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  • ピックアッププレイヤー 2018-vol.06 / FW9 / 赤﨑 秀平選手

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赤﨑 秀平選手

憧憬〜僕がここにいる意味

テキスト/原田大輔 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Harada, Daisuke photo by Ohori,Suguru (Official)

クラブハウスの一室で赤﨑秀平と向かい合ってから1時間以上が経過していた。こちらが投げかける質問に対して、赤﨑はときに首を捻って考え込み、ときに声を出して笑いながら、一つひとつ丁寧に答えてくれた。そんなインタビューも終盤に差し掛かったころだった。赤﨑が絞り出すように言葉を紡ぐ。それはむしろ、口から“想い”がこぼれたと言ったほうがいい。

「やっぱり……ここ……川崎フロンターレで結果を出したいんですよね。僕は……ここで結果を残さなければ意味がないんです……」

 これまでの歩みを聞いてきたからこそ、その言葉が、その想いが痛いほど、こちらの胸に突き刺さった。思わず語りかけていた。それだけの覚悟を持ってフロンターレに来たんだね、と。すると赤﨑は黙って、深く頷いた。

 赤﨑は1991年9月1日、鹿児島市内で生まれた。

ただ、中学校の教員をする父親が赴任していた口之島で、3歳までを過ごしたという。トカラ列島の最北に位置する口之島は人口わずか100人強。さすがに当時の記憶はないというが、「島の貴重な新生児として大切にされていたみたいです」と赤﨑は笑う。

「父親が教師だったこともあって、いわゆる転勤が多かったんですよね。生まれたとき以外、さすがに島に住むことはなかったですけど、県内のあちこちに引っ越しました。だから転校は、小学校だけでも3回、中学校でも2回経験しました。それもあって子どものころは、絶対に引っ越ししなくていい職業に就くんだって、親に宣言していたんですけど、移籍があるサッカー選手を選ぶんですから不思議なものですよね」

 そんな赤﨑がサッカーに出会ったのは、口之島から串木野市(現・いちき串木野市)に引っ越した3〜4歳のときだという。

「隣の家に住んでいた友人の影響だったんですよね。3つ、4つ、年上の子なんですけど、ずっと一緒に遊んでいて。その人がサッカーをやるって言い出したので、自分も一緒にサッカーをやることになったんです。そこが高校サッカーでも知られている神村学園の幼稚園だったんですよね。女子サッカーも強くて、その人たちが僕ら幼稚園生を教えてくれたんです」

 朧気な記憶ながら「楽しかった」と赤﨑は回想する。そこからサッカーにのめり込んでいったのかと思ったが違った。

「串木野小学校に進学してからは、隣の家の人もそこでプレーしていたので、自分も学校の少年団に入ったんですけど、小学3年生のときに、親の都合で転校しなければならなくなったんですよね。さすがに少年団にも通えないからやめるしかなくて……。だから、小学3年生からの2年間は、サッカーをやっているようでやっていないような感じでした」

 転機が訪れたのは、再び転校を余儀なくされた小学5年生のときだった。

「(親は)どこかで気にしてくれてたんですかね。しっかりとした指導をしてくれるクラブチームがあるからと言って、連れて行かれたのがパルティーダ鹿児島でした。学年は1つ年下ですけど、フロンターレにいた(中野)嘉大(現・ベガルタ仙台)がすでにプレーしていて。

 子どもの頃から、あいつはホントうまくて、監督からも、嘉大の真似をするようにと、みんなの手本になるような選手でした。自分もそれに習って、嘉大の真似をするようなタイプでした」

 そこに赤﨑の原点がある。彼は中野だけでなく、先輩たちのプレーを見ては真似ることを繰り返し、そして吸収していった。加えて、パルティーダ鹿児島が、とことん技術を大事にするチームだったことも奏功した。

「大袈裟に言うと、パルティーダはドリブルばっかりするようなチームで、パスやシュートが禁止だったんです。大事な試合では解禁されますけど、公式戦でも基本はドリブルだけ。そんな超・異質なチームでした。GKからショートパスを受けたCBが後ろからひたすらドリブルで相手を抜いていくみたいな。ボールを持っていない選手は、その後ろでサポートして、ボールがこぼれたら、誰かが拾って、またドリブルをしていく。シュートするよりも、GKを抜いてゴールを決めるプレーを目指すようなチームでした」

