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ピックアッププレイヤー

2010/vol.01

ピックアッププレイヤー:鬼木達コーチ

かつて、「川崎の宝」と言われた闘志溢れるプレイヤーだった。
その後、熱血コーチとなり、フロンターレ育成世代の「戦う気持ち」を目覚めさせた。
2010年──、鬼木達はトップチームに帰ってきた。
コーチという立場に変わっても、変わらないもの。
それは、サッカーに対する情熱の深さだ。

チャンスとタイミング

 2009年師走、クラブ事務所で鬼木は福家常務に呼ばれた。トップチームコーチ就任という話だった。鬼木は、驚きと喜びをもって、その知らせを受け止めた。

「いずれやりたいと思っているカテゴリーだったし、トップでやるというタイミングはなかなかあるものじゃないから、めざしていたところでやれることを素直に喜んで頑張ろうという気持ちでした。ただ、育成のコーチとして、腰をすえて何年もやったわけじゃないから、ちょっと遣り残した気持ちはあるけど、自分がいたそれぞれの場所で、精一杯やってきたつもりだから──」

 鬼木達、川崎フロンターレ・トップチーム新コーチが誕生した。

川崎の宝

01 鬼木達は、フロンターレ創生期を支えた選手だった。

 1998年に鹿島アントラーズから期限付き移籍。当時JFLだった川崎フロンターレで、不動のボランチを務めた。戦う気持ちを全面に出した彼のことを、サポーターは「川崎の宝」と呼んで大事にしていた。

 翌年は、鹿島に復帰するも、2000年に完全移籍。その後、キャプテンも務めた。伊藤宏樹がキャプテンになったとき、「オニさんだったら、こういう時、どうしていただろうか」といつも考えたという。

 2006年末の引退は、「人生で一番悩んで出した答え」だった。できるならば、ずっと現役選手でいたい。それは選手であれば多くの者が願うことだろう。だからこそ、あきらめる決断には辛さが伴う。そのシーズンのリーグ戦最終節は、奇しくもフロンターレホームゲームで行われた鹿島アントラーズ戦だった。自分が所属した2チームのサポーターがいる場で引退発表と挨拶ができることは、悩んで眠れない鬼木の決断をそっと後押しした。

 泣きながら、サポーターに挨拶をする鬼木の姿は、記憶に残る幕引きとなった。

02

 2007年に鬼木が最初にコーチとして指導したのは、フロンターレジュニアの子供たちだった。結果的に1年間だったが、鬼木にとっては、指導者としてスタートを切った最初の1年は、かけがえのない時間になった。
「まだ手探り状態だったけど、こっちが真剣に100%で接していれば、子どもたちにも伝わって返してくれる。そういう姿を見てうれしかった」

 ユースのコーチ就任が決まり、最後となった練習後、子供たちは鬼木に手紙を読んで、号泣した。引退したとき、もう自分のために泣くことはないだろうと考えていた鬼木の目に、光るものがあった。「ユースで待っててね」という言葉は、鬼木にとって最高にうれしい餞別となった。

ユースで伝えたかったこと

 2008年、U-18コーチに就任。
 それから2年間で、フロンターレユース年代も強くなり、結果が出せるようになってきた。

 そして先日、ひとつの結果が生まれた。
 2010年2月14日、フロンターレU-18が、「JFAプリンスリーグU-18関東 2010・2部リーグ参入決定戦」に勝ち、「JFAプリンスリーグU-18関東 2010・2部リーグ」への参入が決まったのだ。

03 これは、U-18チームが3年越しで叶えたひとつの目標だった。3年生が引退し、新体制として臨んだチームで掴んだ勝利だった。すでにトップチームのコーチとして新たなスタートを切っていた鬼木だったが、教え子たちが掴み取ったこの事実を大きな喜びをもって受け止めていた。

「3年生が引退して、負けた日から、プリンスを目標に掲げて彼らはやってきた。一発勝負で、プレッシャーもかかる試合はメンタル面でもきつくなるものだけど、そういう試合で勝てるだけの力がついたことは大きい」
 その表情は、とてもうれしそうなものだった。
 彼らの成長と戦いぶりを、元コーチとして認めているのだな、と思った。

 というのも遡ること、たった半年前のこと。
 2009年7月、鬼木はインタビューで厳しい言葉を連ねていたからだ。

「選手として真剣に戦える場があることのありがたさ。いまはどれだけ苦しくてもそういう場があることに気がついてほしい」

「戦えなかったらピッチに立つ資格がない」
「チームのために走れる選手になることが大事」
「気迫さや必死さを僕は求めたい」

 だが、その後、フロンターレU-18は夏のクラブユース選手権では全国大会予選で全勝、決勝トーナメント1回戦で惜しくも敗退したが、シュートを35本も放っての悔しい敗退だった。また、冬のJユースでも浦和、マリノスという強豪が入った組み合わせのなか、マリノスユースとともに決勝トーナメント進出。1回戦で結果的にその大会で準優勝に終わる広島ユースに敗退を喫した。だが、これまでの歴史を考えると、フロンターレの下部組織にとっては大きな飛躍となった1年だった。そして、プリンスリーグ参入決定。

 その過程で、厳しさと必死さを求め続けた鬼木の姿勢を受け止めた選手たちの取り組み方に変化があったはずだ。たった半年で、鬼木から出てくる言葉は、まったく違うものになっていた。

「子供は変わるのが早い。もちろんジュニア世代に比べると技術的な進歩が目に見えて、という程はあがらないけど、心のもちようでこれだけプレーが変わってくるんだなと思った。そうなると、当然技術もうまくなってくるから面白い」

