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ピックアッププレイヤー orihica

 2007/vol.19

毎日、書いたサッカーノート。
自分を客観視する性格。
フロンターレとの出会い。
どれかひとつが欠けていたら原石から光が放たれることはなかったかもしれない。
養父雄仁がプロサッカー選手になるまで、現在、そして未来──。

2 2007年11月、シーズンも終盤に差し掛かったこの時期は、来季に向けた「知らせ」が次々と舞い込んでくる。24日に行われた広島戦で、来季の新加入選手として駒澤大学のMF菊地光将選手が加入されることがオーロラビジョンにて発表された。試合後、8チームと競合したと言われる大型新人の加入に、スカウト担当の向島建と久野智昭は笑顔をみせた。

 ここ数年のフロンターレの新人発掘には、目を見張るものがある。庄子強化部長の選手を見る目、また向島、久野の両スカウティング陣の熱心さによるところが大きい。そして、クラブの力が確固たるものになったこともまた、プロをめざす学生たちの目に魅力的にうつっていることもあるだろう。

 福家強化本部長は、菊地の加入を受けてこう語った。
「スカウト担当の向島と久野の情熱と努力が大きいと思います。また、フロンターレのチーム力がつき、ひとつにまとまっている雰囲気、団結、結果という要素がチームの“ブランド”になった。これはうれしいことですよね」

 養父雄仁も、フロンターレスカウトによってプロへの扉が開かれた選手だ。テクニックの高さと真面目な性格に早くから目をつけ獲得に至った経緯がある。養父とフロンターレが出会うまでに、どんなストーリーがあったのだろうか──。

 神奈川県伊勢原市に生まれた養父は、自動車メーカーに勤める父、母、3歳年上の兄、3歳年下の妹の5人家族で育った。幼稚園の年長で始めたサッカーにすぐにのめりこんだ養父は、『キャプテン翼』に夢中なごく普通の少年だった。

「体はクラスで一番小さいぐらいちっちゃかったですね。でも、運動神経はよかったんです。授業中はうるさくて毎日先生に怒られているタイプ。休み時間が待ちきれなくてチャイムが鳴る前からドアの前で待っているような子どもでした。子どもの頃のほうが、リーダーシップがあったんですよ」
 いまの養父のイメージからは、想像できないやんちゃ坊主の姿である。

 地元の成瀬サッカー少年団は、県大会でベスト3に入るなどの成績を残す強豪チームだった。ある日、ベルマーレのグラウンドで試合をしたことがキッカケで、養父はベルマーレ平塚ジュニアユース(当時)にスカウティングされる。小学校時代の仲間たちがそのまま中学に上がって部活動でサッカーをするなか、養父はひとりベルマーレに籍を置いた。学校から帰り、その20分後には自宅を出て1時間かけて通う日々が始まった。

「中学校時代は、サッカーが一番好きじゃなかった時期かもしれません。最初の頃、体が小さかったから中学生に混ざるとなんにもできなかったんですね。部活に入った友だちは、サッカーをやりつつ遊びも楽しんでいる。僕は、夜遅く11時ぐらいに帰る生活をしていたのでそれは辛かったですね」

 だが、本来は真面目な性格である。サッカーが好きじゃなかったとはいえ、コーチに言われることは忠実に練習で取り組んでいた。テクニックもこつこつと身につけていた。
 その後、進路を決める際にはユース昇格には断りを入れ、選手権出場をめざすため高校でのサッカーを選んだが、後から思えば、ベルマーレジュニアユースで築いた基礎が大きかったと養父は感謝している。


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 神奈川県立弥栄西高校に進学したのは、偶然だったという。

「高校については、全然知らなかったんですけど、どこに行っても俺が優勝させてやる、ぐらいのうぬぼれがありました。小、中と県トレでは、高く評価してもらっていたので。弥栄西も活躍していたときだったし、推薦もあったので受けたんです」

