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ピックアッププレイヤー

2010/vol.03

ピックアッププレイヤー:DF3/佐原秀樹選手

フロンターレの生え抜きの生え抜き」と佐原は自分を評する。
1997年、川崎フロンターレ発足後、最初の高卒選手として加入。 転機は、2年前に訪れた。
慣れ親しんだチームから、外に出るべきか──。 12年目の決断の時。
そして、2年間のFC東京での期限付き移籍を終え、久々に彼は川崎フロンターレに戻ってきた。
遣り残したことを、成し遂げるために──。

苦渋の決断

1 時は、2年前に遡る。2007年、シーズン終了を前に佐原秀樹へのオファーがフロンターレに届いていた。当時を振り返って、佐原は言う。
「本当に、本当に悩んだ」

 佐原が川崎フロンターレに加入したのは、1997年のこと。桐光学園高校を卒業し、新卒ルーキー第一号として発足したばかりのフロンターレに加入。当時、提携を結んでいたブラジル・グレミオに加入後すぐに1年間留学した。言葉も通じず、日本人だからサッカーは下手だろうと思われる悔しさがバネになり、留学を終える前には公式戦にも出場を果たした。当時から数えて12年の歳月を川崎で過ごしてきた。その佐原に届いた移籍の話。思ってもいない展開に、日々悩み、答えはなかなかでなかった。

 チームからは「残ってもいいし、一度外を見てきてもいいんじゃないか」とも言われ、決断は佐原に委ねられていた。もう、返事の期限が明日に迫った前夜、佐原は、電話をかけた。もうすでに8割方、心は決まっていたが、最後の後押しが欲しかった。約1時間程話した後、かけた電話の相手は、こう言った。

「大変かもしれないけど、声をかけてくれるチームがあるんだったら行っておいでよ」
 佐原は、こう答えた。
「そうですね。はい、行ってきます」

 佐原が電話をかけた相手は、高畠勉だった。

 18歳で加入して以来ずっと高畠コーチ(当時)には、相談に乗ってもらうことが多かった。30歳という節目の年に、いち選手としてこの決断をどうするべきか。友達、両親、いろんな人に相談したが、最後の最後に相談した相手が高畠だった。そして、佐原はFC東京への期限付き移籍を受け入れることを翌日、クラブスタッフに告げた。

「フロンターレで居心地のいい12年間を過ごしてきて、こういうオファーをもらって、そういうタイミングなのかなと思った」

 佐原にとって川崎を離れることは、勇気のいる決断だった。
 佐原の背番号「3」は、そのまま誰が着ることもなくフロンターレに残された。

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06プライド

 2008年、FC東京の佐原秀樹としての新生活がスタートした。

 ところが、最初は本人が予想していた以上に辛い始まりとなった。12年間慣れ親しんだチームからポンと新しい環境に飛び込んだのが30歳になる年。高校に進学した時も、サッカー部の仲間は同じくマリノスジュニアユースから桐光学園に進学した中村俊輔はじめ、選抜チームでも顔を合わせていたメンバーばかり。文字通り、FC東京に移籍直後の佐原は「転校生のような気分」を味わうことになった。

「合流してすぐにグアムキャンプだったんだけど、その移動の空港で1時間30分ぐらい空き時間ができた。そしたらみんなサーっていなくなっちゃって、俺ひとり?っていう。そしたら同じくレンタルで来ていたGKの萩もひとりで、じゃ、一緒にいようかってことで友達になった。後から聞いたら、浅利さんが俺を誘ってくれようとしていたらしいんだけどね」

 最初の一ヵ月は、「転校生状態」にストレスを感じていたが、やがて練習試合が始まり、開幕する頃には、サッカーでのコミュニケーションが生まれ、自然と新しいチームに溶け込むことができていた。

「どんな仕事だって最初は、そういうコミュニケーションから始まるのは同じでしょ。でも、もう一回やるのは、もう無理かな。やっぱり最初はかなりのエネルギーを使ったからね」

 開幕直前に肉離れになってしまった佐原のFC東京でのデビュー戦は、第3節対横浜F・マリノス戦。

 試合前、ロッカールームで準備をしてしていると、城福監督が佐原に声をかけた。「お前に必要なのは、これだけだから」

 ホワイトボードに目をやると、こう書かれていた。
「冷静にファイト」
 佐原は当時を振り返って、笑顔をみせた。

「<冷静にファイト>っていうのは、ずっとその後にも忘れなかった言葉だった」
 地元横浜での試合ということもあり家族にも来てもらったデビュー戦は、0対3で敗れてしまったが、佐原自身のパフォーマンスは及第点を与えられた。そして、そこからはスタメンの座を掴んだ。

 佐原が長いプロサッカー選手の人生の中で、思い出深いという試合のひとつに1999年J2時代の西が丘で行われたFC東京戦がある。延長までもつれスコアレスドローに終わったこの試合、文字通り死闘を繰り広げ両クラブの選手たちは足がつるまで走り続けた。

