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  • ピックアッププレイヤー 2016-vol.13 / エドゥアルド選手

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SEASON 2016 / 
vol.13

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EDUARDO

寂しさや恋しさが力になる。

DF23/EDUARDO

テキスト/原田大輔 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Harada,Daisuke photo by Ohori,Suguru (Official)

 まるで童心に返ったように、うれしそうにスマートフォンをいじると、画面をこちらへと向けてくる。そこには一枚の写真が映し出されていた。エドゥアルドに肩を抱かれた女性は照れくさそうに並んでいるが、よくよく見ると、その目からは涙がこぼれていた。

「これが僕のお母さんです」

 彼はニコリと微笑むと言葉を続けた。

「僕が2歳のときに父親が亡くなったんです。それからは母親が一人で、ひとつ年上の兄と僕を育ててくれました。でも、生活に不自由したことは一度もなかったですね。高校も地域で一番優秀な学校に通わせてもらいましたし、それこそ正式にプロのサッカー選手としてやっていけることが決まるまでは、大学にも通わせてもらいましたから」

 満面の笑みは、こちらではなく、遠く離れて暮らす母親へと向けられたものだろう。それは無垢なる愛を示していた。

「海外でプレーするようになってから、家を出るとき、お別れのハグをするのですが、そのときにはいつも母親は泣いているんです。関係者が車で迎えに来てくれて、空港まで送ってくれるんですけど、僕も泣いてしまいそうだから、すぐに車に乗り込むと、『早く車を出してくれ』って言う。振り返ると母親は、素っ気なさそうに背中を向けて手を振っている。きっと、ちゃんと見送ったら、さらに泣いてしまうからだと思うんですよね。だから、今では僕も振り返らずに、すぐに携帯電話を取り出して、メールで『愛してる』って伝えるようにしています」

 見せてくれた写真は、まさに別れ際に撮影された一枚だった。そして、エドゥアルドは、懐かしそうに幼少期へと思いを馳せる。サッカーを始めるきっかけを与えてくれたのも、プロサッカー選手を目指す過程で背中を押してくれたのも母親だった。

DF23/EDUARDO

 エドゥアルドはブラジル南部、サンタカタリーナ州にあるガスパールという小さな町に生まれた。

「生まれ育ったガスパールは人口7万人にも満たない田舎町。海が近くて、本当にのどかなところなんです」

 母親はそこで花屋を営んでいた。1階が店舗で2階が住居。年齢がひとつしか変わらない兄とは、学校が終わって帰宅すると、いつも2階で騒いでいた。

「子どものころはよく母親に怒られましたね。学校が終わった後、友達を呼んで2階で遊んでいると、どうしても1階のお店に足音というか、振動が伝わってしまう。きっと、営業の妨げになっていたんでしょうね(笑)。だから、友達が帰ると、母親が2階に上ってきて、『静かにしなさい』ってよく怒鳴られました。実はサッカーをはじめたのも、母親のおかげなんです。母親は、花屋の仕事をしていて忙しくしているのに、僕らの面倒だけでなく、祖母の世話もしていた。だから、本当に大変だったと思います。ある日、見かねた知り合いから言われたそうなんですよね。『子どもをサッカースクールに預ければいいじゃないか。そうすれば、子どもがいない間、他のことができるだろう?』って」

 家から100mも離れていないところに、そのサッカースクールはあった。

「それでCAトゥピというサッカースクールに9歳くらいから通い始めたんです。そこには16歳まで所属していました。小さなクラブだったので、小規模な大会には出場しましたけど、全国大会とかには一度も出場したことはなかったですね」

 多くのサッカー選手がそうであるように、エドゥアルドもまた、子どものころはFWとしてプレーしていた。だから、少しだけ恥ずかしそうに、「子どものころの憧れはロナウジーニョでした」と照れ笑いを浮かべる。

 転機が訪れたのは、CAトゥピに通い出して、しばらく経ってからだ。

「14〜15歳になったときには、FWとして上を目指していくのは難しいだろうなって感じていた。そんなときに、スクールの指導者から『左SBでプレーしてみないか』って提案されたんです。チームには左SBが一人しかいなかったこともあったし、レフティがいなかったというのもある。僕としては、試合に出られるのであれば、どこのポジションでも良かったので、素直にその提案を受け入れました。まあ、そのままFWとしてプレーしていたら、きっとプロにはなれなかったでしょうけど(笑)」

 新たなポジションに挑戦したことで伸びていったエドゥアルドは、ブラジルのサッカー少年がみな夢見るように、自然とプロサッカー選手になることを思い描きはじめていた。ところが、話はとんとん拍子には進まない。

