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ピックアッププレイヤー

2012/vol.08

ピックアッププレイヤー:GK21/西部洋平選手

スポーツは何をやらせても万能。しかし、これといった競技に出会えなかった少年が、
高校進学とともに選んだのは、未経験の「サッカー」だった。
すぐに頭角を表わし、とんとん拍子にプロ入りが決まってデビューも飾ったが、順風満帆な日々は、
そう長くは続かなかった。サブ降格、移籍、構想外通告、J2でのプレー......。
人との出会いに恵まれて、挫折を乗り越えてきたGKは今、落ち着いた雰囲気を漂わせ、
川崎フロンターレのゴールマウスを預かっている。

01 プロ2年目の秋。西部洋平は総監督に就任したばかりの横山謙三に呼び出された日のことを今でもはっきりと覚えている。

「明日、練習に来るときは髭を剃ってきちんとしてから来い。もうサッカーできなくなるかもしれないから」

 川崎フロンターレが初のJ1で苦戦を強いられていた2000年、西部が所属していた浦和レッズもまた、初めてのJ2でもがいていた。目指すはもちろん、1年でのJ1復帰である。しかし、35節を終えた9月28日の時点で、岡田武史監督率いるコンサドーレ札幌に独走を許し、2位の浦和は残りひとつの昇格枠を懸けて、3位の大分トリニータと激しいデッドヒートを繰り広げていた。

 大分との勝点差は「2」。浦和の失速と大分の勢いを考えると、追い抜かれるのも時間の問題だった。ここでフロントが動く。アルビレックス新潟に2-4で敗れた2日後の10月3日、ゼネラルマネージャーを務めていた横山が総監督に就任し、現場の指揮を執ることが発表されたのである。
 西部が呼び出されたのは、その直後のことだった。

〈え、俺、クビになっちゃうの......!?〉

 真意をつかみかねていた西部は翌日、不安を覚えながら身だしなみを整え、練習場に向かった。そこで彼を待っていたのは、レギュラーチームへの抜擢だった。

 横山の言葉が意味したのは、つまり、こういうことだった。

 J1復帰に失敗すれば、クラブはこの先どうなるか分からない。規模を大幅に縮小される可能性も考えられる。残りは7試合。クラブの命運を握る大事なゲームで、お前を起用する。今が勝負のときだぞ──。

 ベテランの田北雄気に代わってゴールマウスを預かることになる。緊張やプレッシャーに押し潰されても不思議はない。ところが西部は、不安などこれっぽっちも感じていなかった。大事な試合でゴールを任されたことや、純粋に試合に出られることでテンションが高まり、緊張や不安よりも嬉しくて仕方がなかったのだ。

〈マジかよ、俺、試合に出られるぜ!〉

 実際に週末のベガルタ仙台戦でプロデビューを飾る。この試合で1-0の完封勝利に貢献すると、残り試合でも先発で起用され、チームも最終節に駒場スタジアムでサガン鳥栖を破り、公約どおり1年でJ1復帰を決めた。

 クラブの未来を担うはずの若き守護神は、このとき19歳。サッカーを始めからまだ4年半しか経っていなかった。

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サッカー未経験者が3年後にプロへ

 浦和がJ1復帰を決めた日からさかのぼること5年数か月、中学3年生だった西部は卒業後の進路を決めあぐねていた。

 子どもの頃からスポーツに親しんできた。運動神経は抜群で、剣道、野球、バスケットボール、卓球と、何をやらせてもズバ抜けた能力を発揮した。本人もスポーツでは誰にも負けない自信があったが、一方で、これを極めたいと思える競技に出会えていないのも確かだった。

 かといって、勉強が好きというわけでもない。ならば無理に進学せず、大工になるのもいいかもしれない、と漠然と思っていたが、両親から「高校ぐらいは行きなさい」と言われ、考え直すことにした。

 そんな話を担任の先生にすると、「そうか。それならちょっと考えてみるから」と言われ、しばらく経ってから、こんな提案を持ちかけられた。

「スポーツ推薦なら可能だから、どうだ、サッカーでセレクションを受けてみないか」

 このとき、西部は本格的にサッカーをした経験がなかった。突拍子もない提案のようだが、担任の先生はサッカー部の顧問で、西部の才能を見抜き、その運動能力を高く評価していたのだ。