 高校時代の養父は、「充実した3年間」を送ることになる。プロになる夢を具体的に描いたのもこの頃だった。話を聞いていくと、意識の高さと努力、客観的に自分を見る力がこの時期に養われたことに気づかされる。

 最初の変化は、体の成長だった。小学生までクラスで一番小さかった養父は、中学2年から3年にかけ約30cmも身長が伸び、高校に入る頃には173cmになっていた。その影響は、思わぬところに現れた。成長痛による激痛で右足でボールが蹴れなかったため、中学3年のときに左足での練習を余儀なくされていたのだ。気づけば、左利きかと勘違いされるぐらいに、左足でのボールタッチも自分のものにしていた。

「中学を卒業して高校に入るまで、初めてっていうぐらいサッカーをやらない時間があったんですね。久しぶりに部活でサッカーをしたら、体が大きくなっていたせいか、足も突然速くなったし、体力測定の記録も伸びた。そしたら、自分が思い描くプレーができるようになったんです。当たり負けしなかったのもビックリしたし、そうすると周りが見えてきて面白いなって。毎日毎日サッカーをやることが楽しくて絶対にプロになりたいと思っていました」

 プロになりたいという夢は周囲には話していなかったという。
「天狗になっていると思われるのとか好きじゃないんです。自分は口ベタだし。だから、誰よりも練習しよう。そうすればあいつは誰よりも練習しているからって周りが認めてくれると思っていました」

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 養父は、毎朝5時30分に起きて朝ごはんをかきこんで、5時40分に自宅を出発。通学に1時間かけ、朝の7時から1時間30分間の朝練習を日課とした。部活があったわけではなく、たったひとりの朝練習だった。走ったり、シュート、フリーキックなど黙々とこなした。母は、育ち盛りの息子のためにお弁当以外にも朝練習後に食べるおにぎりを毎日もたせてくれた。授業中は「休憩」時間になったが、部活は午後4時から6時30分まで。そこからさらに8時、9時までサッカーに打ち込んだ。教室から漏れるわずかな電球の明かりが養父の照明になった。

「練習をやめたら下手くそになっちゃうと自分に言い聞かせてましたね。とにかくプロになるために自分を磨くことだと思っていたので。でも、不思議なんですけど、僕がそうしてやっていたら、みんなも朝練や残り練もやるようになっていったんです。みんながついてきてくれるようになって、そこからチームの力がついてきましたね。私立にくらべたらグラウンドも狭いし照明もない。でも、県立高校でもやれるという反骨精神みたいなものもあったし、いま振り返っても最高の雰囲気だったと思います」

 養父が3年になると弥栄西高校は、新人戦で優勝。現在のプリンスリーグの前身であるスーパーリーグにも優勝。養父は、アシスト王にも輝いた。だが、夢だった選手権は県予選決勝で桐蔭に3対1で敗れた。皮肉にもスーパーリーグで弥栄西が破った市立船橋高校が、その年の選手権覇者になった。桐蔭に負け泣き崩れた養父は、翌日、母に学校を休むことを告げた。それぐらいにショックだった。

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ORIHICA 養父の実家には、学生時代につけていたサッカーノートがダンボール1箱分ある。ベルマーレジュニアユースのときにつけ始めたものだが、その後も習慣になった。高校時代はほぼ毎日書いていたという。有限実行タイプではなく、自分の内に秘める養父は、書くことで気持ちを整理し、やるべきことを把握し、自分と向き合うようになっていった。

「試合のときに監督から言われたことを書きとめ、次の試合までそのプレーを抽出して何度も繰り返し練習するんです。試合や練習に臨む際には『視野を意識する』『トラップ』などテーマを書いてました。気持ちが乗らない日が出てきたときにどうするかっていうのも考えましたけど、この頃はいい波と悪い波がまだプレーにもあって、それを克服できていませんでしたね。高校時代は、自分はこういう選手になりたいんだということを見つめた3年間でした」

