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 2003/vol.11

 10月4日、いつものように朝8時に目覚めた塩川岳人は、朝食をとり、ミキサーでバナナジュースを作って飲みほした。その後、テレビを観てくつろぎ、10時30分、愛車で集合場所のホテルに向かった。

 9月28日の横浜FC戦で、長橋康弘が微妙な判定でイエローカードをもらい、大一番のアルビレックス新潟戦で無念の出場停止となった。オフ明けの練習で、ディフェンスのトレーニングをする際に右サイドに起用され、塩川は自分の出番を確信した。試合前日は、「やるしかない」と開き直って熟睡できたが、2日前はなかなか眠りにつけなかったという。試合のことを思い描いたり、イメージを高めるために習慣にしているサッカーのビデオ観賞に、いつも以上に時間を費やした。
「スペインリーグとかよく観るし、いつもやってることだけど、その週に限っては、ひたすら観た」
 
 11時にホテルに集合して、選手たちは、うどんやパスタなど軽食をとる。塩川は、フルーツを選んで食べてリラックスして過ごしていた。
 スタジアムは、騒然としていた。12時の開門と同時に、すごい数の青いサポーターが流れていく。武蔵小杉駅前には早くから遠路、新潟から駆けつけたオレンジの群れがあった。じわじわと観客席の空間が埋められていった。
 選手を乗せたバスがスタジアムに到着すると、塩川は、来てくれた友人たちへの連絡に追われた。
「チケットの場所を教えたりとかね。ぼく、モチベーションをあげようと思って、お世話になった人とか友だちとか、いっぱいスタジアムに呼んだんです。静岡からも来てくれて全部で10人ぐらい。自分をすごい追い込んで、やらなきゃならないように追い込んで…」
 12時30分、選手がピッチに次々と出てくる。塩川は、浦上、宏樹と最初に現れた。8月3日以来、2ヵ月ぶりのピッチの感触を確かめる。試合前に、塩川がやるべきことは、まだ残されていた。

 

 

 

 

 塩川は、試合前に必ず自分のスパイクを磨くことにしている。通常、ホペイロのやる仕事だが、高校時代から続けている、この“儀式”は、落ち着くための精神統一のようなものだ。ロッカールームでいつもの場所に座り、約20分間、それだけに心を集中させる。
「試合前って落ち着かないんですよ。マッサージとかも、ぼくしないし。磨いている時は、ほとんど無心。『きょう頑張ってくれよ、この靴』って思いながら。あとは、なにも考えない」
 アップが終わり、選手が練習のためにピッチに入ってくる。ピッチをまたいだ時、芝を触って「お願いします」と思いを込めた。
 今年、3連敗していた新潟だが、塩川は、その3戦に出ていない。特別な苦手意識は、まったくなかった。前日まで宮沢が入ると思っていた左サイドの中盤にファビーニョが急きょ出場することをミーティングで知ったのは予想外だったが、静岡学園高校時代にポジションを争った深澤の存在も含めて気持ちが高まる要素は揃っていた。
「自分のなかでは、もうずっと『宮沢、やってやる』って思ってた。だから、ファビーニョって聞いて、『うわっ、やべぇなぁ』とはちょっと思いました、正直言って。でも、新潟にはイシさんが来てからイヤな思いをたくさんさせられてたんで勝ちたかった。よし、やってやろうって」
 
 14時、選手入場。ユニホームの上に青いTシャツを着用し、今野を先頭に6番目に塩川は入ってきた。集合写真を撮り、Tシャツを脱いで、いっせいに走り出す。円陣を組んで、ぱっと輪が解かれると、塩川はスパイクの紐を入念に結びなおした。
 14時4分、21,393人が見守るなかキックオフ。前半1分、アウグストからのパスを受けたジュニーニョが突破口をひらいた。山口を振り切り、アンデルソン、三田をかわして左サイドをドリブルで持ちこみ、強烈なシュートを放つ。GK野澤が反応し弾いたボールはファーサイドへ。そこに上がって来ていた塩川は、グラウンダーのボールで折り返すと、ホベルチが右足であわせ先制弾が打ち込まれた。この時、塩川は、いろんなことを冷静に頭のなかでシュミレーションしていた。ほんの、一瞬の間に。
「自分で打とうかなと思ったけど、キーパーがこっちに動くのが見えて角度がない。それで、ぱっと左目の視界の端にホベルチがフリーになっているのが見えて、咄嗟に中に折り返した。本能ですね」
 ディフェンス面では、新潟の4バックの左に位置する鈴木健太郎とその前にポジションをとる、ファビーニョのふたりをケアするのが塩川の役割だった。
「どっちも見なきゃならないから苦しいですよね。基本的には7対3で、7が鈴木でファビーニョは3。ファビーニョは、ほとんどディフェンスしない選手だし、中に入ってくるからそこはシゲが見る。でも、ぼく、アウグストの対面で練習やることもあるから左利きの選手には慣れてるんです。アウグストは本当に巧いですからね。あのポジションで、よくあれだけ点取りますよ。ああいう巧い選手とやっていれば、試合の時に、それが活きるから」
 