 小中学生が一緒に練習する環境は、毎日が小さな挫折の連続だったという。

 同年代を相手に突破できても、上級生を相手にすれば止められてしまう。必然的に考え、工夫する癖が身についていった。個の技術をひたすら追求していたパルティーダ鹿児島だが、学んだのは技術だけではない。恩師である筒悦郎氏からはチームワークの大切さも教わった。

「自分たちの世代は、1つ下に嘉大がいたこともあって、県内の大会で優勝するだけの実力はあったんですよね。でも、同級生数人がいわゆるサッカーノートを提出するのを忘れたことがあって、それを理由に監督が大会への出場を取りやめたんです。チーム全体の連帯責任だと言って。チームがひとつになっていないのに、大会に出場して、たとえ優勝したところで価値はないと言われました」

 小学校時代の出来事だというが、鮮明に覚えているという。そこでチームとして戦う姿勢であり、マインドを学んだと赤﨑は言う。

 なぜなら、赤﨑は孤独だったのだ。中学生になろうかという時期に、再び転校した彼はパルティーダ鹿児島の練習に通えなくなった。引っ越した先からは車で片道2時間。さすがに毎日の送り迎えを親に頼むことはできない。だからといって小中一貫のパルティーダをやめたくはない。そこで赤﨑が取った行動が驚きだった。

「中学生になってからは、平日は自主練だけだったんですよね。弟も一緒にやっていたんですけど、正直なところ、あまりやる気がなかったので、ほぼ一人。公園で練習していたのでシュートもできなければ、ロングパスもできない。だから、コーンを並べて、自分でメニューを考えて、ドリブルの練習をしていましたね。今考えると、これってすごいことですよね?(笑)」

 その光景を想像して思わず絶句した。多感な中学生である。誰かが練習を見てくれているわけでもなければ、諭してくれるわけでもない。自分に甘くなれば、いくらでも手を抜くことはできる。それでも……。

「クラブからもらってきたコーンを10個くらい並べて、いろいろなボールタッチで抜いていく練習を、両足でやったり、左右どちらかの足だけでやったり、毎日ちゃんとやっていましたね。何だろう。手を抜くとか、やらないとか。そういう気持ちは全く沸かなかった。たぶん、弟は自分よりは才能があったのに、どこかで、そういう気持ちがあったんだと思うんですけどよね。僕はそれを見て何でちゃんとやらないんだろうって思ってましたから」

FW9 /赤﨑 秀平選手

 土曜日の朝になると、親に送ってもらいパルティーダ鹿児島の練習や試合に参加する。その夜はチームメイトの家に泊まり、翌・日曜日も試合などをこなして、夜、自宅に帰る。ここにも赤﨑の原点があるように思える。孤独だったことも、そして考えることも……。

「佐賀東高校には、筒監督の強い勧めで行くことになりました。自分は鹿実(鹿児島実業高校)に行きたいって言ってたんですけどね(苦笑)。鹿実のあの赤いユニフォームに憧れていたのに、進学した佐賀東はがっつり青のユニフォームでした(笑)。

県外に出るので、当然、親元を離れて寮生活しなければならなかったんですけど、行く前からワクワクしてましたね。だって毎日、みんなとサッカーできるんですよ。しかも、3年間、同じチームメイトとプレーできる。それまでずっと自主練ばかりだったので、みんなと練習できるのが楽しくて仕方がなかった」

 赤﨑は飢えていた。ちょっとしたパス交換も、何気ないシュート練習も、すべてが喜びだった。

「寮生活をするようになって、洗濯や掃除も自分でやらなければいけなかったから、親のありがたみや寂しさを感じることもありました。寮では、サッカー部だけでなく、柔道部や水球部の学生30人くらいで生活していて、二段ベッドだったので、自分のスペースなんて、これくらいしかないんですけどね」

 そう言って赤﨑は、両腕を前に出すと肩幅くらいに広げて笑う。話は少し逸れるが、そのとき、寮監をしていたのがチームの主務を務める清水泰博だというから、フロンターレとの縁を感じずにはいられない。

