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ピックアッププレイヤー

2009/vol.13

〜FW10/ジュニーニョ選手〜

ピックアッププレイヤー:ジュニーニョ

 1977年9月15日、ジュニーニョはブラジルで生まれた。
2009年9月15日、32回目の誕生日を、ここ日本で迎えた。
来日して、数えた誕生日は7回目──。
愛する家族、チームメイト、サポーターとともに祝う記念の日。
ジュニーニョは、感謝の気持ちを捧げた。

1 僕が来日したのは2003年。早いもので、もう7年の月日が過ぎました。来日した日のことは昨日のことのように覚えています。2003年1月のこと、寒さ対策のために上着をスーツケースに詰め込んで、空港に着いたら、すぐに着込みました。寒かったし、時差ボケですごく眠かったけれど、その後、プロフィール写真の撮影をしたことを懐かしく思い出します。

 最初の練習日、グラウンドにはまだ芝の養生のためにシートが覆ってあり、人工芝のグラウンドにスタッフ、選手が全員集まりました。そのミーティングの場で僕はみんなに紹介されました。フロンターレのジュニーニョの始まり、でした。

 そのときは、まさかこんなにも長く日本に、フロンターレにいるとは思いませんでした。それは、驚きでもあり喜びでもあります。

 最初の3ヶ月は生活に慣れるのにとても大変でした。家族も日本に来られなかったですからね。一番大変だったのは、練習期間が長かったこと。ブラジルではオフ明け15日間ぐらい練習して大会に入ります。ところが日本ではその期間が約2ヶ月もありました。それがストレスでした。でも、ホームシックにはならず、早く試合がしたいという前向きな気持ちでした。

日本に来たときに感じたことは、多少なりとも日本語を覚えていかなければいけないなということでした。なぜなら、出かける度に通訳や誰かについてきてもらうことになると、彼らにも家族がいるので申し訳ないからです。そこで、僕は本屋で2、3冊ポルトガル語―日本語の辞書を買いました。辞書は、練習後や夜、家でひらいて「ボンジーヤ=おはよう」などと少しずつ覚えていきました。それでもどこかに行ってわからない日本語があったら、エジソンやアルベルト通訳に電話しました。

08 そう、エジソンは当時家が近かったので、本当にお世話になりました。日本語も教えてもらったし、料理も教えてもらったなぁ。彼からフェジョンの作り方を教えてもらって自炊もできるようになって、いまでは僕のほうが上手に作れるようになってしまったんだけどね。

 当時チームメイトだったアウグストもすごくサポートしてくれました。練習にもいつもアウグストのクルマで一緒に行ってたのですが、アウグストが遅刻しそうなときは、僕は遅刻しないようにバルデスのクルマに乗せてもらっていました。懐かしいなぁ。

 それから自分でクルマに乗れるようになると、行動範囲が広がってレストランに行ったり、ぐんと生活に慣れることができました。箸を使って焼肉を食べることを覚えたのもこの頃です。

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 日本人選手とは日々の生活のなかで、自然と仲良くなりました。当時、仲良くしていたのは、鬼木(達)、ポルトガル語がわかった匠(渡辺=モンテディオ山形)、佐原(FC東京に期限付き移籍中)、あとはウラカミ(浦上荘史=清水エスパルスGKコーチ)。ガミ、オモシロイね。彼とは、ピッチを離れて食事にも行っていました。

 ブラジルのサッカーにくらべ、日本のサッカーはスピードが圧倒的に速いというのは、開幕してすぐにわかりました。僕は、その特長が自分に合っていることに気づきました。つまり、スピードを活かせる、ということです。

 チームメイトの特徴も少しずつわかってきました。右サイドのヤス(長橋康弘)からの攻撃の形は楽しかった。宏樹も当時から試合に出ていたし、ケンゴや周平は2003年はまだあまり出ていなかったけれど、素晴らしい能力があることは練習からわかっていました。当時はまだ日本サッカーを知り尽くしていなかったから、後に彼らが日本代表選手になるとはわかりませんでしたが、日本サッカーを知っているいまなら当然のことだとわかります。2003年に来た当初は、日本サッカーは進化している過程だったと思います。それから徐々に成長をして、いま、若くて能力が高い選手もたくさん出てきていると感じています。

 振り返ると、7年間はあっという間でした。最高の時間でした。ブラジルから日本に来て、これだけ長い期間ひとつのクラブで過ごせたことを嬉しく思います。

3 印象深いことはたくさんあるけれど、悔しかったのは2003年の最終節。勝っても勝点1差で昇格できなかったこと―。昇格したいという強い気持ちが僕にはありました。あの広島戦、信じて戦った結果、終わって他会場の結果を知りダメだったとわかり、力が抜けて座り込んでしまいました。

