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ピックアッププレイヤー

2012/vol.01

ピックアッププレイヤー:山瀬功治

フロンターレに加入し、2シーズン目を迎える山瀬功治。2011年はシーズン序盤からチームにフィットし、
球際のプレーからしぶとく抜け出すドリブル、そしてシュートに対する高い意識で攻撃陣を牽引。
その一方で、チームが勝てない時期に自分のよさを発揮できず、苦しんだ時期もあった。ときに繊細、
ときに大胆。まるでチームの勢いを映す鏡のような山瀬のプレースタイルは、
一体どのようにして培われていったのだろうか。

01新天地でプレーする喜び、そして苦悩

 2011年、山瀬は4つ目のプロのクラブである川崎フロンターレにやってきた。1人のサッカー選手として、1人の人間としても大きな変化があった年だった。チームメイトが変わり、生活環境も変わった。山瀬自身のパフォーマンスも、絶好調のときもあればうまくいかない時期もあった。チーム全体として、そして個人的にも激動の1年だったと2011年をふり返る。

「チームに入った当初は何も考えずに、純粋に楽しみながらサッカーをやっていました。実際にみんなとサッカーをやるのがすごく楽しかったし、自分のプレースタイルやリズムもチームに合っていたと思います。結果も出ていましたし。でも夏場の連戦で怪我人が出てチームが勝てなくなっていったときに、僕自身もコンディションを維持するのがきつくなって少しずつズレが出てきて、いつの間にかサッカーを楽しめなくなっていました。チームが勝てないとなると、『どうにかしなきゃ』といろいろ考えるようになるじゃないですか。体の疲労が抜けてきた頃、今度は気持ちの部分で楽しんでサッカーをやれていなかった自分がいました」

 その根本をたどっていくと、移籍1年目という理由に突き当たる。クラブが自分にオファーをかけてくれたのだから、当然戦力として計算できる選手にならなくちゃいけない。チームメイトも助っ人として自分のことを見ている。サポーターも自分がどれだけ活躍するのかを期待している。目に見えない重い空気が、山瀬のプレーにブレーキをかけてしまっていた。

「せっかく呼んでもらったのに、山瀬は期待外れと思われているんじゃ話にならない。チーム状態がよくないなか、周りの期待に応えなきゃいけないと考えるようになってきて、自分で自分を追い込んでしまったと思います。僕のなかで移籍してきた選手はつねにスタメンで出て、途中交代なんかしちゃダメだという気持ちがありました。だから途中交代させられる自分に対してすごくイライラしていました。でも最近になって、ようやくいい意味で肩の力が抜けてきて、自分1人で背負い込まずにチーム全員でやらなきゃと思えるようになりました。余計なことを考えずに純粋にサッカーを楽しむ。そういう状態でいることが、一番自分らしいプレーができるんじゃないかなって。練習からできることを全力でやって、それを試合にぶつける。ダメならそれが実力なんだと。また次、試合でがんばるしかないと考えられるようになってきましたね」

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「プロになりたい」ではなく「プロになる」と思っていた

 サッカー少年の誰もが「プロになりたい」という漠然とした夢を抱く。

 だが、山瀬は子どもの頃から「プロを意識する」のではなく、「自分はプロになるんだろうな」と思っていたそうだ。自信があったわけではなく、何か根拠があったわけでもない。ただ山瀬の頭のなかには、大人になってもサッカーを続けていくというビジョンがすでにできあがっていた。

「いま思うとかなり傲慢な子どもですよね。でも目的を達成できる人って、そういった思い込みも必要なんじゃないかなって。年を重ねていくと周りが見えてきて、いろんな常識が身につくじゃないですか。そして物事の判断ができるようになる。でも賢くなりすぎるがゆえに自分で自分を分析して、『できないかもしれない』と可能性を狭めてしまう。『なれないかもしれない』じゃなくて『なれるのが当たり前』ぐらいに思っている方が、実際に目標を達成できるんじゃないかなと。もちろん道のりは大変かもしれないけど、『まぁ、なんとかなるでしょ』ぐらいの楽観的な部分も必要だと思います」