「実はFWになったのは、高校になってからなんですよね。小学6年生のときはセンターバックでしたし、中学3年生のときはボランチ。

 中学生のときに佐賀東の練習に参加させてもらっていて、練習試合でたまたまミドルシュートを決めたんですよね。それもあって佐賀東の蒲原昌昭監督が自分に関心を持ってくれたみたいなんですけど、そこからFWで起用されるようになったんです」

 ここで大きな挫折が待っていた。FWでプレーするようになると、子どものときから磨いてきたドリブルが通用しなくなったのである。

「部活の練習でも、相手を抜けなくなったんですよね。嘉大は今も子どものときと変わらぬプレースタイルを貫いてますけど、自分にはドリブルの才能はないと思った。それで考えに考えて、動き出しの速さで勝負しようと思った。そこに気づいてからは、チームにパサーが多かったこともあって得点が取れるようになった」

 ポジションも、プレースタイルも劇的に変わったが、ひとり練習内容を工夫していたように、考える習慣や癖は無駄にはなっていなかった。

 高校では3年連続でインターハイに出場、うち2回がベスト4という好成績を残した。また選手権にも2度出場し、いつしか赤﨑は、超高校級ストライカーと呼ばれるまでに成長していた。そんな高校サッカー界屈指のFWに、浦和レッズからオファーが舞い込む。

「手が届くんだと思ったら、めちゃめちゃ悩みましたよね」──夢に見ていたプロサッカー選手になれるかもしれない──。

「浦和の練習には2回参加させてもらいました。ちょうど(同世代の)原口元気もトップチームで練習していて、負けん気の強さもそうですけど、いろいろと(自分の未来を)考えていることに刺激を受けました。

監督にも、親にも相談しましたし、期間でいえば1〜2週間程度だったかもしれないけど、本当に悩みました。

そのときはプロのクラブからオファーをもらえたけど、4年後も必ずオファーが来るとは限らないですからね。あとは、筑波大学の練習にも参加させてもらっていて、風間(八宏)さんのサッカー観に強く感銘を受けたんですよね。ボールをつなぐサッカーが好きなこともあって、それを風間さんに伝えたら、『オレはそういう考え方じゃない』って一蹴されましたけど(笑)。

 あのときは何にも分かっていなかったんですよね、自分。それもあって浦和からオファーをもらう少し前に、筑波大学に願書を提出してしまっていたんですよね。結局、ちょっとここは自分の頑固なところもあるんですけど、すでに願書を出してしまっていたこともあって、筑波大に行く結論を出したんです」

 その選択は決して間違いではなかったという自負がある。それほどに大学での日々は刺激に満ち溢れていたし、今なお赤﨑のサッカーに対する礎となっている。

「同級生にはショウゴ(谷口彰悟)もいたし、ケンタロウくん(森谷賢太郎)もうまかったし。1年生のときは一番面白かったですね。とにかく練習についていくのに必死でした。その上でゴールも取れて、1年目にして得点王を取らしてもらった。2年目以降は、そんな自分と戦っている部分もあって、どちらかというとモチベーションを保つのが難しいところもありました」

 小中高とそうだったように、大学時代もまた、自分より能力の長けた人たちから吸収して成長してきた。

 そして、超高校級FWは、大学生になっても存在感を発揮。1年生だった2010年だけでなく、3年生の2012年にも関東大学リーグの得点王になった。ユニバーシアード日本代表にも選ばれ、2013年大会はそこでも得点王に輝いた。

そんな赤﨑が、プロの第一歩として選んだのが、鹿島アントラーズだった。

「大学まで一度も優勝を経験したことがなかったんですよね。個人タイトルは獲れましたけど、チームとして優勝したことがなかった。その経験ができるチームはどこかを考えたとき、鹿島だと思ったんです」

