CLUB OFFICIAL 
TOP PARTNERS

ピックアッププレイヤー

 2008/vol.12

ピックアッププレイヤー:DF4/井川祐輔選手

小学生のときは、フィールドプレイヤーだった。
中学生のとき、GKとして生きることを決めた。
プロ選手という夢を叶えた先に、あるものは?
杉山力裕の歩んできた道のりをフューチャーする。

01

フィールドプレイヤー

 1987年5月1日、静岡県静岡市に住む杉山家に3人目の赤ちゃんが誕生した。初めての男の子は力裕と名づけられた。サッカーを始めたのは幼稚園年長のとき。ちょうどJリーグが開幕したその年、サッカーをやりたいという杉山を連れ、母はスポーツ少年団の門を叩いた。まだ幼稚園児だった杉山をチームは受け入れてくれた。

 小学生時代、杉山はめきめきと上達していった。当時のの杉山は、攻撃的なポジションのフィールドプレイヤーだった。ところが、あるキッカケからGKもやることになったのだという。

 杉山は、小学3年生からはひとつ上の学年に混ざって試合に出ることもあった。所属していた麻幾サッカー少年団のひとつ上には狩野健太(横浜F・マリノス)もいた。杉山は狩野たちの年代に混ざって試合に出るときには、GKとして出場することになったのだ。

「本当はGKはやりたくなかったんです。でも、当時のコーチに無理矢理やるように言われて…。いま思えば、『なんでおまえにキーパーをやらせたのかはプロになったら教えてやる』と言われたのですが、キッカケを与えてもらって感謝しています」

 それからも杉山は自分の学年で試合に出るときは、自らの意志もありフィールドプレイヤーとして試合に出ていた。ところが、GKで試合に出ていたことから静岡選抜にGKとして選ばれるようになったのだ。

 麻幾サッカー少年団のひとつ下には薗田淳も所属していた。小学1年の薗田がチームに入ったとき、ひとつ年上のすごく背が高い選手がいた。それが、杉山だった。薗田が振り返る。

「すごく背が高かったから目立っていましたね。リキさんはGKもうまかったけど、FWとしても頭抜けてすごかったんですよ。僕も一個上の学年に混ぜてもらっていたこともあったので、リキさんがFW、僕も攻撃的な選手でふたりで前をやってました。いまでは、ふたりとも同じチームでしかも後ろのポジションなので、不思議ですけど縁があるなぁって思っています」

 薗田が言うように、当時の杉山はFWとしても能力が高く攻めることが好きだったため、最初はGKが退屈でしょうがなかった。試合に出てもハーフウェーラインまで上がっていって、転がってきたボールを思い切り蹴ったらそのままゴールに入ってしまった、なんていうこともあった。

 ところが、静岡選抜にはGKで選ばれていた杉山は、そこで初めてゴールキーパーコーチに教えてもらう機会に恵まれ、少しずつ楽しさがわかってきた。さらに、杉山少年にヒーローが現れた。当時エスパルスにいたシジマールである。シジマールは両手のリーチの長さから「クモ男」と呼ばれ、1993年にはJリーグの連続無失点記録である731分無失点の記録を樹立した“目立った”GKだった。杉山は、床屋に行って、「この人と同じ髪型にしてください」と頼んだり、チームとは色が違うオレンジ色のユニホームを着たりして、シジマールの真似をしていた。徐々に、気持ちが動いていった。

「フィールドも好きだったけど、キーパーも面白くなってきました。それで、中学にあがるときに、どっちかに決めようと。フィールドも楽しいしやりたいけど、キーパーはもっとできることがあるんじゃないかって思いました。もっと知りたいし、興味がある。それで、中学からはGKとしてやっていこうと決めました」

 中学時代、杉山はキューズFCというクラブを選んだ。もともとはフットサルのクラブとして、その1年前に発足したばかりだったのだが、誘われて行ってみたら偶然にも静岡選抜で一緒だった選手たちが8人くらい集まっていた。聞けば、フットサルだけではなく学校のグラウンドも借りられるし公式戦もできるという。

「ここでやったら強くなるかもしれない」
 そう杉山は感じて、中学の部活でサッカーをするという選択肢を外した。キューズFC時代は、静学OBのGK選手が週に何回か指導してくれたことも大きかったという。
「いい監督やコーチにここでも巡りあって、いい経験をさせてもらい楽しく過ごせた3年間でした」

name

静学のキャプテン

 そして、いよいよ高校へと舞台が変わる。選手権に憧れていた杉山は、キーパーコーチがいる地元の強豪・静岡学園高校に進学する。競争は厳しいけど、チャレンジしてみようという気持ちでサッカー部に入った。

