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ピックアッププレイヤー

2012/vol.13

ピックアッププレイヤー:GK27/安藤駿介 選手

44年ぶりの4強進出を遂げたロンドン五輪を終え、安藤がフロンターレに戻ってきた。
関塚ジャパンの初陣となったアジア大会からメンバーに名を連ね、2年間、メダルを目指して活動してきた。だが、五輪本大会の出場時間は0分。代表メンバーで唯一人、出場機会を得ることができなかった。守護神・権田修一(F東京)の第2GKとしてチームを支えたオリンピック。すべてを終えた22歳は今、何を思うか。。

01  「メダルにわずかに届かず、チームとしては悔しい結果に終わった。だけど、個人としては悔しいまでいかない。ゴンちゃん(権田)と自分の間には、悔しいまでいけないレベルの違いがあった。競える距離にない。悔しいと思わなきゃいけない、という人もいるかもしれませんが…」

 帰国翌日の8月13日から練習に合流。2部練習をこなした。しばらくは時差ボケに悩まされ、日本の夏の厳しさも味わった。ただ、練習に臨む姿勢も表情も、大きな変化はない。「過去は過去で、すがりつくことはない。家族や親戚からは感想を求められましたが、オリンピックについて話すことに抵抗はない。世界のレベルがどうで、最後はみんな疲れていてとか。実際、あんまり言うことないんですよね。テレビで見ている人と変わらない。大きな区切りというより、節目となる期間が終わった。次なる節目にむかってやりたい」

 2010年10月。発足したばかりの関塚ジャパンのメンバーに名を連ねた。同年11月のアジア大会は、Jリーグが佳境にさしかかるため、メンバーはJの控え組と大学生中心。当初、GKは2人の大学生で臨む予定だったという。当時フロンターレは、川島永嗣がベルギー・リールセに移籍し、GKは3人体制。年度別代表に選手を送り出せる状況にはなかったが、前GKコーチのイッカが「安藤を連れて行けばいいじゃないか」そう関塚監督に進言してくれたのだという。「ずっと年度別代表に入りたかったけど、入れなかった。初めて、代表に入れて、本当にうれしかった。初戦の中国戦がプロデビュー戦みたいなモノ。それまでサテライトの試合にしか出たことがなかったので。3万人以上入った完全アウェイのゲームで、やっていて気持ち良かった。日の丸をつけてピッチに立っていると、足が震えました。身震いというか、武者震い。国歌を歌った時も、足が震えました」。全7試合中6試合で先発し、1失点。準決勝・イラン戦ではゴールを決められた直後に微妙な判定でオフサイドでノーゴールとなり、決勝では3度、シュートがバーやポストを叩いた。勝ち運も味方につけ、守護神として優勝に貢献した。大会後、関塚監督は「一番不安だったのはGK。この年代で、経験のある選手はほとんどいなかった。安藤に賭け、それに応えてくれた」そう振り返っていた。

 「自分が活躍しなくても、自分が出た試合で勝てば自信になる。短期決戦で少しずつ自信をつけていくことができた。優勝もして自分はやれる、と。翌年にJリーグデビューして、やっぱりやれると。Jの方がレベルは高かったけど、球際の厳しさとかはアジア大会の方が上だった」

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 翌年2月の中東遠征もレギュラーとしてプレー。だが、3月下旬のウズベキスタン遠征からA代表経験もある権田が合流すると、状況が一変した。親善試合2試合とも権田が先発。帰国後、「目立ったのは、権田ですかね。ちょっと、レベルが違うというか…」と漏らした。国士舘高の一年先輩との力の違いをまざまざと見せつけられ、関塚ジャパンにおける守護神の座は、あっさり奪われた。

ただ、この時期、フロンターレの方で安藤にチャンスが巡ってくる。
4月29日名古屋戦でGK杉山が負傷すると、5月20日C大阪戦でGK相澤が離脱。5月29日G大阪戦で念願のJリーグデビューを果たした。川崎フロンターレU-18出身選手としては、チーム初の先発出場。大雨の降る等々力でPKによって先制は許したが、MF中村が強烈ミドルで同点弾。後半ロスタイムに再び中村が直接FKをたたき込む劇的なゲームで、安藤は初陣を踏んだ。その後もリーグ戦3試合で先発、ナビスコ杯1回戦広島戦も出場し、3勝2分。アジア大会の6戦も含め、出場した公式戦は10戦負けなし。「このころから、“もっている”と言われ始めました」。チームで結果を残したこの時期。折り悪くというべきか、ロンドン五輪アジア予選が始まった。

