モバイルフロンターレ

ピックアッププレイヤー

2010/vol.02

ピックアッププレイヤー:MF16/楠神順平選手

滋賀県愛知郡に小さな公園がある。
田んぼに囲まれ、ペナルティーエリアほどの広さしかない。ジャングルジムのような大きな遊具はなく、
ブランコ、シーソー、鉄棒が隅の方に佇んでいる。公園の名前を記したものは、どこにも見当たらない。
夕暮れ間近に訪れた。遊ぶ者は誰もいなかった。
まるで、主(あるじ)を失ったかのように寂しげな表情を浮かべていた。

01 今から17年前、5歳の楠神順平は、実家から農道を70メートルほど行った、その公園に通い始めた。地元の愛知川ジュニアフットボールクラブ(愛知川JFC)は、小学3年生にならないと入団できないため、毎日、暗くなるまで、そこでボールと遊んだ。愛知川JFCに入団してからも、練習がない日は必ず訪れた。小学6年生の時、リフティング1万回を達成したのも、そこだった。「原点かもしれないですね」。全国高校サッカー選手権で優勝し、サッカーファンを魅了したドリブルの基礎は、その実家近くの公園で培われた。

 公園に壁がなかったことが、幸運だった。「それが大きかったかもしれません。フェンスしかなかったし、たまに友達ともやっていたけど、ほとんど1人でやっていたので、ボールを蹴っても、取りに行くのが面倒くさかったんですよね。だから、ドリブル、フェイントの練習しかやってなかったと思う。飽き性なんですけど、なぜか、飽きなかった。その時が1番サッカーやっていました」。両親に買ってもらったサッカーボールと共に、小さな土のグラウンドを行ったり来たりした。時間を忘れるほど楽しかった。母の七得さんは「愛知川JFCに入るまでの方が、よくやっていましたね。早く帰っておいで、と呼びに行った記憶があります。少々の雨でも行っていましたし、雨が降り出してもやめなかった」と振り返る。

 サッカーと出会ったのは、Jリーグ元年の1993年、5歳の春だった。鹿島アントラーズのプレシーズンマッチが自宅のテレビで流れていた。父の幹雄さんは、今でも、当時を覚えている。「試合が終わるなり、外に出て、ゴムボールでサッカーを一緒にやりました。順平がサッカーを知った最初ですね。ジーコがすごいプレーしていて、アルシンドが活躍していましたね」。七得さんが続ける。「幼稚園の桃子先生がサッカー好きで、休み時間になると、園庭に出て、サッカーしようと声をかけてもらっていたみたいです。家では、ゲームもしたけど、サッカー以外のことに執着したことはなかったです。ゲームソフトを買って欲しいとか言われたことはありませんでした」。高校まで野球部に所属していた幹雄さんは、息子とキャッチボールをしたかったが、強制はしなかった。スキー、スノーボード、水泳…と、様々なスポーツをやらせたが、自分から好きになったサッカーに勝るものはなかった。上手くなりたい。その一心だった。Jリーグをテレビで見ては、公園に行く。「カズさんが格好良かった。ボールを蹴り始めたのは、それがきっかけだと思う。マネとかしていました」。七得さんによると、カズダンスもよく踊っていたそうだ。

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01 愛知川JFCに入団した楠神は、次元の違うプレーをしていた。「小学5年生の時、6年生が引退されて、順平たちの学年が主力になった時だったと思います。キックオフしてすぐ、リフティングとドリブルだけで、誰にもパスを出さないで、ゴールしたことがあったんです。最初は、ゴールした事が嬉しかったんですけど、何回かそういうプレーが続くと、このままではダメだと思うようになりました。自分だけでサッカーしているような気になって、チームプレーが出来ない子供になると。だから、レベルアップさせる方法をとったんです。今までとは違った事にも気づくだろうと」。母は、父と相談した。幹雄さんは「現実問題、愛知川とか小さな町のチームでは難しいと思いました。僕がチームを変えるように持って行きました」と明かす。両親の思いを知ってか、知らずか。楠神自身は「自分が1番上の学年になったら、伸びないと思った。僕はついて行くタイプだったんです。自分たちの学年はあまり強くなかったから、乗り越える人がいなくなった」と愛知郡を飛び出すことを決意したという。小学生5年の秋だった。