 その言葉どおり、赤﨑は在籍した3年間で多くの栄光に恵まれた。国内で獲得できるすべてのタイトルで優勝を経験したのだ。

「プロ1年目は優勝できず、自分自身、初めての外国人監督ということで苦しんだところもありましたけど、2年目の2015年はナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)で優勝することができた。その年、ニューヒーロー賞をもらうこともできて、かなり自信になりましたね。翌2016年は、リーグ優勝と天皇杯に優勝。クラブワールドカップも経験できたし、そのすべての決勝でピッチに立つことができた。特に自分にとって初めての決勝だった2015年のナビスコカップでは、(小笠原)満男さんのキャプテンシーを、クラブワールドカップではソガさん(曽ヶ端準)のチームを支える姿勢と、プロの中でやっている人たちにすごいと思わせる真のプロの姿を見た」

「でも」と言葉は続く。その接続詞に、彼の原点であり、頑ななまでのサッカーへのこだわりが示されている。

「優勝を経験してみたくて、僕は初めて自分のスタイルとは異なるチームを選んだんです。そこが想像していた以上に苦しかったところもあります」

 多くを語らずとも、その言葉を聞いてすべてが腑に落ちた。思春期を迎えた中学生時代に、ひとり公園でひらすらボールを蹴り続け、高校に入り毎日チームメイトと練習できるだけで喜びを感じたように、彼の中には憧憬にも近い理想のサッカーがある。それはひとときも心から離れることなく、ずっと棲み着いているともいえるだろう。それが、ここフロンターレにはあるのだ。赤﨑が思いを吐露する。

「自分が本当に楽しいと思えるサッカーで、今度はタイトルを取りたいなって思ったんですよね。ずっとフロンターレのサッカーには魅力を感じていましたし、チームの雰囲気やスタジアムの熱もそう。きっと、ここでなら、パスがほしいところ、パスがほしいタイミングでボールが出てくると思ったんです。これまでいろいろと学ばせてもらいましたけど、自分が好きなサッカーで勝負したいなって……そこでどれだけできるか勝負したいなって……思ったんですよね」

 昨季は鹿島からガンバ大阪に期限付き移籍していた赤﨑が、完全移籍によりフロンターレでプレーすることを選んだ覚悟と決意の重さが伝わってきた。

「昨季、フロンターレはリーグ優勝して、そのメンバーの中に絡んでいくのが簡単ではないことは分かっています。FWには昨シーズン得点王のユウくん(小林悠)もいるし、ヨシトさん(大久保嘉人)もいる。特にヨシトさんは以前から自分が一番すごいFWだと思っていた人。そのヨシトさんと一緒にプレーすることで吸収できることがたくさんあると思う」

 子どものころから考えに考えてきた。人から吸収することで、スポンジのように大きく膨らみ成長してきた。ここには理想とするサッカーもあれば、手本となる先輩たちもたくさんいる。赤﨑は一度、大きく深呼吸すると言葉を続けた。

「だから僕にとっては、ここでもがくことに意味があるんです」

 ワールドカップによる中断前、最後のリーグ戦となったJ1第15節の清水エスパルス戦。88分という時間帯に、赤﨑はピッチに立った。それは赤﨑にとって今シーズンのリーグ戦初出場だった。試合後に話を聞けば、「やっと、やっと立てた」と目を輝かせる。

「何とか爪跡を残したい。その思いだけでしたね。自分にとってはメンバーに入れたことも前進ですし、ピッチに立てたことも前進。ケンゴさん(中村憲剛)も言ってましたけど、本当にチームとしても、ここからだと思う。連覇できるように、自分ももっと、もっと試合に出て、もっと、もっとチームを勝たせられるようになりたい」

 わずかな時間ではあったが、そのプレーは猛々しかった。本人の言葉どおり、まさに爪跡を残そうとする姿勢であり、気概があった。とことん、もがいてほしい。とことん、突き詰めてほしい。ここには赤﨑をそうさせるだけの熱が、サッカーがある。

profile
[あかさき・しゅうへい]

2018年、完全移籍にてフロンターレに加入したストライカー。最終ラインの背後を取る動きにすぐれ、一瞬でスペースに抜け出しゴールを奪う。前線からの激しいチェイシングも魅力のひとつ。同い年の谷口彰悟、1学年下の車屋紳太郎は筑波大学時代のチームメイト。

1991年9月1日、鹿児島県いちき串木野市生まれ
ニックネーム:しゅうへー

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