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 2004/vol.10

 1993年5月15日、Jリーグ開幕。谷口博之は、その日、国立競技場のスタンドにいた。ヴェルディ川崎対横浜マリノス(当時)戦を観戦するという出来事は、小学校2年生のサッカー少年にとって刺激的な体験である。そのときの感動を谷口は鮮明に覚えている。
「すごかった! ヴェルディのマイヤーがトラップして倒されてファウルされて、また走っていってトラップして倒されてファウルもらって。ペナルティーエリア近くでフリーキックになって、それは入らなかったんだけど。確か、開始直後のプレーは、そんな感じだったと思うんだよなぁ。なんか、すげぇ感動した。そのときはプロになるなんて考えてなかったですけど。5、6年生ぐらいですかね。夢として、なりたいって思ったのは」
 

 谷口博之がサッカーを本格的に始めたのは、Jリーグ元年より1年遡る小学校1年生のときだ。横須賀市内の鴨居FCに加入し、サッカーのある生活が始まった。
「その頃、背はちっちゃかったんです。ポジションは中盤かフォワードでしたね。足も速かったし」
 転機となったのは、小学校6年のとき。U‐12ナショナルトレセンに選出された。これが初めての「全国レベル」の経験だった。
「まぐれです。横須賀市の選抜と県の選抜に選ばれて、たまたま調子もよくて県からふたりだったかな」
 

 そして、谷口は横浜F・マリノスジュニアユース追浜のテストに合格し、新たなスタートを切った。
「テストのときは調子悪くて、『はじめてお前を見ていたら落ちてたよ』って言われました。鴨居FCのとき、マリノス追浜と何度か対戦していたし、けっこううちも強かったからいい勝負してたんです。それで入れたんですね」
 ジュニアユース時代の一番の思い出は、夏のクラブユース全国大会だ。マリノスには新子安と追浜、元はフリューゲルスの下部組織である菅田の3ヵ所があるが、追浜と新子安がベスト8で直接対決することになった。だが、誰もが燃えるはずのこの試合に谷口は出られなかった。
「その前の試合でイエローカードもらって累積で出られなかったんです。結局、負けちゃってチームにも迷惑かけちゃった」
 


 

 

「濃かったですねぇ、この3年間は。これがすべてです」と、マリノスユース3年間で自分が経験した長く連なる戦績表や記録を指さして、しみじみとした口調で語った。
「でも、その3年間があったから絶対プロになれたと思うし、人間的にも絶対成長できた。この3年間は大事でした。むちゃくちゃきつかったですけどね。監督やコーチにほんとよくしてもらったし」
 高校時代の谷口はキーパー以外のポジションのほとんどすべてを体験していると言っても過言ではない。
「高校1年の夏が終わって試合に出られたときは、トップ下。守備も嫌いじゃなかったから頑張っていたら高2でボランチに。高3のときは、ボランチもトップ下もやってたかな」
 
 オールラウンダーな谷口だが、高校時代は、その得点能力にも注目を集めていた。例えば、高校2年のプリンスリーグではマリノスユースとしては8位という成績だったが、得点ランキング2位となる7点を記録し優秀選手に選ばれている。「いままでで一番うれしかった」という昨年、神奈川県が見事に優勝を果たした国体では決勝戦での先制点を含む3ゴールをマークしている。
「国体優勝は、すごいうれしかった。神奈川、あんまり期待されてなかったんです。そしたら1回戦を5対0で勝って、そのままぐんぐんいっちゃった。俺、国体の予選のときはケガしてていなかったんですよ。そのとき出ていたボランチふたりがすごいハマッてたから、前めなポジションで出ることになって、それで3点取れたんです。でも、ストライカーって感じでは決してないです。たまたま運がよかった。でも、言い方は変だけど基本的に安全なプレーをするタイプだから、点が取れるときっていうのは調子がいいのかな。とにかくチームも仲がよくて盛り上がりました」
 
 高校2年からサテライトリーグでプロ選手たちとも対戦するチャンスを掴んでいたが、結果的に谷口の代はマリノスユースからトップ昇格をする選手がいなかった。厳しい世界である。
「そりゃあもちろん6年間もマリノスにはいたので、ショックはショックでした。でも、サッカーやるということは変わらないですから。フロンターレには感謝しています」
 昨年の秋に3回、麻生グラウンドでの練習試合にボランチとして参加し、一度目より二度目、二度目より三度目と、徐々に本来の能力を発揮した谷口は、プロ選手となる切符を手に入れた。
 


