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ピックアッププレイヤー

2011/vol.13

ピックアッププレイヤー:MF30/大島僚太選手

『恋するソクラテス』という小説をご存知ですか?
数年前大ヒットした『世界の中心で、愛をさけぶ』という小説のことです。
あの作品、作者が提案した原題が『恋するソクラテス』だったそうです。もしあの小説が作者のゴリ押しのまま『恋するソクラテス』のまま世に出ていたとしたら、映画化されるにいたるまでの大ヒットになっていたかな、と出版界ではしばしば話題になります。「素材はいい」と心底惚れ込んでいた編集者が、ちょっとアレンジを加えて成功を収めた例なのでしょう。
 今回のお話の主人公は田中雄大です。記者席から見ていても、胸にドスンと響くようなあの左足のキック。 彼は言わば今「サッカーに恋するソクラテス」ですが、ひょっとしたら、 少しずつサッカーの方から彼に近づいてきているような気がしてならないのです。

01【はじめに】

 誰にも一つや二つ、忘れられない試合というのがある。何年、年十年たっても、その試合のことが昨日のことのように鮮明によみがえってしまう。

 田中雄大はその試合に、2003年1月5日に出会った。14歳。中学2年のときだ。

舞台は第81回全国高校選手権。初出場の野洲高校は、154cmの中井(のちに柏に入団)を中心に、準々決勝にまで駒を進めていた。対戦相手は市立船橋高。増嶋(現・柏)、カレン・ロバート(現・VVV=オランダ)を擁する優勝候補筆頭のチームだった。付け加えるなら小宮山尊信も押しも押されぬ中心選手だった。つまり、スター軍団だった。

 圧倒的に野洲が押し込まれる展開。そして0−0のまま迎えた後半ロスタイム。野洲はCKを獲得する。野洲は迷わずゴール前にボールを蹴り込んだ。試合内容を考えれば、ショートコーナーからの時間稼ぎ、そしてPK戦勝負狙いでいいはずだった。野洲はそれでも大きく蹴った。

 クリアされたボールが前線に残っていた市立船橋DF大久保(現・栃木)に渡る。ボールは小川(現・名古屋)に。最後に野洲ゴールに蹴り込んだのは鈴木(現・栃木)だった。

「『守り切る』より『高校生はすがすがしくてそれでいい』という意見もあるだろう。あはは。確かに無個性よりはずっといい。ただ、野洲は相当に無鉄砲でもあった。80分間、ほぼ無名の選手たちがチーム全体でスター軍団を抑え続けたのだ。残り10何秒まで。あの内容ならショートコーナーからの時間稼ぎくらい許されてもいい、そんな試合だった。

 雄大本人の言葉を借りれば「言葉が出ないくらい感動してしまった」。敗戦を見届けた中2の雄大少年は心に決めた。「野洲でやる」。

 名古屋U-18からも誘いがきていたが、その後の「涙のロッカールーム」をTVで見て、鳥肌が立った。腹積もりは決まった。「野洲で全国優勝するんだ」と。

【地を這うサイドチェンジ】 

 雄大の中学時の所属チームは野洲中学だ。中学の部活があるので。YASUユースには週に数日の練習にしか参加していない。YASUユースでは技術を磨いた。受けた指導は「逆を取れ」。体の小さな雄大少年にはそれが痛快だった。野洲高校に入学を決めてから、中3のときにはたまに練習参加もさせてもらえるようになった。ただしBチームで。のちにともに全国制覇を果たすことになるAチームの先輩は、Bチームの練習が終わった頃に、ぞろぞろと現れたことを覚えている。雄大少年にとって彼らはまばゆいほどのオーラを放っていた。

 野洲高校に入学して最初の大会、インターハイ予選。雄大は渡されたユニフォームを見て目を疑った。背番号3。レギュラーナンバーだった。当時の野洲は4バック、左サイドバックを任された。

