ピックアッププレイヤー 2023-vol.09 / MF30 瀬川 祐輔 選手
テキスト/田中 直希 写真:大堀 優(オフィシャル)
瀬川祐輔は、日本大学第二中学校・高等学校の出身である。サッカー名門校とは言えない学校で、そのサッカー部出身者でJリーグの選手になった者は彼以外にいない。出身の有名人では松坂慶子、荒俣宏、そしてオードリーの二人など。文化人や女優、タレントになった者はいるが、スポーツ選手になった卒業生は皆無だ。
今年の新体制発表会見で明かされたように、小学6年生のときには川崎フロンターレU-15のセレクションを「一次試験で落ちた」。そんな彼が、どうやって現在の姿に至るまでになったのか──。
それは、あのオードリーの若林正恭のように自らと向き合って可能性をあきらめず、春日俊彰のように愚直に眼の前にあった壁を乗り越えた結果でもある。
負けず嫌いの小学生、落選
小学校に進んだころの話だ。「いたずらっ子で、うるさくて、負けず嫌い」だったという一人っ子の瀬川少年の前には、野球とサッカーという2つの選択肢があった。
「野球とサッカー、どちらも体験しにクラブへ行きました。野球では全然打てなくてすぐ三振になったし、守っていてもなかなかボールは来ない。サッカーでは、ずっとボールをおっかけていられたので、父親に『どちらがいいか』と聞いたときに『サッカー』と伝えました」
サッカーとの出会いとなった雪が谷FCでは、小柄ながら2年生のときに4年生の、4年生のときに6年生といったように、2学年上の代の試合に出たこともある。「ポーンと前に出してドリブルしてシュート。わりと当時は足が速かったので、そんな感じのプレースタイルでした」。大田区選抜、地域のブロック選抜にも選ばれ、6年生のときには都大会まで進んだ。
「その頃から、ずっとプロになりたいと思っていました」
プロへの道の一つと思ったのだろう。父と向かった川崎フロンターレU-15のセレクション。一次試験には選抜で一緒だった友人も「5人くらい」いた。プレーの感触もよく、「受かると思っていた」。
しかし、結果は「僕だけ落ちた」。
いつも進路を示してくれた父
小学4年生のころから、学習塾に通っていた。プロサッカー選手になりたい一人息子の夢も知りつつ、瀬川の父は進学先の選択肢を提示している。
その中で、日大二中は第3希望の学校だった。第1志望、第2志望もともに誰もが知る大学の付属校。プロサッカー選手を目指していた瀬川も、サッカーをやりたいからという理由だけで中学受験したわけではなかった。
いわゆる“名のある大学”に進める道筋があり、なおかつサッカーもできる。「父は、プロになれるとは思っていなかったみたいです」。振り返れば、フロンターレのセレクションに息子を連れ立っていったのも、父だった。
「なんか、どこでもいいや」
進学する際に瀬川少年の頭に浮かんでいたのは、そんな感情だった。
都大会で3位になったことがある、と聞いて入った日大二中のサッカー部。ただ、レベルはそこまで高いとは言えなかった。1年生ながら、彼はすぐに3年生とともに試合に出るようになる。少しの物足りなさは、別のチームでやりたいという思いにつながった。
そのころ、小学校のころの友人は、レベルの高いクラブチームに進んでサッカーに励んでいた。
当然、瀬川もチームの変更を考えた。中学サッカー部の友人に「クラブチームに行こうかな」と、その思いを打ち明けることにつながる。
同学年のエースに部活からいなくなってもらっては困る。そう思った友人とは、「それがきっかけにケンカになった」。
だが、サッカー部の同級生たちと、気が合わなかったわけではなかった。
「波長が合わないような人はいなかった。決して強いチームじゃなかったけれど、“戦える選手”がそろっていたんですよね。例年の学年よりは強いと思われる選手は集まっていて。それなりに楽しかった」