 実際、なかなか試合に出るチャンスはもらえなかった。すぐトップチームには昇格できたものの、3年生の正GK、2年のサブGK、そして3番手となる杉山はベンチにすら入れない。

「僕は自分のなかに勝手なイメージがあって、プロに行く選手は高校1年からスーパールーキーとして活躍して選手権にも出ると思っていたから、1年から試合に出られなかったらダメだろうって思っていました」

 転機は2年のときに訪れた。サブGKだった先輩が3年生となり正GKになり、2年の杉山はサブGKにまでは昇格していた。そして、新人戦で思うような結果が出なかったため、途中から杉山にチャンスが巡ってきた。だが、やっと掴んだレギュラーの座に思えたが、そう現実は甘くなかった。新人戦が終わると、井田監督は夏のインターハイまでGKを競わせるという方針を打ち出した。正GKだった3年生、2年の杉山、もうひとり3年生のGKの3人のなかから選ぶというのだ。練習試合などの先発もローテーションでまわってくるなかで、それぞれ自分のパフォーマンスをアピールする日々。結局、インターハイでGKを掴んだのは、“もうひとりの3年生”だった。

「ここで出られていない自分は、プロは厳しいんじゃないか」

 杉山は、急激にモチベーションが下がるのを感じていた。やめようかと思ったことさえあった。そのころ、杉山は母親に「サッカーをやめたい」と漏らした。そのとき、母からはあっさりとこう言われた。
「あんたに任せる」

 杉山は、考えた。ここでサッカーをやめてしまったら、自分に何が残るのだろうか。母は続けるかやめるかの決断をあえて自分に委ねたのだろう。このまま本当にやめてしまったら、自分が負けたことを認めることになる。負けず嫌いだった杉山は、それも悔しかった。

01 小学生のときからプロサッカー選手になりたいという夢を母は黙って認めてくれていた。その母からの「あんたに任せる」という言葉は、もやもやしていた気持ちをふっきるのに十分な力を持っていた。

「とにかく、サッカーをやるしかない」

 実は、杉山は3歳のときに父を亡くしている。かすかな記憶のなかで、いつも父が仕事に行くときに泣いていやがった小さな自分がいる。ところが、その日、いつもと同じ朝がくると、父が蜘蛛膜下出血で突然に亡くなっていた。まだ30代の若さだった。

「とうさんの記憶は、ほんの少しだけ。後からいろいろかあさんから話を聞いて、とうさんは野球とかサッカーとか、スポーツが好きだったらしいです」

 杉山の父が突然に亡くなったとき、8歳の長女、6歳の次女、3歳の杉山という3人の子どもたちが遺された。母は、働きながら3人を育ててくれた。子どもの頃、すぐ上の姉とケンカをすると、長女が小さい自分の味方をしてくれた。そんな幼い頃の思い出を話すとき、杉山の表情がいつにも増して笑顔になる。家族に囲まれ、すくすくと元気に育ち、そんな日々のなか、いつしかサッカーという希望と夢を追い求めるようになったのだ。

 そして──。
 再び3人のGKで選手権予選まで競う日々が始まった。試合当日のミーティングの選手発表のとき、GKとして呼ばれたのは杉山だった。ところが、延長戦の末、静学は静岡北高に2対1で負けてしまう。3年生にとっては、これが最後の試合だった。

「本当に悔しかったし、3年生に申し訳なかった。一緒にやってきたGKの先輩ふたりが試合後に『気にするな』って励ましてくれて、余計に涙が出てきました」

 試合後のロッカールームで、井田監督から新キャプテンが発表された。キャプテンだった狩野健太から、まだ涙がとまらない杉山にキャプテンマークが手渡された。

 静学3年の1年間は、とても充実した1年だったと杉山は振り返る。自分がキャプテンとして何ができるかをとことん考えた杉山は、チームの「和」や「規律」をしっかりとしようと考えた。選手だけでミーティングをしたり、和を乱すチームメイトがいれば、きつく注意した。

「静学のなかでサッカー部は、サッカーだけやっていればいいみたいに思われるのがすごくいやだった。それだと静学を卒業した後に、通用しない人間になってしまう。常識的に行動し、さらにサッカーでもフルパワーを使えたらと思ったんです。だって、普段からだらだらして、いざサッカーで全力でプレーしても、ギリギリの球際でバッといけないと思うんです。普段からきっちりと生活していないと、サッカーで本気で力を使いたいときに出せないという考えが自分のなかにありました。サッカーは人間性が出る。そういうところからしっかりやらないと結果が出ないんじゃないかと思いました」