 客観的に分析する能力は、サッカーでも活かされた。具体的には、トラップの巧さがその最たるものだろう。遡れば、ベルマーレジュニアユースでは、「敵を想像してトラップすること」を教わったことが経験になった。高校時代には、「体が大きければ多少ミスもできるけど、小さい分トラップには気を遣わないととられてしまう」とさらに磨きをかけた。

「朝や残り練習は自分でメニューを考えるんですけど、例えばトラップだったら、後ろを向いていてわざとギリギリのタイミングで強いボールを蹴ってもらってトラップしたり、強いパスを出してもらってコントロールするのとか繰り返しやってましたね。シュートやCKとかも練習したけど、一番多かったのはトラップでした」

5 高校時代の養父の活躍は、サッカー関係者の知るところにもなった。スーパーリーグで目をつけた国士舘大学に養父は進学する。ところが、大学時代は、苦悩と挫折を経験することになる。

 1年でいきなりレギュラーになった養父は、アシスト王にも輝き、2年になってもレギュラーの座を掴んでいた。この頃、ふたりの先輩たちとの出会いがあった。
「片岡先輩(大宮)と清水さん(鳥栖)は、サッカー観を変えてくれたふたり。高校までは試合では自分が中心だったからパスが来てた。でも、パスが出せなければサッカーはできないって教えてもらって、そこからつなぐ難しさや必要性を覚えていきました。清水さんはとくに毎日つきあってもらって練習してましたね」

 順調に言っていた養父だったが、3年生からは試合出場がめっきり減ってしまう。戦術に合わないというのがその理由だった。自分の自信が揺らぎ、大きな壁にはじめてぶつかった。苦しいとき、養父は寮の屋上でひとり音楽を聴きながら自分に言い聞かせた。
「自分はできるっていう自信をなくしたらプロになるのは終わりだと思った。自分は一番だしできるんだ。自分を磨けば誰かが見てくれるって信じて取り組もう。人のせいにしちゃいけない。自分が何をすべきかが大事なんだ」

 プロサッカー選手になりたいという夢と目標が、つぶれそうになる養父をサッカーにつなぎとめていた。そんな養父を大学1年のときから見ていたのが、川崎フロンターレだった。庄子強化部長がその卓越したテクニックに注目し、大学の先輩に当たる向島建スカウトも養父獲得に積極的に動いた。そして、大学4年、養父は川崎フロンターレから強化指定選手として受け入れられる。プロへの道が開かれた瞬間だった。

「ちょうど関東選抜の選考があって自分ではできたと思ったけれど、落ちちゃったんですね。苦しかった時期にフロンターレからの話があって、なんていうか精神的にリラックスできました。建さんには常に『大丈夫だから』って声をかけてもらって感謝しています」

 フロンターレのキャンプにいきなり合流した養父は、そこに「自分がやりたかったサッカー」が展開されているのを見てうれしかった。
「ここで、試合をしてみたいと思いました」
 一方で、フロンターレの選手たちの多くも、キャンプで養父のプレーを初めてみて「こいつは、うまい」と思っていた。
 寺田周平は、養父のことをひとことで、こう語る。
「とにかくパッとみてセンスあるなぁっていう選手だよね」

 1年後の2007年、養父は正式に川崎フロンターレの一員となった。ところが、本来の人見知りな性格が顔を出し、最初の2ヵ月はとくに自分らしさを出せなかったという。

「緊張しちゃったんですよ。ケンゴさんとかガナさんがチームメイトになる。それが、想像できなくて、なんか変な風に緊張しちゃって話しかけられなかったんです。最初は実力の半分も出せなかったと思いますね。普通のトラップもできないときがありましたから」