 自分自身を「繊細でネガティブな性格」と話す山瀬だが、とことん追い込まれると殻を破って開き直れるという。プロになって12年。2012年で13年目を迎える。二度にわたって全十字靱帯を断裂する大怪我を負い、壁にぶち当たることもあった。だが悩み、苦しみながらも彼の根幹には「何とかなるだろう」という確信めいた思いがあった。

「自分で勝手に悪い方向に考えたり、不安に思ったりというのは昔からで、指導者の人からは『お前は考えすぎる』とよくいわれてきました。でも本質的にはなんとかなるかなってのがあるんですよね。本当は普段からそういう感覚でいればいいんですけど、これがなかなかできないんですよねえ。でも、あまり考えなさすぎるのもダメだと思うし、ちょうどいいバランスなのかなって気もします。いろいろなことで一喜一憂するからこそ、最後の最後で『大丈夫、何とかなる』って前向きになれるのかなって」

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 山瀬の原点は出身地の北海道札幌市。バイアスロンでサラエボ冬季五輪に出場し、長野五輪では日本代表コーチを務めた父の影響があったのだろうか。体操、水泳、野球、アイスホッケー、クロスカントリーなど、子どもの頃からスポーツに親しんだ。そのなかでも一番長続きし、いまでは生活の一部となったのがサッカーだった。

「サッカーをはじめたのは5歳の頃と親が話してましたけど、じつはあまり憶えていないんです。気づいたらボールを蹴っていたので。物心がついた頃にはすでにサッカー中心の生活だったし、やめようと思ったことはいままでも一度もありません。僕が生まれ育ったところはサッカーが盛んな地域ではなかったんですが、最初に入ったサッカークラブが自分に合ってたんだと思います。そこに所属していたからこそ、ブラジルに留学することができたので」

 もうひとつのルーツはブラジル。山瀬は小学校を卒業してすぐに、サンパウロ州サンベルナルドに2年半ほどサッカー留学をしている。いまでは珍しくなくなった海外留学だが、中学1年生の少年が地球の反対側のブラジルでサッカーのために長期間生活するのは非常に珍しいことだった。

「クラブの校長先生が進めてくれたんですが、正直どれぐらい大変なことかわからなかったんですよね。北海道に住んでたら関東にいくとき飛行機を使うじゃないですか。それと同じ感覚で、ブラジルが地球の裏側と知ってても、そこに1人でいくことがどれだけ大変なのか実感がわかなかった。僕らの世代はやっぱりキャプテン翼ですから、それこそ大空翼がブラジル留学するみたいな感じで、あまり深く考えていなかったんですよね。いまブラジルで暮らせといわれたら、ちょっと考えちゃいますけど」

 留学先には同じようにサッカーでブラジルにやってきた日本人の仲間たちがいたが、山瀬は一番年下。留学生の受け入れ先には日本人の寮長がいたが、食事は生活スタイルなど、すべてがブラジル流だった。小学校を卒業して間もない12歳の少年が、親元を離れて異国の地で生活する。さぞ苦労も多かったことだろう。

「もちろん大変なことも多かったですけど、いまとなってはすごくよかったと思います。サッカーだけじゃなくて人間的にもかなり成長できましたから。もちろん日本と比べたら不便ですけど、いったらいったで住めば都というか。人が成長していく過程で、親元を離れて自分で考えて行動するのはいつか経験することじゃないですか。生活のリズムやお金の管理とか、そういったことを早いタイミングで経験できたのは、よかったんじゃないかなって」

01 サッカー留学といっても、練習時間はそれほど長くはない。練習以外の時間は基本的にフリーであり、そこで何をするかは自分で決める。自主練習する者もいれば語学の勉強をする者もいるが、何もしなくても時間はすぎてゆく。ほとんどが10代後半から20代という留学生のなかで、山瀬少年は目的を達成するためのプロセス、そして自主性を学んだ。

「何かを成し遂げるためには自分からアクションを起こさなきゃいけないわけで、向こうからはやってこない。努力をしていれば必ず夢や目標が叶うといわれたらそれは別問題ですけど、そのために何をすればいいのかを考えるようになりました。周りの留学生はほとんど大人だったので、話を聞くだけでもためになりましたし、向こうで暮らす環境のなかで目標に向かうための術が自然と身についたと思います」