「17歳になろうかというとき、近くの町にあるCAメトロポリターノというクラブが、17歳以上の育成カテゴリーのチームを立ち上げることになったんです。それでセレクションが開かれることになった。CAトゥピからも数人が選ばれ、そのセレクションを受けることになったんです。でも……そこに自分の名前は入っていなかった……」

 スクールを卒業して、どこかのクラブに所属しなければ、本格的にサッカーを続けることのできない年齢に差し掛かっていた。プロのチームもあるCAメトロポリターノでプレーできれば、夢が実現する可能性は一気高まる。それなのに、なぜ自分の名前はリストに入っていないのか。諦めきれなかったエドゥアルドは、コーチに直談判した。

「僕も、そのセレクションを受けられるように伝えておいてください」
 そう言うと、半ば押しかける形でセレクションへと向かった。会場に着くと、テストを受ける選手たちの名前が次々と読み上げられていく。当然ながら、リストから漏れているエドゥアルドの名前は呼ばれない。最後に「名前を言われていない選手はいるか?」と聞かれると、彼は手を挙げ、「自分もテストを受けさせてほしい」と懇願した。CAメトロポリターノの担当者には、「話だけは聞いているよ」と言われ、何とかセレクションを受けられることになった。

「半ば強引でしたけど、自分からセレクションを受けたいと進言したことで、合格することができた。そこには左利きの左SBというのが珍しかったということもあると思います。だからこそ、FWから転向して良かったですよね(笑)。それからはCAメトロポリターノの育成組織で試合に出られるようになり、U-17の大会ではブラジルの強豪フィゲレンセと対戦して、2試合とも引き分けるなど、結果を残せたんですよ」

 おそらくだが、持ち前の積極性は母親譲りなのだろう。プロへの道を切り開いたのも、まさに行動力の成せる業だった。

「U-17の大会が終った後、育成年代のチームはシーズンオフになり、身体も疲れていたから、お昼くらいまで寝ているような生活をしていたんですよね。そうしたある日も、昼過ぎに起きると、携帯電話に着信が残っていたんです。CAメトロポリターノの強化部の人からでした。慌てて掛け直すと『トップチームの左SBが足りないから、今日の練習に参加できる選手を探していて、お前に電話を掛けてみたんだけど、さすがにもう間に合わないよな?』って言われたんです。僕の家からトップチームの練習場までは車で30〜40分は掛かる。だけど、自分は車を持っていないから、バスを3回乗り継いで行かなければならない。練習は15時半からで、昼過ぎに起きたから、時間的にはギリギリ。でも、咄嗟にこのチャンスを逃したらダメだなって思った。それで『行けます! 間に合います!』って即答して、大急ぎで鞄にスパイクを詰め込むと、寝起きのまま練習場へと向かいました」

 この行動が奏功する。トップチームの練習に参加すると、監督に認められ、『練習だけでなく、試合でプレーしているところを見てみたい』と言われたのだ。幸運にも数日後には、地元であるCAトゥピのアマチュアチームと練習試合が予定されていた。

「CAメトロポリターノのいわゆる控え選手たちが、地元に来て行う練習試合に出場できることになったんです。他の選手たちはバスで来たけど、自分は家が近いから、兄と一緒に歩いていきました。兄はそれこそ、対戦相手のCAトゥピのアマチュアチームでプレーしていたんです。試合では、とにかく守備ができることをアピールしましたね。若くても、『これだけ守備もしっかりできるんだぞ』というところを見せられれば、と思ったんです。だから、マーク、空中戦、それとロングキックを特に意識した」

 練習試合を終えると、担当者から呼び出される。そして「明日からもトップチームの練習に参加するように」と、告げられたという。

「すぐに兄に言いましたよね。家に帰って母親に報告したら、『おめでとう』って言ってくれました。まあ、CAトゥピは自分が育ったクラブでもあるし、知り合いも多かったから、のちのち『お前のために組まれた練習試合だったな』って、からかわれましたけどね(笑)。プロ契約してもらえたのは、それからしばらく経ってから。最初の月給は、日本円にしたら2万5000円くらい。そのほとんどは、バスを3回乗り継いで練習に行くから交通費に消えました。生活費のたしになればと、家に入れようとも考えましたけど、母親はいらないと言ってくれた。大学に通っていた時期は、せめてもと思って、少しだけ学費を出していましたけどね」

 プロとしての一歩を踏み出したエドゥアルドは、シーズンの半分をCAメトロポリターノで過ごし、もう半分を期限付き移籍先のリオ・クラロFCで過ごす武者修行をも経験した。育成年代のため、経歴には残っていないが、ブラジルの名門インテルナシオナルのU-20に期限付き移籍したこともある。ただ、そこで彼は大きな挫折を味わった。

