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  • ピックアッププレイヤー 2016-vol.10 / 登里享平選手

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SEASON 2016 / 
vol.10

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Noborizato,Kyohei

苦しんだ先にある笑顔。

DF2/登里 享平

テキスト/原田大輔(SCエディトリアル) 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Harada,daisuke(SCeditorial) photo by Ohori,Suguru (Official)

 目が覚めると、ぼんやりと視界に天井が飛び込んでくる。傍らには執刀医と看護師、さらに数ヶ月後には妻になる彼女がいた。

 全身麻酔の効果が残っているのか、まだ少し意識は朦朧としていたが、登里享平は医師に向かって第一声を発した。
「全治はどのくらいですか?」

 執刀医は答えた。
「全治4ヶ月です……」

 その後も医師は左膝半月板の手術内容について説明を続けたが、登里の耳にはほとんど入らなかった。ひととおり事情を話し終えた医師が部屋から出て行く。堪えていた“思い”が頬を伝って流れた。

「先生が出て行った後、泣きましたね。それまでは耐えていたんですけど、出て行った瞬間に我慢できなくて。事前に先生から説明も受けていて、内視鏡で覗いて見なければ膝の状態は分からないけど、半月板を少し削るだけですめば、短期で全治3週間くらいだろうと。でも、縫合しなければならなかった場合は、長期で全治4ヶ月になるとのことだった。自分としては痛み的にも短期だろうなって、なんとなく思ってたんですよね。それが、目が覚めて聞いてみたら全治4ヶ月。それまですでに何ヶ月間もリハビリを続けてきて、さらにまた復帰までに4ヶ月も時間が掛かるのかって考えたら、堪えきれなくなっちゃって涙が溢れてきた。その日だけですけど、彼女の前で泣きましたね。彼女はそんな僕に『大丈夫。私がついているから、一緒に乗り越えて行こう』って手を握って声を掛けてくれました」

 2015年4月30日のことだった。

DF2/登里享平

 登里は、希望を抱いて2015年シーズンを迎えていた。2014年シーズンも序盤に右膝内側側副靭帯を損傷して離脱したが、中断期間中に行われたキャンプでポジションを奪い返すと、7月15日のJ1リーグ第12節で先発に返り咲く。そこからスタメンに定着すると、シーズンを通してリーグ戦19試合に出場した。

「2015年の日々が濃すぎて記憶が薄れちゃってますけど、ケガもありながら巻き返せたイメージは強かったですよね。それまでは自分のことで精一杯だったのが、年齢的にもキャリアを重ねてきて、チームのことも考えられるようになってきていた。そうした中、2015年にタイトルを獲るためにはチームとして開幕からのスタートダッシュが大事になってくると思っていたので、自分自身もキャンプからしっかり取り組もうって考えていたところだったんです」

 意気込んで臨んだ宮崎県での1次キャンプで、登里は左膝を負傷する。

「そのときのことは覚えてますね。ミニゲームをしていてドリブルで抜け出してシュートを打ったときに、マークに来ていたDFと接触して、そのまま足をもっていかれたんです。痛かったけど、練習時間も残りわずかだったので、実はそのままプレーを続けたんです。夜も痛かったのでアイシングしたり、治療したりしていたんですけど、次の日も痛みが治まらない。急遽、練習を休んで宮崎市内の病院で検査して。ただ、それほど大事には至らないということだったので、ホッとしたのを覚えています。膝のケガって、それまでしたことがなかったのもあって。そのうち、日常生活をする分には痛みもなくなったので、リハビリして練習に復帰しました」

 1次キャンプを終えた麻生グラウンドでの全体練習には合流した。舞台を沖縄に移しての2次キャンプにも参加した。だが、ここから登里は復帰と離脱を繰り返すようになる。少し無理をすると、膝の痛みや腫れがぶり返したのだ。

「練習に復帰して2、3日すると、また痛みや腫れが出て『なんかおかしいな』とは思っていたんですよね。そのうち頭が痛みを覚えていて、練習していても痛みが出ないように無理をしなくなって。いつもみたいに動けないし、プレーも全然、ダメでしたね。自分としてはもう、ただ練習に参加しているだけというか、ただピッチに立っているだけって感覚でした。2次キャンプでもボールがないところで、普通にジョグしていて膝をひねってしまって、また痛めちゃったんです」

