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ピックアッププレイヤー

2010/vol.04

ピックアッププレイヤー(番外編):通訳/中山和也

2009年よりチームの通訳を務める中山和也さん。
ブラジルからやってきた選手やコーチをポルトガル語でサポートする中山通訳の存在は、
まさに縁の下の力持ち。底抜けの明るさでフロンターレのブラジル人たちを陰ながら支えている。

1「中学の頃からブラジルに行きたかったんですけど、そのときはとりあえず高校は行きなさいと親に反対されたんです。そこで今度は自分で留学の会社を探して勝手に書類を集めて『これだけやったよ。ここがいいと思うんだけど』って強引に両親に頼み込んだんです」

 東京生まれ岩手育ち、本人いわく「ちょっとだけやんちゃなサッカー少年」だったという中山さん。学生時代からサッカーに携わる仕事がしたいという思いだけで、19歳のときに単身ブラジルへと渡った。留学先はサンパウロのサン・ジョゼ・ドス・カンポスというクラブチーム。ブラジルでの生活がスタートした頃、知っていたポルトガル語の単語は「オブリガード(ありがとう)」だけだったそうだ。

「練習に行っても当然、何を話しているかまったくわからなかったんですけど、逆にこっちから話しかけて相手を困らしてやろうと思って、最初の頃は日本語でまくし立てていましたね。『今日、マジ暑くね?』みたいな(笑)。『何言ってんだ、こいつ?』っていうブラジル人のリアクションが面白かったですね」

 言葉がまったく通じない土地へ行くとつい消極的になってしまいがちだが、そこは肝の据わった中山さん。机に向かって勉強するのではなく、ブラジル人にいたずらをしかけてコミュニケーションをとりながらポルトガル語をマスターしていった。2、3ヶ月ぐらいがたった頃には日常会話程度の言葉を話せるようになっていたそうだ。

「いちおう辞書は持っていったんですけど、1日でスーツケースに封印しました。まあ部屋に帰れば他のクラブに練習に行ってる日本人が何人かいたので、よく耳にする単語を話して『これどういう意味だろう?』ってお互いに情報交換して実際にブラジル人に使ってみて、ああ通じてるな、じゃ大丈夫かみたいな感じで覚えていきました。子供が言葉を憶えていくような感覚じゃないですか」

 日本とは文化も習慣もまったく違うブラジル。治安も日本と比べるとお世辞にもいいとはいえない。留学時代にはこんな物騒な出来事もあったそうだ。

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「ブラジル人の友達の家でメシを食いながらサッカーを観ていたら知らない人が何人か入ってきて、何か話しているんですよ。しばらくしてぱっとそっちの方を見たら、知らない人が銃を構えていて、『おい日本人、何のんきにメシ食ってるんだ。こっちへこい!』って言うんです。その家のお父さんが銀行員で、金庫の暗証番号かカギを持っていたかで強盗が拉致しにきたんですね。そこにいた家族と友達全員、バンに押し込められました。車中でよくよく話を聞いてみたら、どうやら俺たち誘拐されているらしいって。いや~、貴重な体験でした」

 貴重な体験どころか、日本ではちょっと考えられないエピソードだ。中山さんたちは山の奥の一軒家に連れて行かれ「金が取れたら解放するが、取れなかったら殺す」と脅されていたそうだが、翌日車ごと放置され、そこから自力で脱出。無事、生還することができた。過去に子役もやっていたという中山さん主演で、ちょっとしたドキュメントドラマが作れそうだ。

「まあ僕がブラジルに行った頃は事件が多かったみたいです。車から脱出してからぞろぞろと山を下りて警察に行って、それから家まで送ってもらいました。山に捨てられたときの写真をいまでも持っていますよ。友達がたまたまカメラ持っていて、俺が年上だったんでしっかりしないといけないと思って、その車をバックにして証拠写真を撮ったんです。『俺たち生きてるぞ!』って(笑)。そんなことがあってから、もう何が起こっても大丈夫だっていう妙な自信がつきました」

