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ピックアッププレイヤー

2012/vol.17

ピックアッププレイヤー:MF33/森下 俊

突然、左すねが痛くなった。森下俊は5月に張りを感じた。フル出場したアウェー・大宮戦の翌々日、
オフ明け初日の練習だった。「休んでも2ヶ月かな」。当初、こう思っていた。これまでの最も長い離脱は、
磐田時代、左足甲をねん挫した時の2ヶ月だった。後にも先にも、大きなけがをしたことはない。
長引いたとしても、同じぐらいだろうと考えていた。「まさか、自分が、と思っていました」。その「まさか」だった。しかも、厳しい現実が待っていた。

01  1ヶ月以上、なぜ痛いのかさえ分からなかった。「この時期が一番つらかったです」。様々な場所で、様々な検査を受けたが、はっきりした診断結果は出なかった。

 原因が分からないため、マッサージ、高圧酸素治療、針…など、出来うる処置をしたが、痛みが和らぐことはなかった。体の左側を下にして寝ることが出来ない夜が続いた。「寝相が悪いので、横向きになって起きたりしました。ちょっとでも触れたら痛かったです」。

 神経が圧迫され、破壊されていたのだった。「腓骨神経損傷」。ようやく診断が出て、7月11日、人生初の手術を受けた。神経の専門医も立ち会った。「ハッキリして良かった。ある意味、ホッとしました。そのまま原因不明だと、どうすることも出来なかったんで」。神経は1日1ミリ再生されていくという。全治は手術日から約3ヶ月と診断された。

 順風満帆からの暗転だった。今季、京都から移籍し、開幕から12試合連続でフル出場していた。

「ずっと出ていたし、そりゃ、(けがは)ショックでしたよ。でも、しょうがないなって。過去には戻れないし、自分で切り開くしかない。出来ることから、やるしかないなって」。

 手術翌日は、車いす生活だった。術後2日目からリハビリが始まり、左足に体重を荷重して、歩行練習。一歩踏み出した。初めての入院は2泊3日と短かったが、妻の明江さん、長女の莉央菜ちゃん、長男の璃空くんが、毎日、来てくれた。家族の支えを改めて実感しながら、前向きになった。

「今季、もう1度、試合に絡む」。そう心に誓った。

 復帰へのスケジュールは順調だった。クラブハウスと病院でリハビリに励み、左すねにも力が入るようになった。8月22日、麻生グラウンドでランニングを開始。これには、医療チームのスタッフも「予定より、早い」と喜ぶほどだった。

 9月中旬、左足でボールを蹴った。「ちょっとだけ蹴っていいですか、と、自分から言ったんですよ。とはいえ、最初はボールに対して足が出なかったですね。痛いかも知れない怖さやと思います。10%ぐらいの力だったと思います。軽くぽーんって。ゴロでした」。

 自分から踏み出した新たな一歩だった。10月6日、練習に合流した時、筋トレのおかげで、上半身は手術前より大きくなったという。

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 2012年は挑戦の年にした。森下は1月、伊勢市立五十鈴中学サッカー部時代の顧問で、3年生の時に担任だった中村智之先生(現・伊勢市立宮川中学校教諭)の携帯電話を鳴らした。

「フロンターレではポジションは保証されていないです。そういう環境のなかで、しっかり、もう1度勝負がしたいんです」。

 中村先生は、地元・三重県の強豪高校や、Jクラブのユースなど4つのチームから誘われた時、進路を決める上でアドバイスをもらった恩師である。京都から川崎へ移籍する決意を伝えた。

 中村先生は、森下が「変わったな」と感じたという。例年通り、森下が正月明け早々に中学校の練習に顔を出した時だった。「サッカーをやりにきた後、いつもは、友達と食事に行ったりして、遊びに行くんですけど、今年は違いましたね。ジムに行って、トレーニングしてきますと言うんです」。