 明るい性格で、チームのムードメーカーとして知られる登里だが、さすがにこのときばかりは元気に振る舞うことはできなかった。シーズンが開幕してからも復帰と離脱を繰り返した結果、再検査してみると、手術することとなった。

「手術をして全治4ヶ月と言われたときは、気が遠くなるような期間に思えましたよね。メンタル的には一番やられました。そこからの4ヶ月はほんまにきつかったですね」

 退院した彼に待っていたのは、辛く厳しいリハビリの日々だった。最初は膝が曲がらないため、足に重しを置いておくだけの単純かつ地味な作業からのスタートだった。麻生グラウンドに来ても、ピッチに降りることは叶わない。焦燥にかられ、チームメイトと顔を合わせるのすら億劫になった時期もあった。

「手術した直後は『強くなってまたピッチに戻ってやる』って思いましたけど、毎日、毎日、同じことの繰り返しの中では挫けそうになったこともありました。これを続けていっても本当によくなるのかな、走れるようになるのかなって思ったこともあった。今日、100%の思いでやれても、次の日にはモチベーションが下がってる。維持するのがほんまに難しかったですね。普段は10時からの練習ならば、1時間以上前にクラブハウスに来て準備するんですけど、リハビリ期間中はぎりぎりに来てました。正直、みんなと顔を合わせるのを避けていたところも、ちょっとありましたね。自分でも、自分がチームのムードメーカーだというのは自覚してて、明るく振る舞えないのが分かっていたので、ぎりぎりに来て、先に帰ってました」

 ただ、苦悩する登里を救ってくれたのはともに戦うチームメイトたちだった。

「1ヶ月くらいが過ぎて、少しずつやれることが増えてきて、チームメイトとも顔を合わせる機会が増えてきたんですよね。そうしたら同じようなケガを経験している選手をはじめ、みんなが気にかけてくれて、ご飯に誘ってくれたりしたんですよね。ヨシトさん(大久保嘉人)、コバくん(小林悠)、ケンタロウくん(森谷賢太郎)もそう。コバくんなんてひととおり(ケガを)経験しているので、もう膝師匠ですよ(笑)。これをやったらいいとか、あれが効果的とか、いろいろとアドバイスしてくれました」

 退院直後は松葉杖だったが、2ヶ月後にはウオーキングできるようになり、3ヶ月後にはジョグできるようになった。確実に「前に進んでいる」と実感できたが、ここからもまた長かった。トレーニングの負荷を上げると、膝に水が溜まり腫れるのだ。水を抜いては、また溜まり、水を抜く。いつかその症状も治まるとは言われていたが、繰り返される症状に不安も過ぎった。

 梅雨が終わり、茹だるような真夏がやってきても、登里はピッチに戻れずにいた。彼がユニフォームを纏ったのは、手術から4ヶ月後ではなく半年後──季節は秋に変わっていた。

 2015年10月24日、2ndステージ第15節、対横浜F・マリノス戦で登里は戦列に復帰する。85分、田坂祐介に代わって途中出場すると、等々力のピッチを踏んだ。それはアディショナルタイムを含めて10分足らずだったが、大きな一歩だった。

「そのときも全然、膝の状態はよくなかったんですよね。試合前日に水を抜いたんですけど、それでもすぐに腫れちゃって。試合当日のアップ中にも水が溜まってしまったんですけど、なんとかもってくれって思ってました。膝はそんな状態だったけど、気持ち的には試合に出られただけで全然、変わりました。ピッチに立ったら、それまでの苦しいことがすべてチャラになったっていうか。ほんまに、暗いトンネルをずっと抜けられずにいたので、ようやく出口を、光りを見つけられたかなって。ホームだったので、交代するときにサポーターからすごい声援を受けて、なんかパワーじゃないですけど、力をもらいましたよね。試合は負けている状況だったので、なんとかしなければという思いで、勝っていたら確実に泣いていましたね」