 山瀬本人としては、逆にブラジルから日本に戻ってきた中学3年生の半年間の方が苦労したそうだ。それはサッカーというよりは、山瀬が置かれてきた環境、そして本人の性格的な部分も大きかった。中学校の多感な時期をブラジルですごし、周りはほとんどが年上の先輩たち。山瀬自身も「性格的におっさん臭かった」と語るように、ブラジル帰りの大人びた中学生がチームに溶け込むには時間が短すぎたのかもしれない。

「いい意味でも悪い意味でも調子に乗っていたというか、ちょっと大人ぶってたかなって思います。周りからは『ブラジル帰りのあいつはどこまでやるんだ』みたいに見られていたし、僕は僕で『そう見られてるんだからやらなきゃ』みたいな感じでしたから。だからある意味、ブラジル時代よりもやりづらかったかもしれないですね」

 日本に帰ってきた当初はなかなか調子が上がらなかったが、小学校時代からの先輩がいた札幌の古豪、北海高校に練習参加し、推薦入学にこぎつけることができた。いまの山瀬からすれば信じられないが、当時彼に声をかけた高校サッカー部はひとつもなかったという。高校に入ってからは全員がいちからのスタートとなり、山瀬は1年生からメンバー入りするなど、その名前は道内のサッカー界で徐々に知られるようになっていった。

「当時、北海道全体で見ると室蘭大谷高校が抜けていて、その下で何校かが争っている感じでした。でも自分としては、北海高校にいってよかったし、ベストな選択だったと思います。一生懸命サッカーをやるのと同じくらい人間性を大事にしていて、礼儀、挨拶、最低限の上下関係とか、伝統的にマナーを重んじる高校だったんですね。サッカーで一番になるために厳しい練習をして、それとともに人間形成もできたのは僕にとってすごく大きな意味があったと思います」

 高校3年生の頃にコンサドーレ札幌の練習に参加。特別指定選手となり、その流れからプロの門を叩く。関東の大学に進学する選択肢もあったが「大学を卒業したときに声がかかるかどうかわからない。やらずに後悔するぐらいならやって後悔した方がいい」と山瀬は考え、札幌に入団。ただ高校時代の成績は特進クラスを除けば学年で1番という優秀な生徒だった山瀬は、地元の北海学園大学に進学し、二足のわらじを履く形でプロ生活をスタートさせた。

「好きなことをメインにして生活を送れている人が少ないなか、自分はそれを職業にできて、レベルアップさせることに没頭することができる。すごく幸せなことでした。もちろん好きだからこその悩みもありましたけど、サッカーから離れようと思ったことはないです。ただ僕自身、実力的には道内ではそれなりという自負はありましたけど、全国的に見ればまだまだでした。もし当時の全国の高校3年生全員で順位づけをしたとしたら、絶対上位には入ってこないし、上から選んでいくとしたらプロにはなれていません。それぐらいの力しかなかったと思います。ただ僕の場合、札幌にコンサドーレがあって、そこで練習参加させてもらえる機会があったからプロになれました。いま思えば実力だけじゃなくて、運や流れみたいなものもあったんじゃないかなと思います」

 プロ入り2年目あたりから自分のスタイルをある程度確立し、プロの世界でやっていける確信を得ることができた。試合にも使ってもらい、その年の新人王を獲得。プロとしてのキャリアを順調に積み重ねていった。

「チャンスを手にできるかどうかは本人の努力次第。とくに若い選手はそうですけど、普段僕らが練習したり努力したりすることは、わずかなチャンスをつかみ取るためのものなんです。プロになったからといって試合に出られるかどうかはわからない。途中出場や何やらでちょっとずつタイミングがあって、そこである程度自分のプレーができるようになってチャンスをつかんでいくんです」

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才能と努力で培われたサッカー観

 そのチャンスを見事につかんだ山瀬はプロ入り4年目の2003年、ビッグクラブの浦和レッズへの移籍を果たす。しかし、当時の山瀬は夏場に右足の前十字靱帯を断裂しており、浦和での1年目はリハビリ状態からのスタートだった。また2005年に浦和から横浜F・マリノスに移籍するときにも、左足の前十字靱帯を断裂している。思い返せば大きな怪我が山瀬のサッカー人生の転機になっていた。

