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ピックアッププレイヤー

2011/vol.18

ピックアッププレイヤー:FW10/ジュニーニョ選手

 僕は今シーズンをもってフロンターレのユニフォームを脱ぐことになりました。

 川崎フロンターレというクラブで、サッカー選手としてのキャリアを積むことができたことを幸せに思います。この9年間、いろいろな出来事がありましたが、フロンターレで精一杯サッカーに取り組むことができました。いまとなっては非常に満足しています。

 自分がここで9年間やってきたこと、できたこと。  日本でのたくさんの思い出が心のなかに残っています。

 ひとつのクラブでいろいろなことをやり遂げられたと思っていますし、日本にきてJ2からスタートし、スタジアムにそれほどお客さんが入らない時期から、フロンターレとともに少しずつ成長していくことができました。ただ、これは自分1人では成し得なかったことで、チームの仲間たち、サポーター、クラブに携わってきたすべての人たち全員のサポートがあったからこそです。そして、こうして僕を導いてくれた神様に感謝しています。

 Jリーグで長くプレーし、得点王やベストイレブンをいただくなど、高い評価をしてもらいました。ブラジル時代からチームにフィットすることが一番重要と考えていたので、日本のサッカーに馴染むことは問題ありませんでした。ですから日本で特別に何か違うプレーをしたわけではありません。もちろん日本とブラジルでスタイルの違いはありますが、逆に経験がなかったからこそ無心でサッカーに打ち込み、そこを日本で評価されたのではないかと考えています。

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 チームを勝利に導くために日本に呼ばれたわけですから、もちろんプレッシャーは感じていました。でも、プレッシャーがなければサッカー選手としての成長はありません。自分自身のサッカー選手としての能力はわかっているつもりです。プレッシャーを逆に力に変えるために必要なのは、よい準備をすることに尽きると思います。心も体も試合に向けて万全の準備をすることが最も大切なことと信じて、ここまでプレーしてきました。

 日本で周りの人たちにとてもよくしてもらったことも大きいです。日本の皆さんと信頼関係を築けたからこそ、自分が何をしなければいけないか、何を要求されているかを理解することができ、それがチームとうまく噛み合ったと思います。日本にきて9年間、フロンターレでプレーして、仲間たちとともに喜び、ときに悲しみながらクラブの歴史を作れたことを幸せに思います。本当にたくさんの人たちにお世話になりました。

 最初の頃は日本での生活、日本人とのコミュニケーションに苦労しました。当然のことです。日本語がまったくわからない状況からスタートしたのですから。ただ日本で1人で暮らし、いろいろなことを学び、出かけるときもできる限り日本人とコミュにケーションをとるようにして、少しずつ言葉の壁はなくなっていきました。日本のすべてを理解しようと心がけたことが、ここで長く生活することができた理由のひとつだと思います。いまではすべてというわけではありませんが、日本の皆さんが何を話しているのかわかるようになりました。表情やジェスチャーが見えない電話での会話も、ある程度理解できるようになっています。

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 日本のことを何も知らない状態でフロンターレにきましたが、そんな僕をチームの仲間たちが温かく迎え入れてくれました。いままでずっと一緒にプレーしてきた選手たち。ヒロキ、ケンゴ、ザワ、クロ。そしていつも僕の体を気遣ってくれたスタッフ。トレーナーの境さん、池田さん、ホペイロの伊藤さん。名前を挙げたらきりがありませんが、フロンターレに関わってきた人たち全員に感謝していますし、1年1年、素晴らしいチームメイトたちと一緒にプレーすることができました。

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 そして日本でお世話になったブラジル人たち。来日した当初はエジソンコーチに日本での生活のことを教えてもらいましたし、アウグストには日本でプレーするにあたっての心構えを教えてもらいました。代理人のテオ、ジネイ、通訳のアルベルト。日本でプレーするための環境を整えてもらいました。そして日本で生活しているブラジル人たち。日本で知り合い、仲良くなったブラジル人もたくさんいます。こうしてお世話になった人たちを挙げていったら、きっと1日中かかってしまうでしょう。

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 そして僕の家族。

 ブラジルから来日するとき、ここで自分ができることを精一杯やらなきゃいけないと考えていました。僕自身もサッカーをプレーすることが大好きですが、何度も怪我をして、コンディションを維持することが難しい時期もありました。これが最後のプレーになるかもしれないと思いながらプレーしていたこともあります。でも日本でサッカーをプレーする上で一番の難関は、家族と一緒に居られないということでした。

