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ピックアッププレイヤー

2009/vol.18

〜MF22/木村祐志選手〜

ピックアッププレイヤー:木村祐志

トップチームに昇格して4年。ジュニアユース時代から数えると、川崎フロンターレの
ユニフォームに袖を通してから10年の月日がたつ。2009年は公式戦に絡む機会も増え、
天皇杯ではスタメン出場を果たしてプロ入り初ゴールを記録。
木村祐志は成長の階段を一歩一歩、上り続けている。

1「焦りというのはなかったですけど、もう4年目だし、今年は試合に絡まなくちゃいけないし、チームに貢献したいと思っていました」

 天皇杯3回戦、カターレ富山とのゲーム。1-1で前半を折り返し、後半膠着状態が続くなか、木村は雨空にきれいな弧を描く弾道のループシュートを決めてみせた。トップチーム初スタメンとなった天皇杯2回戦、レノファ山口とのゲームでも、コーナーキックから鄭大世のハットトリックをお膳立て。主力メンバーが欠けて巡ってきたチャンスをものにした。いずれも木村の持ち味であるテクニックとキックの精確さをピッチで表現することができたゲームだった。またレノファ山口戦は木村と同い年の杉山力裕、久木野聡、そして年齢は4つ上だが同期入団である鄭大世の4人がトップチームではじめて一緒のピッチに立ったゲームでもあった。

「チームに入って練習からずっと一緒だったメンバーとみんなでピッチに立って勝つことができたのは、やっぱりうれしかったです。だから今度はそれをJリーグでもできるようにしたいです」

 J1定着を目標にトップチームの強化に重点を置いてきたフロンターレだが、次のステップに進むためにクラブは中長期的に下部組織を充実させる取り組みも行っている。だが、残念ながらここまでユース出身の選手がトップチームで主力メンバーとして定着した例はない。完成された選手を他チームから獲得して揃えるのが、チーム強化の早道かもしれない。だが、それだけではクラブの基盤や伝統を築いていくことはできない。育成年代からの地道な取り組みが、広い意味でのクラブの発展につながってゆく。昨年は同じ下部組織出身で苦楽をともにしてきた鈴木達矢がチームを離れることになった。「そのぶんまでってわけじゃないですけど、自分が頑張って結果を出していかなきゃいけないし、いまのユースの子たちに『トップチームでもやれるんだよ』っていうところを見せたい」と木村は話す。

「小学校から楽しくサッカーをやっていたので祐志が夢をかなえてプロになれたのはうれしかったですけど、実力的にはまだまだ足りないと思っていました。この実力で本当のプロの世界でやっていけるのかしらって。親としてはうれしい反面、草サッカーのヒーローのままでもいいんじゃないっていう気持ちもあったんです。ただその当時の高校選手権を観戦していて、同年代でプロでも通用しそうな選手はいましたけど、わくわくするようなプレーを見せてくれるという部分ならば祐志に可能性があるかもしれない。いまは下手だけど、もしかしたらっていう期待もありました」

 母親の直美さんは、息子がトップチームに昇格したときの心情をこう語る。幼少時代、買い物についてくるときもサッカーボールを蹴っていたわが子を、いままでずっと見続けてきた。木村は体を動かすのが大好きで、ボールでコミュニケーションをとるような典型的なサッカー少年だったそうだ。木村がフロンターレに入るきっかけとなったジュニアユースのセレクションの思い出も話してくれた。

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1 「小学校6年生の夏にブラジルにサッカー留学をしていたんですけど、鎖骨を骨折しちゃって9月のセレクションに間に合うのかなと心配していたんです。でもどうにか間に合って、フロンターレの最終選考まで残ったんですね。それでそのセレクションのときだけは体が大きく見えるようないいプレーをしたんです。だから帰りに武蔵小杉駅近くのラーメン屋で食事をしながら『今日は本当にいいプレーだったから認めてあげる。これで受からなかったらもう仕方ないわ』って祐志に話しました。そうして家に帰ってきたら、主人から『合格の電話がかかってきたぞ』って聞いて、良かったねって。祐志も喜んでいました」

 木村が下部組織に入団した10年前は川崎フロンターレの知名度は低く、当の本人ですらフロンターレのことをよく知らなかった。トップチームの試合の日に等々力陸上競技場に足を運んでも客はまばらで、「今日はどこに座ろうか、なんて友達と話していました」と木村は当時の様子を振り返る。だが、いまではフロンターレはJ1に定着するだけではなく、上位に顔を出すだけの力を持ったクラブとなり、観客席はフロンターレカラー一色に染まるようになった。「フロンターレでプロになりたい」と下部組織の門を叩く子供たちも年々増加している。

「フロンターレがJ2にいた頃、祐志は『僕がプロになってJ1に入れてやる』なんて生意気なことをいってました。でも、その前にチームがすごい勢いで成長したので全然追いつけていないですね(笑)。主人とも等々力に試合を観に行くたびに『本当に信じられないね』って話しています。ただ、憲剛さんとか大世さんとか周りの人たちがすごすぎて、祐志はこの先どうなるんだろうっていう思いもあります。ただ、好きなことをやりながらここまでこられたのは幸せなことだし、とにかくたくさん練習してレベルを上げてもらって、あとは祈るような気持ちで祐志のことを見ています」

 プロ1年目、2年目とチャンスが回ってこなかった木村だが、強力なチームメイトのなかでもまれ、練習に練習をを重ねて3年目の終わり頃から手応えをつかんでいった。その流れで2009年を迎えることができたのが現在につながっている。