「最初にやったときは、やっぱり不安はありました。まず怪我を治すことからはじめなきゃいけなかったですから。当時は前十字を切って引退する選手もいましたけど、怪我のことに関してはあまり落ち込まなかったですね。親とか周りの人たちは心配していましたけど、当の本人はさばさばしたものでした。落ち込んで治るならいいけどそうじゃないし、にっちもさっちもいかないんだから治すしかないやって。二度目の怪我のときはさすがに『またかよ』って思いましたけど。でも、やってしまったものしょうがない。ただ右足をやって治ったのを経験しているんで、最初よりも落ち着いていましたね。悩んでも靱帯はくっつくわけではないですから。その日、病院で診察受けてから家に帰ってきて、僕はふさぎ込むとかじゃなくてゲームとかしてましたから。逆に妻は落ち込んで泣いていましたけど。ただ手術は大変でした。術後がめちゃくちゃ痛いんです。1日2日は寝られません。あれはもうやりたくないですよね」

 膝間接のなかにある前十字靱帯といえば、スポーツ選手にとって生命線だ。最近は医療の進歩によりプロに復帰できることが多くなったが、怪我をする前としたあとで体力面やプレースタイルに変化はなかったのだろうか。

01「ボールタッチとかフィーリングはあまり気にならなかったですけど、体のキレだとかはなかなか厳しかったですね。リハビリのときは体を休めながら長い時間をかけてフィジカルを上げていくので、復帰したての頃は体が軽いんですよ。ただ試合をこなしていくと1ヶ月後ぐらいに反動がきて、一気に動が体が重くなりました。怪我をしたときよりも頭のイメージどおりに体が動かない方が落ち込みましたね」

 怪我もあった。調子が上がらずに苦しんだ時期もあった。だが紆余曲折がありながらも、10年を超えて一線級でプレーする息の長い選手となった。だが山瀬本人は「自分は決してうまい選手じゃない」と話す。はたから見れば天才的なセンスを持った選手という印象だが、つねに努力を怠らないサッカーへの取り組みが現在の山瀬のプレーの基礎を築き上げている。

「自分がうまい選手だと思ったことはないです。ただサッカーをやる上で、相手が嫌がるようなプレーやポジショニング、勝負をしかけるとか、自分のプレースタイルを確立できたからここまでやってこられたというのはありますね。あとはもう練習の積み重ねだけ。他のことは自信を持っていえないですけど、ことサッカーに関してはつねに努力してきたといいきれます。自分にとって何が必要なのか、どこを伸ばしていけばいいのかを考えながら練習をやってきました。このふたつが僕のサッカー選手としての根幹になっています」

 練習では素晴らしいテクニックを披露する選手が、いざ実戦になると力を発揮できないというパターンは多い。だが山瀬は練習のために練習をするのではなく、つねに実戦を想定している。確かに彼のドリブルは美しく抜くというよりは、相手を引き連れながらわずかなスキを突いたり、相手の重心の逆をとるといった、より実戦的なスタイルのように見える。

「感覚的にやっているというか、あまり考えてやっているわけではないんですけど、結局は抜ければいいでしょみたいな感じです。言葉もそうですけど、文法を勉強したり発音がどうだといっても、ジェスチャー混じりで通じればそれでいいじゃないですか。頭で考えてテストで点を取るより、体が自然に動いてコミュニケーションをとれる方がよっぽどいい。それが僕の武器といったら、そうなのかもしれません」

 さらにここ数年は、技術以外の部分の大切さも感じるようになったと山瀬は話す。サッカーがうまくなければプロにはなれないが、エリート集団のなかで活躍を続けていくためには人間性も重要になってくる。プロサッカー選手である前に、誰もが1人の人間であると考えるようになったそうだ。