 登里はその翌日に、リハビリ期間中も支えてくれた彼女と入籍した。少し恥ずかしそうに「付き合った日なんですよね」と笑ったが、まるで復帰を祝うかのような幸運が重なった。それでも膝をかばっていたことが起因して、続く2ndステージ第16節の浦和レッズ戦のウォーミングアップ中に右大腿直筋肉離れを起こしてシーズンを終えることになる。ただ、彼がもう後ろを振り返ることはなかった。

「いやー、2015年はほんまに波瀾万丈でしたよね。ただ、手術する前のリハビリに比べたら、肉離れなんてって思えましたよね(笑)。原因もはっきりしているし、時間が経てばよくなるのも分かっていましたからね」

 迎えた2016年シーズン当初もなかなか膝の症状が治まらずに苦労したが、登里の視線は常に前を見据えていた。

「本当は焦らなきゃいけないのかもしれないですけど、ケガをしてからは焦らず自分のペースで行こうって決めていたので、いつかよくなる日が来るって思っていました。深く考えるのはやめようって。昨年、嫌って言うほど考えることはしましたからね」

 好機がやってきたのは、4月6日にアウェイで行われたヤマザキナビスコカップグループステージ第3節のアルビレックス新潟戦だった。リーグ戦との過密日程から大幅にメンバーが入れ替わったその試合に、登里は2列目の左サイドで先発する。

「(試合に出る)チャンスがあるなら、そこしかないと思っていた。もちろん、チームの結果も大事でしたけど、何かしらインパクトを残さないと、今後の出場機会もないだろうなって思っていた。限られたチャンスの中で自分に何ができるか。ほんまにそういう思いが強かったですね」

 8分に先制した川崎フロンターレは、前半だけで3得点を挙げ、5−0で快勝する。「自分としては前のポジションだったので、90分間という考え方ではなく、いけるところまでいこうと思っていた」と話した登里は、足が吊る68分まで全力でプレーした。

 続く4月10日、1stステージ第6節のサガン鳥栖戦でも登里は先発に名を連ねる。彼はチャンスを活かしたのである。川崎フロンターレに加入して8年目、慣れ親しんできたホームに、等々力に、彼は戻ってきた。

「ホームということもありましたし、カップ戦とはまた雰囲気はちょっと違いましたよね。その試合もまだ全然、自分自身のプレーはよくなかったんですけど、充実感というか、サッカー選手としての本来の姿を取り戻せた気がしました」

 膝の痛みや腫れはなくなっていた。不安になることも、気にすることもなく、ピッチを縦横無尽に駆け回ることができる。試合後に感じることのできる疲労感すら心地よく、懐かしさを覚えた。自然とサッカー選手としての本能も呼び起こされていく──。

 サガン鳥栖戦には1トップの2列目で出場したが、第8節の浦和レッズ戦では左SHでピッチに立った。続く第9節のガンバ大阪戦では左ではなく、なんと右SBで出場。第10節のベガルタ仙台戦に至っては左SBでスタートすると、後半には左SHにポジションチェンジするなど、さまざまなポジションにトライしている。

──もはや試合に出るだけでは満足しなくなっていた。

「試合中にポジションが変わると、多少見える景色も変わりますけど、風間(八宏)さんが監督になって5年目ですし、チームのやり方やポジショニングは理解しているつもりです。自分が求められていることは常に考えているし、どこで出ても変わらない。それにSBもSHもやっているのが、プラスになっているんですよね。SBが高い位置を取れば、SHが空くし、SHが中に入れば、SBのところが空く。両方のポジションでプレーしているからこそ、相手の嫌なポジションを取ることもできる。例えば、SBが攻め上がって残っていても、自分にはSBの意識もあるから、そのスペースを埋めてあげることもできる。それは自分の強みですかね」

 第11節の柏レイソル戦には左SBとして出場した。チームは3−1で勝利したが、登里は幾度も左サイドを突破してクロスを上げるも、アシストを記録することはできなかった。試合中には何度も大久保嘉人から「ここにパスを出せ」「このタイミングで寄こせ」とジェスチャーされたが、その要望に応えることができなかったのである。

「柏レイソル戦ではめっちゃ言われましたね(笑)。質なんですよね。ヨシトさんからは、目線であったり、細かい仕草で、どこにボールを欲しがっているかを理解しろって言われます。周りからしたら、感情的に叫んでいるように見えるかもしれないですけど、実は違う。ヨシトさんは細かく要求している。だから、パスの出し手となる自分がそれに合わせなきゃいけない」