 昨年、第2子となる璃空くんが誕生し、家族が増えたことも、いい影響が出たのかと思った。さらに、川崎への移籍を知り、納得した。「ジュビロにいた頃なんて、まだまだ子どもだった」。中村先生は、懐かしそうに振り返り、森下の成長を喜んだ。

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 森下が本格的にサッカーを始めたのは小学校2年生の時、地元の修道FCに入団した。

 父は野球が好きで、2歳年上の兄は野球の少年団に入っていたが、「友達が(修道FCに)入るんで、一緒に入ろうと誘われたんですよ。2年生から入団できたんですよ」。

 ひょんなきっかけで、サッカーの道に進んだ。最初のポジションはFW。足が抜群に速く、2年生の時に、50メートルを8秒台で走っていた。小学校の6年間、学年トップを譲ったことはない。三重県で2位に入ったこともあった。5年生の時には、全国小学生陸上競技交流大会にも出場し、国立競技場で100メートルを走った経験もある。2年生ながら、6年生チームの試合に出場するなど活躍した。

「全部、スピードで抜いていた。蹴って走ったら、誰もついてこられへんって感じやったから、それ(蹴って走って)ばっかりやってた。今、考えたら、もっと練習していたらよかったな、とか思います」。

 自宅前や公園などで壁に向かって練習し、武器になっている左足キックの精度なども磨いたが、スピードに勝るものはなかった。

01 地元が一緒で、同学年のジュビロ磐田GK八田直樹は証言する。

「小学5年生位から知り合ったが、俊は陸上をやっていて、スピードもあるし、左利きの独特のリズムも持っていた。あの頃は誰も止めることが出来なかった。それこそ相手は2枚マークをつけて対応してきた。あいつがいるといないじゃチームは全然違った」。

 同じ学校になったことはないが、親同士仲が良く、県トレセン、県選抜、ジュビロ磐田ユース、ジュビロ磐田でチームメートだった。

「俊は能力が高いから、必死な姿もあまり見せなかった。それが彼の持ち味でもあると思うけど」。

 森下は典型的な天才肌の少年だった。余談であるが、「人としては、今も変わらないけど、周りの心配ばかりしているし、気が利く。2人共状態が悪くても、自分のことより、人のことばかり心配して連絡をくれる。マメなヤツですよ」と、森下の素顔も明かしてくれた。

 五十鈴中学に進学し、中村先生に出会ったことが大きかった。

 森下は「お世話になった人です。めっちゃ厳しかったです。あいさつ、礼儀とか、生活面で鍛えてもらいました。中村先生に出会わなかったら、今はないです」と感謝する。

 当時、ポジションはスピードを生かした左サイドハーフ。能力が高いがゆえ、1人でやってしまうところがあった。中村先生は「パスを出せばチャンスになるのに、出さず、どんどん行ってしまう。そして、最後、つぶされるということもありました。彼に言わせれば、『パスを出したところで、相手に取られる』と言うことなんでしょうけど、そこは怒ったんですよ。お前がパスを出すことで、(味方も)うまくなる。それが最後はチームのためになる。出さなければ、何も変わらない」と言い聞かせた。

 3年生の時には主将としてチームを引っ張り、「五十鈴中のサッカー部は、やんちゃなヤツが多かったですけど、(森下は)みんなから一目置かれていましたね」という。

 3年生最後の試合に敗れ、涙を流した。県大会の準々決勝、内部中学戦。延長戦までもつれ、自身のハンドでPKを献上した。失点後、森下は中村先生に、FWをやらせてくれと訴えた。しかし、Vゴール方式だったため、敗退が決まっていた。中村先生は「(森下が」泣いたのは、その時ぐらいですかね」と言う。初めてショックを受けた試合だった。

01 森下は、U-15日本代表から年代別代表に招集されてきた。

  磐田ユースでも、ストッパー、左サイドバックとして、活躍。トップチームに昇格した同期の八田、上田康太(現大宮)、中村豪(岐阜SECOND)、藤井貴(長野)、岡本達也(水戸)らと黄金時代を作った。エリート街道まっしぐらの森下だったが、磐田のトップ昇格後、挫折を味わう。

