MF27/ 鈴木雄斗選手
変わる契機、変わった意識
テキスト/原田大輔 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Harada,Daisuke photo by Ohori,Suguru (Official)
「その日、鈴木雄斗は、運転免許を更新するため、横浜市にある免許センターにいた。手続きのため列に並んでいるとスマートフォンが震えた。
「最初は後で(電話を)掛け直せばいいかなって思っていたんですよね」
だが、一度鳴り止んだスマートフォンが再び震え出す。
「何度も連絡があったので、これは何かあったのかなと思って電話に出たんです」
電話の主は、鈴木を担当している仲介人だった。「どうしました?」と尋ねれば、少し興奮した口調でこう言われた。
「川崎フロンターレからオファーが届いたぞ」
その言葉に驚くとともに手が震えた。電話を切った鈴木は平静を装って講習を受けたが、正直、心はここにあらずだった。
「ちょうど数日前に、仲介人の方に『僕は何としてもJ1でプレーしたい』と伝えたばかりだったんですよね。それで話し合った結果、『あと数日だけ待とう』ということで落ち着いた。もし、そのときまでにJ2のクラブからしかオファーがなければ、在籍していたモンテディオ山形に残ろうと。山形でプレーすることに不満があるわけでも、嫌なわけでもなかったですからね。自分がいくらJ1でプレーしたいからといって、結論を先延ばしにしていたら、山形にも迷惑がかかる。だから、あと数日だけ待とうと思っていたところだったんです」
それは鈴木が大人になってから、久々にもらった大きなプレゼントだったかもしれない。なぜならその日は、ちょうどクリスマスだったからだ。
「フロンターレからオファーが届いたと聞いて、うれしい気持ちが半分、あとはこの移籍が成立してほしいという気持ちが半分でしたね。前年にもJ1のクラブから(獲得の)打診があったんですけど、最終的に話がまとまらなくて。だから……今回こそは、この移籍の話がなくならなければいいなと願っていました……」
夜景が見えるロマンチックな場所にいたわけでもなければ、雪が舞うスペシャルな演出がされていたわけでもない。それでも鈴木にとっては、忘れられない日になったことだろう。
「J1でプレーすることに怖さは全くなかったですね。ただ、もう、絶対にフロンターレに行きたいという思いだけでした」
思いを巡らせていた鈴木の脳裏には、これまでの自分を支えてくれた両親であり、亡き祖父の顔が浮かんでいたかもしれない。だってその日は、きっと、たくさんのプレゼントをもらってきたクリスマスだったから……。
鈴木は1993年12月7日、父・康仁さん、母・由香さんの次男として生まれた。父・康仁さんがサッカーの指導者だったこともあり、子どものころは日本各地を転々とする生活を送った。自身にとって最も古いサッカーの記憶は幼稚園のときだ。
「当時、父親が清水エスパルスのユースでGKコーチをしていて、ひとつ年上の兄がエスパルスのスクールに通っていたんですよね。自分はまだそのスクールに入れる年齢ではなかったんですけど、一緒に連れて行かれると、兄の練習をそばで見ていたみたいで。でも、親がちょっと目を離した隙にオレはグラウンドに入って、みんなと一緒にボールを蹴っていたみたいなんです。すぐ親に連れ戻されるんですけど、気がついたらまた、みんなに混ざってしまっていたみたいで。あまりにそれを繰り返すから、しぶしぶ入れてもらえることになったんです」
その後、父親がセレッソ大阪のGKコーチに就任したため、鈴木が小学生になると大阪に移り住む。ただ、当時のセレッソ大阪にはスクールがなかったため、ライバルとなるガンバ大阪のスクールに通っていたというからおもしろい。
「ガンバのスクールでは、父親がセレッソでGKコーチをしていると言うと、『嘘だろ?』ってよく言われました。セレッソの試合はよく見にいきましたね。ちょうどヨシトさん(大久保嘉人)が18歳でセレッソに加入したときで、ヨシトさんのペナントを買って、サインをもらいましたから。当時は、いつもヨシトさんのサインを真似して書いていたくらいで。自分がプロになることが決まったときも、授業中に自分のサインを考えていたことがあったんですけど、今考えると、自分のサインって、ヨシトさんのサインに影響を受けているなって(笑)。そのことにこの間、気がついたんですよね」