 楠神は、結局、野洲ジュニアフットボールクラブ(野洲JFC)に移籍した。その直前には、当時、滋賀県内で「10年に1人の逸材」と言われていた平原研(全国高校選手権優勝メンバーの同級生)、乾貴士(同じく、1学年後輩)が所属していたセゾンFCの練習に参加している。「その時、岩谷(篤人)監督がめちゃめちゃ怖かったんです。ここは無理や、と思いました」。一度はあきらめたセゾンFCへの道だが、小学6年生時、滋賀県選抜で平原と出会ったことが、運命を変えた。

 「平原の名前は知っていました。野洲高の10番を背負うヤツです。初めて、すごいと思った。こんな上手いヤツが世の中にはいるんだと。小学校6年生の5月に練習会があって、今まで見たことがない感じでした。自分もドリブルとかフェイントとかやって、相手を抜いたりしていたけど、平原は考えもつかないプレーをどんどんやっていた。今までの小学生は、スピードで抜いていくヤツばかりだったけど、平原は違った。全然、速くないのに、スルスル抜いていた。歩きながら抜いていく感じなんです。正直、平原みたいになれるなら、怖くても我慢しようと思ったんです」。

 中学1年、平原に導かれて門をくぐったセゾンFCで、才能は大きく花開くことになる。「中学3年間が1番伸びたと思う」。中学1年生から6年間、楠神を指導した岩谷監督は目を細める。「小学校5年の時に来たのは、あまり、覚えてないねん。オレを怖いと思ったのか、練習について行けないと思ったのか。たぶん、ついて行けないと思ったんやろうね。でも、小学校6年の1年間で、一生懸命練習したみたいや。セゾンに来てからも、上手くなりたいという意識の高さはずば抜けていた」。当然、小学校からセゾンFCでプレーしていた選手とはスタートラインが違う。「みんな、めっちゃ上手くて、必死にやりました」。楠神は、追いつけ、追い越せと、練習の虫になった。七得さんが「熱があって、風邪をひいていても、学校には行かないのにセゾンには行くんです。『しんどいんやったら、休めば?』と聞いたら、『僕が休んでいる間にほかの人が上手くなる。それはいや』と言うんです」と、あきれるくらいだった。天才的なドリブルは、努力の賜物だった。

 岩谷監督は懐かしそうに話す。
 練習後だった。「照明を落として、グラウンドの鍵を閉めて、帰ろうとしたんです。いつもとは違う方向に車を走らせたら、真っ暗の中、草むらに人が倒れていた。車を降りて、よく見ると、楠神がへたり込んでいた。『しんどくて、駅まで歩けない』って。こんな子は初めてでした。すべての練習を全力でやっていた」。

 サイドラインからサイドラインまで約68メートル。1往復を12回、テーマを与え、フェイントを交えたドリブルをさせる練習だった。「1回、行って、戻ってきたら、楠神は地面にしゃがみ込むみよるんです。しんどかったんやろうね。ほかの子は、戻ってきても涼しい顔していた。平原とかは上手いから、軽く、しゃしゃしゃしゃとやってくる。でも、楠神という子は、一生懸命、スピードも出しながら、ボールをまたいだり、こねたりしてね。はーはー、息を切らせていた。そして、順番来たら、また立ち上がって、必死にドリブルを始めた。こういう点で、彼と乾は優れていた」。現在も、同様の練習をさせているが、楠神のような選手はいないという。「今の選手に、この話をするんです。しゃがみ込む子もいるけど、演技っぽいんやね」。