「すべてにおいて、壁にぶちあたりました。判断のスピード、パスのスピードが違った。しかも、みんなうまかったです」。

 森下が入団した2005年の磐田には、名波浩、服部年宏、福西崇史、田中誠、鈴木秀人、中山雅史、藤田俊哉(シーズン途中で名古屋へ移籍)ら磐田を象徴する選手が在籍していた。

 当時は、ベンチ入り選手は現在より2人少ない16人。メンバー入りも難しく、1年目の公式戦出場は、リーグ戦1試合、ヤマザキナビスコカップ1試合、AFCチャンピオンズリーグ1試合だけ。

 そんな中、目標の選手を見つけていた。「マコ(田中誠)さん、鈴木秀人さんです。読み、カバーリングとか抜群にうまかったです。プロに入って、この2人を見ていて、ポジショニングの重要性を気づきました」。

 2人に相談もした。スピードだけでは通用しないと感じ、さらに武器を得ようとした。「ボールが来る前の準備の大切さを学びました。体の向きとかですね」。居残り練習も始め、パススピード、くさびのパスの精度などの向上を目指した。

 しかし、負傷などもあり、レギュラー定着は難しかった。在籍4年でリーグ戦出場は4試合。トップチームとサテライトチームの練習が完全に分けられていた時期は、とりわけ、辛い日々だった。

「トップチームが午後2時くらいから練習し、その後、午後4時くらいからサテライトが練習するんです。サテライトはめちゃめちゃ少なかったです。ミニゲームばっかりやってました。監督もいませんでした」。

 09年、出場機会を求め、京都へ移籍した。「試合にとにかく出たかった。やるしかないという思いでした」。京都1年目は、背水の気持ちを込めた1年契約だった。出場時間は、1年目より2年目、2年目より3年目というように増えていった。

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 川崎への挑戦は必然だったのかもしれない。京都3年目、大木武監督からサッカー基礎を叩き込まれた。パスをもらう準備と予測、攻守と守攻の切り替えのスピード、ダッシュで守備に戻ること、試合中に休んでいる暇はないということ、球際の強さ、ミスを全員でカバーする…など。

 森下は「サッカーをやるにあたり、土台となることを言われた。基本的なことでした。当たり前のことをやらないと、サッカーはできないと。自分自身、成長しました」と振り返る。さらなる飛躍を目指した2012年につながる1年となった。

 11月18日、麻生グラウンド。森下は、水戸との練習試合にストッパーとしてフル出場し、無失点に抑えた。10月21日の横河武蔵野FCとの練習試合は前半だけだったため、90分プレーするのは、半年ぶり。

「疲れましたけど、心地良いです。ここで90分できたので、もっとコンディションをあげたい。やっとできました。ここから試合に絡んでいきたい」。この時点で、リーグ戦は2試合、さらに天皇杯も残っている。「左足腓骨神経損傷」から復活し、ようやく、目標設定できるようになった。ある意味、今季2度目のスタートラインに立った。

 失った時間もあるが、けがをしたことによって、筋トレで鍛えた上半身だけでなく、ほかにも得たものもある。

「もう、大きなけがを繰り返したくないので、自分の体に気を使うようになりました。体のケアは、今までもやっていたけど、入念にやるようになりました。今は、練習後にストレッチとかしっかりやるようになりました」。体幹も鍛え始めているという。プロとしての意識は格段に高くなった。

 今年も成長を実感する年になるだろう。

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[もりした・しゅん]

今シーズン、京都サンガFCから加入したDF。足下の技術とスピードに長けており、本職のセンターバックだけではなく左サイドバックでもプレーすることができる。メンバーが大幅に入れ替わり横一線となったディフェンス陣のレギュラー争いに名乗りを挙げる。 1986年5月11日/三重県伊勢市生まれ、178cm/70kg > 選手プロフィール

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