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ピックアッププレイヤー

2010/vol.11

ピックアッププレイヤー:DF13/寺田周平選手

今季限りの現役引退を決めたDF寺田周平がこのほどインタビューに応じ、川崎フロンターレひと筋のプロ12年間を振り返った。まさに地獄と天国を見てきたような濃密なサッカー人生。そこから得たものは、「一つの確信」だという。支えてくれた多くの関係者やサポーターへ、現役最後のメッセージをお届けする。

1  (とっぷりと日の暮れた宮城・ユアテックスタジアム仙台。ドローに終わった12月4日の今季最終戦後、ゴール裏の観客席に向かって頭を下げながら、寺田は引退を心に決めたという)

 「辞めます」──。そう発した瞬間に何かグッとこみ上げてくるものがあって、後に続く言葉が見つからなかった。感謝の気持ちだとか、もっと伝えるべきことはたくさんあったし、考えてもいたはずなのに…。試合後にサポーターにあいさつして、ロッカールームへ引き揚げる短い時間で自分の決断に納得はしていた。移動用のスーツに着替えて、チームバスに乗るまでの狭い通路だったと思う。庄子さん(春男強化部長)を前にして、なぜか、そのひと言しか出てこなかった。

 シーズンも終盤に差し掛かるあたりから、これは引退の可能性もあるなと覚悟はしていた。5月に両膝の手術をしたあと、なかなか怪我が治らなかった影響もある。練習試合では思ったようにパフォーマンスが上がってこない。膝をかばって、プレーの選択肢が限られることもあった。それでも突然、痛みが消える日もあったし、完治する可能性はゼロじゃなかった。すべては12月4日が終わってから決断しよう。そう決めた後は、「引退」の2文字を家族の前でも口にしていない。たとえ一度でも言ってしまうと、そこで気持ちが切れてしまうんじゃないかと思ったから。

 体の状態が悪くなければ、最後の1年くらいは海外のクラブでプレーしてみたいなと、漠然と思い描いたことがあった。もちろん、ヨーロッパのようなレベルの高いリーグじゃなくていい。サッカーは世界中で愛されているスポーツ。プロ選手である以上、海外でサッカーをしながら生活してみたいという夢を持っていた。そう思わせてくれたのは、初出場した2007年のアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)だったかもしれない。

 初戦のアレマ・マラン(インドネシア)戦の、アウェーのあの盛り上がりが忘れられない。東南アジアでこれほどサッカー人気が高いとは知らなかったし、熱狂的で迫力のあるサポーターに支えられたチームがあるとも思わなかった。観客席は通路までビッシリ。日本では経験がないくらい、その雰囲気に圧倒された。昔は、いつかACLに出られたらいいなあ、くらいにしか思っていなかった。それがJ1昇格から3年目で出場できたことも快挙だし、あの時は本当にフロンターレの一員としてプレーする幸せを感じた瞬間だった。

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 ただ、自分がどんな形で、どんなタイミングで引退するのかまでは想像がつかなかった。12年間ずっと、日々の練習、目の前の試合に向き合うことに必死だったから。最終戦を終えた直後は、寂しさというよりもまず、「これで足の痛みから解放される」という安堵感の方が正直強かった。日が経つにつれて、お世話になった方に報告していくうちに実感が沸いてきて、寂しさが増している。色々な人に支えられていたんだなとも改めて思う。

 引退発表の3日後に、少年時代の同級生が全国から駆け付けて慰労会を開いてくれた。サッカーの原点や楽しさを一緒に感じた仲間だったし、彼らがいたからこそサッカー人生をスタートできた。サポーター主催の送別会に呼んでもらった時は、同世代の方から「励みになった」とか「勇気づけられた」とか、そんな言葉を掛けてもらった。サッカーを通じて、自分が周りにいい影響を与えていたり、幸せな気持ちにさせていたりと、色々な形で役に立てたんだなと実感することができた。

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1 (寺田の歩みをたどる上で不可欠なキーワードが2つある。「浪人」、そして「故障」。現役を終えてまず思い返すのは、サッカー人生の大きなターニングポイントだった)