 選手たちは、なぜ変わったのだろうか。
「僕たちが変えたというよりは、必死になることの大切さに本人たちが気づいたんだと思う。みんなが100%でやることが当たり前という環境が徐々にできてくると、逃げ場がなくなってくる。手を抜いてもゲームに出られたり、うまければ試合に出られる、ということもなく、100%で取り組む大切さが浸透してくると、みんなが『自分もやらなきゃ』という気持ちになっていくから」

 その100%は、結果にもつながっていった。
「夏の大会のとき、ほとんどすべてのチームが軽いアップで練習を終わらせているなか、うちのチームだけ普通にしっかり練習をやらせたことがありました。大会後に選手たちに話を聞いたとき、『なんで自分たちだけ』と思っていたらしいけど、結果的に大会が始まってみれば予選全勝。そうすると彼らも自分たちがやってきたことは間違っていないと気づいて、自信がもてるようになる。僕たち指導者にしても、結果が出せたからこそ言えることだから、それは選手たちに感謝してます」

 そして、2009年12月。フロンターレユースは年末のフェスティバルに参加していた。鬼木にとっては、ユースの選手たちと過ごす、最後の大会となった。大会最終日、鬼木はひとりひとり個別に呼んで、アドバイアスを送った。その後、選手たちからメッセージ入りの色紙が鬼木に手渡された。大会が開催されるなか、フロンターレチームは鬼木コーチ送別会の様相を呈した。
「最後の挨拶のとき、子供たちが色紙をくれて、ありがたかった。今回はさすがに泣かずに終わったけど、やっぱりけっこうぐっとくるものだね」
 そう言って、鬼木は照れ笑いを浮かべた。

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新たな挑戦

04 2010年1月、鬼木はトップチームコーチとして始動した。
 1月10日、鬼木は、大勢のサポーターの前でマイクを握った。新体制発表会見が、スーツ姿で新コーチお披露目の場となった。

「今日この場に立てたことを僕自身本当に嬉しく思っています。2006年に引退しましたが、唯一フロンターレでやり残していたことと言えば、タイトルを獲れなかったことです。今年もう一度そのチャンスを頂いたと思っています。全力を尽くして頑張っていきたいと思っていますので、応援よろしくお願いします」
 サポーターからは、現役時代と同じ“オニキ”コールが響き渡った。

 鬼木達が選手を引退したのは、2006年末。
 それから数年が経ち、ジャージの色は変わったが、再び麻生グラウンドと等々力でフロンターレトップチームに戻ってきた。選手時代にともにプレーした仲間たちもいる。久しぶりにチームに戻り、何か感じたことや変化はあっただろうか?

「自分が知っていた選手たちが上になり引っ張っていい形ができている。自分たちが何とかしなきゃという部分も感じるし、かといって力みすぎず、フロンターレらしいんじゃないかと思う」

 仕事内容としては、主に若手の育成を担当することとなる予定だ。トップチームカテゴリーにおいても、鬼木は若手の育成という部分は力を入れていくことになるだろう。レギュラーをめざし日々努力を重ね、ポジションを奪うぐらいの気持ちのもち方、そうしたモチベーションとなる部分を練習を通して伝えていく役割を担うはずだ。

 また、練習前の準備、練習、そして練習後のレポート作成や今野コーチが担当する対戦チームの分析サポートなどを行うことになる。ユースのコーチ時代も忙しく動きまわっていたが、トップチームのスタッフとなると、それ以上の忙しさだ。だが、そうした日々に追われながらも、指導者としてサッカーをインプットする時間も必要になってくる。

「とにかく今は毎日忙しいけど充実しているし、チームの仕事も覚えながら、ちゃんとサッカーの勉強もしたい。ユースに比べて当然だけど、トップチームの方が内容も濃くなるし、練習のバリエーションも増えていく。ある程度同じ内容を繰り返して定着させていく育成とはやっぱり違いますからね」

 だが、そうした大変さは、トップチームという最前線で優勝を賭けて戦いに挑むためには当たり前のことだ。鬼木は、これから始まる日々に緊張感と高揚感を感じている。

「これまでもあっという間にシーズンが終わっていたけれど、たぶん今年はそれ以上に早く過ぎるような気がします。大変なのは当たり前。勝負に直結する部分だし、より緻密なことが必要になる。ツトさんはお世話になってきた人だし力になりたいという思いもあります」

 とにかく、鬼木の指導者人生は、まだ序章。
 これから、どんな風にフロンターレというキャンバスに色をつけていくのだろうか。

 最後にひとつ質問をした。
 それは、「指導者としての目標」ではなく、「どんな指導者でありたいか?」という内容にした。
 なぜならば、サッカー選手として、人として大切なことは何か、ということを常々彼は重きを置いていたからだ。ユースの選手たちにも「人の気持ちがわかるようになってほしい」と願ってきた。相手の特徴や気持ちを考えて接することは、日常生活でもサッカーでも同じことだからと考えているからだ。

「指導者としてどうなりたいというのよりも、たとえうるさいことを選手たちに言っても、そのときは『うるさいなぁ』と思われてもいい。最後に『自分のために言ってくれてるんだな』って気づいてもらえる、そういう人間になりたい」

 鬼木は、サッカー人として、人として、そういう筋が通ったぶれない人間でありたいと願っている。

 情熱──。
 鬼木のサッカー人生を表すのは、それがもっとも相応しいような気がした。
「まぁ、情熱を失うことなんてまず、ないね」
 きっぱりと、彼は言った。

 
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[おにき・とおる]

縦横無尽にピッチを走り回る脅威の運動量をほこり 川崎の心臓と呼ばれた。2004年のJ1昇格を支え、昇格後も息の長い活躍を期待されたが、2006年末、惜しまれつつ引退。2010シーズンからフロンターレトップチーム・コーチ。1974年4月20日/千葉県船橋市生まれ。
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