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KAWASAKI FRONTALE FAN ZONEF-SPOT

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SEASON 2016 / 
vol.06

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Nara,Tatsuki

キミ『なら』成し遂げられる

DF3/奈良竜樹

テキスト/田中 雄己(報知新聞社 運動第二部) 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by,Yuki Tanaka(The Hochi Shimbun) photo by Ohori,Suguru (Official)

 平成5年。Jリーグが産声を上げた年に生を授かった『Jの申し子』。奈良竜樹。「自分が生きるべき場所で、どっしりと根を生やすように」。親からそう願い込められ名付けられた通り、加入して間もない川崎フロンターレの最終ラインで強烈な存在感を放ち、すでに欠かせないピースにまで成長した。

「サッカーが本当に、大好きでたまらない」。 全体練習後には遅くまで体幹トレーニングするのが日課のため、麻生グラウンドからわずか10分足らずの場所に居を構える。休日の楽しみは、プレミアリーグやブンデスリーグなど海外サッカーの映像に没頭すること。まさに、サッカー選手は天職であり、サッカーは生きがい。

 心を奪われたのは小学校2年生の時だった。近所に住む1歳年上の先輩からの誘いで、「北見ブルーサンダース」に入団。キャリアをスタートさせた。練習日は火、木、土、日。当時はFWやMFなど攻撃的な位置を任されていたため、「ゴールをすることが喜びだった。本当に楽しかった」。週4回の練習も全く苦にならなかった。

 北海道という土地柄故、冬季に入るとガラリと環境は一変する。練習場がグラウンドから体育館に、競技もサッカーからフットサルに移行する。サッカーよりも幾分小さなコートとボールを用い、素早いテンポで展開されるフットサル。密集地帯でのプレーも多く、足技の上達が見込まれるのが通説だが、「足元の技術は全然向上しなかった。というのも、僕はフットサルでもスライディングしたり、体を張るようなプレーばかりしていた。あの時にもっと技術を高めておけばなぁ」。苦笑いを浮かべながら振り返る。

 その後、北見小泉中サッカー部を経てコンサドーレ札幌ユースに進むわけだが、その間の中学2年時に、人生を変える決断を下した。ディフェンダーへの転向だ。きっかけは、ささいな理由だった。「DFの人数が足りない」。國田英一郎監督が空中戦の強さに惚れ込んだこともあり、センターバックへのコンバートを進言したのだ。

 ゴールを奪う仕事からゴールを奪わせない仕事へ──。今でも「1日他の誰かになれるなら、メッシになりたい」と公言するだけに、ディフェンダー転向には葛藤がありそうなものだが、「とにかくヘディングが好きだった。センターバックになってもヘディングは出来るし、何の抵抗もしなかった」。意外にも、すんなりとポジション変更を快諾した。

DF3/奈良竜樹

 『職場』を最終ラインに移し、得意のヘディングでメキメキと頭角を現し、コンサドーレ札幌ユースに進む。トップチームの下部組織はいわば、プロ養成所なわけだが、決してサッカー漬けの生活を送ったわけではない。進学した札幌国際情報高校は、02年度から3年間スーパーイングリッシュランゲージハイスクール(文部科学省主導の元、先進的な英語教育を研究するためのプロジェクト。事業は09年で終了)に指定されるなど道内では有数の進学校。ユースの練習後は、札幌市内にある寮の部屋で毎晩遅くまで勉強に明け暮れた。「高校卒業後、プロに行けるとは全く思っていなかったし、必死に勉強した」。内申書の平均評定は、5段階中の4・5。専攻科ということもあり、得意科目は英語。ユースの試合と試験日が度々重なったため、TOEICや英語検定を受験したことはないが、コンサドーレ札幌では(当時)オーストラリア代表DFノースと英語でやり取り。「奈良の英語は素晴らしい」とお墨付きをもらうほどの実力だった。

 まさに文武両道を地でいっていたわけだが、思い描いていた先には筑波大学があった。「練習試合でも対戦したことはないけれど、戦術やスタイルは魅力的だった」。風間八宏監督(現川崎フロンターレ監督)が指揮するサッカー部に憧れていたのだ。テレビや雑誌で紹介される度に夢中になり、「筑波なら国公立だし、サッカーも勉強も両立できる」。憧れの指揮官から指導を請うため、高3の夏まで必死に受験勉強に励み、推薦での進学を狙っていた。風間監督の下でプレーしたい──。その想いはコンサドーレ札幌のトップチームに昇格したことで、一度は破れてしまうが、7年越しの恋を実らせ、今季から指導を仰ぐことになったのは、運命なのだろう。