結局は、気の合う仲間とともに6年間の部活サッカーを続けることを選んだ。「違うチームに行かないと、プロになれないのではないかって一瞬思ったんですけどね」。仲間と一緒にやりたい。その思いが上回った。
日大二中・高時代の「青春」
「いい仲間と出会えました。サッカーが強いとか弱いとか、中体連だろうがクラブチームだろうが関係なく、今でもつるむような仲間と出会えたんでね。青春してました」
中高一貫の高校にそのまま上がり、同じメンバーとサッカーを続けた。中学1年生の時に初めてもらった固定の番号、18番は彼の代名詞となり、「好きな番号」に。高校サッカー引退時まで、ずっとその背中に着けることになる。高校時代の一番のいい思い出は、都大会まで進み、強豪の実践学園にインターハイ予選で勝利したこと。「後々聞いたんですけど、相手側の選手は負けるなんて思っていなかったみたい」。番狂わせを起こしたチームには、実はそのときだけ監督がいなかった。
「3年になる少し前に、コーチが辞めてしまって。サッカーをほとんど経験していない顧問と自分たちだったので、しばらくは自分たちでメニューを組んでやっていたんですよ」
試合のメンバー選びはさすがに顧問の先生が担当したというが、仲間と作り上げたチームで達成した実践学園戦でのジャイアントキリング。大事な青春の1ページとして、いまでも同期と集まるときの語り草になっている。
一方で悔しい思い出は、インターハイ予選も選手権予選も、同じ久留米総合高に敗れたこと。特に高校最後の大会、選手権予選の東京都Aブロックベスト16で対した久留米総合高戦では、「後半の飲水タイムまで2-0で勝っていた」。だがそのタイミングでGKが負傷交代。流れが一気に相手へと傾く。終わってみれば、2-4。「勝ったと思った」ところから、楽しかった6年間のサッカーの終焉までは20分とかからなかった。涙が止まらなかった。
プロ予備軍の集まりへの進学、そしてJへ
それまでとは一転して、大学は全国の猛者たちが集う、名門の明治大学に進むこととなる。1学年でそのサッカー部に在籍できるのは20人弱。そのうち、スポーツ推薦で入学する13人ほどに、「国体のセレクションにもすぐ落ちたし、入っても地域トレセン」という瀬川が入れるわけはなかった。
では、どうやって入部したか。
高校2年生のとき。プロサッカー選手になる夢をあきらめていなかった瀬川は、系列の日本大学ではない大学に進学したいと父に相談。そこで、明治大学を勧められた。高校の指導者に言われたのも、「明治とか、早稲田に行くのがいいんじゃないか」。日大二高には、指定校推薦の枠に「明治大学」の文字があった。腹は決まった。
「もう、明治一点張りだった。指定校推薦を取るために高校の授業を受けていた、という感じで」
もちろん、高校1年時からある程度の成績を残せていないと、その道もない。幸い瀬川は、「普通にテスト勉強を頑張っていたら、点数はちゃんと取れていた」。その甲斐あって、明治大学政経学部に入学する。なお、政経学部は大学内でも随一の偏差値を誇る学部である。
明治大学の同級生には、和泉竜司(名古屋グランパス)や藤本佳希(モンテディオ山形)、山越康平(東京ヴェルディ)、高橋諒(ファジアーノ岡山)らがいた。
瀬川はというと、入学当初は練習生の立場。毎日がセレクションの場のようなものだった。朝6時くらいから始まる“朝練”で必死に1対1を繰り返す。彼の中で手応えはあった。だが、なかなか入部を了承してもらえない日々。やっと当時の神川監督に「明日から、いいよ」と言われたのは1カ月以上経過したころだった。
