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  • ピックアッププレイヤー 2017-vol.03 / 知念 慶選手

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導かれた可能性

FW20/知念 慶選手

テキスト/隠岐 麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Oki,Marina photo by Ohori,Suguru (Official)

 この物語は、沖縄出身のひとりの青年が、どう導かれて川崎フロンターレでプロ選手となったかを描いたものである。

海とサッカー

 知念慶は、1995年3月17日、沖縄県で生まれた。父・徹と母・たか子は、「よろこびがあるように」という願いを込めて、命名した。2歳年上の長男・良も含めて、父が運転する車を20分程走らせ、よく海に出かけ、シュノーケリングをしたり、泳いだり、沖縄の海は常に生活とともにあった。父と慶はふたりで、よく釣りに出かけた。

「とにかく小さい頃から海に行くのが好きで、釣りも大好きでした。家族で私の釣りにつきあうのは慶だけで、彼は私が教えなくても、友達から教わってきたり、テクニックを覚えて探究心がありました。高校生ぐらいになると、私よりもうまくなっていましたね。あとは、集中力が続いて黙々とやっていました。小さい頃から、あれこれ言ったことはあんまりなくて、宿題とかも自分で計画してやるようなところがありましたね」(知念徹)

 サッカーを始めたのは小1のことだった。兄が地元のクラブ「北丘FC」に加入することになり、ほぼ同時期に弟の慶も入ったからだった。小学校時代のポジションはDFで、友達と楽しくサッカーをし、それは知念いわく「遊びの延長ぐらいの感じだったのではないか」という記憶になっている。本人は、どうやら無意識なのかもしれないが、釣りでも発揮していた集中力や探究心が表れているエピソードを父はよく覚えている。

 警察官の父が当直夜勤明けで翌日昼頃帰宅して寝ようとすると、自宅の車庫から壁にボールが当たる「ポーン、ポーン」という規則正しい音がよく聞こえてきたという。

「慶が自分で壁に丸くテーピングを貼って、そこに右足、左足で蹴る練習をよくしていましたね。寝ようかなと思うとその音が聞こえてきて、『今日も頑張ってるな』と思ったことを覚えています。今でもその跡は残っていて、耳にもその音が残っているんですよね」(徹)

 父と本人の記憶が一致しているのは、運動神経や身体能力がずば抜けて高かったわけでもないし、足も特別速かったわけではないということだ。

「ボールの扱いは、小さい頃からうまいと感じましたけど、身体能力に関しては私自身感じてなかったですね」(徹)

 小学校を卒業し、中学に入ると、部活動でサッカー部に入る。そこでも知念に「何が何でもサッカー」というほどの強い思い入れはなく、「部活はみんながやるものだし、わざわざ変えるのもなぁというのと、友達もいっしょだったから」という理由が大きかったと振り返る。

 さらに、中学時代は、それまでの楽しい遊び感覚の延長戦上でやっていたサッカーから、陸上のような走りが中心の練習になり、ゲーム形式でプレーがしたかった知念は、サッカーに対する気持ちが少し薄れてしまう。とはいえ、友達と一緒にいたいという気持ちや、両親にそのことを話すという気持ちのハードルを考えると、それが「面倒くさい」と感じる性格で、サッカー部をやめるという決断には至らなかった。

「Bチームに落とされてダラダラやっていた時期もあったけど、中3になって、進路を考えた時に、兄ちゃんが那覇西高校でサッカーをやっていて『高校サッカーいいよ』と聞いていたし、高校でもサッカーがやりたいなと思うようになりました」(知念)

FW20/知念 慶選手

 知念が進学したのは、自宅から自転車でも通える距離だった知念高校で、サッカー部に入部をする。1年生からAチームに入った知念だったが、中学時代とは違った高校サッカー部の上下関係の厳しさを味わった。「早く上級生になりたいな」と内心思ってはいたものの、サッカー自体は再び楽しく感じられるようになっていた。

