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SEASON 2015 / 
vol.08

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MF22/Nakano,Yoshihiro

“確信”の実現へ

MF22/中野嘉大選手

テキスト/竹中玲央奈 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Takenaka,Reona photo by Ohori,Suguru (Official)

2015年.筑波大学の同期である車屋紳太郎と共に川崎フロンターレの一員となった中野嘉大。
毎試合18人のメンバーに名を連ね、A代表候補にも入った車屋とは対照的に、
公式戦の出場機会を得られないでいる。ただ、本人は「プロでもやれる自信がある」と語る。
筑波大学の先輩である谷口彰悟、そして車屋も認める実力者はいかにして自らを確立させたのか。

自身のプレーを作り上げた小中学校時代

 鹿児島県で生まれ育った中野がサッカーを始めたのは小学校1年生の頃。その経緯はかなり偶発的なものであった。「家に帰って、友達と遊ぼうという話をしていて。学校で待ち合わせをしていたんです。僕は学校が近かったのですぐに向かったんですね。そこで友達を待っていたんですけど、友達が全然こなくて。グラウンドでやっていたサッカーを見ていたんです。お兄ちゃんがサッカーをやっていたので。兄は6個上なんですけど、田舎なのでみんな顔見知りということで、コーチも僕のことを知っていました。それをじっと見ていたら『一緒にやりなよ』と誘ってくれた。で、やってみたら楽しかった。それから毎日行くようになったんです。」ちなみに、先約としてあった友人との遊ぶ約束は「サッカーが楽しかったので、断りました(笑)」とのこと。

 そして、ちょうど彼がサッカーを始めたころからその少年団の組織体型に変化が訪れる。「学校で集まる少年団だったんですけど、隣のチームの人も集まったりしていて、どんどんクラブチーム化していったんですよね。そしたらちょっと遠いところの人も来て。なら、中学校になってもこのメンバーでやろうと。自分が3年くらいのときに少年団ではなくなって、4年になったときには中学校のクラブができました」それが、パルティーダ鹿児島である。

 学校でプレーしていたメンバーがそのまま中学校になっても共にサッカーができるように、ということでのクラブ化。中野が入ったばかりのときは小学校1年生から小学校6年生までが混ざって試合を行うという環境にあったのだが、隣町からもこのクラブに通う子どもも現れ始め、クラブ化を進める中でU-12,U-10とカテゴリも分かれて行ったと言う。クラブが成長をしていく過程で、その後中野と大学まで同じチームで歩みを共にする赤﨑秀平(現・鹿島アントラーズ)も加入した。着実に技術をつけていった中野はチームでも中心選手となり、トップ下のポジションでレギュラーを掴む。「けっこう攻撃には自由を与えてくれるドリブル主体のチームだったんですけど、その中で巧い人はトップ下をやるという感じでした。1個上だと(赤崎)秀平くんがやっていましたね」と当時を振り返る。小学校、中学校と全国大会には無縁であった。ただ、個の技術を伸ばし、ひたすらドリブルの力を付けることに重きをおいた指導方針のチームの中で、中野自身のプレースタイルは確立されていった。

「上手いですよ。1対1で抜かれることも多くて。めっちゃ削っていた覚えがあります(笑)上手いし、普通に抜いてくるから」と語るのは筑波大学、そしてフロンターレでの先輩である谷口彰悟の声である。先輩も一目置く彼の強みの原点は、この小中学生時代にあったことは間違いないようだ。

GK21/西部洋平選手

越境進学

「中1までは鹿実(鹿児島実業高等学校)に行きたかったんです。毎回高校サッカーでは鹿実を応援していたので」中野がこう語る通り、鹿児島県の高校サッカー”イコール”鹿児島実業という図式は間違いなく存在していた。しかし、中野が高校生に向かうに連れて、その図式は崩れていく。それと同時に、鹿児島実業に進んだ同じクラブの先輩が全く試合に絡めなかった。この2つが相まって、彼の中での高校選択の幅が広がることになる。