 波瀾万丈のブラジル留学を終えて帰国してからは、留学会社の紹介でエドゥー(ジーコの兄)が創設したCFE(エドゥー・サッカーセンター)というサッカー選手の育成機関に選手兼スタッフ兼通訳のような形で所属し、その後は東海リーグの静岡FCへ。だがすべて順風満帆という訳にはいかず、地元岩手に戻ってアルバイトをしながらの下積み生活も経験した。

「CFEでは選手がメインで、スタッフ兼通訳みたいな感じでした。メインの通訳さんがいないときは自分が通訳したり。そこは1年ちょっといましたね。21歳から22歳の頃かな。それから静岡FCで選手として1年間プレーしました。その後ですか? シーズンが終わって地元の岩手に戻って居酒屋で働きながら、盛岡の高校でボランティアでサッカー部の手伝いをしていました」

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 夢を諦めきれず悶々としていた25歳のとき、知り合いの関係で麻布大学附属渕野辺高等学校のGKコーチの話が舞い込んだ。ちなみにあまり知られていないが、中山さんのポジションはGK。中学に上がったときにたまたまGKのポジションが空いていて、あれよあれよという間に選抜チームにも選ばれ正ポジションになったそうだ。

「まあ、そんなこんなで人生どうしようかなと思っていたら、選手で一緒にやっていた奴の母校が渕野辺で、たまたまGKコーチ探していたんです。じゃあ行くわってことになって、このあたりから本格的にサッカー業界に入っていくことになりました」

 渕野辺高校でGKコーチをしていた同時期、今年からチームに加わった小林悠が在学中で、高校選手権神奈川県大会で優勝を果たしている。小林は当時の中山さんとの思い出をこう振り返る。

「中山さんですか? もうふざけて…、いやとても面白い人です。高校のとき足を痛めてシコリみたいなのができたんですけど、中山さんがやってきていきなりビール瓶でゴリゴリとももの上を転がすんですよ。これがブラジル流だ、すぐ治るぞって。めっちゃ痛かったですよ。ギャーって叫んじゃいました。普段は優しいですけど、ふざけるのが大好きな人で大きな子供って感じです」

 そして2年間、渕野辺高校でGKコーチを務めた後、横浜FCへ。ここから中山さんは本格的に通訳の仕事へ足を踏み入れることになる。

「たまたま友達関係で横浜FCが通訳を探しているという話がきたんです。Jリーグに関わる仕事ができる人はそうはいないし、勉強になると思って自分が手を挙げました。CFEを辞めてからほとんどポルトガル語をしゃべっていなかったので多少不安もありましたけど、当たって砕けろというか。まあ何とかなるかなって」

 2006年の横浜FCは三浦知良、城彰二といったタレントを擁し、ブラジル人選手もルイス・アウグスト、アレモン(故人)といった実力者が所属しており、堅守を武器にJ2優勝を果たした年。とくに後に大分や新潟で活躍したルイス・アウグストにはすごく世話になったそうだ。

「当時、渕野辺から通っていたので遠かったんですよ。横浜FCではマネージャーの仕事も兼任していて、洗濯や試合の準備もしなきゃいけなかったので、深夜1時に終わって翌朝5時に家を出てブラジル人を迎えに行くっていう大変なスケジュールの連続でした。そうしたらアウグストが見るに見かねて『じゃあ俺の家に住め』って言ってくれて、住み込みみたいな感じで生活していました。でも丸一日ブラジル人と一緒でしたから、通訳の仕事としてすごく勉強になりましたね。またブラジルに留学したような感じでした」

 ブラジルで生活した自分の経験を生かせる通訳という仕事。さらに横浜FCではマネージャーやホペイロの業務を兼任したことで、Jリーグのクラブの流れをひと通り学ぶことができた。