その大久保はこの6月、ジュビロ磐田に移籍したが、巡り巡って十数年後にそのふたりがチームメイトになったのだから、サッカーは、人生は、やっぱりおもしろい。
鈴木が小学3年生になると、再び父親の仕事の都合で大分に移り、小学5年生のときにも柏へと引っ越した。そのたびに家族はついて行ったというが、友だちと離ればなれになるだけに、転校は嫌ではなったのだろうか。
「静岡から大阪に引っ越すときは、ぎゃんぎゃん泣いていたのを覚えていますけど、その後は嫌だって思わなかったですね。むしろ、兄とは『次、どこに行くと思う?』って話をしてたくらいで。そのとき、なぜかオレは『柏』って予想していて、当たったからビックリしましたよね(笑)」
そうして鈴木は、柏レイソルU-12でプレーすることになるのだが、どこか驕りがあったという。というのも九州ではちょっとした王様気分を味わっていたからだ。
「大分トリニータU-12では、九州の大会で優勝したりと強かったんです。しかも、自分は、ひとつ年上のチームでプレーしていたので、同学年と試合をすれば余裕があった。大分にいたときは、同世代で自分が一番うまいくらいに思ってましたね。レイソルにもセレクションで入ったんですけど、なぜかレイソル側で練習試合に出て、もうひとり同時に入った選手と、めちゃめちゃ得点を決めたので驚かれたくらい」
父親がコーチだけに、さぞや幼いころから特別な指導を受けてきたのだろうと思ったが、そこはどうやら違うらしい。羨ましいと思うのはこちらだけで、本人からしてみれば指導者は指導者で、親は親なのだ。
「子どものころは教えてくれましたけど、やっぱり父親は父親。子どもだから生意気なところもあるじゃないですか。だから、反発していたところもあって、一緒にボールを蹴っても、ただ一緒に蹴ってるって感じでしたね。それ以上に、うちは勉強しないとサッカーをやらせてもらえないような環境で。サッカーに対しても厳しくて、子どものころはまずは勉強。それをしたら自由にしてよかった。サッカーに対しても、父親が職業にしているからといって、『プロを目指さなくてもいいんだよ』と言われていました」
子どものころの鈴木雄斗はどんな選手だったのかと聞けば、「(中村)憲剛さんのようなプレーを目指していた」と笑う。
「ロベルト・バッジョとか、ジネディーヌ・ジダンのプレーをよく見ていましたね。ファンタジスタに憧れていて、パサーに徹していた感じです。でも、思い返すと、全然、動かずに突っ立っていて、文句ばっかり言っている王様のようなタイプでした」
父親に反発していたのは、子どもながらに照れと自信があったからだろう。
今では182cmある身長も、伸び出したのは中学2年生の終わりごろから。
そんな鈴木は、いつしか「飛び抜けた存在ではなくなっていた」という。ターニングポイントは中学3年生のときだ。柏から横浜に引っ越した鈴木は、横浜F・マリノスのジュニアユースに通うようになっていた。
ナショナルトレセンにも選ばれ、やはり自信を持っていた鈴木は、相変わらずパサーであり、ファンタジスタだった。
すると試合中、指導を受けていた尾上純一(現・横浜F・マリノス育成スカウト)に諭されたのである。
「お前は王様なのか?」
意識が変わる転機だった。鈴木が振り返る。
「F・マリノスのジュニアユースでも、オレは一生懸命走らずに、口だけ動かしているような選手だったんです。そうしたら試合中にもかかわらず、尾上コーチに呼び止められて、『お前は王様なのか?』って言われて、『違います』って答えたら『じゃあ、もっとひたむきにプレーしろよ』って怒られたんです」
本人の口から「王様」という言葉が飛び出したのも、それだけこの言葉が胸に刺さっているからだ。
「そのとき、自分のことばっかり考えてプレーしていたんだなって思ったんです。そのあたりから、何かが変わりはじめた感じはありました。父親に対しても、きっと、そうだったんですよね。たまに試合を見に来てくれて、プレーに対して『ああでもない、こうでもない』って言ってくれるんですけど、聞く耳を持っていなかったんです」
決して練習で手を抜いていたわけでもないし、努力を怠っていたわけでもない。もしそうだったならば、横浜F・マリノスのユースに昇格できていなかったはずだ。
