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ピックアッププレイヤー

 2008/vol.09

ピックアッププレイヤー:MF4/山岸 智選手

Every cloud has a silver lining.
「苦は楽の種」ということわざだ。
苦労はやがて幸福に通ずる元となる。
その言葉をプロ選手としての誓いとし、
田坂は、アクセサリーに刻んだ。

01 2008年8月28日。
 フロンターレは、新潟相手に3対1とリードし試合を間もなく終えようとしていた。そして、終了間近の後半43分、中村からのパスを受けた我那覇が右サイドからボールを折り返す。ゴール前にはジュニーニョがいたが、我那覇の視線の先には田坂がうつっていた。田坂は「来る」と信じて走っていた。そして、考えた。トラップしても詰められるだろう。いいところにボールも落ちてきた。右利きだが、ミートすれば左足のほうが強いボールが蹴れる自信もあった。田坂は、迷わずダイレクトで豪快に左足を振り切った。

 今季の目標は、10試合に出ることだと田坂は開幕前に語っていた。そのひとつ手前の9試合目に訪れた弾みになるうれしいゴールだった。

 試合後、フロンターレのスカウティング担当の久野智昭はいつも以上に満面の笑顔だった。
「田坂は両足どっちも得意だからね。きょうはどん欲にゴールを狙っていたのが観ていてわかりましたよ。それに本来の右サイドに入ったから気分良く試合に入れたんじゃないかと思います。僕もうれしいですね」

広島時代に培ったもの

 田坂は、広島県広島市で生まれ育ち、地元のJクラブ・サンフレッチェ広島F.C下部組織でジュニアユース、ユース時代を過ごした。5際年上の兄の影響で小学1年のときに入った広島高陽FCは地元の強豪クラブだった。とくに1年から3年までは練習始めに30分間、必ずひとりで練習する時間が与えられた。繰り返し繰り返し練習したキックやリフティングなどの基礎練習は、いまでも田坂の礎となっている。6年のときには全国大会出場も果たした田坂は、サンフレッチェ広島F.Cジュニアユースのセレクションに合格。最初の転機が訪れた。

 ジュニアユース時代は、学校が終わると家に帰って着替えて電車に乗って45分かけて練習場に通う毎日だった。練習は午後6時から8時まで。それから自主練習をやると、帰宅するのは10時30分すぎ。母が用意してくれていた夕飯を食べて風呂に入って寝る。そういう日々を送っていた田坂は、そのままユースに上がりプロサッカー選手になろうと将来の目標を立てていた。そのため、中学3年の3学期に田坂は転校をすることになる。広島ユースは全寮制だったため、練習場がある学区の中学を卒業する必要があったからだ。友達がいる中学で卒業したいと田坂も思っていただろう。でも、夢を選んだ。


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07 2003年、田坂が高校3年のとき、広島ユースは4-3-3システムで攻撃的で魅力あるサッカーを展開し、注目を集めた。定位置の西山貴永(現ベガルタ仙台)とともに両翼に入ることも、ボランチに入ることもあった。3トップで前から攻撃を仕掛けて、田坂も得意のドリブルで思う存分相手チームをかきまわした。夏のクラブユース選手権で優勝し、この大会で田坂はMVPを受賞。Jユースカップでも優勝を果たした。だが、3位に終わった高円宮杯が田坂にとって、最も思い出深い大会だった。唯一、高校サッカー部とガチンコでぶつかれる全国大会だったからだ。準々決勝の相手は平山相太や兵藤、中村北斗らがいた国見だった。この試合、広島ユースは田坂の決勝ゴールで1対0で勝利した。

「シーズンで一番いい試合ができたと思います。注目度は高校サッカーのほうが高かったから、実力はユースチームのほうがあるっていうところを証明したかったんです。3年のときはめちゃめちゃ面白かったです」

 いまの田坂の穏やかな性格からは想像しにくいが、こういう勝ち気なところや自己主張の強さは、ユース時代の田坂を彷彿とさせる。実は、こうした華々しい経歴からすると、ずっとレギュラーを張っていたと思われがちだが、レギュラーを掴んだのは高校2年の夏だというから決して早い時期ではなかった。

「まったく試合に出てなかったわけじゃないけど、ジュニアユースもユースも継続的にレギュラーで出ていたわけではありませんでした。指導者からは、波をなくせっていつも言われていましたね。いま振り返ると自分が子どもだったからだと思うんですけど、周囲のせいにしてしまうところがあの頃はあったんだと思います。でも、自己分析をして自分に問題があるなって気づいて、そこからは波をなくすことができるようになりました」

 高校2年の夏──。
 ある出来事が田坂の成長を促した。それまでジュニアユース時代から5年半に渡って指導を受けていた中村監督がアビスパ福岡の監督に就任することになり、チームを離れることになった。中村からよく怒られていた田坂は、意外なひとことをかけられた。

「最後にシゲさん(中村監督)が僕たちひとりひとりに声をかけてくれたんですけど、僕に『俺の指示を全部右から左へ受け流していただろう。受け止めたら成長すると思うから』と言われたんです。僕は、そのときも『はい』とだけしか答えませんでした。でも、実際にシゲさんがいなくなってふと冷静になって考えたとき、素直にその言葉を受け入れたらもっと成長できるかもしれないって思ったんですね」

 その後、森山監督のもと田坂はレギュラーとして活躍したのは前述のとおりだが、そうした精神面での気づきがあったからこそだった。

視野を広げた青学時代

01 田坂は、父と母、5歳上の兄と3歳上の姉の5人家族で育った。父と母は早くからサッカーに道を定めている息子に対して、視野を狭めないようアドバイスを送ってきた。だからこそユースに進みたいと田坂が告げたときも一度は反対したが、その後は息子のサッカーへの夢を応援してきた。

