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SEASON 2014 / 
vol.09

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DF17/Takeoka,Yuto

Where there is a will, there is a way

DF17/武岡優斗

テキスト/小林 剛(神奈川新聞社 編集局 運動部記者) 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Kobayashi,Go photo by Ohori,Suguru (Official)

J2でキャリアをスタートさせ、プロ6年目でつかんだJ1の舞台。
周囲は順風満帆なサッカー人生を想像するかもしれないけど、いつだってぎりぎりの状況からはい上がってきた。
「良くするのも悪くするのも、何とかするのは自分だから」。
武岡優斗、28歳になったばかりのアタッカーは、そうやって未来を切り開いてきた。

 まさに青天の霹靂だった。
 2013年12月下旬、横浜FCに所属していた武岡のもとに、川崎フロンターレから獲得のオファーが舞い込んだ。4年ぶりにアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)出場権をつかんだ強豪からの申し出は、素直に嬉しかった。クラブ幹部は「スピードがあり、足下の技術にも確かなものがある。高いレベルの競争を持ち込める」と言った。だけど、最初は信じられなかった。

 横浜FCは2012年の4位から一転、13年シーズンは開幕ダッシュに失敗した。上位争いをすることなく11位に低迷。自身もチーム事情から本職のサイドハーフではなく、右サイドバックでの起用が多かった。全42試合のうち40試合でプレー。チーム最多の3325分の出場時間を得ながらも、多くの勝利に貢献できなかった責任を痛感していた。おぼろげながら来シーズンの身の振り方をどうするべきか考え始めたころ、同じ神奈川の人気クラブから声が掛かった。

「短いサッカー人生を考えた時に、チャレンジするしかないって思った。一人の選手として、自分がどれだけ次の舞台でやれるのか、自分自身も見てみたい」。

 新たな戦術への適応、厳しい先発争いが待ち受けているのは、もちろん承知の上。それでも、もう一段階上のステージで戦う高揚感を抑えきれなかった。4年間在籍した古巣に別れを告げた。これまでも新天地での挑戦に伴う成長と喜びを味わってきたからだった。


MF34/パウリーニョ

原点

 京都市で生まれ、西大久保小学校2年のときに京都・宇治市に移り住んだ。サッカーを始めた年齢は覚えていない。母・悦子さんにサッカーボールを手渡され、いつの間にかのめり込んでいた。小学校4年の時、近所の友達と一緒に「サントス狭山」という少年団に加わった。小学6年に進級するころ、チームは部員不足で消滅したが、地元の南山城地区の選抜に入るほどの存在だったため、現在J1大宮で活躍するMF家長昭博がいた「長岡京SS」、J2千葉のMF山口慶が在籍していた「FC鷲峰少年団」、そして京都サンガの練習場に近い「京都城陽SC」の3チームから勧誘されたという。

 「サントスのコーチと城陽のコーチが知り合いだったから」という理由で京都城陽に加入したが、今までとは違う環境や過酷な練習に、大好きだったサッカーへの情熱が冷めていった。週3度、自宅から6段ギアのマウンテンバイクにまたがって、片道40分懸けて練習場に通い、夏休みも午前10時〜午後8時までボールを追う生活。ストレスから円形脱毛症になってしまった。「もう辞めたる」。夏が終わる頃、一度はサッカーグッズを押し入れにしまった。一方、名前を連ねていた京都府選抜では家長が「天才」と称され、輝きを放っていた。武岡は「パスもドリブルもシュートもできて、くそうまい。こういうやつがプロにいくんだろうな」と強烈な印象を受けていた。小学校の卒業文集に「京都サンガでプロになる」と書き記したが、この時点ではまだ憧れにすぎなかった。

 一度は辞めたサッカーを、南宇治中学校入学と同時に再開した。門をたたいた「宇治FC」は山口らを輩出する強豪クラブ。ポジションは主に中盤を担った。攻撃的なプレーヤーとして躍動し、「やっぱりサッカーは面白い」と再び夢中になった。中学2年時には、日本クラブユース選手権にも出場するなど、充実の3年間を過ごした。

 2002年ワールドカップ日韓大会の年、宇治FCの仲間とともに「私立大谷高校」に進学。2001年の全国高校サッカー選手権京都府大会で3位入賞の可能性に魅力を感じた。「高校サッカーといえば、やっぱり選手権。テレビに出ることにも憧れていた」。

 しかし、強豪校特有のトレーニングの厳しさは全くなかったという。朝練もなく、グラウンドは野球部と併用。練習中に硬式球が直撃することが何度もあった。1年夏以降にレギュラーを獲得。最初の全国高校選手権京都府大会ではベスト16で敗退、2年時には家庭の事情から部活動を休んでいた。最終学年で復帰すると、新人戦でベスト4に。京都府の国民体育大会のメンバーにも選出された。しかし、大学受験はうまくいかなかった。関西にある阪南大学や京都産業大学のセレクションに落ちた。「やばい、フリーターになるかもしれん」。9月の終わりになっても、進路先は不透明だった。