 2008年、2009年と佐原がFC東京の一員として、フロンターレと対戦することになろうとは、誰も予想できなかっただろう。

 2008年9月20日。等々力競技場で行われた川崎フロンターレ対FC東京の一戦。初めてアウェイとなる等々力競技場。初めてのアウェイのロッカールーム。不思議な気持ちで、でも特別な気持ちで迎えた一戦。選手紹介の時、フロンターレサポーターが暖かい拍手を送ってくれたこともうれしかった。ロッカールームで集中を高めていると、ポンと肩を叩かれた。監督から渡されたものはキャプテンマークだった。

 この試合、FC東京はひとり退場者を出しながら、1対0でフロンターレを破った。キャプテンマークを巻いた佐原は、試合後、FC東京サポーターの歓声の中心にいた。

「外から見たフロンターレは、やっぱり攻撃の破壊力はダントツ。もちろん自分がいた時からそう思っていたけど、東京の選手たちからもそう言われると、やっぱりそうなのかって。もちろんディフェンスにもいい選手がいるし、得点がとれるのは後ろがしっかりしているから。新たな発見というより、それを再確認できた」

 そして、1年の後──。
 2009年11月3日。

 ヤマザキナビスコカップ決勝。奇しくも決勝戦のカードは川崎フロンターレとFC東京との一戦に決まった。佐原の心境は少し複雑なものだった。

「決勝戦、しかも一発勝負のカップ戦で優勝トロフィーを賭けて戦うのがフロンターレになるのはイヤだなと正直思っていた。その2年前、ナビスコ決勝で負けて悔しい思いをしているのを知っているし。リーグ戦で戦うのはいいけれど、決勝で当たるのは複雑だった」

 試合の行方は、FC東京のプランどおりの試合運びで進み、フロンターレは自分たちらしさを出し切れないままにタイムアップを迎えた。
 佐原は、FC東京でプロ入り初タイトルを獲得した。

 12月11日、FC東京での期限付き移籍期間満了に伴い、2010年川崎フロンターレに佐原が復帰することが発表された。その翌日は、FC東京のファンの集いが行われ、約1万人が味の素スタジアムに訪れた。ファンや選手、監督が入り混じっての紅白戦が行われ、佐原はFC東京の選手として最後となる瞬間を心から楽しんだ。そして、その会の最後、引退する浅利や長年在籍し、移籍が決まっていた藤山らとともに佐原もマイクをもつことになった。挨拶をすることは、スタッフからも聞いていたが、ファンとサッカーを楽しむ間に何を言うべきかを忘れてしまった。

 話し始めると、青と赤のユニホームに身を包んだ「3」番をたくさん見つけることができた。2年間、新天地で頑張ってきた、これが最後となる挨拶だ。何を言うべきか考えた。

「13年間のプロ生活のなかで、たった2年間しか東京にいませんでしたが……」
 そこまで言って、佐原は言葉に詰まってしまった。ふと涙腺が緩み、涙が零れ落ちないように佐原は空を見上げた。佐原! 佐原! とサポーターから声が飛ぶ。そして、こう続けた。

「残念ながらFC東京のことが大好きになっちゃいました」
 ワーッと歓声が届く。
 名言を残し、佐原はFC東京に別れを告げた。

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2年間の経験

 30歳から32歳にかけての2年間、FC東京というチームで佐原はたくさんの経験をしてきた。

 実は、佐原にはFC東京に期限付き移籍をするに当たり、ある強い決意があった。
「東京に行くと決めたからには、川崎の選手はこんなものかと思われたくなかった。フロンターレが強くなって東京からレンタルで欲しいと言ってもらったからには、絶対にそう思われないようにしようと思った」

 だから、最初の1年間は、多少足に痛みがあっても全力で駆け抜けた。30歳を迎え試合でコンディションを万全に保つ難しさも味わうことになった。試合に出続けると、FC東京のサポーターに「3」が少しずつ増えていき、ゲーフラをあげてもらえるようになった。クラブには「佐原を完全移籍でとってほしい」というサポーターからの声も届いた。

2008年シーズンのまだ残暑が残る蒸し暑い季節に、佐原は、FC東京側から「来年も残ってほしい」という声をもらった。それは、「川崎」を背負って行っていた佐原にとっては、何よりも欲しい言葉だった。心の中でガッツポーズをひとり、作った。

 結果的に2年間に渡ったFC東京での生活は、佐原にとって「充実した楽しい時間」になった。ひとりひとり、選手の名前を覚え、スタッフの名前を覚え、自分を知ってもらうことからスタートした最初の苦労もいまでは懐かしい思い出だ。スタッフとチームメイトに恵まれ、充実した時間を過ごすことができた。違うチームでの練習内容や習慣、様々な新しいことにもチャンレンジできた。タイトルもひとつ獲得し、この2年間の戦績もFC東京は右肩上がりだった。若い選手が多いFC東京のなかで、試合中、失点すると「次、行こう!」と自然とチームを鼓舞する言葉も出るようになっていた。キャプテンも経験した。

