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 2004/vol.11

「よかったぁ。ホントよかった」と寺田周平は何度も言った。昇格が決まったときも優勝が決まったときも、インタビュー中も何度も何度も。
「昇格が決まった夜は家に帰って、起きて待っていてくれたかみさんと缶ビールで乾杯しました。しつこいぐらい『よかったぁ。よかったぁ』って独り言みたいに繰り返してましたね。本当はコメントするときに、支えてもらった人や応援してくれた人たちへの感謝の気持ちを言おうと思っていたのに、実際決まったら思わず自分のうれしさばかり言ってしまいました」
 

 昇格が決まるホイッスルが鳴る、ずっと前から境トレーナーは心に決めていた。
「まず、周平のところに駆けていこう」
 武田ドクターも同じことを考えていた。
「ケガを乗り越えた選手は何人もいるけど、まずは周ちゃんのところへ」
 だが、アウェイだったこともあり、すぐにスタッフはピッチに入れなかった。挨拶が終わるのを待って、控え選手と一斉になだれこんだ。わーっともみくちゃになり、みんなでサポーターがいるバックスタンドへ向かう途中、ふたりに労われた寺田は、顔を覆った。
 

 

「とくに言葉にはしなかったけど握手したのかな。両ヒザを手術したし、肉離れも何回もしたし、復帰直後にケガをしてしまったこともあったし、これまで本当にいろんなことがあったからね。まずはチームに感謝です。あとは、もちろん本人の能力もあったし乗り越えてきた精神的なものもあります。やっぱり、周ちゃんはすごく苦労したから、まず最初にっていう気持ちになりましたよね」(武田ドクター)
「やっと周平を見つけて『周平、お疲れ!』って言ったら、目頭を押さえていたから僕も泣きそうになったんですよ。ぐっとこらえました」(境トレーナー)
 寺田のプロ生活は、そのほとんどがケガとの戦いだった。手術をしてリハビリをして徐々に復帰していく姿を、そばでずっと見守ってきたのが武田ドクターと境トレーナーはじめメディカルスタッフだった。
 彼らにしかわからない絆があった。
 



 

 境トレーナーは寺田について、こう強調した。
「周平は、僕たちが『こうやって』っていうことをちゃんと必ず実行して、それ以外にも自分でちゃんとやっているのに、ケガが多かった。でも、『なんでだよ!』とか、あいつはひとことも愚痴を言わずに黙々とやるんです。精神的に、ほんと強いですよ」(境トレーナー)
「たぶん、周りのみんなが思っているより、リハビリ中もマイナスな精神状態にはならなかったですよ」と寺田は言う。
「それに、みんな俺のために一生懸命やってくれましたから、愚痴なんて言えないでしょう。別にストレスになるほど我慢していたわけじゃないし、逆に我慢できるだけの精神的なゆとりはあったのかもしれないですよね。もちろん焦りはありましたけど、本当にイライラするほど追い込まれたって感じじゃなかったですよ」
 自分を信じる力が支えていたのだろうか。それとも周りの人間に対する、期待に応えたいという気持ちに支えられていたからなのだろうか。
「そこですよ。俺のモチベーションは。お世話になった方々とか家族にしても武田先生や境にしてもそうだけど、このまま終わるっていうわけにはいかないし、もう一回プレーする姿を見せたいがために頑張っていたっていうのはあるかもしれない。それが結局、自分のためにもなるんだけど。やっぱり応援してくれている人たちが、自分が活躍したら喜んでくれるだろうって思ったしね。そりゃあリハビリしているときに『頑張れよ』って言われて、たまには『俺だって頑張ってるよ』って思うこともありましたよ」
「頑張って」という言葉は、ときには苛立ちにつながるだろうと安易に想像すると、寺田の着地点は違った。
「でもね、それは精神的によくないとき。冷静に考えれば、こうやって応援してくれてるんだから、恩返しをしたいと思ったからね。それが自分のモチベーションになっていたから、逆に『頑張れよ。頑張りな』って言葉がなかったら、頑張れなかったかもしれないですよね」
 

 それが周囲の人間が感じる寺田の「強さ」なのか、それともほかに理由があるのか話を聞きながら、ずっと考えていた。
 答えは、あった。
「どっかであったのは、俺、プロに入るまでの1年間があったでしょう。あのときは所属がなかったからね。それが、やっぱり一番きつかったから。あのときを思えば、いまはフロンターレの選手なんだし、治して頑張るっていう場が与えられているわけだから頑張るしかないよなって」
 寺田は大学4年次に、ほぼ内定していたプロ入りが立ち消えとなり、1年間、浪人生活を送っている。それでも周囲の支えやもちろん本人が諦めずに練習を続け、1年後にフロンターレへの加入が決まった、という経緯があった。
「あの1年は、本当に人生のどん底だった。あんな経験は二度としたくないけど、でも、いま思えばあの経験があったから、いい方向に活かせたというか…」
 ともすれば投げやりになってしまいそうになる気持ちも、一歩引いて考えれば「居場所」があることに感謝するという基本に立ち返ることができた。「強さ」に映っていた精神力は、どん底を経験したことで養われた本質を見極める冷静さが根底にあった。
「やっぱね、落ち込んでリハビリなんかいいやって思ったところでなにも得られないっていうのはあるでしょ。それは、冷静に考えていたかもしれない。いまできることをやっとかなきゃなぁって。後悔だけはしたくなかったから」
 そう言って、「でも」と言葉を続けた。
「もちろん、波はあったよ! リハビリ中は、きょうもまた同じメニューかぁって思うこともあるし。グラウンド走っている間、みんなは練習してるわけだから差は開くでしょう。でも、『何回もケガしてよく頑張れるな』って言われるけど、実際、契約してもらっているわけだから普通に考えて頑張らざるを得ない状況だよね。なにがなんでも貢献しないとまずいだろうって思いますもんね。毎年契約すると、うれしいっていう反面、『頑張らなきゃ!』って思っていたし。チームには本当に感謝です。だから本当に今年はよかった。何度も言うけど、ホントよかった。まだ恩返ししきれてないけど、喜びっていうよりホッとした気持ちが大きいですよね」
 