 大谷高校の高橋圭三監督がいろんなつてを探ってくれた。京都府国体の指揮を執っていた平井幹弘監督の母校である「国士舘大」に話が持ち込まれた。10月の埼玉国体での活躍が認められ、ようやく新たなチャレンジ先を手に入れた。一方、最後となる全国高校選手権京都府大会。悲願の頂点に向かって順調に勝ち進んだが、準決勝でJ1G大阪に所属するGK東口順昭がいる洛南高に敗れた。入学当初に掲げた目標はかなわなかった。全国とはほとんど無縁な高校生活が幕を閉じた。

関東圏への旅立ち

 進学先の国士舘大学サッカー部に衝撃が走ったのは年の瀬が押し迫ったころ。2004年12月、部員の刑事事件が発覚し、15人が退学した。周囲からはもちろん心配されたが、腹をくくっていた。「国士舘大以外、いくところがないから」。初めての寮生活や、聞き慣れない標準語に戸惑った。強豪と呼ばれるチームでは、自分が一度も出られなかった全国高校選手権に出場した面々がたくさんいた。ずっと京都の枠で生きてきた18歳にとって、ピッチ内外で圧倒された。「練習がきつすぎて、死ぬかと思った。周りもみんなうまいし」。最初の夏合宿でまず心が折れた。厳しいトレーニングはさらに連日続く。「もう無理だ。でも、自分の力だけで進学できたわけじゃない」。両親、高橋監督や平井監督の恩師たちの顔が浮かんだ。「ここで辞めたらあかん」

 1年の時は一度もトップチームに上がれなかった。2年になるとトップチームとBチームを行ったり来たり。大学3年生に上がる直前の春合宿からチーム方針でサイドバックにコンバートされた。ようやく手にしたレギュラーポジションだったが、攻撃的に生きてきた男はサイドバック転向に納得できなかった。「面白くないし、めっちゃ嫌だった」。

 シーズン前に左足内転筋を負傷して開幕戦を欠場するも、2戦目の中央大学戦でついにデビュー。3試合目には90分間のフル出場まで果たした。ただ、胸中はずっと穏やかではなかった。「サイドバックがほんまに嫌になった」と京都に約1週間近く帰省した。当時を知る2学年下のGK新井章太は笑って振り返る。「優斗さん、シーズン中につまらないから帰るって普通じゃ考えられないでしょ」。チームに戻ると、ポジションも居場所もなかった。自業自得だが、Bチームでくすぶる日々を過ごすことになった。

 武岡がようやく戦列に戻れたのは、シーズンも終わりかけのラスト5試合を残す段階。不振のチームは残留争いに巻き込まれ、命運は最終節までもつれ込んだ。

 2007年11月24日、西が丘サッカー場での東海大戦。負ければ2部降格、勝てば一部残留が決まる運命の一戦だ。残り15分を切って、2-4とリードされていた。「来年2部や」。開き直りにも似た感情が、怒濤の反撃につながった。チームはラスト10分から3得点を奪って逆転。武岡自身も1アシストを記録した。1部残留に貢献すると同時に、トップレベルでも通用するという自信が芽生えた。「4年生でまじめにやったら、プロになれるかもしれない」。かつて抱いた憧れが、ついに目標へと変わった。

 徹夜での麻雀を辞めた。練習では先頭を走るように意識した。ピッチではキャプテンマークを巻き、国士舘大のプレッシングサッカーを文字通り先頭で引っ張った。「プレースタイルが変わった」と武岡。新井も「さぼるタイプだった優斗さんがハードワークするようになった。試合ではとにかくめちゃくちゃ走っていた」とその変貌に驚いたという。

 ハイライトは第88回天皇杯全日本サッカー選手権4回戦。2008年11月2日、リーグ連覇を果たした鹿島を崖っぷちまで追い詰めた。GK曽ヶ端、DF内田(現シャルケ)、FWマルキーニョス(現神戸)らベストメンバー相手に先手を奪う。延長戦までもつれ込み、最後はPK戦へ。結局、ジャイアントキリングは起こせなかったが、試合後は鹿島サポーターの国士舘大をたたえるコールがスタジアムを包み込んだ。主力として奮闘した武岡に、縁もゆかりもないJ2鳥栖から練習参加への声が掛かった。

 はっきり言えば、就職もプロへの道もなかば諦めていた。12月上旬に参加した5日間の練習ではハードなメニューをこなすのが精いっぱい。アピールに失敗した。「おかんに、プータローになるかもしれんと話をした」と武岡。ところが、当時の岸野康之監督から「誘ったら来るんか」と告げられた。「まさか、まさかの大逆転。あの時は本当にうれしかった」。努力は裏切らないのか、そんなことを思っていた。