 フロンターレに入る直前の1年間は、自分の35年の人生の中でも一番つらい時期だった。それこそ、周りの支えがなきゃ、とてもプロになれていなかったくらい。

 前の年、別のクラブと仮契約を済ませた後にメディカルチェックで異常があると診断されて、内定取り消しになった経験をしている。夢に届く直前、手から離れていくというか…。これから何を目指すべきか、目標を失いかけたのを覚えている。

 知り合いに会って「いま、何をやっているの」と尋ねられても、自分の所属を答えられない。無職で、しかも先が見えないような状態。サッカーを離れて、ほかの仕事に就こうかと考えたこともあった。それでも母校(東海大)は、不安定な立場の自分を快く受け入れてくれた。サッカー部の練習時間に合わせて、平日は横須賀の実家から毎日通ったし、後輩と一緒に合宿にも参加させてもらった。正直、二度と繰り返したくはないけれど、本当に貴重な経験だった思う。あの時期があったからこそ、周りの人に対して感謝できるようになれたんだと思う。

 フロンターレから声が掛かったのは、1998年の暮れだったと思う。まだ練習場が南多摩にあったころ、当時の東海大監督の宇野先生(勝氏=現神奈川県サッカー協会会長)に連れてきてもらって、1週間の練習参加を許可してもらった。フロンターレが獲ってくれそうな感触はあったけれど、契約するまで確信が持てなかった。前の年のことがあったから。ただ、もう一度チャンスをもらったからには、「お世話になった方に、ピッチで活躍する姿を見せたい」。そんな思いで頑張ったことを覚えている。

 「怪我に苦しみながら、長い間よく頑張った」と周りからは褒めてもらえるけれど、その言葉が素直に自分の心の中に入ってこない部分もある。ここまで契約を継続してくれたチームがあって初めて、今の自分があるから。プロ2年目の2000年に前十字靱帯の手術をして、次の年も同じ箇所を怪我した。肉離れは10回以上やっている。01年はリーグ戦0試合、02年に4試合、03年に3試合…。トライアウトの日程を気にしたこともあった。怪我から復帰した直後に再発したことを、医療スタッフに言い出しにくかったし、コーチや選手には会わせる顔もなかった。

 そんなことを繰り返してきたのに、フロンターレはずっと頑張る場所を与えてくれた。サッカー浪人をしていたころと違って、自分には頑張れる場所があった。いま振り返れば、自分のためにプレーするのは当たり前だけど、「支えてくれた人のために」というモチベーションってすごく強いんだなと感じる。

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1(2004年、関塚隆監督の就任は寺田の大きな転機に。「未完の大器」はいよいよ上昇カーブを描いていく。リーグ戦3度、カップ戦2度の準優勝。その最終ラインのリーダーとして、Jリーグ発足後最年長となる32歳339日で日本代表デビューも果たした)

 セキさんとの思い出で一番印象深かったのは、週明け最初の練習前のミーティング。自分だけが長時間、すごく注意されたことがあった。映像を見せてもらいながら、「そこはアウトサイドでトラップする場面じゃないだろ」という感じで、一緒に聞いているみんなに申し訳ないくらい、自分へのダメ出しばかり…。セキさんはFW出身なのに、DFの細かな駆け引きまで指導していただいた。

 実際、怪我が長かった分、それ以前の監督とはあまり話をさせてもらう機会がなかったのも確かだし、セキさんがまともに付き合った最初の監督かもしれない。マルセロ(フィジカルコーチ)にも体のことを本当に気遣ってもらった。全体練習とは別に、自分のためだけの筋トレメニューを組んでくれたり、周りが10本走るところを自分だけ8割に抑えてくれたり。故障が減って、コンスタントにベンチへ入れるようになったのが、そのころ(04年)だった。最初のJ1時代に怪我をして苦しんだ分、05年にJ1復帰した時はチームだけでなく自分も、本当に復活できたと感じられた。柏との開幕戦のピッチに立った瞬間は、戻るべきところに戻ってきたという達成感が大きかった。