「高校1年生のときは、全く試合に出ていなかったし、2年生のときもレギュラーだったかといわれたら、そこまでの存在ではなかった。でも、3年生になって育成年代の代表に呼ばれて、トップチームにも2種登録されて、頻繁にトップの練習にも行くようになってからは、ちょっとだけ伸びたかなと思います。ただ、努力していた自分も認めてはいるんですよね。それなりだったのかもしれないけど、そのときそのときで頑張っていたとは思っている。シュート練習したり、走ったり、体幹を鍛えたり、筋トレしたり。でも、今、振り返ればですけど…… 高校生のときの自分は考えてサッカーをしていなかったなって。たぶん、何のためにこの練習をしているのか。その意図まで考えていなかったんじゃないかって。自分がそのとき持っているものだけでやっていた。今と比較すれば、それはこなしていたって感じになるんでしょうね」
意識は変わりはじめていたし、変わろうともしていた。ただ、そこには若さというはかなさがあった。だから、2種登録されたとはいえ、トップチームに昇格できなかったことも、自分なりに納得できていたという。
「トップに昇格できないことは、早い段階で言われていました。プロになることは諦めていなかったので、自然の流れではないですけど、大学に行って、また戻って来られるように頑張ろうと思ってました」
概ね大学に進学しようと決めていた。ところが、いくつかのクラブに練習参加できることになった。参加してみると、どのクラブも関心を持ってくれた。なかでも熱烈に声を掛けてくれたクラブ、いや人がいた。それがプロの一歩を踏み出すことになる水戸ホーリーホックであり、当時の監督・柱谷哲二だった。
「水戸には、数日間、練習参加するはずだったんですけど、最終日に予定されていた練習試合が中止になってしまって。でも、そのとき、紅白戦をやったんです。そこである程度、自分のプレーをすることができて手応えを感じていた。そうしたら、その紅白戦の後、柱谷さんに呼ばれて、『うちに来てくれないか』って言ってくれたんですよね」
素直に「うれしかった」と鈴木は振り返る。その一方で、「大学への進学を前提に考えていたので、すでに願書を提出してしまっていた」とも、当時の状況を明かす。そんな鈴木の背中を押してくれたのは、「いつも悩んだときには相談していた」という母・由香さんだった。
「プロになるか、大学に行くか。悩んでいたら母親が、『プロになれるうちはプロに挑戦したらいいんじゃない』って言ってくれたんですよね。その言葉が大きかったと思います。その後も、関心を持ってくれるクラブはあったんですけど、プロになるって決めたからには、早くチームを決めたかったこともあって、柱谷さんが監督をしている水戸に行くことにした。それに、このときはまだ、舐めていたんですよね、自分……。水戸で2年くらいプレーして、すぐにJ1に行けばいいやくらいにしか考えてなかったんですよ」
読者も容易に想像できるだろうが、飛び込んだプロの世界はそんなに甘くはなかった。鈴木は予想どおり叩きのめされる。
「練習参加したときはやれていたんですよ。でも、いざ中に入っていろいろとやっていくと、これは厳しいぞというのが分かってきた。最初に感じたのは、スピードとフィジカル。ちょっと後ろから押されただけで、すぐに身体がぶれて余裕がなくなってしまう。だから、もう、いちから柱谷さんに鍛え直されましたよね。練習でも、とにかくマンマークで見られて、ちょっと動きが遅れれば『戻れ!』とか『出ていけ!』とか。サーキットトレーニングも本当にきつくて、終わったときには吐きそうになりました(苦笑)。チームメイトも『お前には特に厳しいよな』って言うくらいで、まるで学生を指導するかのように育ててもらいました」
期待の裏返しだったのだろう。できると分かっていたから、柱谷監督は鈴木に厳しく接した。それはプロ1年目の2012年4月27日、J2第10節(対湘南ベルマーレ)という早いタイミングで、先発に抜擢したことからも分かる。
「その前からベンチには入れていたんですけど、湘南戦を前にケガ人が出て、自分が先発できることになった。それまでの湘南は9戦無敗。でも、2-1でオレらが勝った。それで少しばかり自信を持てるようになったところはありますね」
プロ1年目の2012年は、FWやサイドハーフなどで19試合に出場した。ただ、先発しても、前半途中で交代させられることもしばしば…… それも1度ではなく、2度、3度と……。
