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 2003/vol.03

「僕ね、すぐ調子に乗るんですよ。でも、謙虚さがあって自分を知ってたら、サッカーでご飯が食べられる今はないって思いますね」
 確かに、岡山一成の人生は波乱万丈という言葉が当てはまる。本人は、ただ目標や夢を叶えるために突っ走ってきた。自分を信じる気持ち、失敗してもどうにかなるという根底にある考え方が彼を支えてきた。
 大阪で生まれ育った岡山は、1歳上の兄の影響で地元の少年団に入りサッカーを始めた。「すぐ影響を受ける」という岡山が、まずサッカーの魅力にとりつかれたのはテレビで観た高校選手権だった。「それまで、選手権のこととか、よく知らなかったんです。でも、武南を観てかっこいいなあ!って。上野良治さんとか江原さん(篤史・71回大会で得点王)に憧れました」
「思い立ったら即行動」である。すぐに武南高校に電話をした。だが、「そんな遠いところから来る必要はないって言われました」とあっさり断られる。そこで、次にお隣の和歌山県にある初芝橋本高校に目をつけた。セレクションでは苦手なリフティングが5回ぐらいしかできなかったと苦笑いして振り返るが、ヘディングの強さを見込まれて、無事合格。後に、恩人となる田中勝緒監督との出会いでもあった。
1年目は寮生活だったが、県境にあったため2年目以降は大阪の自宅から1時間かけて通学した。選手権出場の夢は、2年の時、最高の形で叶った。大会得点王になった吉原宏太を擁する初芝橋本は、ベスト4に進み国立のピッチを踏んだ。吉原が先制ゴールを決めるも鹿児島実業に逆転を許し、惜敗。この大会で岡山は優秀選手に選出された。
「もう、まさに夢のよう! 青春でした。でもね、準決勝で吉原さんがケガで交代した時、泣いてはったんですよ。あの姿を見た時、甘かったなって。試合終わって、ほんと泣きました」
 選手権はプロチームのスカウトが新しい才能を見出す絶好の場でもある。チーム関係者から声がかかり、大学進学を考えていた岡山がプロを意識する転機にもなった。

 岡山は、なにかと話題が多い選手である。テレビ番組のJリーガーオーディションを受け最終選考で落選。高校卒業後、韓国の社会人チームに留学。マリノス加入後、3試合連続ゴールという華々しいデビュー。99年には、「日本代表になる夢を叶えたい。その時の準備のため、何より自分に言い訳を作りたくなかった」という理由で韓国籍から帰化し、日本国籍を取得。そして、FWから未経験のDFへコンバート。
 
高校卒業後、近づいたプロ入りが叶わず、“浪人”状態で韓国に渡り、練習生としてサッカーをしていた時期が一番きつかったと言う。その岡山を救ったのは高校時代の恩師だった。
「本当に田中監督には頭があがりません。チームに手紙を書いてくれて、それでマリノスにもテストを受けさせてもらったんですから」
 ただ、失意のなか信じる気持ちが薄れても、完全になくなりはしなかった。8000人の応募があったオーディションで最終選考まで残ったことが、拠りどころとなって微かな自信をつなぎとめていた。
「あの頃…、今でもそうなんですけど、自分の可能性って信じてるし、もっと上手くなれるって思ってるんです。ああ、でも、僕の場合もっと努力せなアカンなぁ(笑)」
 1997年8月、マリノス加入が決まった。