 来日してから何年か別々に暮らすことになり、妻や子どもにはたくさんの苦労をかけました。本当はできる限りそばにいて、一緒に食事をしたり、遊びに連れて行ったり、プレゼントをあげたりしたかった。日本で1人で暮らしていた頃は家族と会えない日々がとても辛かったです。

 でも途中から家族を日本に呼ぶことができて3年間、腰を落ち着けて一緒に過ごすことができました。ルーカスとチアゴ、2人とも日本にいる間にずいぶん大きくなりました。こうして家族が安心ですこやかに生活することができたのは、日本の皆さんのやさしさや温かさであり、神様のお導きがあったからだと思います。

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 この9年間、フロンターレでたくさんのゴールを決めてきました。J2、J1と200以上のゴールを決めてきて、すべてが自分の力になったと思います。「印象に残るゴールは?」とよく聞かれるんですが、たくさんありすぎてなかなか答えられません。いくつかをチョイスするのはすごく難しい作業です。

 ただ、あえて3つ選ぶとしたら、ひとつは2004年の夏、鳥栖戦で決めたゴールでしょうか。等々力でのゲームでしたが、ディフェンダー3、4人をドリブルでかわし、さらにゴールキーパーもかわして決めたゴールでした。あのゴールは強烈に印象に残っていますし、自分のゴールへのイメージどおりにシュートに持っていくことができたものでした。ハットトリックを達成したゲームでもあり、チームも5-0で勝つことができました。すごくいいイメージが残っているゲームです。

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 そしてふたつ目は2005年の初戦、アウェイ柏戦で決めたJ1での初ゴールです。0-1でリードされて最後の最後に同点に追いつくことができました。僕自身は自分たちがJ1でどこまでできるんだろうといったことは考えていなくて、ただ無心でゴール目指してプレーした結果、追いつくことができたゲームでした。J2で試合をこなしながらいいチームになってきたと感じていましたし、成長を感じながらプレーすることができていたなかでのJ1初戦でした。

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 最後は2009年ナビスコカップクウォーターファイナルのセカンドレグ、鹿島戦です。このゴールはサポーターの皆さんも憶えてくれているのではないでしょうか。次に進むためにはあと1点が必要で、ほぼラストプレーというシチュエーションでした。ロングボールを右サイドで受けたとき、エリア内にいたテセとヘナトの2人にパスを送るという選択肢がありましたが、対戦相手のゴールキーパーの曽ヶ端選手とは何度も対戦していて、先に前へ出る特徴がわかっていたので、瞬間的にシュートを狙おうと思って打ちました。決めた瞬間、本当にうれしい気持ちで一杯で、チームメイト、そしてGゾーン。等々力にいる皆さんと一緒に喜びをわかちあったゴールでした。

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 たくさんのゴール、勝ったゲーム、負けたゲーム。この9年間、ピッチ内外でいろいろなことがありました。

 そして今年最後のゲームを終え、改めてたくさんの思いが募っています。

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 まず最後の等々力でのラストゲーム、マリノス戦で2ゴールを決めることができたのは幸せなことでした。1年を通して見るとチームにとっても個人的にも難しいシーズンになりましたが、最後にいい準備ができ、いい状態でゲームに臨むことができました。そして等々力のたくさんのサポーターの前でプレーする最後の日に、2ゴールを決めることができました。

 1ゴール目はケンゴのパスをユウがヒールでうまく出してくれ、前にGKしかいないシチュエーションでシュートを打つことができました。フリーの状態でしたがあの瞬間はすごく落ち着いていて、コースを狙って打とうということだけを考えていました。いいポジショニングをとれていましたし、緊張することなく冷静にフィニッシュに持ち込むことができたと思います。

 2ゴール目は相手をかわしてのテクニカルなシュートで、自分らしいゴールだったと思います。カウンターからタサがラストパスをくれたとき、ふたつのオプションがありました。ひとつはそのままシュートを打つこと。もうひとつはディフェンスにきていた選手をかわしてフィニッシュに持ち込むこと。僕は相手をかわしてからシュートを打つことを選択しました。あの瞬間は誰がきていたのかはっきりわかりませんでしたが、ディフェンスにきていたのは小椋選手でした。小椋選手はJ2時代から何度も対戦してきた選手で、シーズンを重ねていくごとにお互いに成長できたんじゃないかなと思います。いろいろな日本人選手と対戦できたことも、僕にとってはいい思い出として心のなかに残っています。