01 安藤が先発して2―0で勝利した6月18日広島戦。実はこのときは五輪予選初戦クウェート戦に向けた直前合宿の最中。代表メンバー入りした選手はリーグ戦も休んで合宿合流する取り決めがあったが、クラブで2人のGKが負傷中の安藤は、特例でリーグ戦出場が認められた。そしてこれが、11年シーズンで最後の出場機会となった。翌19日にフロンターレを離れ、五輪予選初戦となったアジア3次予選クウェート戦(豊田)でベンチ入り。20日に日本をたち、23日のアウェー・クウェート戦もベンチ。帰国後はGK相澤が復帰したフロンターレのベンチを温めることになった。

「代表では2番手、クラブでは1番手。考え方によっては、そのまま代表に行かなければ、結果を残しているということでフロンターレで試合に出続けられたかもしれない。だけど、代表というのは名誉なこと。一度、行かなくなったら呼ばれなくなるかもしれない。忙しいのは選手冥利に尽きると思っていた」

 多忙を極めたクウェートとの3次予選。関塚ジャパンへの思いを強くするできごとがあったという。敵地で行われた第2戦。日中の気温が50度を越し、湿度は日本の4分の1という異常な気候に体調を崩した。試合前日の練習中、立っているだけでもキツい。ボールを蹴っても、まったく飛ばない。練習を終えるとトイレに駆け込んだ。「おう吐と下痢、どっちが出るか分からない状態。熱中症にかかってしまいました。食事はまったく入らず、塩分入りの水を飲んで、脇やひざ裏を必死で冷やしていました。それなのに試合当日の朝、GKコーチの藤原さんに『関(塚)さんと話し合ってきた。メンバーに入ってくれないか』と言われました。すごく信頼されているんだなと感じました」。結果的に1―2で敗れてしまった一戦だったが、体調を崩してもなおベンチメンバーとして必要とされたことがうれしかった。その後、最終予選6試合もすべてベンチだったが、その立場でやれることをやろうと、気持ちに揺らぎはなかった。

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 第2GKに必要なことは何なのだろうか。「落ち着いていないといけない。一番は冷静が必要。2番手が出るときは、チームとしてスクランブルな状態。何かアクシデントがあった時。オドオドしていてはダメ。あとは、ケガをしないこと」。代表に呼ばれるようになって2年間、大きなケガを一度もしていないという。それは関塚監督に評価され一因なのかもしれない。1番手がケガしたときの2番手だからケガをしていては始まらない。「周りの選手はクラブで出ていてその結果、代表に入っていた。自分は試合には出られていないけど、代表に入り続けることに価値があると思っているし、どの合宿にも参加したいと思っていた。だから、ケガをしそうになったらケアをしっかりやるなど工夫しながらやっていた。分かる人は分かっていたとは思うけど。ぼくは左ひじが弱くて、至近距離で変な形で受けるとすごく痛い。そっちにシュートが飛んだ時はごまかしていた。登里には『安藤のモチベーションは、フロンターレ1、代表9やからな』と言われていましたけど、そんなことはない。ただ、オリンピックには特別な思いがあった。ケガしたら行けなくなってしまうと思っていた」オリンピックが終わった今からこそ、明かせることだった。

 五輪本大会でも540分間、ベンチに座り続けた。「割と気を使いましたよ。ゴンちゃん(権田)は練習中にはしゃべりたくないタイプ。一番手のGKにストレスを与えないように、ゴンちゃんのペースに合わせて表情を見ながら練習していました。試合には出たかったですよ。メチャメチャ。でも、あの期間は出たい気持ちとか、そういうのは絶対に出しちゃいけない。このチームは“和”が特長。自分の行動で乱したくなかった」。7月29日の第2戦モロッコ戦に勝利した直後は期待に胸をふくらませていた。「可能性が上がってきました。ホンジュラス、がんばって欲しいです」満面の笑みを浮かべていた。同じ会場で直後に行われていたホンジュラス―スペイン戦が引き分けに終われば、日本の予選1位突破が確定。8月1日の第3戦ホンジュラス戦は完全な消化試合となり、出番が巡ってくる可能性があったのだ。だが、結果はホンジュラスが1―0でスペインに勝利。翌日の練習後、「ホンジュラス、頑張りすぎですよ。可能性が激減しました」言葉とは裏腹に顔に落胆の色は見せなかった。「いつも通り、準備すること。それを続けていくだけですから」自分がするべき役割がブレることはなかった。