 柏レイソル戦を終え、第12節のヴィッセル神戸戦へ向けたトレーニングが始まると、登里は大久保に声を掛けられ、居残りでの練習を行った。そこではクロスの質はもちろん、タイミングなど、ゴール前でのイメージを徹底的に共有した。試合前日の夜には、同じテレビ番組を見ていたこともあって、何気なくLINEでやりとりしていると、最後に大久保からこうメッセージが送られてきた。

「明日の試合でオレにアシストできるように、今日はもう早く寝ろ」

 登里も「お疲れ様です。明日、アシストします」と返事した。ヴィッセル神戸戦は2列目で出場したこともあり、63分に大久保のゴールをアシストするも、練習とは違う形だったため、「自分としてはカウントしていないですね。やっぱりクロスからアシストしたいですよね」と話す。大久保が強く要求するのも、居残り練習に誘うのも、期待に応えようとする登里の“欲”を感じ取っているからだろう。

 チームの勝利に貢献する目に見える結果を残したい。複数のポジションで起用されていること、さらにチームへの思いが、今、登里に新境地すら開かせようとしている。

「2列目をやるようになったからってわけではないんですけど、昔はサイドでプレーしていても、中に入っていくのが嫌だったんですよね。それこそセキさん(関塚隆)が監督のときにも言われてました。それでも中に行くのが嫌で、SHからSBになったときも、中に行かなくてすむから良かったって思ったくらい。サイドからスピードに乗ってドリブルで勝負できるから、守備さえ鍛えればSBのほうがいいかなって」

 今は、そうした考えは微塵もない。SBであろうがSHであろうが、それこそ2列目でプレーしようが、中に切れ込んでゴールに絡む仕事がしたいと挑んでいる。

「生き残っていくためですよね。選手として。どんどん成長したいと思うし、プレーの幅を広げていきたい」

 すべてはあの1年があったからだ。辛く苦しい時間も決して無駄ではなかった。

「ケガした1年が大きかったのかもしれないですね。すべてはつながっているんです。プレーすることができなかった間、試合を俯瞰して見ることも多く、チームには良いときもあれば悪いときもあって、自分なりにすごく考えさせられましたし、勉強になりました。性格的にもムードメーカーって言われていて、自分でもそれなりに自覚していますけど、良いときも悪いときも、チームをいい方向に持っていけるような、なんていうんですかね、そういう存在になりたいなって、今は思います」

 川崎フロンターレは2016年、クラブ創設から20周年を迎えた。その節目に際して、現役選手である登里も、伊藤宏樹や中村憲剛とクラブの歴史を振り返る機会が増えた。

「なかなか観客が入らなかった時期があることや、J2降格を経験したこと。クラブの歴史に触れ、OBの方々が築いてきてくれたからこそ、今のフロンターレはある。その歴史を自分も紡いでいきたい。この20周年という節目のためにすべてを取っておいたという形にできたら、最高にかっこいいですよね」

 苦しかった日々も今では笑って振り返ることができる。それこそが成長の証だろう。

「自分も中堅なので、もっと中心選手になっていけるように試合に出続けていかなければならないですし、いつまでもゴマをすっているのではなくてね。ゴマをすられる存在にならなきゃいけないですよね(笑)」

 笑いを取ろうとするのはいかにもムードメーカーらしい。長く愛されるため、クラブの歴史に名を残すため、彼は新たなる一歩を踏み出した。その歩みは、その笑顔は、常にフロンターレとともにある。

マッチデー

   

profile
[のぼりざと・きょうへい]

一瞬で相手のマークを外す瞬発力が最大の武器のアタッカー。献身的に左サイドを上下動しながら攻守に貢献する。昨シーズンは序盤から怪我に悩まされ、ほぼ出場なしと不本意な結果に終わった。オフシーズンにコンディションを整え、復活にかける2016年。クラブハウスではムードメーカー的存在でもある元気な姿を、等々力のピッチで見せてもらいたい。

1990年11月13日、大阪府
東大阪市生まれ
ニックネーム:ノボリ

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