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09 楠神はセゾンFCで、技術だけでなく、心構えも鍛えられた。岩谷監督の教えを忘れたことはない。「セゾンに入って最初の半年は、敵を『絶対、びびるな。びびったら終わりやからな』と徹底的に言われた。背後から敵が来て、慌てて、トラップミスとかしたら、怒られた。でも、積極的にプレーして、ミスしても怒られなかった。今でも頭に残っています」。09年、特別指定選手として、フロンターレの練習に参加した時も、8月23日のJ1第23節・山形戦で公式戦デビューした時も、臆することなくプレーした。「体に染みついているから、びびるとかは思わなかった」。岩谷監督は楠神に伝えたことを補足する。「サッカーは上手いか、下手かは、敵が来たら分かるんやから、敵が来てないのにパスが出来たり、シュートが出来たり、ドリブルが出来ても、上手いとは言えないんや。それが普通なんやでと言いましたね。敵が来て、びびるなら、バレーボールとかテニスとかネットの向こうに敵がいるスポーツをやりなさいと。敵が来たら、嬉しいと思わなあかん、とね。その辺を彼は分かっていて、そう思えるように頑張って練習していた」。

 セゾンFCでは、シュート練習はほとんどやらない。勝敗より個性が大事にされ、瞬発力、状況判断、テクニックの一体化が主なテーマ。岩谷監督は楠神にアドバイスをした。「サッカーは走らなあかん。歩いている時は、前に出した右足が地面についてから左足が上がる。走るのは、右足が地面につく前に左足が上がっている。だから、ドリブルは、ボールをまたいだり、転がしたりした右足が地面につくまでに、左足を動かせと。ボディーバランスが良くないと、走れないし、ドリブルも出来ない。次に足を出す速さが、ドリブルの速さ。彼のステップは、1番速かった」。七得さんが100メートル走の選手だったこともあり、足は速い。今年の宮崎・綾町キャンプで測定した芝生での30メートル走は3秒96で、黒津勝に次ぐ、チーム2位だった。スピードよりテクニックと考え、セゾンFC入りしたが、その2つの融合に取り組むことになった。「元々、スピードはあった方だったし、『両足を同時に動かせ』と言われていたので、それは意識していました。ドリブル練習か、ゲーム形式の練習ばかりで、岩谷監督も一緒にプレーするから、それを見て盗む感じだった。またぎフェイントとかは苦手だったけど、相手の重心を見て、逆を取っていた」。

 02年11月9日、人生の転機となる試合だった。中学3年、最後の大会となる第14回高円宮杯全日本ユース(U-15)選手権関西地区予選の1回戦を、奈良・橿原公苑陸上競技場で戦った。相手は京都パープルサンガU-15。2―0とリードして終盤を迎えたが、そこからセットプレーで1点を返され、ロスタイムにもセットプレーから同点とされた。内容的には圧倒していたが、結局、PK戦で敗れた。「めちゃめちゃ悔しかった。ロスタイムもなかなか終わらず、同点にされた。セゾンのみんなは、結構、冷めているから、それまで泣くこともなかったんですけど、その試合の後は、みんな、めちゃめちゃ泣いた」。奈良県から打ち上げ会場となった琵琶湖畔のスーパー銭湯に移動し、みんなで風呂に入った。「セゾンの岩谷監督が野洲高のコーチになるんじゃないかと聞いていたし、こうなったら、みんなで野洲高に行って、全国優勝して借りを返そうと話し合った」。00年度の第79回全国高校サッカー選手権大会で準優勝した草津東高校か、名門の静岡学園か。楠神は進路を迷っていたが、その夜に即決した。同級生18人中15人が野洲高校へ進学した。屈辱の敗戦が無ければ、野洲高校に黄金世代が集まることはなく、全国制覇もなかっただろう。

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 MF楠神順平(3年)「野洲に入って良かったです。これでサッカーが面白いということが、証明できたと思います」。

 06年1月10日付の報知新聞に、上記のコメントがプレー写真付きで掲載されている。第84回全国高校サッカー選手権大会決勝戦で、鹿児島実業高校を延長戦の末、2―1で破り、滋賀県勢初の全国優勝を果たした直後だった。「高校サッカーは蹴り合いというイメージがあった。蹴って、走っても大事ですけど、もっと、つないで、見ていて面白いサッカーで優勝したかった。セゾンから、ずっと、そうやってきたから。山本(佳司)先生(当時の野洲高校監督)も同じ意見だった」。自身が選んだ道が間違っていなかったことを証明した。高校サッカー界に新風を吹き込んだ野洲高校のスタイルはマスコミから「セクシーフットボール」と形容された。

