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 2003/vol.07

 9月3日、オレンジ一色に埋め尽くされた新潟市立競技場で無念の対新潟戦3連敗を喫した翌日、茂原は、リカバリーではなく練習に参加していた。「負けてじっとしていられなかった」のだという──。

 群馬県館林市で生まれ育った茂原は、2歳年上の兄がいる地元の名門、前橋育英高校に進学した。地元とはいえ、自宅から2時間の距離があり、寮生活を送っていた。
 2年生になった茂原は、松田直樹、兄・直和らがつけていた伝統的な育英の「14」番を譲り受けた。この年の選手権、茂原はセンターバックで出場している。
「友だちがケガしちゃって、やる人いないから俺がやることになって。それまでは出られなった」
準決勝は、帝京高戦。2対0とリードされてから同点に追いつくが、ロスタイムに決勝ゴールを決められてしまう。途中で負傷退場したこの試合には、悔しい記憶がある。
「失点は、俺がミスった。3年生に悪かった」
 
 翌年7月、茂原の能力を高く評価し熱心に誘ってくれたヴィッセル神戸の練習に参加し、夏には加入が内定。「これで、選手権に集中できる」と当時、地元新聞の取材に答えている。8月には、U-18代表(SBS杯)に初選出され、ボランチとして3試合に出場。多くの選手が前年のベスト4を経験していた前橋育英は、この年、選手権優勝候補の筆頭と目されていた。
 だが、前橋育英は前年同様、準決勝で散った。準決勝の市立船橋高戦は、無得点のドロー。PK戦でついた決着だった。茂原は、準々決勝の静岡学園高戦で負傷し、後半途中からの出場だった。
「途中から出れたってことは、できたってこと。悔しかった。でもPKはしょうがない」
 
 
 


 2000年、ヴィッセル神戸はシーズン前に沖縄キャンプを行った。茂原は、高校時代との違いを感じとっていた。
「プレッシャーも速いし当たりも強い。1対1もあんまり抜けないなって。これじゃダメだなと思って、筋トレとか練習も残っていっぱいした」
 デビューは、早かった。第2節対ガンバ戦で後半途中出場し、評価を得た茂原は、ナビスコカップでスタメンのチャンスを掴んでいた。ところが、「気合入れて練習していた」茂原を襲ったのは、思わぬケガだった。
「スライディングしたら足首が…。やった時、吐いた。ゴリッて音がしたし、折れたなって。ぶわーって腫れてきて、すぐ手術だった」
 右足関節脱臼骨折だった。「時間がかかる不幸なケガ」(境トレーナー)に直面した茂原を待っていたのは、3ヵ月の入院とさらに時間がかかるリハビリだった。
「あの頃は、やばかった。すごい長くて大変だった」という苦難を乗り越え、11月18日セカンドステージ第11節対マリノス戦に後半から出場し、プロ入り初ゴールを決めた。「もうサッカーができないかと思った」というケガからの復帰をゴールで飾り、うれしかっただろうと単純に想像すると、「負けたら意味ない。押せ押せだったし本当に勝ちたかった」という。スコアは2対4だった。
「負けたら意味ない」と茂原は、よく口にする。いいプレーをしても「負けたら意味ない」。練習でいいシュートを決めても「試合で出せなきゃ意味ない」と。勝利を渇望する芯のようなものを感じる。
 マリノス戦以降スタメンに名を連ねた茂原は、翌年2月にはU-20代表として香港遠征に参加した。
「ブラジル(U-20)代表とやったのは、相当楽しかった」

 この香港遠征とともに、印象深いと挙げているのが、4月14日から26日に渡った南米遠征だ。第2戦、ブエノスアイレスでリバープレートに1対3で敗れた一戦に、なかでも強烈な刺激を受けたという。
「すっげぇ強いなって思った。ショートパスをすごいつなぐんですよ。で、パスしたら絶対にサポートにいく。だからマークにつききれない。南米っぽい」
 とにかく「楽しかった」という。そういう時は、自分が冴えている感覚というのがあるのだろうか?
「ある」
 海外に行っても睡眠がとれるし、環境の変化も気にならない。いろんな経験も重ねてきた。
「南米遠征の時、アルゼンチンの後、パラグアイに行ったんですけど、パラグアイは凄かった。セスナとか超ちっちゃいし、同じ座席のチケットがふたつあったり(笑)」
 