「僕の2個上でアビスパ福岡にいる中原秀人という人がいて、あともう1人、プロにはならなかったんですけど、パルティーダで10番だった人がいました。その人は中学校のときに本当に上手くて。一緒のチームでやっていたんですけど、2個上はディアマント鹿児島というチームが最強の世代だった。それで、その人もディアマントの人たちと一緒に鹿実に行くと言って、その選択をとったんです。ただ、そこでも彼も試合に全然絡まなかったし、同時に鹿実の力も落ちてきた。その人がやれないのに自分が行っても…と思って、鹿実でやるのは厳しいなと思ったんですよね。多分、秀平くんもそういう選択をしたと思う。あとは、鹿実と佐賀東が練習試合をしたときに佐賀東が勝っていて、それもあって、鹿実の魅力が自分の中で徐々になくなっていったんです。佐賀東には秀平くんと(中原)秀人くんも行っていて、かつパスを繋いで自由にやらせてくれるチームでした。それに、僕が中3のときに総体でベスト8にも行っていたこともあって、佐賀東がいいかなと思ったんです」

 

 中学入学時までは地元進学を考えていた中野であったが、上記の理由もあり向かう先は佐賀東へと固まっていった。意外にも越境進学に関して両親とのやりとりに障壁は生まれず、スムーズにことは進んだようである。「僕は末っ子だったので、自由になんでもさせてくれましたから」と中野は言うが、彼に自由が許されているのには理由があった。それは冒頭に登場した6つ上の兄である。サッカーを始めたきっかけとも言える彼の存在が、中野が何不自由なくサッカーに取り組める環境を与えてくれたと言っても過言ではない。

「厳しく育てられていたみたいです。親から『まだ2人いるんだから』と。兄ちゃんも佐賀東に誘われていたんですけど、当時は監督が来たばかりでまだ無名だった。それに、頭も良かったので、親からすればそういうところには行かせるよりも…。だから進学校に進んで、大学に行きました。サッカーは、僕の中学校のチームに来てやっていましたね。高校が電車で4,50分くらいかかるところだったので、そっちでやっていたら帰ってくるのも遅くなるし、寮生活もしないといけなくなる。でもサッカーはしたいと。そういうことで、僕らと一緒にやっていました」

 少し変な言い方かもしれないが、ある意味、兄がサッカーの道を諦めたからこそ、今の中野があると言えるだろう。実際、両親もこのことは本人に伝えているようだ。「『兄ちゃんがやめたのだから。お前は感謝しろよ』と言われます。本当に感謝しています。でも、あまり伝えることはできないので…」 プロ入りが決まった際、普段はなかなか会話をすることがない兄も連絡を取ったというが、「おめでとう」と言葉を貰ったあとにこう言われたたという。「でも本当なら、俺が(プロに)なれていたかもな」と。こうは言うものの、自分が諦めた道を、弟が実現してくれたことに、間違いなく嬉しさはあるだろう。

高校時代を経て、関東へ

 先にも述べたように、進学した佐賀東高校にはパルティーダ鹿児島時代の先輩である中原秀人、赤崎秀平の2人がいた。そして、その彼らから話を聞いていたこともあり、馴染むのには時間は要さなかったようである。ただ、すぐに試合に出られたかと言えば、それはまた別の話。「1年のころはほぼ、その学年だけで別に練習をしていました。でもその中にはあまりサッカーも出来ない人も入ってきていて、そこは少し微妙に感じていたのが正直です。けど、かといって7月からAチームに入っても何も出来ないので…。ただ、寮生の朝練でフットサルがあったんですよ。そこは全学年でやっていたんですけど、質がものすごく高くて。作戦を練って、本気でやりました。正直、そこで上手くなっていった気もします。」

 チームで自身が中心となった中で大きな結果を掴む機会には恵まれなかった一方で、技術を磨く機会が多く存在した。それが今の中野嘉大を作り上げている。
「ドリブルをしろというチームだったかもしれないし、そういう練習は多かったですね。個人技を上げていく感じです。なんか、上手くいいところに入ったなと(笑) 高校、大学に進んだら個の力に重点を置くチームはどこかでなくなると思っていたんですけど、今までそういうチームに入ってこれたのが、自分にとって大きかったなと、恵まれていたなと思います」