〈へぇ、面白そうだな、それ──〉

 紹介された高校は、山梨の帝京第三高校だった。全国大会への出場回数こそ、県内の名門、韮崎高校に及ばないが、県大会では必ずと言っていいほど決勝に顔を出す強豪である。西部の一学年上にはセレッソ大阪に入団する宮川大輔が、二学年上には中央大学を経てFC東京に加入する宮沢正史がいた。

 サッカー経験がまったくない西部にとって、セレクションの準備は兄の友人からジャージを譲ってもらい、スパイクを買いに行くところから始まった。

01 セレクションに集まったのは、名門中学でプレーしたり、都道府県の選抜に入ったりした経験のある選手ばかりだった。まともにボールを蹴ったことのない西部は、GKのポジションを選んだが、実技試験だけなら間違いなく不合格だった。西部にとって幸運だったのは、運動能力測定も行なわれたことである。

 50メートル走やハンドボール投げ、垂直飛びといった種目でほとんど一番の記録を叩き出した西部の存在が、スタッフの目に留まらないはずがない。こうしてなんとか合格し、翌年からサッカー人生の第一歩を踏み出すことになる。

 全寮制と聞いて、入学前には、実家を離れて楽しくやれそうだな、と考えていたが、それがいかに甘い考えか、すぐに思い知らされることになった。

 上下関係は厳しく、練習の辛さも想像以上のものだった。体力に自信のあった西部ですら吐くことがあり、泣きたくなることも一度や二度ではなかった。

〈もう、実家に帰りてぇよ......〉

 まさか自分がホームシックにかかるとは、思いもしなかった。その過酷さは、入部時に60人ほどいた同級生が3年の最後には16人に減ったことが物語っている。

 苦しさ8割、楽しさ2割。その2割の楽しさを西部に提供してくれたのが、GKコーチの小林実だった。
 小林は高校時代には韮崎高校でフィールドプレーヤーとして鳴らした人物で、帝京第三高校ではGKコーチとして西部らの指導に当たっていた。

 あまりに本格的なGKコーチだったため、西部は当初、ド素人の俺なんて相手にしてくれないかもしれない、と心配したが、それは取り越し苦労に終わった。

 小林はGKの基礎から丁寧に教えてくれた。もともと運動能力が抜群の西部である。飲み込みが早く、メキメキと実力をつけていく。毎日が発見と成長の連続で、このポジションにどんどんのめり込み、周りとの差はみるみるうちに埋まっていった。

 のちに小林は「変な癖がついていなかったから、とても教えやすかった」と西部に話している。

 高校2年になってレギュラーの座をつかんだ西部にとって転機となったのが、97年のインターハイだった。

 真夏の京都で行なわれたこのインターハイは、のちに「黄金世代」と呼ばれる1979年生まれの選手たちが最終学年を向かえ、注目を集めた大会である。小野伸二の清水商業高校、本山雅志の東福岡高校、中田浩二の帝京高校、遠藤保仁の鹿児島実業高校などが出場していた。

 帝京第三高校は2回戦からの登場で、対戦相手は愛媛の新居浜工業高校だった。試合では「当たっている」状態の西部がビッグセーブを連発し、3-0で勝利した。このときの活躍で、スカウトたちの手帳に「西部洋平」の名が初めて書き込まれた──そんな話を西部はのちに耳にしている。

 高校3年になると、関東選抜にも選ばれた。プロを意識するようになるのは、この頃からだ。

 もっとも、選抜では上には上がいることも認識した。西部に強烈なインパクトを与えたのは、同じく関東選抜に選ばれた前橋育英高校のGK、のちにヴィッセル神戸に入団する岩丸史也である。このひとつ年下のGKの存在に阻まれ、西部は関西選抜との試合に出られなかった。

 だが、それも当然のことだと西部は思っていた。誰が見ても岩丸のほうが上で、西部自身もコイツは別格だな、と素直に感じていた。むしろ、いつか俺もこのレベルに達したい、と純粋に思い、上を目指す気持ちを確かなものにしていた。ここからプロへの道が一気に開けていく。

 夏のある日、西部は小林から「いくつかプロから声が掛かっているぞ」と聞かされた。その後、Jクラブのフロントやスカウトが帝京第三高校のグラウンドまでやって来て、西部のもとを訪ねた。そのなかに、のちに西部を抜擢する横山の姿もあった。