 同志社大学へ入学後も、この言葉がつきまとった。「全然、セクシーとか思ってないのに、その表現だけが先行していた。大学入ってからも、言われ続けて、ヒールキックするのが恥ずかしくなった時もあります。ヒールが最良の選択と思ってパスしたのに、セクシーとか言われた。調子に乗っていると思われているのかな、と考えたりしました。でも、注目されて良かった」。

 向島建スカウトは国立競技場のスタンドから、背番号「7」に熱視線を送っていた。野洲高校の選手権を見るのは3試合目。当時、2年生の乾が騒がれていたが、楠神のファンタジーに目を奪われた。「ボールを受けた時、ドリブルの態勢に入るのが早かった。ドリブルで勝負でき、1人で局面を切り開ける。チャンスも作れる。テクニックがあり、アイデアもある。日本人にいないタイプ。同志社大学に進学すると聞いたので、4年後が楽しみでした。追いかけようと思った」。関西学生リーグの試合に何度も足を運び、結論は変わらなかった。「どうしても欲しい」。庄子春男強化部長に相談し、08年2月29日、宮崎・生目の杜陸上競技場で行われたデンソーカップの関西選抜Bvs東海・北陸選抜を一緒に視察した。楠神は当時、大学2年生だった。庄子強化部長は「高校時代は知らなかったし、初めてプレーを見た。第1印象は、常にゴールを意識しているプレーをするなと思った。ドリブルでもパスでも、まずゴールを目指していた。チームを構成していく場合、楠神のようなタイプの選手が必要だと思った」と話す。一目惚れだった。同年4月6日、関西学生リーグ開幕節の京都産業大学戦後、長居陸上競技場で、向島スカウトは楠神に初めて意思を伝えた。楠神は「『今日で確信した。関東に来ないか』と言ってもらった。そんな言葉、言われた事なかったし、うれしかった」と記憶している。

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08 「大学3年の夏、フロンターレの練習に参加させてもらって、みんな、すごい上手かった。小さい頃は、テクニックがあって、変なプレーをする選手が上手いと思っていたけど、今は上手いと思うポイントが違う。1つ1つのトラップであったり、パスであったり、そのすごさが分かってきた。状況判断の早さが全然違っていた」。同志社大学へ戻り、動き出し、パスなどプレーの早さを意識した。大学4年生の09年、宮崎・綾町キャンプに参加し、3月には特別指定選手となった。再び、フロンターレの練習に参加。高畠勉監督は「大学のレベルとは違う部分があるし、最初はギャップがあるけど、彼は適応力が高い。オフェンス面では、スピードを生かしたドリブル突破など、緩急の付け方は天才肌的なものがある。課題は、いかに気の利いたポジショニングをするかなど守備面。ベースとなる部分をしっかりさせることで、ストロングポイントはさらに際立つと思う」と成長を感じている。プロ1年目の今季、途中出場の時間は少しずつ増えている。

今でも、17年前と変わらない。楠神は、よく居残り練習に励んでいる。1人でドリブルしている時もあれば、谷口博之にクロスを上げている時もある。「どっちからともなく、やろうっていう感じだね。アイツも練習好きなんだよね」(谷口)。この2人は、チームで1、2を争う練習量を誇るだろう。高畠勉監督も「サッカー小僧やから、納得がいかなかったら、とことんやる。向上心の塊。左足のキックの精度に難があるけど、それも練習している」と感心している。「ボールタッチ、シュート、キック、1つ1つのプレーの精度を高めたい。サッカーするのは好きだし、もともと、居残り練習はずっとやっていたから」。滋賀県の小さな公園から麻生グラウンドへ。場所は変わったが、楠神順平は「全力少年」であり続けている。

profile
[くすかみ・じゅんぺい]

トリッキーなドリブルテクニックとスピードに乗ったコンビネーションでディフェンスラインを打ち破る攻撃的MF。2009シーズンのJFA・Jリーグ特別指定選手時代にトップチーム出場を経験。入団1年目から切り札としての期待がかかる。1987年8月27日/滋賀県愛知郡生まれ。
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