 こうして幕を切ったプロサッカー人生に、フロンターレが度々、登場している。そして、DF岡山一成が誕生することにつながるのだから縁とは不思議なものである。
 1999年、F・マリノスで出場機会が減っていた岡山は、ヨルンの負傷帰国により代役を求めていたアルディージャにシーズン途中で期限付き移籍をする。この年、J2優勝を決めたフロンターレはリーグ最終戦をアウェイでアルディージャと対戦、延長の末に敗れた。ピッチではホーム最終戦を終えたアルディージャの選手全員がピッチを一周まわっていた。
その時、ひとり号泣する岡山の姿があった。
「ああ、思い出しました。6試合ぐらい出た後の練習試合で後ろからガッと当たられてケガしたんですよね。結局、3ヵ月リハビリに費やしてしまって、申し訳ない気持ちで下向いて歩いてたんです。でも、サポーターが『ありがとう!』とか『残ってくれ』とか言ってくれて。僕、涙もろいんでね」
 ちなみに、大宮の選手として唯一点を取った試合がフロンターレ戦である。7月30日に行われた第19節、高田栄二のVゴールで勝利をおさめたフロンターレだったが、後半、大宮の同点弾は岡山のヘッドによるものだった。
 2000年、F・マリノスに復帰した岡山に信じられない出来事が訪れた。当時の監督、アルディレスからDF転向を告げられる。DFをやったことは、ただの一度もなかった。
「ええっ?!って感じでした。マツ君(松田直樹)やコーチに体の向きとか教えてもらって。でも、いろんなセオリーがあっても、その状況によって違うじゃないですか。『この場面はどうすんの?』なんて試合中聞けないし。もう本当に恐かったです」
 ファーストステージ、F・マリノスは優勝戦線の真っただ中にいた。緊迫したゲームが続く状況で、岡山は8試合に出場。1点の重みを感じ、とにかく必死だったという。
そして、5月27日。勝ち点27で最終戦を迎えたF・マリノスは国立でジェフに勝利し勝ち点3を乗せて全日程を終えた。同時刻、長居スタジアムでは、5万の大観衆が固唾を呑んでいた。勝ち点29で臨んだセレッソとフロンターレの一戦は1対1で延長戦に突入。そして延長後半1分、浦田直希が放った強烈なシュートが決まった瞬間、セレッソの初優勝が潰え、国立にいるF・マリノスに栄冠がもたらされた。
「国立のオーロラビジョンで観てたんです。チームもサポーターも残って。僕、浦田さんの名前は一生忘れないです!」
優勝の喜びを存分に味わったが、やはりFWへの思いは募っていった。そして、シーズン終了後、FWとして乞われたセレッソに移籍を決意する。
「悩みました。レンタルではなく完全移籍だったから、まだ完璧にレギュラーも獲れてないのにマリノスを去ることに迷いもあったし。でも、今やらないとFWとしてダメになると思ったし、後悔したくなかった」
 2001年、初めての移籍は、FWとして勝負するためだった。28試合に出場し3得点。セレッソはJ2降格が決定した。待っていたのは思いがけない戦力外通告だった。
「その当時は、正直クビになると思ってなかったからショックだった。でも、今振り返れば、28試合に出て3得点はFWとして少なすぎる。チームも降格して、なにかしら血を流さなあかんっていうのも今ならわかる。僕がもっと点取ってたら降格することもなかったかもしれないし。結果論ですけど。ただ、移籍したことに後悔はないです」
 J2降格決定後、セレッソは天皇杯で意地をみせ決勝進出を決めた。戦力外通告を受けていた岡山も三度、大事な試合で国立のピッチに立った。1アシストをする活躍をみせるがゴールネットは揺らせず、延長の末、優勝カップは準決勝でフロンターレを破った清水エスパルスに渡った。

 天皇杯が終わり、岡山は迷いのなかにいた。愛着のあるマリノスを「FWで勝負したい」という自分の我がままで去った辛さから、セレッソでは「自分のために」サッカーをやることにこだわった。だが、チームがあり、勝利があってこそ自分のサッカーが追及でき評価につながる事、頑なになっていた自分の気持ちに気づき始めていた。
そこへ、石崎監督が会いに来た。
「石さんに『DFでもFWでもいろいろ試してみればいい』って言われて、ポジションとか抜きにして見直してみようって思えたんです。FWとして誘ってくれたチームもあったんですけど、自信をなくしてた部分もあって…」
 FWとしての自信--。セレッソでのファーストステージ、岡山は数試合で立て続けに負傷していた。接触プレーで前歯が折れ、鼻を骨折した。さらに、相手選手のつま先が目の下にぐっと突き刺さるアクシデントに見舞われた。幸い、大事には至らなかったが、恐怖心だけが残った。結果的に、負傷後、岡山が得点をあげることはなかった。それがわずか3得点に終わったことの直接の原因ではないか。そう尋ねると、「それは言い訳ですよ」と返ってきた。
「ただね、恐くなっちゃったんです。ヘディングするのが。FWとしては絶対いけないのに、目をつぶっちゃうし、相手が近くにいると顔を引いちゃう。セレッソにいた間、その恐怖心を完全には克服できなかったのが自分でもショックだったんですよね。だからFWでほしいって言われても、正直、自信がなかった」
 
今、岡山はフロンターレでDFとして勝負している。
「もう、DFとしてやっていくっていう気持ちは整理できてます。僕がDFに取り組もうと思った原点は、柳想鐵(ユ・サンチョル)さんです。マリノスの時、1試合のなかでFW、ボランチ、ストッパーをこなしたことがあったんですよ。退場者が出たからなんですけど、その試合勝ったんですね。その時に、チーム事情のためにいろんなポジションをやれるのってすごいなって思ったんです。でも、僕の場合、まずはチーム内の競争でレギュラーを獲らないと!」
 レギュラーになり活躍し、そしてJ1に昇格すること。それが現在の岡山のやるべきことだ。
「もう1回J1でやりたいんです。マリノスでは、無我夢中でDFをやってたじゃないですか。あの時からどれだけ自分が成長したかを確かめたいんです。あの頃の自分と比較してみたいんですよ」
 
 

97年、横浜マリノスに加入。2001年、セレッソ大阪より川崎フロンターレに移籍、FWからDFにコンバート、ストッパーを務める。1978年4月24日生まれ大阪府出身。187cm、74kg。

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