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ピックアッププレイヤー

2010/vol.05

ピックアッププレイヤー(番外編):ホペイロ/伊藤浩之

1997年の川崎フロンターレ発足以来、ホペイロとしてチームを支えている伊藤浩之。
ホペイロとして初めてのスタート。
それからの日々は、フロンターレとともにあった。
伊藤は、1997年から現在に至るまで、JFL、J1リーグ、J2リーグ、ACL、ヤマザキナビスコカップ、サテライトリーグ、天皇杯…、すべての公式戦に携わった、たったひとりの人なのである。

1家具屋からホペイロへ

 1967年神奈川県横浜市生まれの伊藤は、小学校高学年のとき、地元のクラブで始めたことがキッカケでサッカーとの生活が始まった。

 その後、中学、高校、大学とサッカー部一筋だった。相模工業大学付属高校サッカー部の一学年先輩には福田正博が在籍。当時の神奈川県は強豪校がひしめいていた。伊藤の同級生にあたる学年には、県立旭高校に現在川崎フロンターレの下部組織で指導をする大場健史がいた旭高校、また、堀孝文が在籍した県立鎌倉高校が強かった。

 そして大学卒業後、家具屋に就職した伊藤は、そこで7年間勤めあげた後、1996年のある日、フロンターレがプロ化をすることを知る。

「応募してみようかな」
 漠然とそう思った伊藤は、履歴書をさっそく送った。

 1997年2月、伊藤は川崎フロンターレのスタッフとなった。
 当時のフロンターレは、Jリーグ昇格をめざし、Jリーグチームから十数名を補強し、「川崎フロンターレ」として新たなスタートを切った年だった。伊藤は、家具屋で働いていた経験を買われ、フロンターレでの仕事は「ホペイロ」に決まった。だが、具体的な仕事内容は手探り状態だった。

「哲生(中西)とかJリーグにいた選手からいろいろと教えてもらった。名古屋ではこうだったよ、とか全部教えてもらいましたね」

 周囲には、伊藤がテレビで観てきたJリーガーたちがいる。ベッチーニョ、向島建らと会話をすることに最初は緊張感もあった。
 チームにとっても、伊藤にとっても草創期となる今では懐かしい思い出だ。
 このとき、伊藤は30歳になる節目の年だった。

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ホペイロという仕事

 ホペイロの仕事は、すべての試合や練習、練習試合に必要であり、その業務をひとりでテキパキとこなしていく。試合やチームのスケジュールが当然優先されるため、当然、オフがなくなるときもある。

 練習の時は、2時間前に来て準備をする。ボールに空気を入れ、ドリンク、練習着の準備、選手たちが入るクラブハウスのお風呂もチェックする。練習中は、練習に参加し、ボール拾いや時にはラインズマンなどサポート役を行う。ドリンクは水とスポーツ飲料を用意するが、なかには「スペシャルドリンク」を用意する選手たちもいる。クエン酸入りのドリンクを井川用に、また、スポーツドリンクを中村憲剛用に作る。

 練習後は、練習で使った備品の片付け、洗濯物をまとめて洗濯係の方へ、そして次の試合に向けての準備が待っている。そして、選手たちのスパイク磨き、前の試合で使った用品のチェック、ユニホームのチェックなど「確認」作業が続く。

 この日は、ちょうど中断期間中のつま恋合宿が終わり、麻生グラウンドでの練習初日。用具ルームをのぞくと、伊藤が練習着をひたすらダンボールにつめているところだった。

「函館キャンプの荷物の積み込みが明後日あるので、いまからやらないと間に合わなくなるんです」と伊藤。
 キャンプにもっていく練習着は各選手3セットずつ。背番号の早い選手から順番にダンボールに入れ、最後に部屋番号を記入していく。入れたら用紙にチェックを入れ、次の選手分。こうして、ダンボールは約50個できあがっていく。

 一番忙しいのは、国内の公式戦、サテライトに加えて、ACLが重なる時期だ。ACLでアウェイの遠征に行き、戻ってすぐリーグ戦、またすぐにACLへの遠征などとなると、目まぐるしくなる。とくに、ACLの場合は、成田に荷物をすべて送るため、入念なチェックが必要となる。