 余談にはなるが、「勉強好き」を自負する奈良はプロ入りと共に、早大人間科学部健康福祉学科のeスクール(通信教育課程)をスタート。英語や統計学などを中心に取り組み、五輪がある今年は夏まで休学するが、秋以降は再開を予定している。

 話を元に戻そう。筑波大を目指し、サッカーと勉強に打ち込み続け、コンサドーレ札幌は11年に2種登録し、同年10月26日徳島戦(徳島)でJリーグデビュー。それ以降は、最終節まで7試合連続出場を果たした。弱冠18歳の若者がデビューから目覚ましい活躍を続けた。そうなれば必然的ともいえるが、トップチーム昇格の話が持ち上がった。「プロは大学でレベルアップしてから」。そう人生設計を立てていたため、悩んだが、周囲の後押しもあり、「いずれは上で勝負したい気持ちがあったし、それならば、なるべく早くからやってみようと」。覚悟を決め、プロの門を叩いた。

 プロ入りの際、最も高く評価されたのは、強靱なフィジカル。180㎝の奈良にとっては、ときに自分の数倍以上もありそうな大柄な外国人FWと競り合う場面にも出くわす。だが、決して怯むことなく、当たり負けすることは少なかった。「足元の技術があるわけでは無いので、フィジカルコンタクトの部分で負けてしまっては存在価値が無くなってしまう」。

 その最大の武器は、まさに『命がけ』で手に入れた代物。高2の春だった。練習中に右足内側靱帯を断裂し、2ヶ月のリハビリ生活を送っていたある日のこと、事件は起きた。河原でのバーベキュー中、スズメ蜂に左足脛を刺された。あまりの痛みに声を張り上げ、倒れ込んだ。翌日になっても、激痛は治まらない。練習試合にも出場したが、「夏なのに寒くて震えが止まらなくなった」と前半で途中交代した。あまりの激痛と39度を超える高熱にうなされ、歩行困難に。札幌市内の病院を転々と回ったが、風邪と診断されるばかり。「本当に足を切断しなければならないのかと思った」とたらい回しにされた結果、辿り着いたのはコンサドーレ札幌かかりつけの病院。適切な治療を受け、事なきを得たが、現在でも患部にはくっきりと痕が残る『大惨事』となり、右足内側靱帯断裂に加え、さらに1ヶ月の離脱を余儀なくされた。だが、ピンチこそチャンス。「やることが無かったのもあるけど(笑)その期間は、しっかり鍛え上げよう」。上半身を中心とした筋トレを徹底してやり込み、ベンチプレスは100㎏以上を持ち上げるまでになった。まさしく『ケガの功名』で、外国人にすら当たり負けないフィジカルを手に入れたのだ。

 11年ユースの同期である荒野拓馬、小山内貴哉(現福島)、榊翔太(現SVホルン)、前貴之と共に昇格後は、開幕から定位置を獲得し、ロンドン五輪代表候補合宿メンバーにも飛び級で選出。「まさか選ばれると思っていなかったし、ふわふわし過ぎていて記憶もあまり無い」と話すが、安定したプレーで22試合に出場。翌13年以降も2年間で74試合と出番を増やし、押しも押されもしない守備の要に成長を遂げた。

 さらなる成長を求め、15年にFC東京へと期限付き移籍するも日本代表の森重真人や丸山祐市らの壁は厚く、リーグ戦は未出場。出場時間は、前年の3510分から0分になった。ナビスコ杯と天皇杯を合わせてもわずか3試合のみの出場だったが、決して悲観することはなかった。「1、2年出られなくて、もがき苦しむのは悪いことではない。日本代表クラスのチームメートからは教わることばかり。試合に出られないこと以外は、全く悪くないと思っていた」。事実、昨年の夏にはJ1・J2複数クラブから移籍話を持ちかけられたが、全て固辞。それだけ森重や丸山と毎日対峙することは魅力的であり、刺激的だった。だが、悲観することはなくても、焦りが生じ始めた。「もし五輪が無かったら、もっと長い目で見ることができたと思う。でも夏にはリオ五輪がある。他の五輪代表メンバーがリーグ戦に出ている姿を見ると、やっぱり焦る。ここまで頑張ってきて、出られないのは悔しい」。

