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ピックアッププレイヤー

2012/vol.12

ピックアッププレイヤー:MF34/風間宏矢選手

ルーキーには過酷にも思える、驚きの先発起用だった。
ましてや、彼にとっての2012年Jリーグは、まだスタートして1ヶ月ほどしか経っていなかったのだ。
風間宏矢はそれでも、堂々と等々力のピッチに立っていた。
さまざまなプレッシャーなど、どこ吹く風といった様子で。

01 2週間のリーグ戦中断期間を終えた7月28日の大宮戦、ひときわ大きな背番号が先発メンバーに名を連ねた。背番号34、7月に入って選手登録したばかりの宏矢だった。

 ただでさえ、新人に占める大卒選手の割合が増えている昨今である。J2を含め今季のJリーグ全体を見渡しても、試合に出場している高卒ルーキーは相当に少ない。そんな状況で、この3月に高校を卒業したばかりのルーキーが先発としてプロ初舞台を踏むことになったのだ。

「もともと、試合では緊張する方なんです。ファーストタッチが良かったりすると落ち着きますね。でもあの試合は、めちゃめちゃ緊張しました。ふわふわしていて、ボールを触っている感覚がしませんでした」

 だが、そんな感想も謙遜に聞こえるほど、ガムシャラではあるが落ち着いてプレーしているように見えた。最前線の中央で、屈強な相手DFを背負ってボールを収め、さらには得点にも絡んだ。69分、縦パスを受けるとエリア内に持ち込み、相手を引きつけてパス。最後は楠神順平がチーム3点目を流し込み、終わってみれば4-1の大勝を飾った。宏矢は勝利の瞬間まで、初陣のピッチを走り続けた。

 登録はMFで、お気に入りのポジションはトップ下である。普段とは違いゴールに背を向けることが多く、相手の重圧を受ける位置を任されているが、「少しですけど、高校の頃にもあの位置で使われたことはあるし、どこでもできるのが自分の持ち味なので」と事も無げに語る。

 何より、プレッシャーには慣れっこだ。

 3歳から始めたサッカーで、最初のアイドルとなったのは金髪をなびかせる点取り屋、ユルゲン・クリスマンだった。「テレビでよくやっていたバイエルン・ミュンヘンが好きでした。どういうサッカーをしていたとかは全く覚えていないんですけど、バイエルンのクリンスマンが好きというのがありました。ほかはそうでもないけど点を取ることだけはうまくて、格好いいなって」。父・風間八宏は長らく歩んできたプロ選手としてのフィナーレを、キャリアのほとんどを過ごした地で終えようとしていた。幼少時を過ごしたドイツでの記憶も、やはりサッカーだった。

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 サッカーを始めたこと、そして住んでいた国で目にしたスーパースターに憧れたように、帰国後もサッカーを続けたのは当然のことだった。故郷となった地が日本の「王国」静岡であれば、なおさらだ。

 小学生のヒーローにありがちな体の大きさで勝負するタイプではなかったが、点も取ってアシストも決めた。4年生からは、清水市(当時。現・清水区)の選抜チームである清水FCにもピックアップされていた。所属するチームでの練習を終えてから、週3日程度活動する清水FCの練習にも参加するという、サッカー漬けの日々を送っていた。

 中学時代は、選抜チームからクラブへと形態が変わる清水FCのジュニアユースでプレーした。「自分で言うのも何ですけれど、エースではありました」。卒業する頃には、多くのユースから声がかかるほどだった。周囲から見れば、まさに順風満帆に見えるサッカー人生だが、少年の心はひそかにうめきを上げていた。

「自分のプレーを知られているからというわけじゃなくて、どうしても父親の名前が先に来てしまって…」

 なにしろ、「王国」である。多くのサラリーマンが昼休みにフットサルを楽しむ地域である。そのサッカーどころで、地元の英雄を知らぬ人はない。それに、自身を追い込んだ面もあったのかもしれない。「小学生の頃は父が自分の中でとても身近にあって、『うまいプレーをしないと』という気持ちが強くありました。普通はみんな、サッカーを楽しむだけだと思いますけど」。