「CAメトロポリターノのトップチームの練習に参加するようになってからは、特に自信がついていたんですよね。試合はU-20のチームで出ていたんですけど、トップの選手と練習していることで、ゆとりを持ってプレーすることができた。リオ・クラロFCにも数人で期限付き移籍したけど、残ってプレーしたのは自分だけでしたし。だから、インテルナシオナルのU-20でプレーできることになったときも、自信を持って行ったんです。小さいときから育成年代のセレソン(ブラジル代表)に選ばれている選手たちがいるチームでしたけど、そこに混ざってプレーできるんだから、自分もすごいだろうって最初は思っていたんですよね」

 ところが、芽生えつつあった自信であり、プライドはずたずたに切り裂かれた。インテルナシオナルでは、試合に出ることはおろか、ベンチ入りすることもままならず、練習に励むだけの日々が続いた。

「インテルナシオナルでの期限付き移籍期間が終わり、CAメトロポリターノに戻ったときには、サッカーへの情熱ややる気を失っていました。プロサッカー選手として活躍するのは、無理なんじゃないかとすら思ったんです。家に帰ってからも愚痴をこぼしましたね。そうしたら母親に一喝されたんです。『あなたは、プロサッカー選手になるために、今まですべてを捧げてきたんでしょ! 何のためにここまでやってきたの』って。同時に『だったら、大学に行って、普通に働くことを考えなさい!』って言われました。その言葉に目が覚めて、もう一度、がんばろうと思うことができたんです」

 意気消沈していたエドゥアルドに発破を掛けてくれたのは、他でもない、愛する母親だった。周囲の薦めもあり大学にも通っていたというが、その後はプロサッカー選手として大成してやるという気概を失うことはなかったという。

 だから、初の海外移籍の話が来たときも迷わなかった。

「CAメトロポリターノはセリエD、いわゆる4部だったんですけど、そこでもレギュラーになることができずにいた。そんなとき、オーストリアでプレーしないかという話が来たんです。迷うことはひとつもなかったですね。とにかく出場機会がほしかったので。それに、もし成功できなければ、戻ってくればいいことですからね。ブラジルには、海外でプレーするチャンスを待っている選手はいくらでもいますから」

 オーストリアではFCルステナウ07とSCアウストリア・ルステナウの、いずれも2部(当時)に在籍していたチームで、半年ずつプレーした。新天地での挑戦を終えてブラジルに戻ったエドゥアルドは、CAメトロポリターノで練習を再開する。それから2週間が過ぎたころだろうか、再び海外移籍の話が舞い込んだのは──。次なる活躍の場は日本、当時J2に在籍していたガイナーレ鳥取からのオファーだった。

「日本に行くことも、すぐに決めました。先ほども言いましたけど、オファーを待っている選手はたくさんいる。自分のところに話が来たというのは、いわばチャンス。自分以外にも候補者はいくらでもいますからね。ただ、来日したときは夏で、まずは暑さと湿気に驚きましたよね(笑)。加えて、日本のサッカーは攻守の切り替えが速い。当初は、この国でサッカーをするのは無理だなって思っていました(笑)」

 ガイナーレ鳥取では苦い記憶も残っている。J2第26節のコンサドーレ札幌戦でJリーグデビューを果たし、徐々に日本のサッカーにも慣れてきた第30節だった。ホームにガンバ大阪を迎えたガイナーレ鳥取は、開始10分に得点したものの、29分に追いつかれると、その後は守備が崩壊し、結果的に1-7で大敗した。この試合に不慣れなボランチで出場していたエドゥアルドは、「ナナイチ」と言って苦笑いを浮かべた。

 ただ、不運なことばかりではなかった。この時期から指揮を執り始めた前田浩二監督(当時)により、本格的にCBへの転向を薦められた。

「左SBで出場していたときは、自分でもあまりいいプレーができていないと思っていたんですけど、CBに転向してからは手応えを感じた。そのときからですね。自分がCBだと思うようになったのは。それだけに前田さんには感謝しています。自分を日本に呼んでくれたのも、彼ですから。2014年に栃木SCへと移籍する際には、自分は左SBではなく、CBだと主張したくらいです」

 エドゥアルドはメディアにおける自分の評価もまた、自信を深めるひとつの材料になったと話す。ときにはメディアが、痛烈な批判を浴びせることもあるブラジルで育ったからこそ、なのだろう。今も各紙が付ける試合の採点は必ずチェックしており、栃木SC時代には毎試合その数字が高かったことで、CBとしての手応えをつかんだという。

「2014年途中からプレーした柏レイソルではネルシーニョ監督(現・ヴィッセル神戸監督)はもちろん、当時コーチを務めていた井原正巳さん(現・アビスパ福岡監督)にもいろいろと指導してもらった。マークの仕方やポジショニング、さらには身体の使い方。本当に多くのことを教わりました」