 寺田は兄と姉がいる5人家族で育った。幼い頃の話を聞いたり、寺田の礼儀正しさに触れる度に、家族の存在の大きさ、信頼関係や尊敬する気持ちを強く感じていた。
「あのね、うちの両親なんかは気を遣ってケガしている間は逆になにも言わないんですよ。母親はそういうときに、ほんと電話をかけてこなかったし、サッカーの話題に触れなかったですね」
 距離が近いぶんだけ、相手を気遣ってしまうということなのだろうと考えていると、また寺田が言葉をかぶせた。
「いやだから、ホントよかったよ。今年は、試合に出られて。家族も試合を観に来て楽しそうだし、実家に帰っても親と試合の話ができるわけでしょう。ホントよかったよ」
 今年は4月に子ども(長男・周太)が誕生し、うれしい出来事が重なった。恩返しは家族に対しても大きな意味があった。
 
 優勝を決めウィニングウォークをしている途中、寺田は家族がいるバックスタンドに向かって笑顔で大きく手を振った。


 昨年は、残り3試合、緊迫した状況で出番が巡ってきた。
 平塚戦のことだった。2対2の同点となり、残り数分で交代した寺田はベンチ横で直立不動で戦況をみつめ、ホイッスルが鳴った瞬間、くずれ落ちるようにその場にしゃがみこんでしまった。濃い270分を体験した昨年の終わりには、こんな風にシーズンを振り返った。
「あれだけ間があいても期待して応援してくれる人がいるのは幸せに感じました。でも、やっぱり自分のなかで満足するプレーはできなかった。だからまだとても完全に復活できたとは思えないです。やっぱり悔しいですね」
 1年前のことを、いまはこう受け止めている。
「昨年の3試合は練習はしていたけど、試合慣れっていうところで足りなかった部分もあったし、あのプレッシャーのかかったなかで緊張もあった。やっぱりね、みんながそれまで41試合積み上げたものを壊しちゃいけないっていうのをすごい感じて、ちょっと慎重になりすぎてたんでしょうね。本当に、自分の動きっていうのができなかったですよね」
 そして迎えた今季、寺田は第2節からベンチ入りし、第9節5月2日対京都戦よりリベロとして先発出場を果たした。それ以降、夏場に軽い肉離れで数試合休んだことはあったにせよ、コンスタントに試合に出続けた。今年はとくにバランスを重視して足に必要以上の負担をかけないように、背中の筋肉を毎日ほぐすなどマッサージにも時間をかけた。
 プレーに関しては、試合後に話を聞くとよかった点については言葉少なだが、反省や課題についていつも考えているのが寺田だ。復帰を果たし、さらに思い描く理想のイメージに近づく途中の段階にある、という気持ちが強いからだろうか。
「1試合終わると、きょうはあの場面でやっちゃったなぁとか思うし、勝って家に帰ってもボーッと試合のことを考えていますね。なかなか完璧な試合っていうのはないだろうけど、自分のなかでは、まだみんなに助けられているっていう感覚があるんですよ。ポジション的にリーダーシップとってみんなの信頼を集めてやるのが理想だし、そこにはまだまだ遠いから頑張らなくちゃって。もっと俺じゃなきゃダメだっていう存在になりたいっていうのはありますよね。だから、まだまだ全然満足してないです。俺、もっとできねぇかなぁって思うし。やっぱりイメージするのは、(左ヒザ)前十字をケガする前かなぁ。1年目の頃って裏とか走られるの全然いやじゃなかったんですよ。むしろ走ってくれって思っていたぐらい。いまが(イメージする自分に)戻り中なのか、ここがピークなのか自分ではわからないですね」
 


 

 もちろん試合に出ていることでしか得られない充実感や経験という何にも代えがたいものも手に入れた。
「試合にこうやって長く出て、体の動き以外の面で経験を積むことで自分が伸びているんじゃないかっていう期待はありますよ。今年の出始めよりいまのほうが落ち着いてやれているのを感じるし、やっぱり試合に出るのが一番のトレーニングなんだなって」
 今年は、目の前の試合に全力で取り組み、1試合1試合積み重ね「今」を生きてきた。そうして、過去5年間で出場したリーグ戦の数を、今シーズンは上回った。
「いまは本当に1試合出て勝つってことに集中している感じかなぁ。それで今年結果を出してきたから、あんまり先のことっていうのは考えてないですね。まず10試合出られた。その頃、かみさんと話していて20試合いけるかなぁなんて言っていたら20試合出られたでしょう。いま、29試合なんだけど、30試合はいきたいね」としみじみ語ったが、その後「30」という数字も第41節対福岡戦で踏んだ。
 
 インタビューが終わりに近づき、「その足、頑張ったよね」と言うと、「ほんとだよ〜」と寺田は大事そうに左足をさすった。
 きっと、本人が「よかったぁ」と口にした数以上に、寺田を見守り応援してきた人間がつぶやいているだろう。
 
 心からの「よかったね」という言葉を。
 


1999年、東海大学から川崎フロンターレに加入。ディフェンスだけでなくボランチもこなし、今シーズンのJ1昇格に貢献した。1975年6月23日生まれ、神奈川県出身。189cm、81kg。

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