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 等々力での最後の試合が終わったあと、チームの仲間たちから胴上げをされました。じつは胴上げという習慣はブラジルにはない文化で、生まれてはじめての経験だったんです。胴上げされているときの体勢が面白かったといわれましたが、あれは胴上げされることに慣れていなかったことと、以前チームの仲間たちと結束を深めるオリエンテーリングで、木の上から仲間を信じて後ろ向きに倒れるというものがあり、そのとき肘を張っていたら下の仲間に腕をぶつけてしまったことがあったからです。だから仲間たちが怪我をしないよう、両腕を体にくっつけて背筋をピンと伸ばして緊張していました。

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 そして最後のゲーム、アウェイでの磐田戦。前半はチームとしてうまくいかず、後半盛り返したものの非常に悔しい結果になってしまいました。1ゴールを決めることはできましたが、その後にもう1本、ポストを叩いたミドルシュートがありました。あれが入っていればゲームの流れが変わっていたかもしれません。最後のゲームでサポーターに勝利をプレゼントできず申し訳ない気持ちですが、みんなの声援をもらいながら最後までプレーできたことに感謝しています。

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 このゲームでゴールを決めたあと、ケンゴと抱き合いました。ケンゴは自分が来日した年に新人として入団した選手で、9年間一緒にやってきた仲間です。僕がいたから自分も成長できたとケンゴは話してくれていますが、僕もケンゴがいたからこそここまで成長することができ、200以上のゴールを積み重ねることができました。ケンゴは僕がチームを離れることが寂しいと話していたので、抱き合ったときに「僕も同じ気持ちだよ」ということを伝えました。

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15 このラストゲームで、ゴール後にユニフォームをスタンドに投げ入れました。じつは試合前のウォーミングアップの段階から、サポーターにユニフォームをプレゼントしようと決めていたんです。

 レオン(中山通訳)と打ち合わせをしていて、僕がもしユニフォームを投げたらすぐに替えのユニフォームを用意するようにと話していました。レオンがいい仕事をしてくれ、すぐに新しいユニフォームを着ることができました。でもレフェリーにはしっかりと見られていて、フロンターレのユニフォームを着て最後のイエローカードをもらってしまいました。でもプレゼントするのは1枚だけと決めていたので、頭のなかはすごく冷静で、自分としてはまったく問題ないと思っていました。スタッフの皆さんにはまた心配をかけてしまったことは反省していますが。

 そして試合後のロッカールームでは、仲間たち全員に感謝の気持ちを伝えました。「みんなありがとう。これまでフロンターレでプレーした選手、そしてここにいるひとりひとりの存在があるから、いまの自分がある。フロンターレの仲間たちとの思い出はずっと僕の記憶に残るし、絶対に忘れることはない。このクラブの仲間みんなが自分の頭、そして心のなかに刻まれているんだ」と話しました。

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 僕自身、昔からいつも冷静で落ち着いている人間でありたいと願い、つねに正しいことを行うよう心がけてきました。そして日本に来て9年間、その性格がより強まったような気がします。

 約束を守る、時間に正確に、規律を守る。日本人の勤勉さは学ぶべきところが多かったです。ただ、その約束を守りきれないこともありましたが。ひとつ謝っておきたいのは、毎年シーズンはじめに来日するのが遅くなってしまったことです。これは言い訳になってしまうのですが、日本で長く暮らしているぶん、ブラジルにいる家族の問題、向こうで起きていることを解決しなければいけない事情がありました。

 1年のほとんどを日本で過ごしているぶん、ブラジルでやらなければいけないことが多すぎて、時間が足りなかったんです。日本の皆さんには毎年心配をかけてしまいました。

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 そんな僕を最後の最後まで温かく見守ってくれたサポーターの皆さん。 
 この思いはどれだけ言葉で伝えても足りないでしょう。等々力で送別会まで開いてくれ、皆さんとじかにふれ合うことができ、またひとつ素晴らしい思い出ができました。当日ピッチに入場するまで雨が降っていたので心配していましが、途中からやんでくれました。大勢のサポーターの皆さんの前で気持ち良く挨拶することができたことを神様に感謝したいです。みんなの顔を見ると、大人だけではなく小さな子どもまで涙を流してくれていて、どうしても感情が抑えられず涙がこぼれてしまいました。等々力にきてくれた1人ひとりの目を見ながら感謝の気持ちを表現することができ、そこで改めて皆さんのやさしさや愛情を肌で感じることができました。