 昨年のACLでは、アウェイのマリノス戦を終えて、選手たちはそのまま新幹線で名古屋へ移動してホテル泊。伊藤は、試合後、麻生グラウンドに戻り、荷物の仕分けをする。そして、ACLにもっていくスパイクを袋につめて最終チェックをし、荷物出しに立ち合う。その後、自宅に戻り着替えて、チームを追いかけ名古屋へ移動。空港では、預ける荷物がすべてあるかチェックする。ACLの場合は、大きなずた袋に約75個分。ユニホーム、練習着、練習で使用するマーカーやボールに至るまですべての物を持参する。そして、目的地に飛行機が到着し、ここでも75個の荷物が無事に届いているか確認し、トラックにてホテルまで運んでもらう。

「ACLは日本と違って、会場への荷物出し入れとか、空港での荷物の数チェックとか、自分たちでやる場面が増えるので、スタッフにも手伝ってもらってやります。一番は、数がちゃんと揃っているかですね」
 もちろん試合が終われば、また75個のずた袋にひたすら荷物を入れ、空港でのチェック、そして日本に到着し、翌日の麻生グラウンドでの1日は「作業日」になる。持ち帰った洗濯物をまとめて、洗濯機はフル稼働。その合間にすぐに待っているリーグ戦の準備作業も同時進行だ。
 また、ACL以外でもリーグ戦の翌日がサテライトリーグという場合は、Jリーグの試合が終わるとそのまま麻生グラウンドに戻り、荷物を降ろして夜までサテライトの準備にかかる。こうした連戦のときは、夜の11時頃までかかることもあるという。

 「忘れ物をしないこと」
 それが、伊藤の唯一で最大の自分の仕事について掲げていることだ。

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 実は、以前にたった一度の苦い思い出が伊藤にはある。

 2001年のサテライトでのこと、この日はセカンドのサッカーパンツでの試合だったが、前日にトップのメンバー入りしていた選手分数人について、ファーストパンツをそのまま持ってきてしまった。
 焦った伊藤だが、なんとかしなければいけない。苦肉の策として、余分にあった番号違いのセカンドのパンツに白いテーピングをはって番号を隠し、黒いマジックで必要な番号を書き込んだ。

 選手たちが気持ちよく練習に臨み、試合に集中して臨めるよう準備から後片付けに至るまで伊藤は、たったひとりで仕事をこなしている。黙々と、いつも同じことをミスのないように確実にこなしていくのは、どの仕事であっても共通することかもしれない。

 それを実行するために、そして二度と忘れ物をしないために伊藤がしていること。誰もが真似できる至ってシンプルなことだ。
「チェックリストを作ること」
 このチェックリストは、コピーされ、クラブハウスから荷物を積むときに、ひとつひとつマジックで消されていく。この10数年の間で何度もリストは更新され、増えていったが、この作業を欠かしたことはない。というよりも、これさえやっておけばミスがない、ということに行き着いた。 

 伊藤の仕事に取り組む姿勢についてジュニーニョは、こう語る。

「普段、イトウとは冗談を言う仲だが、練習、試合と仕事をきっちりこなす姿は立派だし、敬意を表している。彼の仕事を信頼している」

 というのも、ジュニーニョが所属していたパルメイラスでは、ホペイロは3名体制だった。1名はトップ専属、チーム遠征帯同専門でアウェイ時にはヘルプの方が来るというスタイルだった。そのため、フロンターレに来て驚いたことのひとつとして、ジュニーニョはその3人分の役目をひとりで伊藤が完璧にこなしていくことに驚きとともに凄さを感じたという。

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共に戦う

 試合当日、伊藤は4時間前に会場入りする。そして選手が会場入りする1時間半前にすべての準備を終える。チームが苦しんでいるとき、サポーターが励ましの声をバスが入ってくる間中送ってくれたことが何度もあった。その声は、ロッカールームにいる伊藤のもとまで聞こえ、勇気づけられたという。

4 ロッカールームでは整理整頓し、各選手の使うロッカーにユニホームを並べ、スパイクを並べ、ドリンクを作る。水とバナナとチョコレートを用意し、ベンチへ向かう。

 いつもフロンターレの試合とともにある、「鶴」の存在をご存知の方々も多いだろう。
 あの鶴は、毎年シーズン前にチームの洗濯係をしている女性スタッフたちが作り、伊藤に託しているのだ。その鶴は、伊藤が運ぶ荷物のトラックに毎試合積まれ、ベンチに掲げられ、そして伊藤が持ち帰っている

 選手によっては、「こうしてほしい」というリクエストもあるし、特徴もある。

 例えば、稲本と杉山はユニホームをハンガーにかけてほしい、というもの。小宮山は、ハンガーにきちんとかけるのではなく、ハンガーにふわりとのせておいてほしいという。中敷を足型に合わせて敷いているのは、伊藤、井川、小宮山、ジュニーニョ、寺田、中村、矢島、稲本、相澤、杉山、谷口。