「ケガ人や退場者が出て、やむを得ず交代する状況でもなかった。スコアが動いているわけでもないのに、前半途中で交代を命じられて…… 前半も残り5分とかなら、せめてハーフタイムまで待ってくれればいいのに。わざと前半途中で替えるなんて、自分に恥ずかしい思いをさせようとしているのかなって。何度、柱谷さんに文句を言いにいこうと思ったことか(笑)」
今なら「高卒のルーキーをスタメンで起用してくれたんですから、チャンスを与えてくれたことに感謝しています」と答えられる思慮がある。ただ、当時の鈴木はまだまだ若く、血気盛んだった。
プロ2年目の2013年も、プロ3年目の2014年も、鈴木は飛躍することはできなかった。筋トレ禁止令を出されるほど、身体つきも大きくなり、それなりに努力もしていたが、当初思い描いていたプランは大きく崩れていた。
プロ4年目の2015年も、キャンプではレギュラー組で起用されていたものの、シーズンがはじまると、それまでと同じく、次第に出場機会を失っていった。ただただ時間だけが過ぎていく。そんなある日だった。母・由香さんから電話が掛かってきたのは──。
「祖父が病気で、それほど長くは生きられないという連絡があったんです。祖父はスポーツが大好きで。子どものころからずっとスポーツをやっていたオレら孫のことをすごく応援してくれていたんですよね。オレがプロになってからも、いつもテレビで試合を見てくれたり、部屋に写真や記事を貼ったりしてくれていた。そんな祖父がもう長くないって言われて……」
誰よりも鈴木が活躍する姿を望んでいた祖父とは、母・由香さんにとっては父親だった。
「加えて、当時のオレはケガなども重なって、試合はおろかトレーニングもこなせない状況が続いていた。サッカーに対して、前向きに、向上心を持って取り組めないメンタル状態でもあったんです」
そんな鈴木の精神状態を察していたからこそ、母である由香さんは、鈴木にこう告げた。
「あなた、このままでいいの?」
その母親の言葉にハッとさせられた。思い出したのだ。子どものときから、いつも応援してくれた祖父の姿であり、いつも背中を押してくれた母親のことを。
「祖父のためにも頑張らなければなって思いましたよね。母親の言葉のおかげというのもありますけど、本当に初めてともいうくらい自分の中で変わろうと思いました。変えなければ、プロ4年目もこのまま終わってしまう。もう遅いかもしれないけど、やるだけのことはやってみようと思って、そこから自分の意識をがらっと変えたんです」
自分自身を見つめ直すと、部屋にあったノートを取り出し、決意を書き込んだ。そこにはこう記したという。
・何があっても動じない、怒らない。
・毎日の練習をぶっ倒れるまでやる。
その真意を鈴木は説明してくれた。
「恥ずかしい話ですけど、プレーしていて、ミスをしたり、うまくいかないとイライラしてリズムを崩してしまうところがあったんですよね。だから、まずはメンタルを整えようと思った。プレーを安定させるためにも、何があっても動じない心を作ろうと。『笑ってプレーできるくらいの余裕を持とう』とも書きました。もうひとつは、自分は天才ではないので、毎日の練習をぶっ倒れるまでやろうと思ったんです。やたらめったら走ればいいわけでもないから難しいんですけど、それくらい練習にかける思いを強く持とうって」
言霊という言葉があるように、書き記すことで、強く意識することで変化は生まれた。ケガから復帰した天皇杯2回戦でゴールを記録した鈴木は、続くJ2第31節から3試合連続でゴールをマークしたのである。
「その勢いのまま、シーズンの終わりまでプレーすることができて、自信を深めましたよね。たった半年だけど、周りからの信頼がこんなにも変わるのかということも分かりましたし、こんなにも伸びるんだって自分でも思ったくらいで。さらにうれしいことに、あと数ヶ月と言われていた祖父が、そこから2年くらい生きたんですよ。しかも祖父が見に来てくれると、なぜかオレは点が取れたんです」
まさに自分でも手に取るように変化を感じたのだろう。2016年にはモンテディオ山形へと移籍するが、そこでも安定したプレーを見せた。