 高校時代は、知念中心のチームでもあったため、ポジションは、何でも出来るがゆえにチーム事情で攻撃に入ったり、守備に入ったりと様々だった。2年の時に、沖縄県のインターハイ県予選で準優勝をしたのが、高校時代の最もよい戦績である。

「そこまでいけて、その後もいけると思ったけど、選手権は県大会1回戦で負けてしまいました。先輩たちがいい人たちだったので、悔しかったです」(知念)

 高校3年になると、半分ぐらいの生徒は夏のインターハイが終わると受験のために引退をする。実は、知念は関東大学リーグの強豪大の練習に参加し、能力的にはそこに入れるだけの力はあったが、規律や厳しさに自分は順応できないだろうという結論を出し、入部に至らなかった。

 その後、インターハイ後に一度、受験勉強のためにサッカー部を辞めている。その頃、父には慶が迷っているように見えた。「やめて何をしていいかわからないように見えたし、私からみると、慶の生活の楽しみは『海とサッカー』で、おそらくそれは子どもの頃から今現在まで変わっていないと思います。だから、1ヵ月ぐらいふわふわしていましたけど、またすぐ部活(サッカー)に戻ることになったんですよね」(徹)

 そして再び選手権を目指したが、その年も1回戦で敗退し、そこで高校サッカーは終わりを告げた。

「相手も弱かったんですけど、そこにも勝てない。こんなもんか。あっけなさすぎて悔しいより情けなかったです。選手権に出られるとは思っていなかったですけど、せめていいところには行きたかった。沖縄はレベルが低いですけど、そこでも優勝を狙える力はありませんでした。その頃は、自分がプロなんてまったく目指していないですし、サッカーに対して向上心はありましたけど、つきつめてやっていたわけではなく、ただひたすら能力だけで当時はやっていたと思います。自分がいる環境の中で、部活もそれなりに頑張っていたし、高校生活も楽しかったし、だから悔いとかはなかったです」(知念)

 サッカー部に復帰するとともに、知念は進路のことも模索していた。大学に進学して、その後に沖縄に帰って就職をしようか。父や祖父の仕事である警察官になろうか。夏に一度引退した時に、塾に行こうと思ったが、普通に受験するには遅すぎる。「いまさらサッカーしかやっていないのに授業が終わってから何時間も勉強するのは耐えられないだろう」とも思った。そこで、高校の進路室でいろいろな情報を調べたりアドバイスをもらい、自分が受けるべき大学探しを始めた。

「自分の学力で行けて、サッカーもやろうと思ったので、関東や関西はレベルが高いから東海がいいのではないか、など絞っていって、2校受けることにしました」(知念)

 2校受けたうち合格した1校が、愛知学院大学だった。

「それでいいか、と」(知念)進路が決まった。

 高校を卒業したら県外に出ようとは思っていたが、いざ沖縄を離れるとなると知念に寂しさが募った。ちょうどほぼ同じタイミングで長男の良も就職のため沖縄を離れることになったので、両親もまた寂しさから犬を飼った。

巣立ち

 実際に大学生活が始まると、最初の半年は生活に慣れることが大変だった。沖縄を離れたことに加えて、はじめてのひとり暮らし。洗濯や掃除、知り合いが誰もいないところからのスタートだった。

 愛知学院大学の監督・境田雅章の元に、沖縄出身の初対面の青年が突然やってきた。

「サッカー部に入りたいんですけど」

境田が見ると、特別に身体の大きい子ではなかった。サッカー部として門戸は開いていたので、身体能力テストをクリアし、しばらく一緒にサッカー部で練習をさせながらプレーやコミュニケーション能力をみて、「特別に何かすごいというよりも、そつなく普通にやれるな」と感じた。

「いいよ。やる気あるか?」と知念に聞くと、「頑張ります」と答えが返ってきて、そこで入部が決まった。

 こうして、愛知学院大学のサッカー部に入部が決まった。

 当然Bチームからのスタートだったが、Bチーム中心で戦うIリーグ(Independence League)で得点を重ね、チームも全国大会に出場し、頭角を現し、境田の目に留まった。