 野洲高の山本佳司監督は当時をこう回想する。「正直、総合的に見れば足りなかったし、即戦力ではなかった。ただあの子には左足っていう誰にも負けんストロングポイントがあった。真面目な性格やから、試合前には迷惑かけたらアカンってギコくなってしまうところもあった。でもね、あの子は使っていけば必ず伸びるという何かがあった。『コイツ、学校に住んでるんちゃうか』いうくらい、朝から左足で蹴っていましたからね」

 雄大が2年生の初夏、野洲高校は3バックに変更した。高校サッカーファンにはたまらない、あの「野洲高校伝説の3バック」だ。伝説、いや、無謀とも言う。170cmそこそこの3人が最終ラインに並びたった。

 雄大は、この頃から自分のキックにさらに工夫を加え始めた。ボールの技術革新が進み、ストレートボールを蹴ろうとしても、味方にとって受けづらい「ブレ球」になってしまうのだ。サイドチェンジを送っても、味方が受けられなくては意味がない。「正直、ふんわりしたボールでサイドチェンジするならボールの球質は関係ないんです。でも滞空時間が長いと、相手はその分寄ってくる。先輩たちにコンマ何秒でもいいボールを送るには、って工夫してヒザ下の振りで蹴る反復練習をしました」。山本監督には「ボールは蹴ったら蹴っただけうまくなる」と言われていた。雄大は家に帰っても「キック力をつける方法」といった本を読みながら股関節周囲のトレーニングをしていたという。

 そして高校2年の冬。野洲高は鹿児島実業高を延長戦の末に下し全国優勝を果たした。大会の度に、いまでもハイライト映像が流される、あのゴールだ。ワンタッチパス、ヒールパスを繰り出して決勝点をたたき出した。足をつる選手が続出する中、乾(現・ボーフム)に地を這うようなサイドチェンジを繰り出したのが、雄大だった。しかもドリブルで20mばかり持ち出してからのキックだ。何百回、何千回ボールを蹴っていないと、あの時間帯にあのプレーは、絶対にできない。

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【サッカー広間】

 雄大が3年生の野洲高は選手権ベスト16。前年の壁を越えることができなかった。雄大は悔しさを胸に関西大学へと進学を決めた。

 その関大時代を、雄大は一言、こう振り返る。「きつかった」。
 何がきつい、とかではなく、とにかくさまざま「きつかった」。

 僕の語彙がなくて申し訳ないのだが、雄大が言うのだからそれは本当にきつかったのだと思う。

「サッカーって何? チームって何? そういうことをずっと考えていた4年間でした」。

 高校時代は、サッカーがただ楽しかった。大学に入って周囲で遊んでいる友人らを見ていると「サークルでも楽しくサッカーはできるんちゃうか?」と思ったことも何度もあった。「でも体育会でやっている意味が絶対にあるはずや」それをずっと探していた4年間だった。わいわい楽しくしゃべっていればサッカーは楽しい。もう一つ気付いた。「勝たないとサッカーは楽しくない」。

 大学ではどちらかというと悔しい思い出の方が多い。特に4年生になりチームを引っ張る立場になってから、悔しい思い出が続いたからだ。練習して話し合って練習してケンカして。それでも阪南大に目の前で優勝を決められるなど、悔しい思いをこれでもか、というくらいしてきた。

「チームが一つになるにはどうすればいいのだろう」。考え抜いてきた雄大は大学時代、サッカー部の一員としてある活動をしている。サッカー部でサッカースクールの活動をしていた。名前は「カイザーサッカースクール」。大学がオフの月曜日は夕方から。土日はサッカー部の活動前の早朝から。ボールを追いかけている子どもたちの姿を見ているだけで、心が洗われるような気がしていた。「教えてるんじゃなくて教えてもらったことがたくさんありました」。活動は少しずつ広がり「親御さんたちも体を動かしませんか」と日曜日の活動に父兄も加わった。