 オファーがあったいくつかのクラブの中から浦和を選んだのは、試合を見に行った際にサポーターに魅せられてしまったからだ。

 山梨で寮生活を送っていた17歳には、真っ赤に染まったスタジアムと、響き渡るサポーターの歌声が、あまりに衝撃的だったのだ。

〈ここでプレーできたら、一体どんな気分になるんだろう?〉

 話はスムーズに進み、翌1999年から西部は浦和の一員になることが決まった。
 潜在能力は楢崎正剛以上──それが、当時の触れ込みだった。

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自分と向き合うために必要な時間──土田尚史の回想

 2000年のJ2で残り7試合に出場し、浦和のJ1復帰に大きく貢献した西部は、翌2001年もレギュラーとしてゴールマウスの前に立った。この年はリーグ戦21試合に出場した。

 このとき、浦和のGKコーチを務めていたのが、土田尚史だった。

「洋平が加入したのは、僕がまだ現役だった1999年で、とんでもないヤツが入ってきたな、というのが第一印象でした。身体能力が高く、体格にも恵まれていて、コイツと争うのは正直厳しいな、と感じたものです。ただ、普段の生活態度や練習で上手くいかないときの振る舞いには、まだまだ子どもっぽいところがありました。もちろん、高卒ルーキーは誰もがそうなんですけどね」

 J2で迎えた2000年、GKコーチが不在となったため、土田はクラブから急きょ選手兼任でGKコーチを務めることを要請された。
 思いがけないタイミングだったため、土田はコーチになる準備や整理を十分にできないまま、指導者の世界に飛び込むことになる。

「今にして思えば、指導者として拙い僕に対してフラストレーションを溜めただろうし、その不安がプレーに影響を及ぼしたかもしれないから、申し訳なかったと思います。でも、そうしたメンタル面に洋平の課題があったのも確かでした」

 ルーキー時代に土田が感じた幼さは、なかなか改善されないでいた。自分のプレーに納得できず、悔しくて毎日のようにグラウンドで泣いていた。ときには、グローブを外して叩きつけたり、蹴り上げたりしてしまうこともあった。

「落ち着いているときは素直な良い子なんですよ、アイツは。でも、気持ちが昂ぶると制御できなくなってしまう。いくら技術があって、運動能力が高くても、GKは気持ちに余裕がないと、良いパフォーマンスが見せられない。GKが不安定だと、チームも安定した戦いができなくなる。洋平にはそれを分かってほしかったんですけど、僕も駆け出しで余裕がないから、洋平と同じ目線に立ってしまって、いつも衝突。お恥ずかしい話ですが、取っ組み合うようなこともありました」

 2002年、土田の危惧が現実のものになってしまう。

 この年から浦和の指揮を執ることになった元日本代表監督のハンス・オフトは、派手なプレーより、当たり前のことを当たり前にできる選手を好んでいた。

 ところが、この頃の西部は、「こんなシュートを防げるのか」というスーパーセーブを連発したかと思えば、正面のシュートをファンブルしてしまうことがあった。

 そしてシーズン序盤に西部が不安定なところを覗かせると、オフトは山岸範宏をレギュラーに抜擢する。結果、西部はこの年、5試合の出場にとどまった。

「あれは洋平のことを考えての交代だったと思います。ひと皮剥けるために、試合から少し離れて自分と向き合う時間が洋平には必要だったんです。自分の課題が何で、これから何を身に付けていかなければならないか、洋平は理論付けて整理できていなかった。要するに自分を分かっていなかったんです」

 スタメンから外された西部は当初、荒れた。土田も西部と向き合ってアドバイスを続けたが、翌2003年に代表経験もある実力者の都築龍太がガンバ大阪から移籍してくると、西部は三番手に降格してしまう。

 その年の6月、西部は出場機会を求め、期限付き移籍で鹿島アントラーズへと移っていった。

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不安を取り除くサイクル──浦上壮史の回想

 2006年から2010年までの4年間、清水エスパルスのGKコーチを務めた浦上壮史は、土田とは異なる印象を抱いている。

「やんちゃとか幼いといった印象はなかったですね。チームのことをよく考えていたし、若いGKたちの面倒見もすごくよかったですよ」

 期限付き移籍した鹿島でも試合に出られなかった西部は、新天地として選んだ清水でレギュラーの座をつかみ、2004年、2005年と2シーズンに渡ってゴールを守っていた。浦上が西部と出会ったのは、その頃のことだ。