 高校3年生は半月板を痛めていた影響で恥骨の結合炎を起こしたこともあり、思うようにプレーができず、総体予選の決勝でまさかの敗戦。「CKから決められて、負けました。佐賀北にです。ずっと攻めていたんですけど点が入らなくて。それで10分くらい出場したんですけど、ロスタイムに決められるというドラマチックな負け方をしましたね」苦難を味わった中野はその後、治療に専念し、夏以降に大学選択を始めることになる。

 監督のつてをたどって最初に練習参加したのが、進学先となる筑波大だった。
「秀平くんから聞いて、風間さんのサッカーや大学での過ごし方という部分に納得して、関東か関西だったら関東に行きたいなというのはありました。それで筑波を含めたいくつかの大学に行ったんですけど、筑波のほうがいいなと。言われていることは頭に入るし、当たり前のことを当たり前に言われて。それで”これは筑波だな”と。筑波のほうが絶対に成長できると」進学先を筑波大に決め、5人しか与えられていないスポーツ推薦の枠に合格。そしてこのときからプロへの筋道を立てるようになる。
「すごいメンバーがいっぱいいたんですけど、逆に、ここでレギュラーをとれればプロになれると思いました」
このチームでのレギュラー奪取がプロへ繋がるという思いを持って過ごしたが、初年度は全く芽が出ずに終わる。定位置を掴んだのは2年時だった。



“プロ相手にもやれる”という確信

「ちょうど1年の最後の週、2年になる直前に3-4-3の右サイドのポジションを掴めたんです。(谷口)彰悟くんとか岬くん(上村岬 現ジュビロ磐田)とか(車屋)紳太郎が選抜に行っていたこともあってチームに居なくて。ただ、秀平くんだけ肩を怪我していて、残っていたんですよね。その中で秀平くんが右の前にいて、僕が右のサイドハーフで、2人でうまくやれた。それもあったのか、選抜組が戻ってきてもそのままやれたんですよね。そこで掴んだ感じです。ただ、自分以外はほぼみんなプロに行ける人みたいな状態で、”さすがにいけるかな?”とは思いながらも、これを続けていくことが大事だと思っていました。なので、結果を残すこと、上に行くことを目指していました」
掴んだチャンスに慢心せず、前進を続けていた。しかし、ここで苦難が訪れる。「夏の総理大臣杯で怪我をして。それで、ちょうどその後にスタメンの選手が全員、フロンターレに練習参加に行ったんですよ。あのとき、めちゃくちゃ行きたかった。”あそこで行っていれば変わったかな”とか後で思ったんですけど。結果的に来られたから良かったんですけどね(笑) でもあのときはすごく自信があったので。あの状態を持ってプロの中でやりたかったなと」

 プロの目にとまる絶好のチャンスを逃してしまったが、悔いたところで仕方ない。そのままひたすら個の力を磨き続け、1人1人の選手の技術レベルが高い筑波大学の中でも、その存在感は際立つものになっていった。当時チームを率いていた中山雅雄監督は「嘉大はすごく良いし、チームで一番、フリーな状態で受けることが上手い」と語っていたのが印象的である。そして、その3年時には見る者に”中野嘉大”を印象づけるある試合を迎える。
 筑波大学蹴球部が茨城県代表として臨んだ天皇杯2回戦、相手はJ1の柏レイソル。結果として筑波大学は2-4の敗戦を喫するのだが、中野は自身最大の武器であるドリブルで相手の守備陣4枚を剥がした後にGKとの1対1を制し、同点弾を叩き込んだ。チームは敗退したが、中野個人としてはここで”プロ相手でもやれる”という確信が生まれたという。

「あれはなんだかんだで大きかったのかなと。僕、試合ですごく波があるタイプなんですよ。行ける時はすごく行けちゃうし、ダメな日はダメ。そのいい状態のときに柏戦があたってくれたというのはあります。その前の年にはアントラーズとやって7点くらい取られて。怪我明けで僕は途中から出たんですけど、間で受けても簡単に潰された。本調子だったらもっと行けたと思うんですけどね…。相手に守られてカウンターというのをやられて。そこで土居聖真とか柴崎岳、昌子源とかが出ていたんですけど、その中で”こいつらは違うな”と思いました。けっこうレベルの差を感じて自信が無くなったんですけどね、そのときは。でもレイソルとやって気持よくやれたので、ある程度手応えはありました。」