 やがて雄大の担当している父兄のチームは「サッカー広間」と言われるようになった。雄大の指導も楽しかったのだろう。広間の方々は自らサッカーチームを立ち上げている。『監督的立場』は田中。胸には「Famigo Espacio」。family(家族)とamigo(友達)の造語、Espacio(空間)を組み合わせたロゴがある。

  そして、大学最後の大会、インカレに出場する前に広間の父兄、そしてスクールの子どもたちからメッセージ付きのTシャツをもらった。このTシャツがHPに記載してある宝物のTシャツだ。

 大学での最高の思い出は最後の大会インカレで優勝できたことだ。悩み抜いて、それでも頑張って、最後の最後に勝った。「サッカーってこんなに楽しいんだ」。4年生、最後の最後になって腹の底からそう思えたのがいかにも田中雄大らしい。

 インカレ後、雄大はTシャツをスクールに持参し、「何でもいいからもう一度メッセージを書き添えてください」とお願いしている。

 そして雄大は、2011年、メッセージでいっぱいのTシャツ、そしてYudaiの名前の入った「Famigo Espacio」のユニフォームを携えて川崎フロンターレの門を叩いた。

02
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【笑顔で帰って】

 川崎の向島建スカウトは、大学3年の時期に雄大に声をかけている。「野洲高校時代からもちろん見ていました。ウチには『優勝』というものを経験している選手が少ないので。勝つために必要なこと、ということが身に染み付いている選手というのはやはり何か違う。関西のJチームからも声がかかっていたのですが、ウチを選んでくれました」

 関西のJチームとは率直に言ってガンバ大阪だ。当時のガンバ大阪は安田理大(フィテッセ=オランダ)の移籍がまことしやかにささやかれていた。同ポジションに小宮山という絶対的な存在がいる川崎との競合。慣れ親しんだ関西、そしてガンバ大阪を選択する余地も雄大には残されていた。

 それでも雄大は川崎を選んだ。なぜか。「頼る人が近くにいると甘えが出る。大学も関東を選びたかったけどご縁がなかった。今度こそ関東でゼロからやりたかった」

01 川崎が生んだ日本代表守護神、川島永嗣(現・リールセ=ベルギー)とどうしてもそのキャリアがかぶるのだ。当時の川島は、大宮で絶対的なレギュラー。そして年代別代表でも定位置を確保していた。そして川島は2004年、楢?正剛のいる名古屋へと移籍を決めたのだ。よく覚えている。当時の名古屋のGKは5人いた。川島は、名古屋で定位置を確保することはなかったが、2年間、決して練習、つまり仕事に手を抜かなかった。ああ、田中雄大は川島に似ている。心からそう思う。

 野洲高時代からのチームメイト、1年先輩にあたる楠神も「待ってるから、来い」と声をかけた1人だ。
「あいつは、昔っからワンステップで蹴れる。野洲高時代は前ばっかり注目されてたけど、前がうまいことできるように蹴り分けてくれていた」

 プロ1年目。メンバー表に名を連ねることは何度もあったが、デビューは8月24日の名古屋戦だった。1−2で敗れはしたが、ようやくプロサッカー選手としての一歩目を踏み出した。

「負けてしまったんですけど、ホームでデビューできたことがよかったです。緊張もしましたけど、バスに乗っている時から大声援で迎えていただいて。あの声援で緊張がすごくほどけました。『笑顔で帰っていただきたい』と思いました。

 そうそう、雄大には心底惚れ込んでいる左足の使い手が川崎にはいる。毎日強シュートを愛弟子に蹴り込むGKコーチのイッカだ。イッカは雄大のことをこう語る。「雄大のキックは、本当に素晴らしい。若いころのロベルト・カルロスを見るようだ。ロベルト・カルロスも体が小さいが時速130km以上のシュートを打っていたんだ。雄大は、インサイド、インステップはもちろん、アウトで巻く強いボールも蹴ることができる。アウトのキックは、普段の練習、トレーニングを怠っていては絶対にできない。もっともっと練習すれば日本代表にだってなれる素質がある」。

