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 2004/vol.07

「懐かしいですねぇ、ここは。あのときは、ナイターでしたね」
博多の森球技場は、特別な場所である。6月26日(土)、選手バスが到着し、アップシャツに着替えてピッチに現れた久野智昭は、ゴールマウス付近を念入りに確かめるようにゆっくり歩いた。前日から降り続いた雨は、試合前には止み、梅雨独特のうだるような蒸し暑さに、うっすらと汗が滲む。
 久野がいう「あのとき」とは、1998年11月19日のことである。J1への夢を乗せた壮絶なアビスパ福岡との一発勝負だった。2対1でリードしながらロスタイムに同点弾、そして延長前半終了間際の14分、Vゴールに沈んだフロンターレ。「インパクトの大きさでは一番残っている試合」と語る久野は、あれから6シーズン目を迎えたいまも、ピッチの上でキックオフのホイッスルを聞いた。
 

 サッカーが盛んな静岡県に生まれ育った久野は、小学校2年のとき、友人の影響でサッカーをはじめた。小学生の頃から巧さは市内有数の中田少年団のなかでもピカイチだった。
「入ったばかりのことは覚えてないけど、4年生から6年のチームに入ってやってたし、なんでもできちゃったというのはある」
 サッカー以外での久野の活躍の場は、マラソンだ。走れば必ず先頭でゴールテープを切っていた。
「たしか6年のときに1500メートルを5分ちょうどで走れました。いまは、4分45秒ぐらいだと思うから当時としては速かったと思う。長距離は常に1番でしたね」
 

 
 その後、地元の中学に進んだ久野は、やはり1年からレギュラーとなり中盤の攻撃的な選手としてプレーをした。市の選抜にも選ばれていたが、進路にまでサッカーが影響を及ぼすことはなかった。
「そんなに深く考えてなかった。進路を決めるときは、普通に自分の成績で行ける公立の高校を選んだ感じですね。普通に部活でサッカーをやろうという。進学校だったから3年になるとインターハイでみんなやめちゃうんですけど、僕のときは5人ぐらいは残ったかなぁ。楽しかったですよ」
 それでも、3年生になると並居る強豪校が揃う静岡県のなかで選抜メンバーに選ばれている。「練習試合とか大会で当たったら自分のほうがうまいかなっていう気持ちでやれるんですよ。でも、いざ選抜とかに行くと、静岡市から選ばれるのがそもそも少数派なんで、なんか遠慮しちゃうっていうか…、隅のほうでやってましたよ」というのが、人見知りをする久野らしいエピソードである。当時は、「Jリーグもなかったし、大学に行こうとも思ってなかったんですよ。会社入って社会人リーグでサッカーやれたらいいかな」と考えていたというが、結局、先輩が通っていたことが縁で、「誰も知らないところに行くよりはいいかな。サッカーもやれるし」という理由で東京農業大学に進学した。
 ここで、久野が出会って指導を受けたのが、大木武(現フロンターレU-18監督)だ。
「久野は、当時1年だったけどいい選手でした。性格はおとなしいし、欲はなかった。ただ、プレーは安定していてよかったですね。攻守両方でプレーができて両足蹴れるしキックがうまい。久野が風邪をひいても俺は使いましたよね」(大木武)
 
「久野が風邪をひいても…」
 東京農業大学は関東大学リーグの2部に属していた。久野が1年のとき、最終戦の結果次第では3部との入れ替え戦に出る可能性があった。ここで勝たなければ…という大事な試合を前に、久野は風邪をひいてしまう。体調不良な状態のなか、それでも途中交代で出場しゴールを決め、チームを救う点を決めたのである。
「左足でゴール決めて、それで残留が決まったんです。でも、大学リーグはずっと2部だったけど、ほかの大会では優勝もしてるんですよ」
 久野が3年のとき、農大は総理大臣杯で優勝、インカレでも同じ年に3位に入るなど大健闘をしている。久野自身も3年の終わりには大学選抜でブラジル遠征に召集されるまでに成長していた。
 



 1996年に富士通に入社した久野は、まさにチームの歩みとともに進んできた選手である。入社当時は、午前中に会社に出社し、午後から練習という日もあったが、ちょうどプロ化に向けて動き出した時期でもあり、サッカー中心の生活を送るまで時間はかからなかった。翌1997年には川崎フロンターレとしてスタートを切り、Jリーグからも十数人の選手が移籍。この年、社員選手たちはなかなか出番に恵まれず久野は3試合のみの出場に終わった。結局、97年は、勝ち点1差で昇格を逃し、翌98年には伝説の参入決定戦で涙を呑んだ。
「懐かしいですねぇ、あの頃のことは。練習場もまだ南多摩にあって、環境もいまと比べ物にならなかったけど、まだJFLだったしこんなものなのかなって納得してやってた。思い返してみると、なんか楽しかったですね」
 