「日頃からいいメンバーと練習や紅白戦で当たるので、他のチームとの試合でも相手が特別すごいという感じを受けないんですよね。だから実戦でもポジティブに考えながらプレーできていると思います」

 木村の武器が生かされるのはパスワークでのコンビネーション、そしてセットプレーだ。だが、自分の特徴を実戦の場で発揮するためには、そのシチュエーションに到達するために何をすればいいのかという判断が重要になってくる。中学1年生と中学3年生の頃にコーチを担当していた川口良輔(現スカウト)は、木村をこう評している。

「祐志は技術に関しては昔から高いものを持っていました。ペナルティーエリア前でのフリーキックなら7、8割は決めていたんじゃないでしょうか。キックにこだわりを持っていて、当時から自分の武器を磨いていたと思います。足はあまり速い方ではないんですが、そのウィークポイントを自分でわかっていて、パスや技術、ゲームメイクでカバーしていました。プロの世界では自分のストロングポイントがどれだけ通用するかが重要です。ケンゴやタニはプレー中に弱点をほとんど見せず、逆に自分の特徴を出せる時間帯がすごく長いですよね。祐志もそういった感覚が少しずつわかってきて、実戦でも自分の特徴を出せるようになってきていると思います」

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 チームのレベルが年々上がっているなかで生き残っていくためには、今日より明日、明日より明後日とつねにレベルアップを目指していかなければならない。さらに監督の要求を理解し、そのなかで自分を表現できるかどうか。フロンターレの若い選手たちはよく練習をする。その積み重ねが結果として表れるようになってきた。事実、今シーズンは※所属29選手中28名が公式戦でメンバー入りし、フィールドプレーヤー1名とゴールキーパー2名以外の26名がいずれかの大会で出場を果たした。また、代表メンバーが抜けていたナビスコカップ2試合と天皇杯3試合の成績は4勝1分けと無敗。木村自身も主力メンバーとの差が縮まってきているのを感じている。※特別指定選手の楠神順平を含む

「紅白戦をやっても主力組と互角にやれるときが多くなってきましたし、チーム全体としてもレベルアップしたと思います。若手同士でも『今年はもっと試合に絡もうぜ』と話していました。代表がいないから負けたと言われるのだけは悔しかったから、ケンゴさんやエイジさんがいない試合で負けなかったのはみんな自信になったんじゃないでしょうか」

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 天皇杯の2戦、直美さんはご主人と一緒に等々力の観客席からピッチを走る木村の姿を目で追っていた。積極的にプレーする息子の姿を見て、「少しはチームの役に立てるようになってきたのかな」と感じているそうだ。木村はここ一番という試合でしか両親を呼ぶことはない。直美さんも木村がジュニアユースに入ってからは、息子をほめることはめったにないという。それは親と子にしかわからない絶妙の距離感なのだろう。

「プロの厳しい世界ですから、そう簡単にはうまくいかないことは本人も自覚していると思います。祐志には小学校時代にサッカーで十分楽しませてもらいましたし、親孝行といいますか、私自身は満足させてもらったんです。祐志が子供の頃、周りの友達に『祐志君とサッカーをすると楽しい』と言ってもらえましたし、大人と一緒にプレーして、大人用のピッチでコーナーキックを直接ゴールに決めたりしていました。だから、あとは自分の責任でしっかり練習をして楽しんでプレーして、周りの人たちも楽しませるようなプレーをしてほしいです。何といっても私と主人は祐志の一番のサポーターですから」

08 クラブを取り巻く環境は、この10年で大きく変わった。でも、木村自身のなかではフロンターレに対する感覚は変わっていない。今野章(現アシスタントコーチ)がいて、寺田周平がいて、伊藤宏樹がいて、フロンターレのチームカラーを継ぐ者たちがいる。だが唯一、木村のなかで変わったことは、「勝たなければ何も残らない」というチームの一員としての自覚だった。

「今年もあと少しのところでタイトルを獲れなかったし、やっぱり優勝するのとしないのでは大きな差があるのを感じます。リーグ戦もそうだし、ナビスコ杯もそう。だから今度こそは優勝したい。あと来年もACLがあるので、まずはベスト8以上にいきたいです。勝てばさらに上が見えてくるので」

 天皇杯準決勝、ベガルタ仙台戦。延長戦にまでもつれこんだゲームは延長後半に仙台に勝ち越され、あとがない状況となった。ここでフロンターレがペナルティーエリア前の絶好の位置でフリーキックを得る。キッカーを任されたのは木村だった。壁の位置での両チームの押し問答が続き、時計はロスタイムへ。しばらくの間合いをおいて蹴られたボールは、惜しくも壁に当たりはじき返された。チームも木村自身も、またひとつ悔しさという経験を学んだ。

 木村は来年23歳になる。大卒1年目と同じ年齢だ。つまり、これからは即戦力の選手と比較されるようになる。中央大学から入団し当時は全国的には無名だった中村憲剛は、いまや日本代表に登り詰めた。木村にもまだまだ伸びる余地は残されている。勝敗を左右するような大事な局面で、その右足から繰り出されたキックが壁を越えてゴールネットに吸い込まれたとき、ひと皮むけた木村祐志の姿を見ることができるだろう。

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[きむら・ゆうじ]

フロンターレユースからトップチーム昇格を果たした攻撃的MF。チーム内でもトップクラスといわれるボールテクニックとプレースキックの精度を持つ。177cm/70kg、1987年10月5日東京都港区生まれ。 > 詳細プロフィール

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