 4年に一度の祭典。W杯と差別化を図るため、五輪の男子サッカー競技は、92年バルセロナ五輪から年齢制限が設けられた。「A代表は様々な世代が集まる。でも五輪はピっと線が引かれて、その世代の競争になる。やっぱり、同世代には特別な意識があるし、負けたくない」。

 心が傾き始めた時、声を掛けてくれたのが川崎フロンターレだった。五輪代表で同僚の大島僚太や中野嘉大から話はよく聞いていた。高校時代からの憧れである風間監督の存在も当然、大きかった。「ここで勝負する。攻撃の強いチームの守備も強くしたい」。──そう決断するのに、さほど時間はかからなかった。

 だが、現実は甘くない。札幌やFC東京はカウンターを得意とするリアクションサッカーが主体。その一方、川崎は細かなパスを繋ぎ、ゴールに迫るアクションサッカー。正反対ともいえるスタイルに戸惑った。無論、スタジアムや映像でも川崎のスタイルを目に焼き付け、イメージをしたつもりだった。リオ五輪アジア最終予選では、「何を意識すればいいのか」、「監督が求めるものは何か」。大島僚太を質問攻めにし、入念な事前準備もしてきた。

 だが、合流初日の2月3日。面を食らった。1ヶ月に及んだ五輪最終予選の疲労が回復していなかったとはいえ、パスのテンポ、次の動きに移るスピード…全てを目で追うのがやっとだった。「1人1人の技術がとにかく高い。札幌や東京では技術的な練習が無かったし、また一から新しいサッカーに出会ったという感じ。たくさん吸収できるのと同時に、周りのレベルとのギャップを感じる」。

 長年思い焦がれた指揮官へのイメージも変わりつつあるようだ。「高度な技術を重んじるのかと思っていたけど、球際や切り替えとかそういった部分に熱い。もちろんチームの生命線である技術があるのが大前提なのだけど」。

 「元々がネガティブ。私生活も含めて悪い方悪い方に考えちゃう」と新天地で不安になることも少なくないが、道標とする存在がいる。イチロー。日本のみならず、アメリカでも数々の金字塔を打ち立てる孤高のバットマン。札幌時代から好きになり、動画や書籍は出る度に勿論チェック。「生き方、物事の捉え方、突き詰める作業、言葉全て好き」。自身の生き様や姿勢に最も大きな影響も及ぼした1人だ。イチローが日米通算4000安打を達成した瞬間、「4000のヒットを打つには、僕の数字でいくと8000回以上は悔しい思いをしてきている。それと常に自分なりに向き合ってきたこと。その事実はあるので、誇れるとしたらそこじゃないかなと思う」。そうコメントを残した。陽差しが当たる記録ではなく、陽差しが当たるために費やした数字にスポットを当てる。奈良も「基本的に物事を楽観的に考えることはしない。まずは最悪のことを想定して、そこから問題点や課題を徐々に消していく作業をする」。2人の思考は確実に似通っているといえる。また定位置を確保した現在も「自分はこのチームで一番技術が無い」、「ミスしたら、いつでも外される」とメディア受けするような大言壮語はしない。その辺りも酷似している。

 小柄な姿で、屈強な外国人選手に向かっていく姿にも心底魅了されるという。「あのサイズで、世界で何年も戦っている。僕もセンターバックでは決して大きくない。自分が何かを成し遂げることで周りを認めさせていく。そういう生き方は本当に格好良い」。

 イチロー同様、奈良家でも柴犬を飼っている。鈴木家の愛犬の名は、一朗と妻・弓子さんの頭文字を取り、一弓(いっきゅう)。「うちもそれがいいな」と妻の未朱希(みずき)さんと相談し、検討してみたはいいが、「竜未(タツミ)とか未樹(ミキ)とか色々試したけど、どれもしっくりこなかった」と断念。結果、母犬の「おじや」から拝命し、「おかゆ」。ハードなトレーニングやゲームが続く過酷な日々において、おかゆが「最大の癒やし」になっているのは言うまでもない。