 そうした杉山のキャプテンシーはいかんなく発揮され、チームメイトたちは杉山についていった。
 高校生活最後の試合は、選手権県予選準決勝、薗田淳がいる橘との一戦だった。0対1で敗れたが、杉山は1年前のように悔しさは残ったが後悔は残らない爽やかな気持ちだった。

ピッチに立つことが恩返し

 高3の夏、井田監督から「フロンターレのキャンプに参加してみないか」と言われた。チーム恒例の函館キャンプに高校生の杉山が参加することになったのだ。初日から緊張でガチガチの状態だったが、同じGKの相澤(現セレッソ)が声をかけてくれ、チームメイトたちも優しく受け入れてくれた。レベルが違うし、スピードも断然速く、判断力も違う。驚きもあったが、プロに行くために自分の力をアピールしなければということは忘れなかった。

「普段出せない力を出そうと思っても出せない。もっているものを全部出し切ろうと思っていました」

 静学に戻って数日が経つと、もうすでに仮契約の話がもちあがっていた。一番最初に自分に興味をもってくれ、実際に参加していい雰囲気を感じ取った杉山は、自然な流れでフロンターレの一員になった。

 2006年、プロ1年目は試練の年だった。2度の手首のケガに見舞われた。3ヵ月のリハビリを経て、U-19日本代表に追加招集された。だが、その後チームに戻った直後に2度目のケガをしてしまう。焦りの気持ちでリハビリに取り組む杉山を救ってくれたのは当時のチームメイトである米山篤志(現名古屋グランパス)だった。

01「ヨネさんに『まだおまえは1年目。プロはそんなに甘い世界じゃないし、いまは慌てる時期じゃない。常に上をめざしてやるのはもちろんだけど、これからいくらでもチャンスは来るからしっかりケガを治して体を作ればいい』と言ってもらいました。これまでいろんな経験を積み重ねてきているヨネさんにそう言われて、すごく気持ちが楽になりました」

 そして、プロ入り3年目となる2008年はサテライトで試合の経験も積むことができた。いま、杉山はGKとして新たな局面にきていると言えるだろう。

「やっぱり練習と試合は違う。状況判断も変わってきます。例えば、試合では何十本もシュートが来るわけではないし、足元でやることも多くなる。エイジさんはキックがすごくうまいので、自分ももっと課題として取り組んでいきたいですね。日本トップレベルの選手が目の前にいるので、いいところは盗みたいし、あとは自分の持ち味やいいところを出して試合に出たい」

 杉山は高校時代にキャプテンシーを発揮し、それが自分の長所だと感じていた。ところが、プロ選手になって悩んだのは、年齢を気にして自分を押し殺してしまうことだった。周囲を気にするそんな自分もいやだった。そんなとき、身近な存在として川島がピッチで強烈に存在感を表していることに刺激を受けた。自分のよさを出すことができなければ、意味がない。だから、いまはあえてこう宣言する。

「芯の部分での気持ちは負けていないと思う。コーチングでも負けたくない」

 これから先、まずは試合に出るチャンスを掴み、その先に杉山が見ているGK像がある。 「安心感があり安定感があるGKになっていきたいです。GKはポジションがひとつしかないのでなかなかレギュラーが変わらない。でも、チャンスを待つというよりも自分からチャンスを奪えるようにしていきたい」

 小学生のときになりたいと心に誓ったプロ選手になることができた。杉山にとって、いまはまだスタートラインからほんの少し歩を進めたところだ。そんな風に考えるとき、ここに至るまでにお世話になった人たちや育ててくれた家族の顔が次々に浮かんでくる。

「僕を認めてくれた人がいたからプロになれた。続けたくても続けられない人もいるなかで、育ててくれた監督やコーチ、サッカーを続けさせてくれた親がいたからいまがある。そういうことを忘れたくないですね」

 いま、ふたりの姉と母は静岡の実家で暮らしている。等々力に足を運んでフロンターレの試合を観にきてくれることもあるという。

「恩返しはしていかなきゃいけないと、ずっと考えているので、親孝行じゃないですけど、はやく試合に出ている姿をみせたいなと思います」

profile
[すぎやま・りきひろ]

U-19日本代表にも選出された将来有望なGK。2007シーズンはサテライトリーグでアグレッシブなプレーを披露。このまま順調に成長し、レギュラー争いに加わりたい。
>詳細プロフィール

PAGE TOP

サイトマップ