プロ生活

 ルーキーイヤーから出場機会を勝ち取った。鋭い突破と大学で仕込まれた走力で渡り合った。1年目から40試合で3得点を記録。ピッチの外では、尹晶煥(現鳥栖監督)から食事や風呂に誘われるなど、かわいがられた。しかし、シーズン終了後、自分をプロの世界に導いてくれた岸野監督が成績不振で解任された。翌年から横浜FCの指揮を執ることが決まると、武岡もまた「岸野チルドレン」の一人として移籍という決断を下した。

 未来はさらに明るくなる。そう思っていたが、「地獄が始まった」。2010年は相次ぐけがに泣かされる。岸野監督からも「おまえ、何しに(横浜FCに)きたんだ」と怒鳴られた。2011年2月には、膝の軟骨損傷のために人生初めて手術をした。回復状況は思わしくなく、秋には2度目のメスを入れた。「(シーズン終了後に)クビだったらサッカーを辞めよう」。引退の覚悟もした。

 2011年は結局、一度も試合に出られなかった。「サッカーの話を聞くのも嫌だった」。しかし、リハビリ施設で出会ったのが、同じ手術をほぼ同時期に受けていた女子バレーの栗原恵ら日本を代表する選手たち。「死に物狂いな姿を見て、心が折れているのは情けなかった。けがをして、自分も変わった。1日、1日を楽しむ。どう過ごしても時間は同じ。無駄にはできん」。過酷なリハビリを終え、2012年4月からピッチに戻った。心身ともに一回りも、二回りも大きくなっていた。たまっていた鬱憤を晴らす舞台は整っていた。

 リーグ最下位に沈んでいた横浜FCをプレーオフ争いまで導いた。34試合で自己最多の7得点をマーク。誰もが認める結果を追い求め、サッカーができる喜びを表現した。

 京都に住んでいた幼少から憧れていた人にはプロのあり方を学んだ。キングこと、FW三浦知良。練習が始まる約30分前には、一緒に体幹トレーニングに励んだ。「プロとしてのプライド、練習から負けちゃいけないという姿勢がすごかった」。振る舞いすべてが格好良かった。川崎の移籍が決まった時も「自信を持って、やれば大丈夫」と後押ししてくれた。プロへの土台をつくった鳥栖時代、心身ともに大きく成長した横浜FC時代を経て、サックスブルーのユニホームを着るチャンスを手に入れた。

厳しい現実

 サポーターの大歓声が心地よかった。2014年1月11日、ミューザ川崎で行われた新体制発表。「すごくアットホームでファミリー的な雰囲気を味わえた。これがJ1か」。熱狂的なサポーターに支えられるJ1屈指の人気クラブ、フロンターレの一員になった喜びを肌で実感した。2000人を越える観衆の前で、新しく指導を仰ぐ風間八宏監督は「みんなと願いをかなえたい。それがタイトル。来年、本当の意味でおめでとうと言い合えるように、全力で頑張りたい」とクラブ悲願の目標を掲げていた。武岡もまた「1日でも早く試合に出て、持ち味を出したい」と強く誓った。

 現実はしかし、厳しい。
 「止める、蹴る」を徹底する風間サッカーにまず困惑した。練習から失敗しないようにと、安全なプレーを選択してしまう。パスが第一の選択肢となり、プレーが縮こまった。縦へのドリブル突破など持ち味がなかなか出せていない。W杯の中断期間までに、リーグ戦は3月15日の第3節大宮戦の45分間にとどまっている。ACLでも途中交代の3試合だけだ。ベンチに入ったり、外れたりの繰り返し。でも、武岡はくじけてはいない。中断期の函館キャンプでは本職の右サイドハーフで起用され、前向きに積極的な姿勢でアピールを重ねている。

 「自分はいつも壁にぶちあたり、どん底までへこんで、悩んで、そこからはいあがってきた。その課程は精神的にめっちゃきつい。逃げたくなるんだけど、夢中でやっていて、振り返るとうまく進んでいるんで。壁が高いほど、飛んだときに見える風景も今までと違ってくるでしょ。今はぐっとこらえている時間ですよ」。

 「意志あるところに道は開ける」。アメリカの第16代大統領リンカーンはそんな言葉を残している。反骨のドリブラーに気負いはない。愚直に、ひたむきに、そのときを待っている。

マッチデー

   

profile
[たけおか・ゆうと]

横浜FCから完全移籍でフロンターレに加入した右サイドの職人。相手のタイミングを外すドリブル突破を得意とする選手だが、サイドハーフだけではなくサイドバックでもプレーできるユーティリティさを買われてフロンターレへ。その攻撃的で粘り強いプレースタイルはフロンターレにはうってつけの人材だ。

1986年6月24日、京都府
京都市生まれ
ニックネーム:ユウト

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