 ブラジル時代もフォワード経験はありましたが、ポジションは中盤でした。当時はアシストの回数が多かったのですが、日本に来てアシストとゴールの両方できるんじゃないかということで、プレースタイルが変わったと思います。2004年は、とくによくシュート練習をしました。エジソンと定期的にシュート練習をしたり、ウラカミにキーパーをやってもらったり、コーンを置いてコースを狙ったり。練習で難しいことをやっていれば、試合でもできる。落ち着いてキーパーの位置を見て決められるのは、練習しているからです。ゴールの理由は、練習にある。そう断言できます。

 2004年、僕もチームメイトも念願のJ1昇格を決めました。これは、最高に嬉しく楽しい体験でした。個人的にも37ゴールでJ2最多ゴール数で得点王になりました。

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 2005年にJ1に上がって僕がJ2との違いを感じたこと。それは、選手たちが最後まで諦めない気持ちを、より強くもっていること。ロスタイムになっても引き分けに持ち込んだり、勝利に結びつけるためにあきらめない。その気持ちの部分が違うと感じました。

 その頃、フロンターレは引き分けが多かったのですが、それは本当に細かいところで集中しているか、あきらめていないかという部分だったと思います。時間稼ぎが大事な場面もあるし、自分たちの試合状況で、何をしなければならないかを考えることが大切。そういう部分も、ここ数年でチームとして積み上げてきたことだと思います。

 僕自身も、J1になりさらに相手チームからのマークが厳しくなって、プレースタイルを少し変える必要がありました。J1のディフェンスは、技術レベルもあきらめないでマークしてくるメンタル面でも高いものを感じました。僕のプレースタイルとしてゴールへ向かうことは変わりませんが、マークが厳しいときに僕がスペースを空ける動きをして、他のFWにアシストをするという形も増えたと思います。

 僕の最大の特徴はスピードなので、チームメイトたちにも、早いタイミングでパスを出すことを要求し続けました。早いタイミングで縦にパスが入ってくれば、自分のスピードも活かせるし、相手ディフェンスが形を作る前に崩せる回数も増えるからです。そういうチームとしての形やチームメイトとの連携も少しずつ高めてきました。そこには、チームメイトたちの努力もあったと思います。

 2006年頃から、僕はチームが団結できるようにそれまで以上に引っ張ろうという意識が芽生えました。自宅でシュハスコパーティーを開いてチームメイトを招いたり、話をする時間を増やしたり、チームがまとまるためにできることは何かを考えるようになりました。

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 2007年、ナビスコ決勝で敗れたことも悔しい思い出です。あれを勝てていれば…、という思いがあります。でも、過ぎたことは仕方ありません。

 リーグ戦では、この年得点王をいただくことができました。

 この7年間、自分だけでなく、チームも本当に成長しました。僕は、毎年毎年、チームの成長を見られ共に歩んでこられたことをとても幸せに感じています。2003年から素晴らしい関係を築いてやってこれたことを誇りに思っています。

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 なぜ、最初は思いもしなかった、これだけの長い月日をフロンターレで過ごせたのか。それは、何よりも自分はここが好きだからです。僕はクラブのスタッフ、選手、サポーターが大好きです。第二の家族と感じています。また、プレーするチャンスや出来うることをクラブが僕に与えてくれているから、それに対して僕は返さなければいけません。もちろん、そうした責任感だけでフロンターレにいたわけではなく、純粋にいちサッカー選手としてここでキャリアを積んでこれたこと、サッカーが楽しく幸せであり、選手として僕はフロンターレで、日本でサッカー選手として過ごせたことに心から満足しています。

 ここでサッカー選手として成長できたこと。それは、ひとことで言えば、“ゴール”です。ブラジル時代にはなかった武器を手に入れた僕は、チームメイトたちからの“パス”を得ることで、さらに攻撃の形を高めあってきたのです。

 そして、ひとりの人間としても、自分の方から人に対して馴染めるように、成長できたのではないかと思っています。

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 振り返れば──。

 子どもの頃、困難なことはたくさんありました。

 両親が働いていたため、行きたくても遠くの練習には行くことができませんでした。貧しかったので、いま振り返るとそんなに簡単な人生を歩んでこなかったと思います。でも、サッカーは大好きでした。練習に行けない時は、ストリートで友達と朝から夜までサッカーをやり、学校でもサッカーばかりやっていました。

 子どもの頃、僕はすごく細かったし、監督から「お前はプロになれない」とか「いい選手になれない」と言われたこともありました。

 でも、僕は、信じていました。

 絶対にプロサッカー選手になるんだ、と強く気持ちを持ち続けました。

 いまサッカーに取り組んでいる子どもたちに伝えたいことは、プロ選手になるためには、自分を信じて絶対にやり続けないといけないということです。もしも自分がなりたいという気持ちがあるのならば、監督にみせるためにサッカーをするのではなく、自分自身を磨いていく必要があります。自分が心に決めていたのはそういうことです。自分が何になりたいのか、何がしたいのかを強く思い、努力をしてきました。それは、自分のためでもあり、また家族のためでもありました。サッカー選手として成功すれば、家族も助けることができる。そのためには努力するのは当たり前だと思っていました。それからみんなにアドバイスできることは、好きな選手のプレーをたくさん真似ること。自分でボールを触って、チャレンジすることが大事。僕のプレーだけじゃなく、いろんな選手のプレーをみて、いいところを盗んでチャレンジしてください。