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 中学時代には、人知れず人生最大のスランプに陥っている。「今、そういう話をすると『そうなんだ』と言われますが、相当焦っていた」と周囲には感じ取られていなかったが、体内の精巧な感覚は、バランスの異常に警報を鳴らしていた。2年生になると、一気に170cm台後半まで伸びた身長に戸惑った。脚が前に進まない感覚。成長する骨格に、筋肉がついていかなかったのだろう。

「中1まではすごく調子が良かったんですけど、中2になってからは何をしても点が入らないし、簡単にボールを取られちゃうし、全然体が前に進まない感覚でした。うまくいかなくて、『プロになれないのかな』と思った時期でした。ファーストタッチもうまくいかなくて、ボールを持つのが怖いような感じで…」

 3年生になり成長した体に慣れてくると、調子を取り戻した。視界が広がるにつれて、自分の進む道もクリアになっていた。「だんだん自信もついてきましたし、いろいろなユースからも声をかけてもらったんですけど、ずっと昔から見てきたし、僕は高校サッカーがやりたかったんです」。目指したのは数多のJリーガーを生み出した、名門・清水商業高校でのプレーだった。2学年上の兄・宏希が、一足先に憧れのトリコロールのユニフォームを着てプレーしていた。

「兄と一緒にやりたいという気持ちがありました。それに一番大きな理由として、兄が2年生の時にインターハイの決勝で負けた試合を見て、『オレが入って、全国に行かせたい』という感覚があったんです。『点を取れる選手がいればな』って」

 目標は明確で、それはプレーに表れた。1年生から出場機会をつかみ、入学後初めての夏には、いきなり全国大会を経験できた。だが、「そこから選手権もインターハイも全部、(県大会の)決勝に進んだんですけど、全部負けました。決勝だけ、なぜか勝てなくて」と、あと一枚の壁に苦しむ時間が続く。「センシュケン」の穴は、何よりも大きかった。1年時に続き、2年時にも決勝へ進出。2年時には県大会得点王にも輝いていたが、あと一歩が及ばなかった。

 全国選手権ともなれば、県予選は準々決勝から地元のテレビ局に生放送される。スタンドには1万人を超える観客が集まり、玄人の目を注ぐ。大きな期待を背負いつつ、宏矢は3年時にはエースナンバーである背番号8と、キャプテンマークを受け取った。「キャプテン就任には、いろいろな意味で応えたいと思いました。変なプレーはできないという思いはあったし、キャプテンマークは重いけど、良い仲間がいました。みんなでやってやろうと思っていました」。

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 3度目の正直は、成った。3年連続で進出した決勝で強豪・静岡学園高校相手に、ついに実に11年ぶりとなる冬の扉を押し開けた。「負け続けたからこそ、勝てたと思うんです」という言葉に実感がこもる

 川崎へ入団する前にも、ワンクッションを挟んでいる。高校卒業後のキャリアは、ドイツでスタートさせた。海外でのプレーは、中学生の頃から意識していたという。

「中学校の時に国際大会に出場して(海外のサッカーに)肌で触れていたので、行きたいという気持ちがありました。バルサなどとも試合をしましたが、海外では細い選手も全然倒れないし、トラップも止まるし、判断も速い。いろいろな特徴を持った選手がいて、技術だけなら日本人がうまいのかもしれないですけど、それ以外の何かがあると感じていました」

 結果から言えば、試合出場は叶わなかった。ビザなどの問題があり、選手登録できなかったためだ。だが、それまでの約3ヶ月間は、「正直、無駄になったとは全く思っていません」と言い切る。

 ボールが回ってこない最初の1週間で、ポイントを見つけ出した。「戦わないと向こうではボールが来ないし、チームで浮いてしまうんです」。遮二無二にボールを追い、スライディングも厭わない姿に、パスが集まり始めた。

「あの3ヶ月間は自分が味わったことがないものばかりだったし、どうすれば周りに認められるかなど考えていました。ここまで頭を使ってやったことはないんじゃないかというくらいに」

 これまでも、成長のために壁があった。

 壁を乗り越える術は、体で覚えるだけではなく、言葉でも伝えられてきた。たとえば、父・八宏から授かったものもある。

 清水では、所属したチーム以外でもサッカーを学ぶ環境は多い。その一つが、小学5年生から高校3年生までが一緒に練習するという、「清水スペシャルトレーニング」だ。指導者の一人に、父・八宏もいた。