 言わば、エドゥアルドは日本でCBとしての才能を開花させたと言えるだろう。もともとのレフティという特徴はありながら、日本の指導者たちのエッセンスが加わったことで、強く、逞しいCBへと成長を遂げたのである。

「風間(八宏)さんからは、ポジショニングに関して言われることが多いですね。守備に関しては、カウンターを警戒するようにと言われる。ただ、それ以上にボールを奪ったら、すぐに近くにいる選手にボールを預けるように言われます。ゆっくりキープするのではなく、すぐに展開する。それこそが、Jリーグでも独自なサッカーをする川崎フロンターレのスタイルだと思っています」

 川崎フロンターレへの加入が決まったのは、2016年シーズン開幕後の2月28日だった。

「柏レイソルから期限付き移籍で出るという情報が自分の耳に届いたときには、シーズンが開幕する直前でした。それだけに、プレーするクラブは見つからないのではとすら感じていた。でも、そうした状況の中、フロンターレは最初に手を挙げてくれた。結果的に他にも声を掛けてくれたチームはありましたけど、自分の心情としては、最初に手を挙げてくれたフロンターレでプレーしたいと思いました。同じCAメトロポリターノ出身のパウリーニョ(松本山雅FC)にも相談したら、『フロンターレはすごくいいチームだよ。きっと合うと思うよ』って言われたんです。今はフロンターレでプレーできて本当に幸せですし、一員になることができて良かったと思っています」

 青と黒の縦縞のユニフォームに身を包んだエドゥアルドは、1stステージ第2節で途中出場すると、第3節からはスタメンに名を連ねた。ところが、ステージ優勝が掛かっていた第16節のアビスパ福岡戦で開始早々2失点を許すと、さらにケガにより22分で途中交代を余儀なくされてしまった。

「福岡戦は今季のワーストゲームだったと思っています。勝たなければならない試合で、開始15分で2失点してしまいましたから。自分にとって筋肉系のケガは初めての経験だったので、最初は分からなかったんです。ただ、大事な試合だったし、早く判断しなければチームに迷惑が掛かると思い、交代をお願いしました。今はケガも癒え、その後はなかなか出場機会を得られていませんが、自分に代わって出場した井川(祐輔)選手が、試合に出られない間もしっかりと準備をしていたことでチャンスをつかんだように、自分も見習って次に来る出場機会のために、練習から常にベストを尽くしたいと思っています」

 最後に、あまりにうれしそうに話すものだから、母親と離れて暮らす生活は寂しくないかと聞いてみた。

「寂しさや恋しさはあります。でも、だからこそ、がんばれるんです。母親も友達もいれば、甘えてしまうかもしれない。すべての環境が整っていれば、それは自分の成長の妨げになる可能性もある。今は、その寂しさや悲しさが逆にパワーにもなっているんです」

 エドゥアルドの目は、自信に満ち溢れていた。そこにはかつて挫折を経験し、弱音を吐いていた彼の姿はなかった。

「今、自分を突き動かしているのは、タイトルを獲ること。それだけです。1試合、1試合、試合を終えるたびにタイトルに近づいているという実感もある。子どものころに夢だったサッカー選手という目標を叶えて、今、自分が生きていると感じられる瞬間を過ごしている。フロンターレは必ずタイトルが獲れるチーム。トロフィーを掲げて母親にも喜んでもらいたいですね」

 そう言うと、強気なブラジル人に戻り、わざわざ「タイトルを獲ることは決まっているんですけどね」と言い直す。当然ながら、歓喜の瞬間には愛する母親も呼ぶという。

 フロンターレがタイトルを掲げたとき、喜びを爆発させるエドゥアルドの視線の先を見てほしい。そこには我が子の栄光に、顔をくしゃくしゃにして泣いている母親の姿がきっとある。

   

profile
[えどぅあるど]

柏レイソルから、期限付き移籍で加入したレフティ。8歳で地元のクラブでサッカー人生をスタートすると、17歳の時CAメトロポリターノでプロデビュー。2013年の夏にガイナーレ鳥取へ期限付き移籍で初来日。栃木SCを経て、2014年8月には柏レイソルへ。 2015年にはセンターバックに定着しAFCチャンピオンズリーグ2015ベスト8進出に貢献した。2016年に川崎フロンターレに期限付き移籍で加入。初タイトルという目標を背負う気持ちは誰よりも強く、その熱いプレースタイルに心を奪われたサポーターは多い。

1993年4月27日/ブラジル
サンタカタリーナ州生まれ
ニックネーム:エドゥ

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