「プロだからサッカーがうまいのは当然で、ピッチの上での武器が必要ですけど、じゃあそれだけできればいいのかというと、それだけじゃないのかなって。サッカーはチームスポーツだし、ピッチ外の部分でも人と人のつながりが大事だと思うんですね。そういう僕も人づき合いがうまい方じゃないですけど、下手なりに人間関係が大切ということはわかっているつもりです。これはどんな業界に通じることだと思いますけど、どれだけサッカーがうまい奴でも、人間的に問題があったら生き残っていくのは難しい。調子がいいときはいいですけど、壁にぶつかったりアクシデントがあったときにみんな離れていく。でも、そういった部分を大切にしていれば苦しいときに手を差し伸べてくれるし、そういう人には手を差し伸べたくなる。シンプルですけど、やっぱり最終的には人となりなのかなって感じています」

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自分らしいプレーをする、それしかない

 札幌、浦和、横浜。どのチームでも中心選手として活躍した山瀬だが、経験を重ねるごとにプレースタイルも変化していった。だがフロンターレでのプレーを見てもわかるように、落ち着いた大人のプレーをするようになったわけではなく、むしろ現在に近づくほどに個の力で崩す、それこそ少年時代に培った繊細なドリブルテクニックや豪快なシュートを見せる機会が多くなったのではないだろうか。

「コンサのときのエメ(エメルソン)、レッズのときの達也(田中達也)とか、あの頃は個人でしかけられるスペシャリストがいたので、むしろそういった選手がしかけたあとのスペースに入り込んでいくのが得意でした。でもマリノスのときはチームがもともと組織的なスタイルだったので、自然と自分からしかけるように変化した気がします。だから年齢とプレースタイルはあんまり関係ないのかなって。いまの方がブラジルっぽいといえばそうかもしれません。小学校のクラブチームでブラジル人コーチを呼んだりしていましたし、北海道では冬場はグラウンドが使えないので、ずっと体育館でフットサルをやっていましたしね。もちろん決定的なパスを出す面白さはありますけど、僕が何に楽しさを見出すかというと、相手が嫌がるプレーや危険なプレーができたとき。つまり相手をかわしてシュートを打てたときです。まぁ今年はシュートを打ちましたよね。入るか入らないかは別として、ですけど」

 30歳を超え、年齢とともにやらなければいけない役割もある。これまでの経験を後輩に伝えることも必要かもしれない。だがピッチの上でサッカーをプレーする上での選択肢は、年齢を考える必要なく若々しいままでいい。それでこそ山瀬の持ち味が生き、その大胆なプレーにスタジアムの観衆は歓声を上げる。

「後輩たちにいじられて『いや、まだ気持ちは10代だよ』って冗談でいうんですけど、あながち間違いでもないんですよ。見ている人もそうですけど、自分自身楽しいサッカーをやりたいという思いがあるので。そうじゃないとみんなに伝わらないし、僕がいまのプレーを辞めてボールをさばくだけをしても楽しくないと思いますしね。もちろんチームとしての約束事をやるのは当たり前で、変化やアジャストすることもありますけど、本質の部分はどっしり構えてやりたいですよね」

 最後に、山瀬は「本当にフロンターレにきてよかった」と話してくれた。

「ピッチだけではなくてそれ以外の部分でも、サポーターを含めたフロンターレというファミリーができたことを実感することができました。だからこそ、この成績が申し訳ないという気持ちで一杯です。ましてや自分が移籍してきた年にこうなってしまったわけですから。でもこれは僕一人だけで背負い込めるものじゃないと思うし、2012年は自分自身で追い込まずに、試合を観てくれる人たちが楽しんでくれるようなプレーをしたいです。
 僕に何ができるかといえば、結局のところ自分らしいプレーをすることしかない。それが結果的にはチームに反映されると思うので、チームとしての約束事は守りつつ、自分の感性を大事にしてきたいです。『山瀬選手のプレーを見ていると面白い』といってくれる1人でもいる限り、山瀬功治らしいプレーをどんどん出していきたいと思います」

profile
[やませ・こうじ]

切れ味鋭いドリブル突破と高い得点能力を誇るJ有数の攻撃的MF。過去に大怪我で長期離脱を余儀なくされた時期もあったが、直線的にゴールに向かう積極性と爆発力は衰え知らず。1981年9月22日/北海道札幌市生まれ。
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