 リーグ最終節となった2009年12月5日。アウェイの新潟戦。東京を去ることが決まっていたのは佐原だけではなかった。このメンバーで試合をするのはきょうが最後になる。その監督の言葉に、試合後、FC東京の選手たちは、涙をみせた。その中に佐原の姿もあった。

「俺、涙もろくなったのかな、歳とって」

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遣り残したこと

 年末に新たな生活の場に引越し、2010年1月、新鮮な気持ちで麻生グラウンドまで愛車を走らせた。すると、たった2年の間に、佐原がよく知るはずの街並みが変わっていた。2年の間に、知っている選手が入れ替わり、新しい若手が入り、フロンターレも歴史を積み重ねていたのである。佐原は、よく知るクラブであり、また新しいクラブに来たような、不思議な気持ちで2010シーズンを迎えた。

「いつの間にかコンビニが出来ていたり、なかったマンションが建っていたり、町が少し変わっていた。選手もスタッフも当然入れ替わっているし、不思議な感覚だよね」

 18歳でプロになり、その時の目標は10年間選手を続けることだった。10年経って28歳になったとき、「30歳まで頑張ろう」と思った。30歳になる年に、期限付き移籍でFC東京の一員になることになった。今年14年目、再び生まれ育った川崎フロンターレに帰ってきた。あと、川崎の選手として遣り残したことは、もうひとつしかない。

 FC東京で味わった初タイトルの瞬間。表彰式後のロッカールームでの雰囲気。水をかけあうシャンパンファイト。優勝報告会の盛り上がり。それは、優勝を掴んだチームにしか味わえないものだった。一方で敗者のフロンターレ選手たちの気持ちも佐原は痛いほどわかった。だからこそ、勝者と敗者のコントラストを一度に受け止め、タイトルの重みを感じていた。

「俺、やっぱりこのチームでタイトル獲りたいよね。フロンターレがタイトルを獲った時の一員でありたい。俺がサッカーをやれるのもあと何年かわからないけど、フロンターレでブラジルも行かせてもらって、チームが強くなる過程をずっと見てきて、東京でも2年プレーさせてもらった。これで、タイトルが獲れたらもう悔いはないし、サッカー選手としてこんなに幸せなことはないだろうって思う」

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〜エピローグ〜

2010年4月19日、佐原は町田ゼルビアとの練習試合で久しぶりに90分間通してプレーをした。

 試合終了後、ランニングとストレッチなどし、体のケアを入念に行う。サッカー選手を続けるために、体をケアすることをいま、最も大事にしているからだ。そして、一番最後にグラウンドを上がってきた佐原は、「疲れたけど、楽しかった」と笑顔をみせた。

 佐原は、今季開幕前、2次キャンプ中の2月15日、ヴァンフォーレ甲府との練習試合中に、負傷していた。左肩鎖関節脱臼と診断された。タックルをするラグビー選手などに多いというこの負傷は、手術などしなければ脱臼した形は元に戻らないという。

「怪我した瞬間、音はなったし、骨は出てるし、やばいなってすぐわかった。これから1ヶ月開幕まで頑張ろうと思い、足の怪我から合流してすぐだったから落ち込んだ。でも、次の日病院で検査して、まずは手術しない方向でやっていこうという話になって、最悪は避けられたと思った」 

 もし、手術をすれば復帰まで半年かかる。それではシーズンも秋を迎えることになってしまう。痛みが引くのを待ち、リハビリを重ね復帰するという方向性に決まった。

 佐原は、2000年から膝の怪我などでリハビリに費やした時期があった。そういう時期を乗り越えて得てきたきたことを、今回のリハビリで実感したという。
「メンタルが昔より強くなった。すぐに切り替えられるようになった」

 それでも、日々、自転車こぎを中心とした室内でのメニューはきつかったという。
「毎日、自転車を30〜40分こぐんだけど、ひたすら漕いでるだけで景色が変わらないからね。だから、グラウンドに出られた時はうれしかった」

 そして、4月19日。約2ヶ月の日々を費やし、90分間プレーすることができた。そして、4月13日、ACL城南一和戦前日の公式練習では、今季はじめて等々力のピッチに立つことができた。

 数ヶ月遅れた佐原自身の“開幕”の日まで、もう間もなくだ。
 2年間、そしてこの数ヶ月、心に溜めてきた“想い”をピッチで表現する日が来るのが待ち遠しい。それは、佐原自身と応援するサポーターにとって同じものだろう。

「12月まであるから、これから取り戻していければな。あぁ…。早く、等々力に立ちたい。」

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[さはら・ひでき]

フロンターレの歴史を知るチーム最古参のストッパー。強靱なフィジカルを生かしたハードマークで相手チームのストライカーを封じ込める。1978年5月15日/神奈川県横浜市生まれ。
>詳細プロフィール

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