 久野のことを“左ウィングバックの”という形容をつけて心に留めている方も多いのではないだろうか。1998年以降の数年間、本来のボランチではなく不動の左サイドとして定位置を築いていたからである。だが、1998年の開幕戦で途中出場したその日こそが、左ウィングバック・久野が誕生した日だった。
「突然でした。だって、キャンプまではボランチだったんですよ。最初の3試合は途中出場だったんですけど、その開幕戦ではじめて左サイドをやったんです」と本人は言うが、元来の器用さから、そんなことは微塵も感じさせず周囲にはすんなりと左サイドのポジションを、こなしているように映っていた。
「本音を言えばボランチをやりたかったけど、試合に出るほうが自分にとって先決だったし。ヤス(長橋)は右サイドの選手だけど、巧いし、ああは、なれないなぁなんて思いながらやってました」
 
 そして参入決定戦を経て3度目の正直として臨んだ1999年シーズン。11月5日、金曜日の夜、フロンターレはJ1昇格を決めた。先制点は、オウンゴールによるものだったが、右サイドの長橋があげたセンタリングに、久野がシュートを打ったボールを相手選手がヘッドでクリアし、そのままゴールに吸い込まれたのである。
 
「そうそう。その後すぐ点とられちゃったけどね。でも、やっぱり昇格決めたあの試合がいままでで一番うれしかったですね。延長Vゴールだったから勝ち点が足りなくて、その日に優勝決まらなかったのが残念だったけど」
 延長前半14分、浦田尚希が放ったゴールが決まると、等々力は本当にゴーッという轟音とともに歓喜に包まれ、夜空に美しい花火が舞った。
 
「あの試合は、サッカー人生のなかで一番悔しかった試合」と久野がいうのは、2000年、わずか1年でJ1からの降格が決まった11月18日、セカンドステージ第13節アウェイでの柏レイソル戦である。ロッカールームで、久野は悔し涙を流したという。この年、プロ契約をし再スタートを切っただけに、悔しさだけが残る1年となってしまった。そして、再びJ1昇格をめざす日々が始まったのである。
 

 今季、久野はボランチの一角として安定したプレーで3トップとディフェンスラインをつなぐ役割をこなしている。長年コーチを務める高畠勉は、久野の特長についてわかりやすく語っている。
「ベティの印象は、ずっと変わらない。能力があって、両足蹴れるし、フィジカルも強いし戦術理解度も高い。ボランチだけじゃなくて両サイドもできて、たぶんトップ下でもできる。そうなると一歩間違うと器用貧乏になってしまう可能性があるけど、ベティの場合、小さくまとまっていないというか、そのユーティリティーさがチームにプラスに働いている。オールマイティーなんやけど、ベティにしか出されへんオリジナリティーや味があるんちゃうかなぁ」
 そう。常に安定したプレーを変わることなく続けているのが久野の強さであり、計算できるプレースタイルが指導者が変わっても起用される所以なのだろう。
「動き自体は、昔から変わってないと思う。ボランチだと運動量が多いから試合後の疲労は昔よりはあるけど、食事もしっかり毎日とっているし、問題ないですね」(久野)
 さらにチームメイトは口を揃えて「ベティさんが怒ったところを見たことないし、本当にいつも変わらない」という。
「まぁ、確かに普段の生活では怒ったりしないけど、試合では自分がうまくいかないときとか他の選手に対してだってイライラすることだってありますよ、そりゃあ」(久野)
 高畠コーチに再び聞いてみた。
「確かにおとなしい面はあるかもわからないけど、ひたむきに頑張れるし内に秘めたるハートはある。試合中に相手選手にガッといくところを何度も観たことあるし、ベティは、芯は強いと思う」
 

 

 一昨年、昨年とヒザの手術をし4ヵ月にわたるリハビリを繰り返しただけに、今季は、試合後の心地よい疲労感に身を委ねた充実した表情の久野をみることができる。
「そうだね。久しぶりに充実してやれてるね。試合に出るのはやっぱり楽しいし、これで昇格できたら言うことないですね。まだまだ、頑張りますよ!」
 
 

1996年、東京農業大学よりフロンターレの前身、富士通川崎に加入。本職のボランチに加えサイドもこなすユーティリティープレーヤー。1973年9月25日生まれ、静岡県出身。170cm、68kg。
 

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