 J1復帰後で言えば、2つのシーンがいまも頭から離れない。
 一つは2007年のナビスコカップ決勝。大橋(正博)の右コーナーキックをゴール正面で合わせたんだけど、ヘディングを手前に強くたたきつけすぎた。マークについていた相手の選手が足を滑らせてフリーになったのに、ボールは大きくワンバウンドしてバーの上を越えてしまった。当時は相当、自分のミスを引きずったのを覚えている。ただ、あの満員の国立競技場の雰囲気を味わえたからこそ、もう一度立ちたいというモチベーションが生まれたことも確かだった。

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 もう一つは、09年7月のアントラーズ戦。あの年は夏以降、ボランチで使ってもらっていたけれど、ビッグゲームであれをやっちゃうか、というくらい酷いバックパスのミスだった。同点に追いつかれて、首位浮上のチャンスまで失った。この2つのプレーは今でも、チームがつかみかけていたタイトルを逃した要因だと思う。心残りというか、いい悪いに関係なく2つのプレーが強烈に印象に残っている。個人的にはあの悔しさを払拭するために、ずっとタイトルにこだわってきたつもり。

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 一昨年は代表にも選んでもらったが、もともと「どうしても入りたい」とか、そういう強い気持ちがあったわけじゃない。何よりもまず、試合に出たい、昇格したいという思いで頑張ってきたサッカー人生だったから。J1で優勝争いをして、タイトルを取るというところまでしかイメージしていなくて…。目の前のことを全力でやり続けた結果、ご褒美をもらったと思っているし、それがいかに大切かという教訓にもなっている。

 思い出深い試合はもちろん、(W杯アジア予選の)カタール戦。たしかファーストタッチでパスミスをしてしまった。試合に入る前から多少の緊張はあったけど、精神的にもいい感じで高揚していたつもりだった。それが、あのパスミスで「これはおかしい。この感覚、オレは知らないよ」というくらい混乱した。地に足がつくまで45分も掛かったし、そんな経験は過去にない。とにかく早く試合が終わって欲しいというか、楽しむ余裕なんて少しもなかった。終わってみれば、最高の経験をしたとことになるんだけれど。

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(多くの困難を乗り越えた12年間を、寺田は「体の限界までプレーできたのは、スポーツ選手として幸せなこと」と表現する。スパイクを脱いだいま思うのは、言い尽くせぬ感謝の気持ちだ)

1 怪我が多かった分、医療スタッフには他の誰よりも感謝しなきゃいけない。
 今季も終盤にきて、このオレの痛みを取るために何でそこまで、というくらい付き合ってくれた。一体どれだけ、自分の時間を犠牲にしてくれたんだろう。休みを削ってまで、リハビリの手段を一緒に考えてくれたから。そうやって助けてくれる人が自分にはいた。だから、周りの人に喜んでもらえるために頑張ろうという気持ちを、ずっとモチベーションにしてきた。

 サポーターだってそう。他のクラブのサポーターは負けたらブーイングするのが当たり前。でも、うちのサポーターはたとえどんなに酷い負け方をしても、必ず声援を送ってくれる。その度に、この人たちを次は喜ばせなきゃという気持ちにさせられた。サポーターからブーイングを受けないためじゃなく、喜んでもらうために頑張るもの。そういうスタンスで、うちの選手とサポーターはいい関係を築いてきたと思っている。

 まだ、お世話になった人への恩返しが終わったとは思っていないし、今後もそのスタンスは変わらない。12年間の現役生活を通して、確信したこともある。

 例えば、目の前に平らな道とデコボコ道が走っていたら、自分は進んで険しい方の道を行こうと思う。絶対に、と言い切れる。それを乗り越えたとき、自分も想像しなかったような素晴らしい舞台があることを、サッカーを通して何度も教えられてきたから。引退後の人生も、そう歩んでいきたいと思っている。本当に、諦めなくて良かった。

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profile
[てらだ・しゅうへい]

空中戦の高さと1対1の局面の強さ、そしてカバーリング能力と、ディフェンスに必要な要素をすべて備えた大型DF。チームに勇気と落ち着きをもたらすディフェンスの達人。2010年12月惜しまれつつ引退。1975年6月23日、神奈川県横須賀市生まれ。189cm/80kg。
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