 今季、フロンターレに加入すると谷口はディフェンダーに加わり練習メニューをこなすようになった。
「はじめは戸惑いましたよ。メニューが前めな選手と後ろの選手で分かれるときに、俺、どっちだっけ?って思うこともあったけど、いまは自然とディフェンダーチームに加わりやっています。いずれはボランチで勝負したいのが本音だけど、いまはいい勉強になっているし経験を積ませてもらって感謝しています」
 関塚監督は、谷口の攻撃力というベースがいまのプレーに活きていると語る。
「いずれはボランチのプレイヤーかなって思ってますが、まず高校からプロに入ったときになにが違うかというとディフェンス。ディフェンスを覚えるために、どこのポジションに置いたらいいかということでいまのポジションをやらせています。彼は人に対する強さがあるし、左ストッパーとして入ったときに非常に能力が高くてビルドアップにも長けていた。攻撃力もある選手だからこそ、相手の攻撃の狙い目を消したりビルドアップの際にパスの受け手の気持ちがわかるプレーができる。慣れてきた夏ぐらいからぐっと伸びてきましたね」
 

 2004年夏──。第22節7月10日対京都戦でチームに帯同。そして第23節対水戸戦、第24節対山形戦で試合終盤に出場機会を得た谷口に、第25節対湘南戦で初スタメンが巡ってきた。
「マルクスに『ファーストタッチ落ち着いて』と言われ、集中してできました。みんなに声をかけてもらって、みなさんのおかげです。足を攣って交代してしまって、自分ではないと思っていたけど、やっぱり緊張はあったのかなぁ。等々力でやるのもはじめてだったんで」
 そして、第31節8月29日対鳥栖戦で前半終了間際に、寺田に代わり谷口は再びピッチに入った。そして、後半に入る前、アウグストに向かって手を合わせて頭をちょっと下げ、「ごめんね」というポーズを作った。
「宏樹さんと俺とではアウグストにかける負担が違うんですよ。やっぱりアウグストには守備より攻撃参加してほしいから。湘南戦のときは思わなかったんですよ。でも、後でビデオを見返したらカバーしてくれてるなぁって思って。もっとアウグストが攻撃できるようにプレーしたいし、左足のキックももっとうまくなりたい」
 
 谷口は、サッカーの魅力についてこんな風に考えている。
「サッカーは努力でどうにでもなるような気がするんです。俺は、小学生のとき
体がちっちゃかったから、すごい努力した。努力が実るスポーツだと思う」
 そして、自分自身についてこう分析している。
「俺は、絶対天才肌ではないです。絶対違う。そういう要素はひとつも
ないです。小学生のとき、クラブ以外にひとりで相当練習しましたから。
家とか公園で。誰にも負けたくない、と思っていました」
 そういう考えをもっているせいか、谷口はサッカーで等身大の自分を
表現しようと努めている。いまある自分のもっている力を過不足なく
プレーで出そう、と。
その思いが、安定したプレーにつながっているのだろう。
「どんなタイプかというと、昔から特別なプレーもしないけどミスも
少ないという感じでした。でも、昔は緊張ばっかりしていたけど、いまは
プレーに影響するほど緊張することは
ないですね。試合に出たら俺の
できるプレーをやるしかないと
思って開き直ってるから、
それだけ出しますって感じ
なんです」
 

 
 9月26日、水戸戦での昇格を谷口はベンチで迎えた。というより、ベンチ前はスタッフと控え選手たちが、いつ中になだれ込むか、というタイミングを見計らってピッチ内にいる選手たちよりもひと足先に喜びを爆発させていた。
「最後は中入っていくかどうかみんなで迷って、とりあえず挨拶まで待ってスタッフと控え選手で喜びました。優勝したことはいままであるけど、昇格はもちろんそうだしベンチからっていうのは初めての経験だったけど、うれしかったです。そこにいられたのは運がよかった。また頑張らないと!」
 
 Jリーグ元年を小学校2年で迎え、カズに憧れていた少年の「プロになりたい」という夢は叶った。その続きは、これから…。
 
 
 


2004年、横浜F・マリノスユースを経てフロンターレに加入。体の強さを武器に、ディフェンダーとして試合出場も経験した高卒ルーキー。U-17、U-18日本代表。1985年6月27日生まれ、神奈川県出身。181cm、71kg。

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