 球質こそ違うが、同じ左足のキックで頭角を現しつつある福森晃斗は雄大のキックからいい物を取り入れようとしている選手の一人だ。

「雄大さんのキックは、本当に自分の中でも尊敬できる部分。(自分がCBとして)隣でプレーしているときには、雄大さんに預ければくさびなり、サイドチェンジなりで攻撃の起点になってくれるという安心感があります。自分もキックが持ち味ですが、FKやCKではカーブ性のボールしか蹴ることができない。蹴り方を近くで見ながら研究しています」

 そして、間近でその身に雄大のキックを受ける相澤貴志はこう証言する。
「そう言えば、体格に恵まれている訳ではないのにあそこまでのキックを蹴ることができる選手、というのはなかなかいないですね。パワーで言えば、テセやマルコン級のものを持っていると思う。日本人では同じような左足で同じ球質を蹴れるのは黒津くらいかなという気がします。左足、というのは技術にしろタイミングにしろ独特なんです。いい武器を持っていますよね」

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 チームメイトが認める通り、雄大の存在感は試合を経るごとに増している。8月28日、柏戦で先制点の起点となったFK。9月11日、神戸戦、約40mから直接狙ったFK。

 雄大は今の気持ちをこう語る。
「ワールドカップに出たいです。そのために川崎でやらなきゃいけないことがまだまだたくさん僕にはあります」

 そう、まだまだ始まったばかりなのだ。練習前後に欠かさないピッチへのお辞儀も。今までやってきたのなら、そうすべきなのだ。彼がずっとそうしてきたことは、野洲高の恩師、山本監督も、関大の恩師、島岡健太監督も知っている。両監督は口を揃えて「お辞儀をしなさいと言ったことはない」と言う。これは、田中雄大にとって絶対に欠かせないルーティーンなのだと思う。

 関大の恩師、島岡監督はこう語る。
「毎日、毎日、誰に見ていられるわけでもなくピッチにお辞儀して。それでいて最後まで練習して。『早く帰ったほうがええのにな』と思ったことが何度もあります。川崎の試合結果や田中が出ているかはインターネットですぐ分かる。試合や練習を毎日見られない今は『長いボール蹴ってるか? 左足で蹴っとるか?』と聞きたい。お前は、それ見てもらってナンボだぞ、と」

おわりに

 そうそう、余談だがホームページにあるゲンカツギ。「手の平に文字を書く」。今はほとんどやっていないそうだ。ただ、連敗を止めた山形戦、スタッフによると、田中は手の平に文字を書いたという。右に「粘り強く楽しく」、左に「気合」。
「元気出してやってないとサッカーの神様じゃないですけど逃げて行くと思う。僕は麻生グラウンドに見にきてくださっている方にも毎日元気を少しでも、と思っているし、僕らも毎日元気をいただいているんですから」。田中はそう言った。サッカーの神頼みではいけない。でも手の平の文字を例に引くまでもなく、見ているのは、サッカーの神様だけじゃない。
 三上JFC、野洲中、YASUユース、野洲高、関大の恩師、仲間。カイザーサッカースクールの子どもたち、Famigo espacioのお父さん、お母さん。そして川崎のスタッフ、チームメイト、川崎サポーター。
 いまは『サッカーにひたすら恋するソクラテス』でいいじゃない、と思う。『いつか日本の中心で、雄大が叫ぶ』、そんなふうに雄大を見ている人は、この23年間彼が積み上げてきたサッカー人生の中で、もう、数えきれないくらいに増えている。

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[たなか・ゆうだい]

関西大学サッカー界屈指の左サイドバックがフロンターレに加入。左足を駆使したピンポイントクロスや大きなサイドチェンジが武器。90分間献身的にライン際を上下動する豊富なスタミナも併せ持つ。入団1年目から即戦力としての期待がかかる。1988年8月8日/滋賀県野洲市生まれ。 >詳細プロフィール

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