いざ入部が許されても、公式戦出場のチャンスが巡ってこない。先述の選手たちのようなスポーツ推薦で入部した立場ではないわけで、それも理解した瀬川は「しょうがないと思うこともあったけど、やっぱりめっちゃキツかった」。3年時に何度かベンチ入りし、試合出場機会もつかんだ。しかし最高学年となっても、スタメンにはなれず、メンバー外すら経験。「(4年になる前の)3月くらいにはもう無理だと思って、就活を始めました」。飲料メーカーの内定をもらい、就職先は確保した。
それでも、夢はあきらめきれなかった。
5月31日、アミノバイタルカップ2回戦・朝鮮大学校戦。1回戦でベンチ外だった彼に先発機会が訪れた。その試合の85分にゴールを決めると、コンスタントに先発するようになり同大会で優勝したチームに大きな貢献を果たす。そのころ、チームメートが続々とJリーグチームからの内定をもらっていた中で、彼にオファーが来たのは明らかに遅く、12月になってから。当時J2に所属していた、ザスパクサツ群馬からの誘いだった。
「もう即決ですよね」
スポーツ推薦でない明治大の選手で、プロ入りが叶った近年の代表的な選手は長友佑都(FC東京)、丸山祐市(名古屋)、そして田中恵太(鳥取)くらい。先述の選手たちは高校選手権に出場するなど強豪校の出身だ。瀬川のような、あまり日の目を見ない高校から進学した選手は皆無。そんなわずかな可能性の門を、自らつかみ取った。
そのチャンスを得られたのは、夢をあきらめずにサッカーと向き合い続けた結果だろう。自らの立ち位置を認識しつつも、目標に向かって進んだからこそに違いない。
それでも瀬川本人は、別の理由を口にした。
「いやもう、任くんのおかげですね」
瀬川祐輔と江坂 任
瀬川の1年先輩にあたる、江坂 任(蔚山現代FC)。そこまで注目されていなかった流通経済大学時代を経て、彼を“拾った”形で加入したザスパクサツ群馬で、1年目から大活躍。ゴールを量産していた。
江坂の“2匹目のどじょう”を探した群馬が目をつけたのが、瀬川だったというわけだ。
瀬川は、日本代表になるとか、W杯に出て活躍するという目標を設定していたわけではない。「プロになることだけを目標にしてきた」。やっと、そのスタートラインに立つことができた。
江坂はというと、大卒1年目でチームを引っ張る13ゴールをマークし、その活躍が評価されてJ1の大宮アルディージャに移籍。瀬川は、江坂の群馬で着けた背番号「26」を引き継ぐこととなった。キャンプからアピールすると、開幕スタメンの座も射止めた。「男気がある方だった」。自らを獲得してくれた菅原宏GM(当時)の後押しもあったのではないか、と彼は想像している。
戦慄だったのが、その16年のJ2開幕戦だ。岐阜とのホームゲームに右サイドハーフの位置で先発した瀬川は、前半のうちにキッカーを務めたCKから先制点をアシストすると、後半には2ゴール。3点に絡む大活躍で、群馬を4-0の勝利に導いた。
「いましかできないことをやりたかった」。そう言ってプロの門をたたいた男が、プロ初戦で最高の結果を残したのだ。
そのまま先発に定着した瀬川は、リーグ戦全42試合に出場して13得点をマーク。偶然にも江坂とまったく同じゴール数を残すと、江坂のいる大宮アルディージャからのオファーが舞い込むことになる。ちなみに、大卒1年目の13得点は、いまだ破られていないJ2記録だ。
17年から21年の夏まで、数奇な運命でつながった江坂と瀬川の共闘は続いた。
「同級生と一緒にいるのが大好きなんで」と笑う瀬川にとって、先輩の江坂はプライベートまで仲がいいわけではないという。ただ、ピッチ内での相性は抜群だった。
「一番多くピッチ内で目が合う。パスを預けたら返ってくる。たぶん、僕のプレースタイルを一番分かってくれているんだと思います。ピッチでの理解者ですね。『パスが出てくるな』と思う選手はたくさんいるんですが、任くんは自分のことを見てくれているし、自分も任くんのことを見ている。だから息が合ったのだと思います」
