、他に1人手を上げた奴がいたんですけど、こいつには任せられないと思って『だったら俺がやるよ』って立候補しました。それからですね、キーパーグローブを買いに行ったのは。当時はサッカーのルールもよくわからなくて、その大会は確か0-5か0-6ぐらいで大敗したと思います。でも、なぜか市のトレセンみたいなものに選ばれたんですよ。そこでGKの技術を教えてくれる人がいて、『あ、GKっておもしれぇな』って」

 サッカーを本格的にやりはじめたのは中学校に入ってからだった。しかし、試合に勝つための練習というよりはレクリエーションの一環という意味合いが強く、「熱中している感じではなくて、楽しみながらやっている程度」だったという。背が高いという理由だけでFWでもプレーしていたが、3年生には本人が希望していたGKに戻っていた。植草がサッカーに真剣に打ち込むようになったのは当時、布啓一郎監督(日本サッカー協会技術委員)のもとで黄金時代を築いていた、市立船橋高校サッカー部に入部してからのことだった。

「高校に入っていきなりレベルが変わりました。"市船サッカー部"として、チームが完全にできあがっていたんです。いままでは何をやっても良かったけど、市船では1人が何かをやったらみんなの連帯責任になる。伝統があって、なおかつ目標に向かってひとつにまとまる団結力みたいなものを感じました。最初はその雰囲気に慣れるだけでも大変でしたね。監督はめちゃめちゃ怖かったですし、先輩には毎日のように怒鳴られていました。あれを経験したら、誰でも精神的に相当強くなるんじゃないですかね」

 そんな植草に転機が訪れる。高校2年生時のヴィヴァイオ船橋への登録だった。ヴィヴァイオ船橋とは、市立船橋サッカー部のBチームをクラブ登録し、高体連の大会に出場できない代わりにクラブチームの大会に出場できるようにしたチーム。植草のヴィヴァイオへの登録は、彼を将来のレギュラー候補と見込んで経験を積ませるためのものだったのだろう。

「正直なところ、最初は嫌でしたよ。市船サッカー部でやるために高校に入ったわけだから。でも、練習場は市船サッカー部と一緒だし、プロのユースチームと公式戦で対戦できるということで行くことにしました。ヴィヴァイオに入ってから一気に変わりましたね。この1年間がターニングポイントになったと思います」

 植草が入った年のヴィヴァイオ船橋は、夏の大会でアントラーズユース、マリノスユースに勝利。いずれも植草がPK戦でPKを止めての勝利だった。この頃から植草は、プロのスカウトからも一目置かれる存在になった。

「自信がついたし、サッカー関係者から声をかけてもらえるようになりました。プロと対戦できて純粋に楽しかったし、ヴィヴァイオに行って良かったなって。ただ、その当時はプロでやりたいという意識は少なかったかもしれないですね。市船サッカー部に戻るために頑張らなきゃという気持ちで一杯でした」

 たとえ市船サッカー部に戻ったとしても、レギュラーで出なければ意味がない。植草はそう感じていた。ひとつ上の学年には黒河貴矢(現アルビレックス新潟)がいたが、その後釜の正GKになるために必死でアピールした1年間だったという。その努力が実り、3年生に上がった植草は市立船橋の1番を背負い、永井俊太(現柏レイソル)、中澤聡太(現ガンバ大阪)、本橋卓巳(現モンテディオ山形)らとともにレギュラーとして活躍。高校選手権では等々力陸上競技場で明徳義塾に2回戦でくしくもPK戦で敗れてしまったが、柏レイソルから特別指定選手として登録されるなど、プロの世界が現実味を帯びてきた時期でもあった。


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熱い想い

 そして植草は布監督や両親の勧めもあり、早稲田大学へと進学する。早稲田大学ア式蹴球部といえば、植草が入学した当時は関東2部のさらに下の都リーグに属していたが、日本サッカー界の重鎮を数多く輩出している名門校。植草は1年生の頃から試合に出場し関東選抜にも選ばれ、そのまま大学選抜の日韓戦のメンバーにも入った。周囲からは、きっと順風満帆のサッカー人生に見えていただろう。だが、本人は理想と現実のギャップに苛立ちを感じていた。

「サッカーに対する温度差というか、考え方が違う人が多かったんです。どっちが良いとか悪いとかじゃなくて、サッカーは勝つためじゃなくて人間教育の一環みたいな雰囲気がありました。高校のときは親の援助があるからサッカーに打ち込めたというのもあるんですけど、みんな市船のユニフォーム着たくて、レギュラーになったら部員みんなの期待を背負い、一丸となって勝つためのサッカーを目指していました。でも、大学では現実的にバイトをしなきゃいけない奴も出てきたり、授業の時間がバラバラなので一緒に練習できなくなったりと、チームがなかなかひとつになれなかったんです。サッカーに対して熱い人はすごく熱かったんですけどね」

 どこかでもやもやとした気持ちを抱えながら大学でプレーしていた植草は、3年生時に空白の1年間を過ごしている。チームの方針と合わずに関係者と衝突し、その頃ヘルニアを患っていたということも重なり、サッカー部を離れてしまったのだ。

「まだ若かったというのもありますけど、俺は試合に勝ちたいから言いたいことは直感ではっきりと言うタイプ。だから、意見の合わない人たちからは問題児扱いされていたと思います。当時の監督は俺のことをわかっていてくれていたんですけどね。でも、3年生の頭にチーム関係者と揉めてしまい、突然試合に出られなくなったんです」