 2ヵ月が経ち、徐々にチームメイトたちとも打ち解けた養父は、サテライトリーグが始まると、本来のよさが出せるようになっていた。とくに、レギュラー組と対戦する機会がある紅白戦が、楽しくて仕方なかったという。
「自分がもっている力を全部ぶつけてやろうと思って紅白戦が来る日が待ち遠しかったですね。とくに、ケンゴさんとマッチアップすると気合が入るんです」

 養父は、中村憲剛との比較で語られることも多くなってきた。憲剛の背中を追いかける存在として成長していることの証だろう。
「等々力でスタンドから試合を観るときなんて、ケンゴさんをずっと観ていました。だから、試合の流れがわからないときもあるんですよ。それぐらいケンゴさんを目で追ってましたね。ケンゴさんは、まず、取られない。『えっ? そっちに出すの?!』ってことも多い。恐いところをみていると思う。僕にとって最高の目標です。ちょっとだけ、盗めたものもあると思います」

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 そして、2007年11月11日──。

 浦和レッズ戦、養父雄仁スタメン。
 その週の水曜日に行われた天皇杯4回戦セレッソ大阪戦では、養父はメンバー入りしていなかった。レッズ戦は憲剛と佐原が出場停止だったこともあり、ベンチ入りできるかという期待をもって練習を終えクラブハウスに戻ってきた。そこで貼りだされていた紙で自分のスタメンを知る。

「えっ? マジ!? と思って、そこから緊張です。でもすぐに思ったことは、『これは俺の人生を左右する試合になるな』ということでした。緊張すると僕はお腹が痛くなったりするので、夜はパスタを食べてストレッチして寝る準備をしました。試合のイメージを作りましたけど、あえて取られるイメージをしました。プレッシャーが早すぎてつぶされる自分を」

 最悪を想定して、プラスにしていくのが養父流だ。
「僕は、ちょっと自分が思ったとおりのプレーができれば、それで乗っていける。そんなイメージをして寝ました。眠りは浅かったですけどね」

 試合当日、どのスパイクを履こうか悩んだり、緊張をチームメイトから指摘されたりと慌しかったが、ロッカールームで過ごしているうちに自然とリラックスしてきた。ホーム等々力の歓声を受けて、養父は喜びを胸いっぱいに感じていた。

2 ところが、そう甘くはなかった。開始2分でワシントンにボールを奪われ必死で追いかける養父の姿があった。だが、前半10分、早い時間帯での先制ゴールを決めたのも、養父だった。
「タニからボールが来て、ゴール前で闘莉王選手がクリアするかと思ったが、自分のところにボールが抜けてきた。胸でトラップしてからはキーパーが前に出ているのが見えたので落ち着いて蹴れました」

 トップ下でフル出場した養父は、「起点となる、パス、得点に直接絡む」という自分の持ち味を存分に発揮した。自らもシュートを積極的に放ち、前線のジュニーニョ、テセにも効果的にパスを供給した。ジュニーニョは、早くから養父の素質を認め、本人にも度々声をかけてきた。
「養父は、いいものをもっている。練習からしっかりやっているし、スタメンのレベルにあった。自分のもっているものを出してアピールするように言ってきたが、試合に出て自信につながったと思う」(ジュニーニョ)
 ジュニーニョは、そうしたメンタル面で自信になる言葉をくれたほかにも、コンビネーションの面でもアドバイスを送っていた。

「ジュニーニョからは、とにかく早いタイミングで『当てろ』って言われるんです。でも、僕からしてみるとありえないタイミングなんです。敵に囲まれているわけだから。普通は予備動作をして敵を振り切ったタイミングでパスを出すものだし、実際いままでそんな人はいなかったんです。でも、ジュニーニョに『出せ、出せ』って言われて、ケンゴさんに聞いてみました。そしたら、『ジュニーニョは、それでできるからいいんだよ』って言われて、いまはそのタイミングで当てるようにしています」