「水戸での最後の半年間で成長を実感して、山形での2年間では、さらにその成長を深められた感覚はありました。自分の持っているものをクオリティー高く出せるようになったというか、自信が一番ですね。山形に加入した2016年もうまくいかない時期はあったけど、それでも気持ちが切れたり、ぶれることはなかったですね」
プロになったときに思い描いたプランよりは時間が掛かったが、J1でプレーする準備であり、心構えはできていた。
「フロンターレでは、他の選手もよく言っているように最初はビックリしました。何気ないボール回しもうまいし、質が本当に高い。自分もうまいところを見せなければと思ってプレーしていたら、ミスをしてしまって悩んだ時期もありましたけど、今は消極的にならずに、ミスをしてもいいから思い切ってやろうって思えています」
その気持ちがJ1第14節柏レイソル戦でのゴールにつながったのであろう。後半41分に途中出場した鈴木は、わずか6分後、長谷川竜也のクロスからヘディングでゴールを決め、チームを2-1の逆転勝利に導いた。
「あの得点も、今までの経験が活きていると思っているんですよね。以前なら、ラスト5分くらいで出されたら、緊張して硬くなっていたかもしれない。でも、これが自分にとってラストチャンスかもしれないし、だったら思い切ってやろうと思えた。オレがピッチに入ったとき、憲剛さんがわざとすぐにパスを出してくれたって言っていましたけど、それが自分にも分かったというか。これまでの経験から、そういう余裕が持てていたからこそ、得点もできたというか」
ワールドカップによる中断前まで、リーグ戦での成績は2試合1得点。AFCチャンピオンズリーグと天皇杯2回戦で等々力のピッチに立ったが、出場機会は限られている。当然、そこに満足はしていない。
「もっと試合に出たいですよね。やっぱり等々力は素晴らしい雰囲気なので、一度、あの舞台でプレーしたら、ここで活躍したいなぁとか、勝ちたいなぁって思いますよね。だから、その回数がもっと増えるようにやっていければなって思っています」
話を聞けば、選手としてだけではなく、人としても成長していることが分かる。これからも苦しい状況や悩む機会はあるだろうが、もう自分を見失うことはないだろう。そう言い切れる感覚が、こちらにもある。
「この間、尾上さんに会って話したときに、『今は試合に出場することができていないかもしれないけど、フロンターレでプレーすること、活躍することだけがサッカー選手としてのゴールというわけではない。サッカー選手である以上、常にベストを尽くすことこそが大切だぞ』って言ってもらったんですよね。『この世界、誰がいつどこで自分を見ているかか分からない』とも言われて。『そのために常に自分を磨くことが大事なんじゃないか』って。その言葉を聞いて、水戸でプレーしていたときに自分自身を見つめ直したように、改めて日々努力していかなければいけないというか、常に自分のレベルを上げていくことは、無駄にならないというのを思い直したんですよね」
子どものころは反発してばかりだった父・康仁さんに対しても、今では自分からプレーについて聞くようになったと鈴木は笑う。だから決勝点をマークした、自分にとっても父親にとっても古巣となる柏レイソル戦の試合球は、両親にプレゼントしたという。母親への感謝も素直に示し、「もっともっと親孝行したい」と話す。そんな鈴木が最後に言った。
「亡くなった祖父は『俊雄』って名前だったんですけど、『雄斗』の『雄』はそこに由来しているんですよね」
背負っているものが大きくなればなるほど、人は強くなる。支えてきてくれた家族、天国で見守っている祖父、これまで出会ってきた指導者、そして応援してくれるサポーターに、今度は鈴木が返す番だ。ゴール、勝利というとっておきのプレゼントを──。
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[すずき・ゆうと]
山形から完全移籍で加入。テクニックと運動量を兼ね備えた大型MF。横浜FMでプロのキャリアをスタートさせ、水戸、山形でブレイク。山形では背番号10をつけるなど、その期待度の高さが伺える。もともとは前線でプレーしていたが、昨シーズンはウイングバックでも出場。ユーティリティな才能を強みに変え、フロンターレでさらなるステップアップを目指してもらいたい。
1993年12月7日、神奈川県横浜市生まれ
ニックネーム:ゆうと、ラルフ