 田坂の代は、大会で数々の結果を残したが、トップチームに昇格できたのは同期で田村ひとりだった。田坂は、その答えを知る前から大学進学を決めていた。父から言われた教えが頭に残っていたからだった。

「両親は高卒でプロになるのは反対でした。サッカー以外にも将来目標ができたときのためにしっかり勉強もしろと言われていました。自分の幅を狭めないようにって」

 スポーツ推薦で青山学院大学に進学した田坂は、大学2部リーグからのスタートとなった。サッカーが盛んな土地で生まれ育ちプロの下部組織も経験してきた田坂にとっては、サッカーの環境面においてはカルチャーショックも大きかった。でも、焦りはさほどなかった。

「上に行く選手はどんな環境に放り込まれても上に行くと思っていました。そんな風に言えるのは、いまだからかもしれないですけどね」

 フロンターレはすでに大学2年のときから田坂をマークしていた。2部リーグの試合にスカウトの向島や久野は何度も足を運んでいた。向島と田坂が直接言葉を交わしたのは大学3年の秋のことだった。その頃には、すでに向島のなかでは田坂獲得の青写真がしっかりと描かれていた。

「田坂は身長はそんなにないしパワーはないけど、そのぶん技術とスピードがありました。青学では左サイドをやっていましたけど、パスで逃げるのではなく自分で勝負していた。いまの時代、ドリブルで積極的に仕掛ける選手が少ない中、面白いなって感じましたね。他のチームから声がかかる前に早めに決めたいと思っていました」(向島)

 向島は会話を重ねる度に、田坂の性格面でも惹かれるものがあった。
「例え負けた試合でも、終わった後にきちんと僕のところに来て試合がなぜ負けたのか、自分のプレーがどうだったのか、次にどうするべきかということを分析することができる選手でした。あと田坂が印象的だったのは意志の強さですね。うちに来ることを決めたときも『自分の気持ちは揺るぎませんから』とハッキリと僕に伝えてくれましたね」(向島)

 そして、田坂は大学4年のとき、青山学院大初の強化指定選手としてフロンターレでプレーすることになる。偶然にも住んでいた場所が鷺沼というフロンターレに縁がある土地だったこともあり、スカウトの久野がよく車でピックアップし、麻生グラウンドまでの道を共にしたという。

05

 向島が田坂に声を掛けた頃、青学サッカー部は、1部昇格に向けた戦いに挑んでいた。最終節を残した時点で、国際武道大学と勝ち点で並び昇格圏内の2位という状況になった。そして、最終節はその両者の直接対決。この試合で引き分け、得失点差で上回った青学は、翌年の大学1部リーグ昇格を決めたのだった。大学4年、田坂はフロンターレの強化指定選手としてプロチームで1年間を過ごすという何にも代え難い経験を得たとともに、大学1部リーグでもチームをキャプテンとして率い、7得点5アシストと活躍した。

プロ選手としての誓い

 2008年、背番号「6」をつけた田坂は、新たなスタートを切った。田坂はまず、華奢な体を補おうと筋トレを始めた。体づくりだけでなく、プレーの面でも大きく意識を変える必要があった。学生時代のように自分中心に試合が組み立てられるわけではない。オフザボールの動きやボールをもらうタイミング、パス交換をしながらゴールに向かっていく連携プレーに心を割くことになった。

「攻撃面ではかなりつかめてきました。パスの出るタイミングやサポートのタイミングもわかるようになってきました。ボールのもらい方もよくなってきたと思います」

 守備についても、課題としてしっかりと取り組むようになった。とはいえ、例えばボランチとサイドでは、守備の仕方も視野も違う。それに慣れるとともに、どのポジションで出ようとタイミングをみて、「ここ」というときに自分の特徴を出さなければアピールにつながらない。

 田坂の持ち味は、「攻め」にあるのは自他ともに認めるところだろう。とくに、どんなボールが来ても、それがどんな浮き球であってもトラップでボールをゴールに向かって落として、そこからドリブルで仕掛けていく精度の高さは特筆すべきものがある。攻撃こそ、最大の防御であるというのは、ひとつの真理である。

06「ボールをもったときは、もっとエゴを出していいのかなと自分では考えてます。高い位置でボールをもらったら自分の特徴をもっともっと出していきたい」

 実は、田坂は悩んでいた。バランスよく、どんなプレーも平均値以上のものを求めるうちに自分の特徴を出すことが薄まってしまったと感じていたからだ。それを聞いた向島は、「おまえは自分の良さや特徴を出さなくちゃ。だからこそ、使われているんだから」と鼓舞した。

 初ゴールを決めた新潟戦の試合後、田坂の晴れ晴れとした表情を見ていて思い出したのは、田坂がインタビューで言っていたことだ。

「自分できょうよかったなっていう印象が残るのは攻撃。僕、根っからの攻撃の選手だと思うんです。でも、守備もできるようになりたい」

 新潟戦でのゴールは、今後の自分自身に向けてのひとつのキッカケとなるだろう。
「まず守備から、という意識は変わりません。でも、攻めにおいてやりたいプレー、やらなくちゃいけないプレーというのがちょっと見えた気がしています」

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[たさか・ゆうすけ]

2007年度JFA・Jリーグ特別指定選手。2008シーズンから正式にチームの仲間入りしたサイドアタッカー。しなやかなドリブル突破と正確なクロスを武器に、レギュラー争いに名乗りをあげる。1985年7月8日、広島県広島市生まれ、172cm/63kg
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