「僕が来たとき、洋平はレギュラーでしたから、すごく自信がみなぎっていました。ただ、それが気の緩みにつながることがあったし、意外と繊細でミスを引きずりやすかったので、プレーの波をなくすこと、プレーの幅を広げることをテーマにしていたんです」

 この頃、ふたりはよく話し合ったという。西部は試合中に感じたことや修正したいと思っていることを浦上に打ち明け、浦上はそれを聞いて練習メニューをアレンジした。こうして不安を一つひとつ取り除き、克服していくことで、自信を持って次の試合を迎えられるサイクルを作り上げていった。

 浦上と過ごした5年の間にも、西部はポジションを明け渡している。

 それは2008年7月のことだった。西部が負傷したこともあって、長谷川健太監督は西部よりも5歳下で、北京オリンピック代表に名を連ねていた山本海人を18節の新潟戦で起用する。

 この試合で見せた山本のパフォーマンスに納得した長谷川監督は、北京オリンピックを終えた9月以降も山本を起用し続けた。

「洋平はもちろん納得していなかったし、ふざけるな、という想いもあったと思います。でも、すぐに気持ちを切り替えて、自分に足りないものは何ですか? それを直せば試合に出られるんですよね? 俺、ポジションを奪い返します、と言ってきた。それ以降は今まで以上に必死に練習していましたよ」

 西部が山本よりも劣っていたもの──それはクロスやFK、CKの対応における安定感だった。運動能力がズバ抜けて高い西部は、多少ポジショニングが悪くても、予測していなくても、“なんとかできてしまう”ところがあった。しかし、その“なんとかできてしまう”部分が、不安定なプレーにつながってもいた。それからは、全体練習後にクロス対応を特訓する西部と、それに付き合う浦上の姿が毎日のように見られた。

 熾烈なポジション争いを繰り広げながら、2010年に西部はポジションを取り返す。この頃、浦上はチームメイトやスタッフの「洋平、すごく良くなったね」という声を頻繁に聞いている。

 この年は32試合に出場した。ところが、シーズンの終盤を迎えた頃、クラブから来季の構想外を宣告されてしまう。この年限りで6シーズンに及んだ長谷川体制が終わることになり、クラブはチームの刷新を決めたのである。

「健太さんや僕らコーチングスタッフ、そして、主力選手の多くがチームを離れることになり、洋平もそのひとりでした。ショックだったようだけど、必ず誰かが見ているから、最後まで気を抜かずにやっていこうな、という話をしたのを覚えています」

 こうして7年を過ごした清水を去ることになった西部は、湘南ベルマーレへ移籍し、戦いの舞台をJ2に移すことになった。

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またひとつ手に入れた財産

 プロになってからのターニングポイントは?

 ──そう訊ねると、西部は「いっぱいあるんですけどね......」と呟き、少し考え込んだあと、「やっぱり真っ先に思い浮かぶのは、浦和で試合に出られなくなった時期ですね」と答えた。

「あのとき初めて自分に何が足りないのか、考えるようになりました。それまでは勢いだけでやってきて、とんとん拍子でプロになって、試合にも出られた。でも、ポジションを失って、ふと我に返って、このままじゃダメだと気づけたんです。それに、GKコーチの土田さんの存在も大きかった。やんちゃですぐカッとなるガキの僕と正面からぶつかって、真剣に向き合ってくれた。土田さんは厳しかったけれど、僕にとってはお父さんであり、尊敬できるアニキ。あの時期に、僕は大人にしてもらったと思います」

 レンタル移籍した鹿島では、曽ヶ端準の壁に阻まれて出場機会は得られなかったが、選手全員の意識の高さに驚かされた。練習中から本番さながらの激しさでボールを奪い合い、本田泰人や秋田豊らがまるで試合中のように本気で言い合う姿に、強い衝撃を受けた。

「どうりで鹿島は強いはずだって納得しました。それに、ソガさんのメンタルの強さも半端じゃなかった。僕と歳がひとつしか変わらないのに、4つか5つ上に思えましたから。半年しかいなかったけれど、良い勉強をさせてもらいました」

01 不退転の覚悟で移籍した清水では、中原幸司GKコーチの信頼を得て、すぐにレギュラーに定着した。中原と一緒に仕事ができたのはわずか2年だったが、後任としてやって来た浦上との出会いもまた、西部にとって大きかった。