 9月15日。きょうは、僕の32回目の誕生日です。

 フロンターレに来てから7回目の誕生日です。

 いろんな人たちに対しての感謝の気持ちでいっぱいです。

 まずは、神様に感謝します。

 生まれてきた僕にサッカーを与えてくれて、サッカー人生をサポートしてくれました。

 両親にありがとう。

 僕は、ブラジルのバイーア州の州都、サルバドール市で生まれました。10歳で地元バイーヤのクラブに入りました。父はもう亡くなりましたが、僕を育ててくれました。お母さんには、生んでくれてありがとう。自分だけじゃなく7人兄弟みなここまで育ててくれて感謝しています。

 兄弟にありがとう。

 兄弟もサッカー選手をしていたので、サッカー選手へと僕を導いて気持ちを高めてくれたことに感謝します。とくに、グアラニやインテルナシオナル、バイーアなどで活躍した長兄(ゼ・カルロス)の影響が、僕をプロ選手の夢へと駆り立ててくれました。

 妻にありがとう。

 妻とは若いときに知り合い、結婚して10年が経ちます。彼女のおかげでふたりの子どもに恵まれました。人生の壁にぶつかっても彼女は常に僕の支えとなりサポートしてくれました。彼女のすべてに感謝しています。

 ふたりの息子にありがとう。

 ルーカスとチアゴ。僕の子どもたちに伝えたいことは人生は簡単ではないということ。いまは親として僕が子どもの時にはなかったいい環境を彼らに与えてあげられていると思いますが、ここまで来るのは大変でした。彼らは、まず勉強をしなければいけないし、僕は親として常に一緒にいてあげることもできません。正直に言うと、これまで乗り越えなければいけない最大の壁は、家族と距離があることでした。ブラジルと日本と離れた生活が長く、子どもたちの成長を直に見られないことは辛いことでした。それでも、僕はフロンターレでサッカーをすることを選んできました。そして毎日、電話で話して彼らの成長を確認することは欠かしませんでした。これからもいい方向に彼らが向かえるようにサポートしていきたいと思います。

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 僕の家族であり仲間である
 クラブスタッフ、チームメイトにありがとう。

 今年は、タイトルが絶対にほしいですね。そのチャンスがあるので、あとは、自分たちがどれだけ突き進めるか。そのためには、自分たちの能力を信じることです。

 ナビスコ準決勝の前、紅白戦に入る前に僕は選手たちを集めて話をしました。ナビスコ準決勝には、エイジとケンゴが代表でいませんでした。このタイミングで、もう一度チームを盛り上げたいと思いました。僕は、言いました。

「自信をもとう。2年前も同じチームで決勝まで行けたんだ。絶対にいける」

 そして、自分たちの力を信じて戦った結果、ナビスコ決勝の切符を手に入れることができました。みんなで掴みました。

 フロンターレは、もはやビッグクラブです。これまで2位で終わってきた歴史は、これから変えていけばいい。強い気持ちで戦おう。一緒にタイトルを獲ろう。僕はそのために100%の力を出し切って、最後まであきらめずにプレーします。そして、チームとして団結して心をひとつにして、すべての大会でタイトルを獲得するためにベストを尽くしましょう。

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 最後にいつも応援してくれるサポーターへ
 ありがとう。

 フロンターレのサポーターは、本当に毎年増えてきました。2003年の頃に比べるとずいぶんと増えて、もう等々力が小さくなってきたんじゃないかと思います。みんなと7回も誕生日を過ごすことになるなんてね。サポーターの優しさには感謝しています。試合のときに掲げてくれている横断幕は、ブラジル時代にはなかったものでした。自分の名前とともにああいう形で応援してくれることをうれしく思うともに、もっと頑張らなくては、と目にする度に思います。また、“川崎の太陽”と僕を名づけてくれたことも心からうれしく思います。僕は神から川崎フロンターレでサッカーをする道を授かりましたが、僕自身もクラブのためにできることを返していきたいです。

 これから先も、この川崎で努力していくつもりです。クラブのために勝利のために優勝するために最大限のことをやっていきたい。自分もサポーターと一緒にフロンターレでタイトルを獲りたいのです。

すべての人に感謝します。

ジュニーニョ

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[ジュニーニョ]

驚異的な瞬発力で一気にDFを振り切りゴールを決める「川崎の太陽」。在籍7年目は、外国籍選手としてはクラブ史上最長。昨シーズンは決定力不足に苦しみながらもアシストでチームに貢献。クレバーなプレースタイルへと進化を遂げつつある。174cm/67kg > 詳細プロフィール

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