 試合が終わり、記者に囲まれた養父は興奮冷めやらぬ表情でこう語った。
「自分が一番下手くそだから一番走ろうと思った。90分と考えずに45分全力で、また45分全力で、と考えていました。出せるものは出せたと思います。レイソル戦のときは途中でバテましたけど、きょうは体も軽くて動けました。いい動きをすればボールが来るというのは練習から感じていたことなので、今日はパスをもらえたし、自分からいいボールを出すこともできたのでまずまずの出来だったと思う」

 レッズ戦後の等々力で、養父以上にうれしそうだったのが向島スカウトである。開口一番、「遅かったぐらいだよね。もっと早くからこれぐらいやれていたはず」と言って、言葉をつなげた。
「養父は、ボールに絡んで出て行くから触れば触るほどリズムを作ってよくなっていくタイプ。大学時代は、国士舘のサッカースタイルに合わなかった部分もあって苦労もしていたけれど、時々片鱗はみせていた。実はヘディングも強いし、身体能力も高いんですよ。レベルの高いなかでやれば発揮できると思っていましたよ」

 今年の加入後、関塚監督が養父に与えたポジションは本来のトップ下ではなくボランチだった。そこで課題だった守備にとりくみ、バランスをとることを覚えていった。だからこそ、レッズ戦でトップ下で起用された際に、あの動きができたのである。高畠コーチは、次のように養父のプレーの変化を語る。

「試合に出るためには、ディフェンスもして中盤でのバランス感覚を覚える必要があった。それができるようになったうえで、“攻め”という養父本来のよさをどう出していくのか、というところが大事でした。最近は、ディフェンスと前線の橋渡しやビルドアップをすることがわかってきたのではないでしょうか。そのなかで前に行くにはパワーがいるけれど、力の使い方が整理できたから、パフォーマンスにつながっているんじゃないですかね」

 養父自身も、最初はボランチとしてプレーすることに戸惑いがあったというが、ひとつ下がったポジションをやったことで、引いて守るやり方、プレスのかけ方など選択肢が増え、さらに運動量も増したという。
「ボランチをやったことでプレーの幅は広がりましたよね。いまトップ下で出たときに、それをすごく感じます。自由に動き回ることができるようになりました。たとえば、前に行けなかったときも後ろに下がってもボールを受けられるし、前に飛び出していくこともできる。自分のなかでうまく“くみあがった”感覚です」
 チーム戦術のなかで「自分らしさ」を出すこと、そしてひとつひとつ結果を出すこと。それがいまの養父の等身大の姿である。
「学生時代よりも前に行く意識が高くなったと思います。でも、レッズ戦のビデオをすぐに見返しましたけど、まだ首振りのところとか課題はあります。それに、今はまだ僕はチャンスをもらっている段階だと自分で思っています。スタメンで使ってもらってもまだ見られている段階。毎回結果を出さないと次はないという気持ちでやっています」
 清々しい表情で、そうきっぱりと語った。

 原石が磨かれ、キラリと光る宝石に変わっていく、その過程を楽しみに見ていきたい。

 [こんの・あきら]
昨季のJFA・Jリーグ特別指定選手を経て待望の加入。左右両足からの強力な
シュートを持ち、国士舘大学時代にはアシスト王に輝くなど潜在能力は高い。
1984年5月24日生まれ、神奈川県伊勢原市出身。176cm、69kg。
>詳細プロフィール

www.orihica.com

ORIHICA's FASHION NOTE

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トップス

Wトレンチショートコート
24,150円

インナー

ボタンダウンシャツ
6,090円

ボトムス

ハウンドトゥース
ウールパンツ
8,190円

オリヒカ担当者から

今回は養父選手です。実際拝見した際、一番似合いそうなアイテムを着ていただきました。紹介しますのは、ショート丈のWトレンチコートです。着丈が短かく、スリムシルエットですのでジャケットの替わりに着ていただくのがいいです。ベルトを結んでタイトめに仕上げるとモード感がアップします。養父選手との雰囲気も良く、かなり似合ってると思います。

 

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