「それまではGKコーチに意見したことなんて、ほとんどなかったんです。でも、ガミさんはなんでも言ってこい、という感じで、僕の希望や相談に熱心に耳を傾けて、僕に合った練習メニューを考えてくれた。ガミさんとは本当によく話しましたね。自分でいろいろ考えて、それを伝えられるようになったのは、間違いなくガミさんのおかげ。海人にポジションを奪われたときも、ガミさんは課題を明確に突きつけてくれて、練習に付き合ってくれた。本当に感謝しています」

 クビを宣告されたときは「なんで......」とショックを覚えたが、「ここで文句を言っても何も変わらない」とグッと堪え、パフォーマンスを落とさないことに集中した。

 その後、在籍した湘南に対しては「声を掛けてくれて本当にありがたかった。それに、環境面や金銭面で自分がいかに恵まれていたか、改めて気づかされました。甘えていた自分に再び渇を入れるきっかけになったし、サッカーを続けられる喜びも感じた」と、感謝の言葉を素直に口にした。

 西部が湘南でプレーすることを知った土田は、「カテゴリーを落とすことになって我慢できるかなって、少し心配でした」と明かしたが、それが杞憂だったことは、今、再びJ1のチームでプレーしていることが証明している。

「湘南を昇格させるか、ほかのクラブに移るか、いずれにせよ1年でJ1に戻りたいと思っていたので、川崎からオファーを頂いたときはものすごく嬉しかったです。しかも川崎は雰囲気が良さそうだったし、良い選手も揃っていて、もともと好印象を抱いていたチーム。だからなおさら嬉しかったです。実際に来てみて、その印象は間違っていませんでしたね。交渉の場ではフロントの方が僕の経験を評価してくれて、3人の若いGKの見本になってほしいと言ってくれました。とてもやりがいを感じたし、もう即決でしたよ」

 そして、このチームでまたひとつ、財産を手に入れた。

「失点ゼロへのこだわりは誰よりも強いつもりです。一方で、川崎のチームカラーは爆発的な攻撃力だから、後ろは常にリスクが付きまとう。でも、無失点にこだわり過ぎて、カラーをなくすようなことはしたくない。その結果、2点を取られてしまっても、逆転してくれるだけの力がウチにはある。だから、失点しても動揺しなくなりました。川崎のスタイルが僕を成長させてくれたんです」

 今も、浦和のGKコーチを務めている土田は言う。
「ナビスコカップ(5月16日の川崎─浦和戦)のとき、久しぶりに洋平と会いました。そうしたらアイツ、今、気持ちに余裕があるんです、と言っていて嬉しかったな。GKって人間味がすごく出るポジションなんです。アイツもいろいろ苦労して、結婚もして、これからが脂の乗ってくる時期。まだまだ成長していけますよ」

 今は、川崎U-18を指導している浦上も言う。

「エスパルスで良いパフォーマンスを見せていたのに契約が更新されなくて、下のカテゴリーでプレーした。でも、今は本当に良い表情をしているし、すごく良い雰囲気を醸し出している。この人がいれば安心だ、この人が入れられたらしょうがない、と味方から思われるのが良いGK。洋平は今、そんな存在なんじゃないかな」

 プロになって14年目、サッカーと出会って17年目を迎えた。31歳という年齢はベテランと呼ぶに相応しいが、30代後半までプレーする選手がざらにいるGKのポジションでは、まだまだ若いと言っていい。

「杉山、安藤、高木の3人は本当に真面目で、必死に練習しているから、あっという間に良いGKになるでしょうね。まだまだ譲る気はないけれど、年長者として自分の経験は伝えていきたいと思っています。僕自身は今も代表に入りたいと純粋に思っていて、Jリーガーでいる以上、日本代表を目指す気持ちに変わりはありません。現役でいる以上諦めたくない。俺、もっともっと上手くなりたいんですよ」

 そう語った西部は、やんちゃな頃の面影を少し残した、晴れやかな表情をしていた。

profile
[にしべ・ようへい]

湘南ベルマーレから新加入。プロ入り14年目を迎える経験豊富なGK。昨シーズンは湘南で不動のレギュラーとしてゴールマウスを守り、身体能力の高さに加えて円熟味のあるプレーを発揮した。若いGK陣のなかでベテランならではの存在感を発揮してもらいたい。1980年12月1日/兵庫県神戸市生まれ。186cm/79kg。>詳細プロフィール

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