「面白いな、と思いました。本人は声を出すタイプじゃないけれど、プレーは落ち着いていて、安定感や安心感がある。キープ力とか難しいボールでもボディバランスで受けられたり、調整能力が高いと感じました」(境田)

 12月にはインカレに出場するAチームに合流すると、そこからは東海リーグなどにおいてもコンスタントに結果を出すようになる。2年の夏、全日本大学トーナメント準々決勝の関西大戦で、2回しか打たなかったシュートが、いずれも入って2ゴールを決めチームの勝利に貢献した。しかも、この時の2点は利き足ではない左足。東海地区で名を知られるようになったキッカケとなった。2年時には東海リーグで得点王、3、4年時は得点ランキング2位、2、3年時には東海学生リーグのベストイレブンにも選出され、選抜やデンソーカップに選ばれるなどコンスタントに活躍するようになっていった。

 進路室で、まったくわからないところから調べて受けた大学だったが、知念のサッカー人生において、この選択は非常に大きかったと言える。

「大学に入った時は、周りは強い高校からきていたし、先輩もうまい人が多かったので、そういう環境でやるのは新鮮でした。高校まではただやっていれば試合にも出られていたのが、最初はBチームのままかもなって考えていました。ただ、自然に周りのレベルがあがって自分もあがっていったし、本当にたまたまが積み重なって大学に入って、監督も縛らず選手に自由にやらせてくれるスタイルだったので、それも自分に合ったし、サッカー部がやりやすい環境で、いいメンバーと過ごせたのは良かった」(知念)

 そういう「自分の肌に合った」環境のなかで能力を磨いていき、本来持っていたものが出せるようになったとともに、結果も伴っていくようになったのだろう。ヘディング、左右両足、どこからでもシュートを決められるようになり、自信がついていく中で、「自分の強みはこういうところなのかな」と知念は感じられるようになってきていた。だが、この頃も「プロ」と自分を結びつけて考えたり、目標にするようなことも、まだなかった。

 境田は、こんな話をしてくれた。

「知念の場合、高校もトップクラスだったわけではないので、自分はそこそこやれていたけど、本来の自分の力がどこにあるか、全て引き出せていたわけじゃないのでわからないまま、たまたまうちに来ました。大会に出たり、結果を出せたり、やっていて楽しく、点が入る。注目されるなかで、本人も前に進み出したんでしょうね」(境田)

動き出した人生

 周りの大人たちは、本人とは違った見方を知念に対してするようになってきていた。

 父の徹は、慶がテストを経て愛知学院大学サッカー部に入り、徐々に試合に出るようになると、東海地区の選抜チームに選ばれ出場したデンソーカップなど何試合か足を運んで観るようになった。そこで、「私はもちろんサッカー経験はないですけど、もしかしたら」と感じたのだという。つまり、全国でも通用する息子のプレーを見て、大学を卒業した後に、プロとしてサッカーを続ける次のステップがあるのではないか、という直感だった。一度だけ、本人に「卒業後にチャンスがあるならやってみたらどうだ?」と話を振ってみたが、「そんなこと言わないでくれ」と返ってきた。

「おそらく、本人はまだそういう考えがなかったのでプレッシャーに感じたんじゃないですかね。ただ、その時に私が思ったのは、もし、そういうチャンスがいつか来ることがあったら、本人が迷わないように背中を押そうと決めました」(徹)

 監督の境田は、学年があがり、プロでもやっていけるのではないかと徐々に感じるようになっていったという。

「ボディバランスと得点感覚に加えて、シュートを打つ意欲が増していったんですね。そういうプレーをし出したということ。また、そういう立場になってきたこともあり、リーダーシップも発揮できるようになってきました。フロンターレの向島さんや他のクラブからも声をかけてもらい、練習に参加させてもらったり、そういう環境を作ってくれたのは大きかったですね。何もなければ、普通に楽しくサッカーをして就職をして、というので終わっていたかもしれません。見てくれている人がいたのは大きかったですね」(境田)