4

 3年生になってからは、練習場にもほとんど顔を出さない日々が続いた。その1年間は、ごく一般的な大学生の生活を送っていたという。だが、サッカーに対する情熱が失われたわけではなかった。翌年、大榎克己氏(元清水エスパルス)が監督に就任すると、心に溜めていた思いのすべてを新監督にぶつけた。

「ゴタゴタを起こしてしまったけど、ちゃんとサッカーをやりたいし、実力で見てほしいんだと自分の気持ちを伝えました。そしたら『心配するな。俺は周りから何を言われようが、実力を見て選手を使う。お前に実力がなかったら使わないけどな』と、はっきり言ってくれたんです。そこから道が開けました。大榎さんが来てくれなかったら、俺のサッカー人生は終わっていたかもしれません」

 自分の居場所を取り戻した植草はレギュラーに定着。秋口に打撲が原因でコンパートメント症候群という症状を起こし、ふくらはぎを切開して腫れが収まるまで開きっぱなしという大出術を行うが、それでも植草の潜在能力を見込み、ふたつのJクラブが獲得の意思を示した。そのひとつが、夏に練習参加した川崎フロンターレだった。

「よくオファーを出してもらえたなというのが本音です。1年間のブランクがある上に怪我もしてしまったし、フロンターレにしても夏の3日間だけ練習に参加させてもらっただけでしたから。いまとなってはわからないですけど、たぶんぎりぎりのラインだったんじゃないですかね」

photoそして、これから──。

 紆余曲折の末、フロンターレに入団した植草。プロ1年目は手術のリハビリもままならないままトレーニングを続けたためにコンディションが整わなかったが、トップフォームを取り戻してからは、出場機会には恵まれなかったものの着実に力をつけ、サテライトリーグでは安定したパフォーマンスを披露。あとはトップチームでの実戦経験のみという状態にまでこぎつけた。プライベートでは昨年、早稲田大学の後輩で、東京電力女子サッカー部マリーゼに所属していた優さん(旧姓河田)と結婚。結婚を機に、サッカーに取り組む意識も少し変わってきたという。

「嫁さんもサッカー経験者ですけど、サッカーの話はほとんどしませんね。俺から話せば返してくれますけど、そのあたりはあえてわきまえてくれているんじゃないですか。スポーツ選手じゃないとわからない部分を理解していてくれるのは、すごくありがたいことです。俺が疲れているときは先に寝ていいよと言ってくれますし、子供の面倒もしっかり見てくれます。とにかく居心地よくさせてもらっていますね。嫁さんにサッカーに集中できる環境を作ってもらっているので、やっぱり頑張らなくちゃという気持ちになりますよ。練習できついときでも、粘ってもう一歩が出るようになってきましたし。大事な家族を路頭に迷わせるわけにはいかないですから」

photo 今年でフロンターレ入団4年目になる。以前まではどちらかといえば自由奔放なライフスタイルを送ってきたというが、オフ中のコンディション管理にも気を遣うようになり、体力的にも精神的にも成熟してきた。いい意味で大人になり、落ち着いてサッカーに取り組めるようになってきたと話す。今年で26歳。GKとしては、これからが本当の勝負と言ってもいいだろう。

「今年試合に出られたのは、腐りそうになったときでも自分を奮い立たせて頑張ってきた結果なのかなって。初出場のときは、試合前の軽食が喉を通らないぐらい緊張しました。初めての経験でしたよ。でも、いざピッチに立ったら不思議と緊張しなかったんです。周りの人たちの応援が大きかったですね。サポーターの声援、あれですごく勇気づけられました。『よし、やれるぞ』って。最初の試合がホームだったのが大きかったです。試合自体は厳しい展開になって負けちゃいましたけど、個人的には慌てることなく最後までやれました」

 GKはピッチに立つまでに時間を要する孤独なポジションだ。そう簡単にはレギュラーの座を奪い取ることはできない。ましてや現時点では、川島永嗣という高い壁が立ちはだかっている。リーグ戦が再開すれば、地道にトレーニングを重ねながら出場機会を待つ日々が続くかもしれない。だが、チャンスはいつ巡ってくるかわからない。「人生山あり谷あり」という教訓を身をもって経験してきた植草ならば、その逆境を明日へのパワーに変えることができるだろう。

「実際に試合に出てみて、まだ伸びる余地があると自分でも感じたし、その後の練習でも自信がついて、もっとやれるんじゃないかという気持ちになりました。いまはエイジがいるけど、エイジが代表で抜けたときに『植草が出ちゃうの』じゃなくて『植草がいるから大丈夫でしょ』と言われるようになりたい。まずはそこからかなと。GKは段階を踏んでいくしかないポジションだし、試合に出たら出たで、信頼や地位を守っていかなきゃならない。日々、頑張るしかないですね。まぁ、ここまで来るのにいろいろあったんで、ちょっとやそっとのことじゃへこたれるわけにはいかないですよ。まだまだこれからです」

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[うえくさ・ゆうき]

基本技術、コーチング、状況判断能力と、ゴールキーパーとしての資質の高さはサテライトリーグで証明済み。地道にトレーニングを積みながら、虎視眈々とトップチームでの出場機会を狙う。 1982年7月2日、千葉県市原市生まれ、186cm/80kg >詳細プロフィール

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