掴んだプロの道

 時は流れ4年の夏、中野は2年前の”リベンジ”を果たす。「他のチームの練習参加を終えたあと、他の所にも行きたいと監督にも言っていた中で、フロンターレから話が来ました。紳太郎もちょうど練習参加をしていたので、途中から誘って頂いて。」2年の夏に参加を切望してやまなかったフロンターレの練習に2年越しでの参加を果たすと、オファーの話はすぐに届いた。ただ、練習参加時に感じたレベルの高さ、そしてプロ入り後の出場機会を考えたときに即決は出来なかったと語る。それでも、フロンターレを選んだのは理由がある。

「何が求められているのか、何を評価されたら、何ができたら出られるようになるのかというのかが、他ではちょっと解らなかった。でも、出られなくてもダメな理由がわかるのがフロンターレだったので。」中野はこう語る。そして、最後の決断に当たり、両親からは「自分の道なので、自分で決めなさい」とアドバイスをもらったという。その言葉もあって、フロンターレでの挑戦を選んだ。その決断を、感謝の思いを込めて改めて両親にも伝えたのだが「祝福はされました。けど同時に『ここからが大事だよ』と言われたのも印象的です」と中野は振り返る。あくまでもスタート地点に立ったにすぎず、勝負はここから、ということだ。ただそれでも1つ大きなステップを踏んだことは間違いない。そして、先にも述べた通り、兄への感謝の気持ちも多大なものである。「やっぱり、サッカーを続けることが出来たのは兄のおかげなので。それは純粋に嬉しかったです」

そして選んだこの舞台であるが、公式戦出場は未だに果たせていない。それでも、その原因を消化し、課題は見つけられている。
「今までは自分の判断が正しいと思ってやっていたので、その分、遅れることがなかった。自分中心になってやっていて、自分のやりたいことが全部、チームのやりたいことという感じだった。ただ、今は”自分が行こう”と思ったとき、チームは”行かないで欲しい”ということもある。結局自分が取られてしまうのがいけないんですけどね。」

フロンターレは”中野嘉大ありき”のチームではない。今までのサッカー人生のほとんどで周囲が自身に合わせてくれた経験が多かった彼にとって、今の状況は苦しいものでもある。ただ、裏を返せば彼の武器を周囲が理解し、”活かし方”が浸透したときこそ、彼が輝く瞬間だ。「ドリブルでするするっと抜け出すこともあるのだけど、まだまだ出せてない。もっと強気になって自分を出して欲しい」主将である中村からはやや厳しい言葉が飛んだ。だが、中村のこの冒頭の言葉からもわかるように、中野の武器はチームに浸透している。
「あいつが面白いのは、体が当てられない。ドリブルで”すっ”と抜けていく特別な感覚を持っている。今もひょろひょろだけど(笑)、体で飛ばされるシーンはない。そういう部分は才能かなと。まだまだ余裕がないけど、期待している選手」
風間監督もこう口にした。周囲に認められているこの才能を、より一層チームで発揮していってもらいたいものである。

「大学の時からプロ相手にはできるというのはわかっていたんですけど、プロの人と一緒にやるのはまた違うこと。そこはわかっていても、なかなか難しいかなと。でも、わかってもらえたらガンガン行ける自信はあります。そのときはもっと、ドリブルを。やっぱり僕はドリブラーなので。そこに持ち込んでいかないといけないのかなと。ある程度自分が持っていい時間帯が出来たり、持てるようになったときに、それをやれたらなと思っています。」

輝くときは、必ず訪れる。そう信じて、その”時”を待ち続けたい。

マッチデー

   

profile
[なかの・よしひろ]

筑波大学から加入した攻撃的MF。大学時代は攻撃の要としてチームをけん引。足下の高い技術を武器に攻撃のリズムを作り、自らも積極的にドリブルを仕掛けてゴール前に入り込んで行く。チャンスメイクだけではなく個人技で局面を打開できる突破力を生かし、試合の流れを変えるジョーカーとしてプロの世界で輝いてもらいたい。

1993年2月24日/鹿児島県、
阿久根市生まれ
ニックネーム:ヨシ、ヨシヒロ

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