 先制点だけでなく、後半、苦しい時間帯に我那覇がゴールを決めた時、ジュニーニョが3点目の駄目押しゴールを決めた時、まっさきに駆け寄って喜びを爆発させたのは塩川だった。
「ああいうの行くの大好きだから。海外とかね、すごいんですよ。だからぼくは、もっとね、みんなで喜びたい」
 試合後、「とにかくいいリズムで来ているチームの雰囲気を壊さないことだけを考えた」とホッとした表情で語った。
 

 塩川は、静岡学園を卒業後、96年にモンテディオ山形に入った。95年から同チームを率いていた石崎監督が自分で選んだ選手の第1号が、塩川だった。
「イシさんの知り合いが静岡学園にいた関係で、高3の時、1週間ぐらい練習に参加させてもらって、夏前には、もう入ることが決まってました。高校の時は、静学でポジション獲るのに必死だったから、それまでプロのことは意識してなかった」
 塩川は、今年で8年目になる選手生活のうち約6年半を石崎監督が率いるチームで送っている。センターフォワードだった塩川をサイドにコンバートしたのも石崎監督だった。97年のことである。
「たまたま練習ゲームで左サイドをやる人がいなくて、お前やってみいってやらせたらハマッた。ディフェンスもできるし運動量が多いじゃんか。テクニックもあるし点もとれるしね。でも、あの頃は、今よりやんちゃだったなぁ。精神的におとなになったね」(石崎監督)
 
 同じ静岡学園高校出身の向島建は、こう語る。
「シオのよさは、どんな時も逃げずに自分から勝負を仕掛けること。自分でボールを奪って、そこから思い切りドリブルで中に入ったり縦へ突破できる。精一杯やるのがあいつのよさだから、自分がやってきたことを信じてぶつけてほしい」
 
 プロ入り以来、印象深い出来事はたくさんあった。98年、山形が前期14勝1敗と快進撃を遂げた時、決して環境面では恵まれていない状況でも、チームが団結し楽しかったという。翌99年に大分トリニータに移籍し、勝ち点差1で昇格を逃した最終節の山形戦のことは「一生忘れられない」一戦だ。
「あの年は、運がよかったと思う。チームのムードはよかったけど、ぼくらは目先の試合を目いっぱいやるだけだった。ぼくらが勝ったら、東京が負けて気づいたらちょっとずつ、ちょっとずつ縮まってた。でも、いまのフロンターレとくらべたらレベルが違いますよ。全然、状況も違う。あの時は、最後は別としてシーズン中はJ1に上がれるなんて全然考えてなかったし意識してなかったですもん」 
 



 劇的な最終戦が終わり、顔が腫れるぐらい泣きじゃくったという塩川は、その翌日に、J1昇格を決めていたフロンターレからオファーが届いていることを石崎監督から聞く。志半ばで大分を離れることをためらう気持ちに折り合いをつけ移籍を決断し、翌年、夢だったJ1の舞台に立った。
 

 今年は、左サイドにアウグストが入ったことにより、塩川の出場機会は減った。そのことを自分への発奮材料としてきた。
「そりゃあ、燃えたっすよ。でも、(長橋)ヤスくんがケガして開幕からしばらく右で出てた時、アウグストがどんどん活躍してたから、ああ、ないかなって思ったし覚悟は最初から決めてた。いつ来るかわかんないチャンスを自分のものにするっていう気持ちでずっといました」
 ただ、メンバーから外れれば落ち込むのは当然である。「へこむときは、とことんへこむ」という塩川は、モチベーションの保ち方に苦しみ、前を向こうと必死だった。
「やっぱり、難しい時もある。カーッときて紅白戦で荒いプレーになっちゃったりする時もあるし。ぼく、調子が悪い時にがんがんやってもイライラしちゃうし、自分でもそうなると手に負えないから、いい時に追い込んで練習するんです。でも、どんな理由でもやっぱりメンバーから外れたら悔しいし、そう思えなければプロとしてやっていけないと思うから」
 
 守から攻への切り替えが得意で、苦しい局面でもなんとかしようとする姿は、観る者に伝わるものがある。どんな時も、真っ直ぐに突きすすんできた純粋さが、気持ちを前面に出す塩川のプレースタイルの礎だ。今年は、塩川にとって試練の年かもしれない。それでも、何度も立ち上がって、チャンスを掴んで結果を出すことに全力を尽くしてきた。
 
「今年は、心の闘いです」
 最後にひとこと、そうつぶやいて唇をぎゅっと結び、こげ茶がかった瞳で真っすぐ前を見つめていた。
 

 

静岡学園高校3年で選手権優勝。96年、モンテディオ山形に加入。
大分トリニータを経て、2000年、川崎フロンターレへ。
1977年12月17日生まれ、静岡県出身。168cm、62kg。

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