 ヴィトールは、常に1足のスパイクだけを使うという珍しいタイプだ。練習で使ったものを試合でも履きたいからという理由だそうだ。黒津は、スパイクの型が崩れないように自分でシューキーパーを入れてから伊藤に預ける。最近では、カラフルな色のスパイクもずい分増えたが、川島は「黒」しか履かないそうだ。

 かつて、相馬直樹(現町田監督)は、スパイクを常に8足用意していた。ポイント式と取替え式が各4足。
 ポイントは6本と8本が各2足。取替えが長いものと短いものを各2足。取替え式は雨の日しか使う可能性がないから、伊藤が出しすぎて邪魔になるのではと配慮したことがあったが、「それでも出しておいてほしい」と相馬からリクエストがあった。

5 懐かしい話でいえば、2001年に在籍していたエメルソンは、唯一、伊藤を手こずらせた選手だったと振り返る。

「エメはわがままで(笑)、スパイクを入れておいてねと選手全員に頼むことがあると、エメだけ入っていたためしがなかったりした。まぁ、憎めない愛嬌ある選手だったけどね」

 そうして、ロッカールームの準備が終えると、いよいよ試合が始まる。
 試合が始まれば、選手がぬいだものや飲み物を片付け、ハーフタイムの準備。水や冷たいタオルをつくり、選手たちのケアに備える。
 試合が終わると、すべての後片付けをする。

夢を叶える

 フロンターレでの13年間、伊藤は、チームとともに喜怒哀楽を経験してきた。
「でも、やっぱり悔しいことのほうが覚えているんだよね」と伊藤は言う。

 1998年の伝説になった博多の森のJ1参入決定戦。実は、伊藤はその数週間前から入院を余儀なくされ、チームに復帰したのはその数日前だった。激闘の末に、Jリーグ昇格の夢が潰えた。

4 2003年のJ2リーグ最終戦の対広島戦。フロンターレは2対1で勝利を飾ったものの、勝ち点1がわずかに足りずにJ1昇格を果たせなかった。

 13年の積み上げた歴史のなかで、試合後、伊藤が泣いたのはこの2試合のみ。選手たちがロッカールームで泣く姿を見て、涙が出た。

 そして、昨年のリーグ最終節。
 柏レイソルとの試合に勝利したものの、やはり勝ち点が届かず悲願の初優勝はまた手にできなかった。
「1年間頑張ってきて、最後の最後でダメだった。選手たちが頑張っているのを見ているので、やっぱり苦労は報われてほしかった」

 振り返れば、最初の頃は、等々力の観客数もまばらで、満席になることがあることなんて、まだ誰も想像もつかなかった。ドリンクを並べる伊藤もまた同じ気持ちだった。それが、ナビスコ決勝で国立のフロンターレブルーをみたとき、「すごいなぁ」と素直に思った。ここまでフロンターレは来たんだなぁと。
「商店街の通りとかフロンターレのポスターが貼ってあって、旗がかかげてある。そういうのをみるとうれしいですよね」

 試合の日、伊藤が会場入りするのは4時間前だと前述した。昔と違う光景は、今はその時間に等々力に行くと、すでにサポーターの姿がたくさんいることだ。

 こんなこともある。
 選手たちがクラブハウスで使うボディシャンプーなどを買い物に行ったときのことだ。昔だったら「川崎フロンターレ」と領収証に正しく書いてもらう努力が必要だった。それが今では、名乗ると「頑張ってください」とねぎらいの言葉をかけてもらえるようになった。

 そんな日々の小さな出来事のひとつひとつで、フロンターレが愛されていることを知る。
「フロンターレは僕にとって生活の一部。一日一日が充実している。自分の仕事をコツコツやることが大事。これからもそうしていきたい」

 伊藤の夢は、「リーグ制覇」と「ACL優勝」。そして、いつの日にか「クラブワールドカップに出場してほしい」というものだ。

「初タイトルを獲ったら、また選手たちにもらい泣きしてしまうかもしれないけど、その日に飲むお酒は人生でいちばんおいしいと思う」

 毎日、同じことをミスなく積み上げていく。

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profile
[いとう・ひろゆき]

相模工業大学付属高校サッカー部出身。家具屋で7年務めた後、1997年より川崎フロンターレホペイロ。JFL時代から、2度のJ1昇格をはじめ、数々のシーンを間近で支え、見つめ続けた。選手からは「イトウチャン」の愛称で親しまれている。1967年5月8日/神奈川県横浜市生まれ。
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