瀬川のことを、江坂は大宮加入前から気にしていたのだそうだ。そんな相思相愛の関係は、5年間続いた。江坂が浦和レッズに移籍を決めるまでは。
抜群の連係を築いた江坂とのコンビが解消されても、瀬川はすでにJリーグで生き抜く術を身に付けていた。いや、もしかしたらそれは、大学時代からすでに会得していたのかもしれない。
プロで生き抜くための自らの強み
「僕よりもうまい人なんてたくさんいる。そこで勝負しようとしたら、埋もれてしまう。僕にしかできないことで生きる」
プロの舞台で生き抜くために、自らの強みだと気づいたのは「守備の個人戦術」だった。
「守備って、できない人は(プロでも)結構多い。守備の個人戦術は割と重要だと思っていて、それは得意なほう。だから、『一人いたら助かるな』と思われるようなプレーヤーになるのが、自分の生きる道。90分間、使いたくなるような、いてほしいと思われるような選手になりたいし、それができると思っています」
だから瀬川は、玄人好みする、陰でチームを支えるような立場になろうとする。その役割は「割と好き」。それが確立されたのが、ネルシーニョ監督(当時)のもとで戦った柏時代だった。
「ネルシーニョは『オマエの良さはそういうところだ』と言ってくれたし、それを引き出してくれた」
ポイントになったのはJ2で戦った2019年。前年にJ1でシーズン9得点をマークしていた瀬川は、「J2でも絶対に出る」と決めていた。しかし、なかなか先発に定着できない。
ネルシーニョは「いい選手をスタメンで使う」ということがはっきりしていた。どうすれば試合に出られるか。「自分にしかできないことを必死に考えた」結果が、「サッカーで当たり前のプレスバックなどの守備のハードワーク、そしてそこから前に出ていく走りの質、基準を上げること」。文字にすれば簡単だが、それを90分間やり切れる選手は少ない。
当時の柏レイソルには右サイドにクリスティアーノがおり、彼の攻撃力を生かすためには前戦に残しておきたい。最前線にはのちにJリーグMVPを受賞するオルンガが、トップ下には江坂がいた。そこでハマったのが、瀬川の左サイドハーフ起用だ。
「クリスを前に残していても守備の人数が足りるように中央に絞ってプレーした」
まさに、チームのバランスを考えた気の利くプレーだ。時にネルシーニョは、人材不足だった右サイドバックでも瀬川を起用。機転の利く瀬川の特徴を理解した上で、彼をその位置に置いたこともあった。そして瀬川は、サイドバックを経験することでより守備戦術を学ぶことになる。
その後、瀬川は22年に湘南ベルマーレに移籍。自身を重用してくれた山口智監督のもと、ハードワークする面に加えて中央でのターンの技術などを1年間で学ぶことになる。川崎フロンターレにシーズンダブル(1年間で2勝)するチームには、気の利くプレーとハードワークでフロンターレゴールを襲う彼の姿があった。
いまは当落戦上の選手
29歳になる年につかんだ、さらなるステップアップのチャンス。優勝することが約束された川崎フロンターレからのオファーを受け、瀬川は加入を決めた。
経験ある選手だから不思議ではないかもしれない。ただ、川崎フロンターレに移籍してきた選手たちがおしなべて最初に戸惑うのは、高い強度と技術を求められるそのスタイルだ。
周囲を驚かせたのは、沖縄キャンプからチームにしっかりとフィットした彼の姿だった。
「すぐに順応してくれた。ハードワークのところもそうだし、守備の部分でも」
家長昭博が負傷離脱していた中で、右サイドで主力組に入り、鬼木達監督もこの評価。彼の“守備の個人戦術”の高さが証明された瞬間だった。開幕戦ではギリギリ間に合った家長に先発を譲ったものの、そこから途中出場を続けて第3節・湘南ベルマーレ戦で初ゴール。それから第6節の北海道コンサドーレ札幌戦では4-3の決勝ゴールを決めてヒーローとなった。