 新天地で激しいレギュラー争いに身を置く奈良だが、五輪代表でも2人のライバルとしのぎを削っている。植田直通と岩波拓也。1月の五輪アジア最終予選のことだった。大会開幕6日前。帯同していた日本サッカー協会の霜田正浩技術委員長に打ち明けた。「あの2人がいて、自分がそこに割って入るにはどうしたらいいですか」。開幕前、彼ら2人をスタメンと予想するメディアが大半を占めた。14年1月手倉森ジャパン発足当初から競い合ってきた。この2人には負けたくない。霜田氏からは「すぐにセンスや技術は身に着くものではない。だけど、声は出せる。声で存在感を出して欲しい」。声は以前から意識してきた部分だったが、「まだまだだったんだな」。その後から意識はさらに高まった。練習でもスタンドに届く声量を最終ラインから張り上げ続けた。その結果、五輪出場権が懸かった準決勝イラク戦でフル出場するなど3試合に出場。大会後、霜田氏は「奈良は本当に良くやってくれた」と賛辞したが、本人は意外にも冷静だ。「満足の仕方が分からない。そこで、終わりだったらいいのだけど、サッカー人生は続いていく。冷静に振り返ると、決勝戦は岩波と植田が出た。ローテーション通りだったら俺と岩波だったのだけど、まだ何かが足りないんだな。もっと努力しないとなって。でも、俺だけこの身長で戦うのは面白い。声ももっと出して戦い続けたい」。

 前評判が低い中、五輪切符を勝ち取ったヴィクトリーボイス。だが、川崎フロンターレでは、その持ち味を発揮しきれていないという。「そこが、僕の少し弱い所なのだけど」と前置きしつつ、「たとえばパスとか戦術理解度とか、他の部分でチームの基準に達してないと思うと、なかなか…。たとえば声を出しても、『お前(基準に)達してないのに何言ってるんだ』と。それでも声を出すのが筋なのだろうけど、まずは技術でも戦術面でも皆に認められてからという気持ちがある」。遠慮や我慢とは違う。新参者としての立ち振る舞いを心がけた、実に律義な奈良らしいエピソードである。今季の風間監督は「声」の重要性を説いているだけに、奈良の「声」が本領発揮した時、さらにチームが化ける予感が漂う。

 開幕からリーグ戦4試合連続先発。名古屋戦ではJ1最高身長の199㎝のシモビッチと対峙し、甲府戦ではリーグ3得点(3月25日時点)のクリスティアーノを封印した。「ヘディングは強みだと思っていたけど、シモビッチには手も足も出なかった。(パリSGの)イブラヒモビッチはこんな感じなのかな。化け物だった」と言いつつも微かな笑みを浮かべたのは、確かな手応えがあるからだろう。「札幌の同僚だったフェホ(197㎝)もそうだったけど、久々に競り合って勝つことを諦めた。でも五輪にもそういった相手が出てくるだろうし、事前に対処法を考えられることは嬉しい。試合に出ている特権」。何よりも代え難い経験をしている実感からか、表情は充足感で満ち溢れている。

 「五輪代表に関しては、ここまできたら個人的な目標は無い。劇的な勝ち方でアジア予選を勝ち抜けたので、五輪本番でしらけてしまわぬように。チームとして3位以内でメダルは獲りたい」そして、川崎でも──。「タイトルを獲りたい。僕にとって、1月の五輪アジア予選が初タイトルだった。タイトルって、こんなに嬉しいんだって。川崎では全試合に出たい気持ちがあるけど、代表活動があるから難しい。だから試合に出ても出なくても貢献する存在になり、リーグでもカップ戦何でも良いので一番になりたい」。勝負の1年は、まだ始まったばかりだ。

マッチデー

   

profile
[なら・たつき]

コンサドーレ札幌から完全移籍で加入したセンターバック。札幌では高い身体能力と1対1の強さを武器に若くしてレギュラーをつかみ取った。FC東京に期限付き移籍した昨シーズンはなかなか出番に恵まれなかったが、各年代別日本代表に選出されるなど、ポテンシャルの高さは誰もが知るところ。心機一転、2016年はフロンターレでのレギュラー獲りに挑戦する。

1993年9月19日、北海道
北見市生まれ
ニックネーム:ナラ

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