 ただ等々力でのラストゴールはサポーターの皆さんの期待が大きく、非常にプレッシャーのかかった難しいものでした。もしかしたらこの9年間で一番難しいゴールだったかもしれません。ずっと寒いなかにいたので体が固まっていましたし、ゴールの前にはレオンという素晴らしいゴールキーパーが立ちはだかっていたからです。でも、なんとかゴールを決めることができました。記録には残らないゴールですが、僕の記憶にはしっかりと刻まれたゴールです。でも人生2度目の胴上げは、やっぱり慣れていなくて同じように真っ直ぐな姿勢になってしまいました。

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 ブラジルと日本、サポーターのスタイルは全く違います。日本ではみんなにやさしく接してしてもらいましたし、よくしてもらいました。どんなときでも温かい声援を送ってくれ、手厚いサポートをしてくれたと思います。今シーズンはチームとして難しい時期もありました。もしブラジルのチームで8連敗というようなことが起こったとしたら、選手や監督は絶対に街を出歩くことはできません。サポーターに囲まれて脅されるかもしれないし、車を破壊されることだってあるでしょう。僕のフロンターレでの最後のシーズンにこのような結果になってしまったのは悲しいことですし、サポーターに申し訳ない気持ちですごく残念です。でも、チームが苦しいときに日本の皆さんは逆に自分たちを励まし、リスペクトしてくれました。本当にありがたいことです。

 僕は今シーズン限りでチームを離れますが、フロンターレはこれからも続いていきます。残った選手ががんばってくれるでしょう。ともにプレーした仲間たち、いままで出会ってきた選手たちすべてに感謝したいと思います。そしてこれからフロンターレに入る選手もいます。今年は難しいシーズンになりましたが、フロンターレはタイトルに近づくことができているので、今度はそのチャンスを勝ち取るためにひたむきにがんばってほしい。選手みんながわかっていると思いますが、「自分たちはできるんだ」という自信をもってプレーしてほしいと思います。

 僕自身は30歳を超えてサッカー選手としてのキャリアも晩年に入ってきましたが、自分としてまだまだプレーヤーとしてやれると思っています。日本で長く暮らすことで規則正しい生活習慣を送ることができましたし、健康面も問題ありません。サポートしてくれた皆さんには感謝で一杯です。ただ、僕のヒストリーはこれで終わったわけではありません。人生には先がありますし、僕自身、まだまだ思い描いているプロジェクトがあります。これからもサッカーを続けるつもりですが、そのうち引退する時期がくるでしょう。そのときは日本やフロンターレに恩返しをするために、プレーヤーとしてではなく、逆にサポートする立場になって等々力に帰ってこられたら幸せです。

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 そして最後に。

 サポーターの皆さんには、フロンターレを末永く応援してくださいとお願いをしておきます。等々力はこれ以上お客さんが入れるスペースはないかもしれませんが、フロンターレを応援する人々をさらに増やしていってほしいです。僕が望んでいるのは、こうして応援していただいている状況をこのまま続けていってほしいということ。僕に代わりまた新しいブラジル人選手がフロンターレにやってくると思いますが、新しい仲間たちも手厚くサポートしてもらいたいです。なぜなら自分がここ日本で成長したように、新しくフロンターレに加わる選手たちも同じように成長してほしいと願っているからです。

 そしてフロンターレに関わってきた人は、みんな僕のファミリーだと思っています。どういう道に進んでいくとしても、僕はこのクラブを応援していますし、2012年、そしてその先もフロンターレにとっていいシーズンになることを願っています。

 どこにいても、どこでボールを蹴っていても、僕の心のなかにはフロンターレというクラブがあり、青いファミリーたちがついている。

 その思いを胸に、僕は前に進んでいきたいと思います。

 皆さんには本当に感謝しています。
 「アリガトウ」

 

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[じゅにーにょ]

在籍9年は外国籍選手としてクラブ史上最長。加入した2003年以来、圧倒的なスピードとテクニックで、チームのエースとして君臨し、フロンターレ通算355試合214得点を記録。ジュニーニョの存在なしにクラブ躍進のストーリーを語ることはできない。幾度となく等々力を歓喜の渦に包み込んだ「川崎の太陽」。 >詳細プロフィール

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