 境田は、現役時代に日産自動車(当時)でプレーしていた元選手であり、その後、横浜マリノス(当時=現横浜F・マリノス)や名古屋グランパスでスカウティングの仕事も経験した人物である。名古屋時代に本田圭佑や豊田陽平獲得にも携わった。そういう境田の経験値も、知念だったらやれるのではないかという自分の感覚の後押しにもなった。

「あとは、本人が選抜に選ばれてプレーしたり、Jクラブの練習に参加させていただいて、そこで意欲とか自信がついて、こういう中に自分はいられるんだということを感じられたということだと思います」(境田)

 フロンターレのスカウティング担当の向島建は、知念が大学1年の時にプレーを見たのが記憶に残る最初の印象だ。「まぁまぁ面白いな」という感想とともに「知念高校の知念」と頭に残った。その後、2年、3年になり「知念高校の知念」を特別に見ていたわけではなかったが、頭の片隅にはあったという。

「順調そうだし、身体も大きくなったし、点も獲るなぁとは思っていました」

 知念が3年の時、フロンターレはセンターフォワードを探していたが、なかなか合う選手が見つからずにいた。そんな時、向島の頭に「知念高校の知念」が浮かんだ。

 それから知念が4年生の年には、通常は関東、関西リーグがスカウティングの主戦場といえるが、向島は足しげく東海リーグにも顔を出すようになった。

「こじあけてシュートを打ったり、ディフェンスを外してシュートを打ったり、ゴール前で崩れた体勢からでも決められたり、ヘディングも自分より身長が高い選手にも競り勝つし、身体能力も高かった。しなやかだし、シュートがうまい」(向島)

 そこでフロンターレは知念獲得に向けて動き出し、練習参加のオファーを出した。ところが、である。なかなかこの申し出に知念が首を縦に振らなかったようだ。向島は「テストとかいろいろ理由があって、すぐ来れなくて、なんでだろうと焦りましたね」と、当時を振り返って苦笑した。

 結果的に、知念が大学4年の秋、フロンターレでの練習参加を経て正式オファーを出すことになる。ところが、知念の方は、この展開に少しの戸惑いもあったという。

「それまでにもいくつかのクラブや企業から練習参加の声をかけてもらっていて、実際に参加させてもらいました。フロンターレの練習参加の話を最初、監督から聞いた時『無理です』と言ったんですよね。『まあ1回行ってみろよ』と言われ、3日ぐらい練習に参加させてもらいました。でも、シンプルにこのレベルでは無理だと思いました。サッカーの質も高いですし、自分には通用しないと思いました。でも、相談したサッカー関係者は皆、フロンターレに行けば、今持っている能力に加えて、足りていないものも伸ばせるから行ったほうがいいと言われました」(知念)

 大学3、4年になって、やっと「卒業後もサッカーを続ける」という進路を現実的に考えるようになった知念にとって、それまでの自分と、現実に自分自身に起きたことを理解するのにギャップがあった分、それを受け入れるのに多少の時間がかかったということなのだろう。いくつかのクラブからのオファーもあり、その中でフロンターレからも熱心な話をもらった。冷静に考えれば、J1リーグの上位チームからの獲得のオファーである。気持ちは固まっていた。

 父・徹の元に慶から1通のメールが届いた。

「話があるから、後でスカイプしよう」

 おそらくいい話であり、重要な話なのだろうと思い、妻と一緒に聞くことにした。

「予想以上のいい話でした。私はJ2でもJ3でもやれるチャンスがあるなら、どこでも背中を押そうと思っていたのですが、もっと上のフロンターレからお話を頂けるとは信じられませんでした。本人は、言葉では少し迷いがあるような感じでしたが、表情は喜んでいたのが、分かりましたね。顔が喜んでいましたから」(徹)

 こうして、知念慶のフロンターレ入りが決まった。

出会いと環境

 知念は、フロンターレ加入に至ることを、「運とタイミング」だと何度も強調した。

「関西とか関東の大学だったら違ったと思いますけど、東海地区だったから、ちょっとしたキッカケで目立てたし、自分もポッと出の沖縄から来た身体能力が高いだけの選手だったのが、東海リーグだから活躍できた。関東、関西だったら消えていたかもしれない。大学でも、俺が俺がってタイプじゃないし、2年で注目された時も周りが活かしてくれたからやらせてもらった。本当にいろんな運やタイミングが大きかったです」(知念)