 そして2009年、川崎フロンターレへ。横浜FCが外国人選手を獲得しない方針を打ち出したことで、タイミングよくフロンターレとの話がまとまった。フロンターレでは通訳の仕事に専念し、ジュニーニョ、ヴィトール、レナチーニョといったブラジル人選手だけではなく、イッカGKコーチと日本人スタッフのパイプ役としても活躍中だ。

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「イッカとは昔の鹿島時代、エドゥーと一緒のときに食事したりして会ってるんですよね。イッカは憶えてなかったですけど。GKをやっていた僕にとっては、GKコーチがブラジル人というのは良かったかもしれません。たまにボールを蹴らせてもらっていますし、贅沢なことですよね。まあGKの4人はある程度のポルトガル語は理解できるし、ザワやエイジなんかは僕を通さなくても言葉は全然問題ないですよ」

 ブラジル人は基本マイペース。留学時代、草サッカーの練習試合で一人で2時間ぐらい待たされたこともあるそうだ。1時間ぐらいたって一人二人ぐらいやってきて、2時間たってやっとメンバーが揃って試合開始といった具合。そのあたりのブラジル人の気質、そして文化や風習の違いを肌で感じていることは、現在の仕事にも大いに役立っている。

「よく通訳になりたいんですけど、どうすればいいですかと聞かれるんですけど、僕が言えるのはとりあえずその国へ行ってこいってことですかね。行ってから考えればいいじゃないですか。日本で英語の勉強をやっても海外ではほとんど通用しないですし、方言とかもあって本で勉強する言葉は現場では通じなかったりしますから。だったら現地に行っちゃった方がてっとり早いと思いますね」

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 一方で通訳をやっていて大変なことはと聞くと、日本人とブラジル人の考え方の違いで理解しきれない部分をどう納得させるかということだそうだ。ブラジル人の表現やニュアンスを日本人に伝えるのも難しいとのこと。そこで困らないためにも普段からのコミュニケーションが重要と話す。

「ピッチのなかではダイレクトに変換しなきゃいけないんですけど、ピッチ外ではただ訳しているだけじゃダメ。言葉のニュアンスや思っていることも変換しなきゃいけないし、相手が納得するような言い方をしなきゃいけません。とくにインタビューや選手コメントを訳するとき、直訳しても意図が伝わらない場合があるので表現の仕方が難しいときがあります。ブラジル人のジョークを日本人にどう伝えるかとか。あとはブラジル人それぞれに個性があるので、言葉だけじゃなくて気質や人間性を把握しておくことが一番重要になってくるんじゃないですかね」

 渕野辺高校では2年連続で全国高校選手権に出場。そして横浜FCでは1年でJ2優勝を果たしJ1昇格。そして1年でのJ2降格も経験した。「だから今度はJ1優勝でしょう。これしかない!」と話す中山さんに、将来の展望、これまでの経験で得た人生の教訓を聞いてみた。

「いまはフロンターレでタイトルを獲りたいということだけです。現場の一員として、やっぱり優勝したい。クラブとして着実に成長してせっかくここまで来たわけですから。自分としてもどんどんチャレンジしてステップアップしていきたいです。人生って先のことなんてわからない。だからやらないで後悔するよりは、やってみることが一番というのは自分のモットーです。そうじゃなきゃ何も起こらないじゃないですか。成功するか失敗するかは、実際にやってみてはじめてわかること。やるぞって思って実際にアクションを起こせば、何かしら答えが返ってくるもんですよ。こんな僕でもこうして何とかなってるんですから(笑)」

profile
[なかやま・かずや]

ブラジル留学後、サッカー選手育成機関CFE(エドゥー・サッカーセンター)に選手兼スタッフ兼通訳で所属。帰国後、静岡FC(選手)、麻布大学附属渕野辺高等学校GKコーチ、横浜FCでの通訳を経て、2009年〜川崎フロンターレ通訳。1978年12月11日/岩手県一関市生まれ。
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