 代表では充実した日々を送っていたが、神戸での2年目は、わずか9試合出場にとどまった。茂原は、この頃チームで気持ちを奮い立たせることができずにいた。
「あの1年間は、ホントに損した気分。1日1日の練習が無駄だったし、苦痛で早く帰りたかった。もったいなかった」
 昨年、フロンターレに期限付き移籍が決まり、新チームの一員となっても、まだ「苦痛」から抜け出せずにいた。
「俺のほうがいいじゃん」
 そんな乗らない気持ちで練習に臨んでいるのは、石崎監督にもわかっていた。
「荷物まとめて神戸に帰れ!」
 何度か、茂原にそう浴びせた。
「シゲは、けっこうフテくされてたけどな(笑)。でも、5月にツーロン(国際大会)行ってから変わった」
 
 巡ってきたチャンスや運を掴むのも力である。神戸では右サイドの選手だったが、どこでもこなせる器用さが茂原の特徴でもある。代表でも、ボランチだけでなく両サイドやトップ下など、いろんなポジションを試されている。
 昨年のフロンターレは、鬼木とマルキーニョがダブルボランチをつとめていたが、7月10日第17節対大分戦で、マルキーニョが一発退場してしまう。次節の甲府戦で、茂原はボランチとして出場した。さらにこの時期、マーロンとアレックスの加入により、マルキーニョの出場が減り、茂原はチャンスを確実に自分のものにした。
 練習に気持ちの入らないかつての姿は、もうなかった。変わろうとしている茂原の背中を押したのは神戸の先輩、土屋征夫だった。
「毎日、電話して、いろいろ相談に乗ってもらった。やっぱ、やることやってから文句言おうと思ったから。そしたら、試合にも出られるようになった。気持ちを上げることができなかった前の自分は、若かった。自分で気づかないとダメでしょ。だから、今はもうぜんぜん大丈夫」
 
   

 石崎監督は茂原について、次のように言う。
「昨年、練習でシゲをボランチにしたらよくて、試合でもハマッた。最初は、ディフェンスができなかったけど、トレーニングして意識がだんだん高くなって、今ではディンフェンスも強い選手になった。試合前に『頑張ろう!』とかよく声だすしね。いろんな選手を見てきたけど、あいつほど変わったやつはいない。他で出られなくてワシのとこ来て試合に出てよくなった選手はいたけど、シゲは最初、出られなかったからな。それでヒネくれてたけど、でも素直なんだよ。センスもあるし、なにをやるかわからない面白さがある。代表でも面白い選手だと思うけどなぁ」
 

 今年8月、茂原は1年ぶりのU-22代表となるエジプト遠征に召集された。中1日で3試合、山本監督はこの遠征を「武者修行」と位置づけた。茂原は、エジプトの強さに久しぶりに刺激を受けていた。とくに、中盤の選手に目が釘付けになった。
「強いし速いしうまい。エジプトとやって自分が変わった気がする。向こうの中盤に、すごいうまい選手がいて、自由に動いて型にはまらないサッカーをしてた。抜けるしパスも捌けるし、すげえなって。昔の自分を思い出した」
 自由な発想とチームの戦術。知らず知らずのうちに戦術に偏ったプレーが多くなっていた。戦術のなかで最大限に自分のよさを活かす、という大切さに気づかされた。
「考えているのは、戦術50パーセントで自分のプレー50パーセントで足して100。戦術の部分は、やらなくちゃ試合出られないしね」
 理想は、「誰も想像していないようなプレーとかパスをする」こと。その話を聞いて、あるエピソードを思い出した。試合を撮影するカメラマンによると、茂原のプレーには、よく「ひっかかる」という。待ち構えるカメラの予測を裏切り、度々ファインダーからパスの行方が消えてしまうのだ。例えば、完全に右サイドの長橋にボールを出す体勢を取っていながら、一瞬にして体を開いて左にボールをはたく、といった具合だ。
 バランスのいいフォームから生まれるインサイドキックが、スッと出る。パスの行く先に受け手がいるかは、練習でコンビネーションを高めるしかない。積極的に、「ここに走ってほしい」と要求していく。試合中は、常にパスの選択肢が頭にある。
 

「一番いいのはこのパスで、2番目はこのパスで…っていつも考えてるけど、相手のプレッシャーもあるし、それを全部やるだけの技術はない」
「俺、ほんっとに昇格したいんですよ。マジで、今年は昇格したい」
 インタビューが終わろうとしている時、茂原が言った。心の底から絞り出した言葉が重く伝わってきた。
 
 しなやかなパスを繰り出す茂原岳人のプレーする先に、どんな未来図が描かれるのだろうか──。
 

前橋育英高校から2000年、ヴィッセル神戸に加入。2002年に期限付き移籍で川崎フロンターレへ。U-22日本代表候補。
1981年10月6日生まれ、群馬県出身。180cm、71kg。

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