しかし──。
その直後の4月上旬にふくらはぎの肉離れで約3週間、離脱することに。復帰したころには、山田新ら若手が台頭しており、ベンチ入りが約束されていない微妙な立場も経験した。出場時間で考えれば、ゴール数など結果を出す割合は悪くなかった。「出れば結果を残してくれそうな感じはある」と鬼木監督も話していた。当人の感覚はこうだった。
「いまの自分は当落線上の選手。スタメンも、メンバー外もあるという感じ。自信をもってプレーできているし、ボールがくればチャンスを作れる感じはある。結果を出し続ければスタメンにもなれると思う。やっぱり、周りと同じことをしても意味がない。90分、計算できる選手にならないといけないんです。その意味では、まだオニさんにハマっていないのかな(笑)。オニさんの基準以上を出さないといけないと思っています」
家長昭博や大島僚太のような技術が、レアンドロ・ダミアンやマルシーニョのような身体能力の高さがあるわけではない。でも瀬川は、自らがアピールすべきポイントを分かっている。磨くべきスキルを理解している。たとえ「当落線上」でも、自身が果たすべきことは明確だ。信頼されて「計算できる選手」になるために、己の強みを磨くのみ。
そして、7月8日。瀬川は約3カ月ぶりのゴールを等々力陸上競技場で挙げることとなる。第20節・横浜FC戦。鬼木監督が「タイトルのために大事な1週間」と設定した3連戦の初戦だった。89分、橘田健人からの縦パスを受けると、巧みにターン。右足を振り抜き、右スミにきれいなゴールを決めた。3-0の3点目。決勝点というわけではない。ただ、チームがずっと欲していた“3点目”を途中出場からマークした。
「前の浦和戦で決定機を外していたので、どうしてもチャンスが来たら決めたかった。オニさんからは、『アグレッシブに、もう1点取ってこい』と言われていたので、決められてよかった」
実はこの試合、67分からの出場にもかかわらず瀬川は3つのポジションを務めている。守備戦術を知る彼ゆえの適応力であり、最後に位置したFWのポジションで結果を出せたことにも意味があった。
ただ、“現在地”を知る瀬川は謙虚だ。
「これに一喜一憂しないで、これがフロンターレにとって普通の勝利という認識をもちつつ、ここからだぞという意識をもちながらやっていく。これから全勝したら優勝争いに食い込むと思うし、その力があるチームだというのはある。それは前から思っていたし、自分が入ってみても、可能性はあると思っているので。その一員として貢献したいし、とにかく口だけにならないように、勝ち続けていきたい」
実際、横浜FC戦からの3連戦で3連勝。瀬川の出場機会も続いている。彼が、チームにとって必要なピースになりつつあるのは明らかだ。ただ、ここからチームはケガ人が戻ってくるタイミング。うかうかしていられないし、チームとしてもタイトル奪還のためには負けられない試合が続く。
瀬川が目指す先も、チームと同じだ。はにかむ笑顔の裏側には、優勝に貢献するため、“瀬川の居場所”に向かって鍛錬を続けまいとする彼の覚悟がある。
profile
[せがわ・ゆうすけ]
湘南ベルマーレより完全移籍で加入したMF。フロンターレでの登録はMFだが、もともとは得点力が武器のFW。さまざまなクラブでプロのキャリアを積み重ねていく過程で、年々プレーの幅を広げて万能アタッカーへと成長した。シャドーやインサイドハーフ、ウイングバック、サイドバックと複数のポジションでプレー可能。彼がいることでチームの攻守のオプションの幅は大きく広がるだろう。
1994年2月7日、東京都大田区生まれニックネーム:せがちゃん