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 関塚ジャパンのラストマッチとなった韓国との3位決定戦(8月10日)。安藤はこの日、22歳の誕生日を迎えていた。試合会場のカーディフ・ミレニアムスタジアムのロッカールームに入った瞬間、小倉コーチが近寄ってきた。「きょうの声かけはお前に任せる」。試合直前の円陣でゲキを飛ばす役回りは監督やコーチが担っていた。最後の力を振り絞って挑む、メダルを懸けた日韓戦。最後の最後に選手に飛ばすゲキは、第2GKとしてチームを支え続けた安藤に託された。途中で噛まないように、なんども頭の中で練習しても、最初は少し声が震えた。「2年前にこの挑戦が始まって、最終目標であるメダル獲得が目の前にある。グラウンドで集中して、メダルを持って帰ろう!」万感を込めて選手を送り出した。それが、この大会、最後の仕事だった。

01 やっぱりメダルだけはどうしても欲しかったのだという。「何もしてないけど、メダルだけはマジほしかった。そうじゃないと大会期間中、ただのロンドン旅行みたいになってしまう。一生残るモノですからね」。快進撃を見せたが、メダルにはわずかに届かなかった。念願の大舞台までメンバーに生き残ることはできたが、ピッチに立つことできなかった。悔しいか、うれしいか、感情がどちらかに振れてしまった方が、あるいは楽だったのかもしれない。宙ぶらりんの気持ちが一番、キツイ。オリンピックにすべてを懸けた2年間。その“報酬”は得たのだろうか。「オリンピックに行く、行かないは、出る、でないに限らず、絶対に目指すべき。それは(大島)遼太と田中淳一には伝えようと思うっている。世界大会を戦うというのは、中々体感できるものではない。一言で言えば、やっぱり楽しい大会でした。見ているだけでここまで震えるようなことは、あまりない」。

 大きな節目を終え、次なる節目を目指す。「フロンターレで試合に出続けることです。4人選手がそろった中で自分が出ること。それが次の目標です。自分が今まで出ていたのは、ケガ人が出たときだけなので」。今季前半も西部、杉山が負傷した3月は、リーグ戦、ナビスコ杯で出場機会はあった。だが、五輪から帰ってきた今、チーム内では厳しい状況が続いている。一からはい上がっていかなければいけないが、ロンドンから持ち帰ってきたモノがある。「スペイン代表のデヘアとか、モロッコ代表のGKとかを見て、とにかくシュートが入らない。デヘアはビルドアップもキックも当然うまいのですが、シュートを止めてゴールを防ぐ能力がすごい。キックとかも大事だけど、まず、それがなければ向こうでは闘えない。自分が目指すところが分かった。代表ではチームのためにやっていたが、これからは自分のためにそこを打ち込みたい。誰に何を言われてブレない、自分のために目指すところがある」。“自分のために”と繰り返し、言った。44年ぶりの4強進出を遂げたロンドン五輪代表メンバー。その肩書きが一瞬で忘れ去られることは分かっている。試合に出て、活躍する。これからはプレーの記憶を人々の脳裏に刻み込みたい。肩書きの取れた安藤は、少し身が軽くなった気分がしている。

profile
[あんどう・しゅんすけ]

フロンターレアカデミー出身。年々成長を続ける伸び盛りのGK。昨シーズンはプロ入り3年目にして公式戦初出場を経験。大舞台にも動じることなく力を出し切り、チームの勝利に貢献した。地道なトレーニングを積み重ねながら虎視眈々とレギュラーの座を狙う。1990年8月10日/東京都世田谷区。>詳細プロフィール

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