 中村憲剛も「目からウロコ」と話すように、風間監督のサッカー観は独特であると言われる。「しっかりとボールを止めて、蹴る」ということをベースとした上でのユニークな教えは、宏矢の頭と体にもよく残っている。たとえばその一つに、こんなものがある。

「しっかり自分が蹴れるところにボールを置ければ、どんなプレッシャーだってプレッシャーじゃない。それに、プレッシャーだと思うのは、自分の勘違いなんだ。相手が来ていると自分で思うから、トラップがぶれてしまう。しっかりとした技術でぶれなければ、それはプレッシャーじゃないんだ」

 自分より経験も体重も上の選手を相手に、最前線で体を張る。まるで今の宏矢に向けられたような言葉は、ピッチ外でも響くものかもしれない。

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 ドイツから帰国している間に、この先も選手登録が難しいと聞かされた。新たな道を考えつつ、Jリーグクラブの練習に参加させてもらった。麻生のグラウンドでも同様だったが、突然に風向きが変わった。

「練習をやって、ここのサッカーが楽しいと心から思いました。強化部長からの『監督がどうとかいうことは関係なく、本当に必要だから取りたいんだ』という言葉に心を打たれました。本当に自分を必要としてくれているんだなと感じました」

 プロ初出場のピッチに立つ前から、新聞には「親子鷹」の見出しが踊った。だが、宏矢には迷いはなかった。「小学校の頃のプレッシャーに比べれば、何でもないですよ」。心をブレさせるな。そうすれば、ボールも相手もコントロールできる。体得してきた教えだ。

 19歳ならば、まだ反抗期にあってもおかしくないが、そのような時期はなかったという。周囲の目が気になった小学生時代にも、サッカーから離れようと思ったことはなかった。高校時代も、遊びたいと気持ちがぐらついたことはないという。

「よく、『今はサッカーをする』とか言う人もいるけれど、そういう感覚は全くない。サッカーと何かを比べるということをしたくない。サッカーは全く別のものとしてあるんです。こんな楽しいことを仕事にできるのは、なんて幸せなことなんだろうと思います」

01 8月20日の横浜FM戦、宏矢の初アシストが決まったかに見えた。77分、エリア内で受けた宏矢は、寄せてきた相手を見極め、完璧にかわしてラストパスを送った。小林悠のシュートはゴールネットを揺らしたが、判定は無情にもオフサイド。

 田中裕介の古巣相手の2ゴールもあり、2点ビハインドから逆転勝利を奪えたかもしれない試合だった。さらに言えば前述の場面、宏矢には自分でシュートを打つという選択肢もあった。だが、「後悔はありません。自分で決めたことですから」とまっすぐな視線でつむぐ言葉に、揺れはなかった。

 プロのサッカー選手には、たとえ結果を出してもさまざまな形で重圧は増していくかもしれない。だが、「あまり先のことは考えず、目の前の試合に集中するタイプ」という宏矢は、涼しげに語る。「サッカーが楽しい。それだけですね」。

 横浜FM戦の後半からのポジション変更は、次の名古屋戦でも続いた。久々に味わった多く前を向ける中盤でのプレーの喜びは、軽やかなタッチでボールを運んでのスルーパス、思い切ってのシュートとなって表れた。

  チームとしての結果には、簡単に直結しない試合が続く。それでも川崎でサッカーに打ち込む姿勢はしっかり関係者の目に留まり、U-19日本代表候補のトレーニングメンバー選出につながった。だが、過剰に喜ぶでも安どするでもない。

「正直、チームのことの方が大きいので。チームでもっとやらないといけない。それしか考えていません」

 久々の招集となったのは、ドイツにいた間にクラブでの選手登録ができなかったためだった。だがその時期にも、日々の練習、目の前のボールにだけ集中してきた。

 恐れることは何もない。サッカーがともにあるかぎり。何より、プレッシャーには慣れっこだ。

profile
[かざま・こうや]

中盤の攻撃的なポジションであればどこでもプレーでき、ボールを出して動く連続性に加え、得点力も期待されているMF。高校卒業後にドイツへ渡り、身体能力の高い選手のなかでもまれながら、球際や1対1の局面での強さに磨きをかけて日本に帰ってきた。日々のトレーニングで技術と体力を伸ばしながら、試合出場のチャンスを狙う。1993年4月16日/広島県安芸郡府中町出身。>詳細プロフィール

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