 今回、知念の取材を通じて、知念がプロ選手になるに当たって、周りにいた大人たちとの出会いが非常に大きかったと感じた。向島や父・徹、境田が話してくれたことで、知念自身の輪郭が見えてきたのは、そのためだろう。

 プロ選手の生い立ちを紐解くと、プロになりたいという本人の強い思いが先にきて、という選手がほとんどだろうし、そこにはまだ幼心ながらに持つ根拠のない自信や、その信じる力の強さが努力を生み、夢を現実のものにしていく推進力になっていく。

 だが、知念の場合は、周りにいた大人との出会い、見てくれて、認めてくれる人との出会い、そこに本人の気持ちや自分にも出来るのかもしれないという自信が重なりあって、能力が引き出され、タイミングがピタリとあって今があるように思う。また、徹も境田も向島にも共通しているのは、本人よりも先を見て気付いていても、それを押しつけるのではなく、可能性のヒントを与えた上で、本人の気持ちが整うのを待って、その背中を押してくれたことも、知念のことを信じ、よく理解してくれていたからだろう。

「“場が人を作る”ということもあるでしょうね」と境田は表現したが、まさに言いえて妙である。

「本当の自分が何なのか、まだ本人も気持ちを模索しているところでしょうし、まだわからないのかもしれません。今の環境があって、ブラッシュアップしたところで、本当の姿が見えてきたり、自分が持っている落ち着きとか、周りを安心させる、いい部分に気付いて俺ってこういうことができるのではないか、と気づくんじゃないでしょうか」(境田)

 おそらく、新体制発表会見の時に、大勢のサポーターの前で挨拶をする自分のことを、自分のことであっても起こった現実が夢のように感じてしまう瞬間が知念にはあっただろう。

 客席の家族席でみていた両親にとっても、そうだっただろう。

 「本当に運とタイミングに恵まれました」と知念は言うが、もちろんそれは偶然の産物ではなく、彼自身の集中力やコツコツ続けることができる力があったから生まれたものである。

 また、知念と父・徹が「身体能力は、元々は高くなかった」と口を揃え、どこにそのバネや強さを隠し持っていたのか、その理由がずっとわからなかった。

 すると、境田がその理由を教えてくれた。

「ボディバランスやコーディネーション能力は、12歳までに出来ると言われています。小さい頃にお父さんに釣りとか海とかいろんなところに連れていってもらって、ボールに触るだけじゃない、身体能力のベースを沖縄で培っていたはずですよ。後からつくものではないですから」(境田)

 コーディネーション能力とは、1970年代に旧東ドイツのスポーツ運動学者によって提唱された理論で、「リズム能力」「バランス能力」「変換能力」「反応能力」「連結能力」「定位能力」「識別能力」の7つの能力のことを言う。スポーツをやるうえで、この7つの能力を同じ場面で複数使うことになり、サッカーにおいても、ドリブルやヘディングの場合などを例にとると分かりやすいだろう。

 つまり、沖縄の環境や両親との生活もまた、今の知念につながっていたのだ。

 知念のフロンターレ入りが決まって、遠く離れた沖縄の家族はもちろん、祖父母、友達、母校、友達のお父さん、お母さん、皆が喜んだという。

 今、知念の新たな扉は開いたばかり。

 これから先、サッカー選手として、可能性は無限に広がっている。

profile
[ちねん・けい]

愛知学院大学から加わった沖縄育ちのFW。大学時代に頭角を現し複数クラブから高い評価を受け、フロンターレに加入。ペナルティエリアに入った際の動き出しの鋭さや空中戦の強さ、どんな体勢でもシュートに持っていく積極性とセンターフォワードとしての素材は一級品。その潜在能力を開花させるべく、日々のトレーニングからサッカーを突き詰めてもらいたい。

1995年3月17日、沖縄県
島尻郡生まれ
ニックネーム:ちねん

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