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SEASON 2013 / 
vol.03

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そこにある覚悟。

MF19/Moriya,Kentaro

テキスト/いしかわごう 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Ishikawa, Go photo by Ohori,Suguru (Official)

2012年6月23日(土)、等々力競技場で開催された川崎フロンターレ対横浜F・マリノス戦。森谷賢太郎は横浜F・マリノスの一員としてメンバー入りしていた。反対側のベンチには、筑波大学時代の恩師である風間八宏の姿があった──

思いがけない再会

「特別な感情が湧いてこなかった、というと嘘になります。でもそのときはマリノスの一員でしたし、このスタイルのなかで自分がどう生きるかも少しずつ明確になってきた時期でした。風間さんのサッカーにどうすれば勝てるのかをイメージしていましたし、出番が巡ってきたら何かやってやろうと思ってました」

 スタメンではなく、ベンチからスタートした試合だった。
ところが、”思わぬ形”ですぐに出番がやってくる。キックオフ直後、中村俊輔がボールを奪いにいった際、芝に足を取られて転倒し、足首を痛めてしまったのだ。ベンチに腰掛けたばかりの森谷に準備する声がかかった。

「自分と中町くん(中町公祐選手)が『アップしろ』と言われたんです。たぶん呼ばれるのは中町くんだろうと思っていたら自分でした」

 結局、中村俊輔はプレー続行が不可能となった。前半開始わずか6分、森谷賢太郎はタッチラインをまたぎ、ピッチに足を踏み入れた。2012シーズンのリーグ戦初出場、それが恩師との対戦という巡り合わせだった。

 落ち着いて試合に入ったつもりだったが、風間監督の下でパスサッカーに磨きをかけ始めたフロンターレに翻弄され、ボールを追いかける局面ばかりが続いた。まるで持ち味が出せないまま時間が過ぎていく。

「前半は本当に守備に追われていましたね。ボールを取りにいこうとしたら外されてしまい、マリノス側からしたら、どこでボールを取ればいいのか明確にできなかった。大学の時、相手はこんなに辛かったのかなと。ボールを取っても攻撃がうまくいかなくて、やっていても、つらいイメージしかなかったです」

 さしたる見せ場も作れぬまま前半を終えて、ロッカールームに戻った。ハーフタイムに、監督がパスの出所に対する修正を施し、そこで立て直しを図った。後半になるとカウンターが決まる場面もあり、森谷自身もゴール前に顔を出して、2度のシュートチャンスが巡ってきている。だがゴールネットは揺らせなかった。

 試合は両者決定機を決めきれず、スコアレスドローで終わった。森谷はというと、後半途中に足をつってしまい、途中出場でありながら79分に途中交代となって、ピッチを退いていた。

「なさけなかったですね。練習試合では90分出ていたのですが、公式戦はやはり疲労の溜まり方が違っていた。もちろん、フロンターレにボールを握られて、こちらが走らされた影響もありました。久しぶりのチャンスだったのに…あまりに悔しくて次の日からシャトラン(シャトルラン)を始めましたよ」

 結局、この年の公式戦出場記録は、リーグ戦4試合とカップ戦2試合。合計出場時間202分という数字で、森谷賢太郎の2012年シーズンは幕を閉じている。

FW18 PATRIC Anderson Patric Aguiar Oliveira パトリック

兄の背中を追いかけて

 サッカーを始めたのは、4歳年上の兄がきっかけだ。地元の少年団、そして横浜F・マリノスのサッカースクールに通う兄についていき、物心つくころにはサッカーボールを蹴っていた。

「自分が行くところにはいつも一緒についてくるという感じでしたね。朝の練習にも当たり前のようについてきていたし、自分がしている練習の真似もよくしていたかな」

 そう明かしてくれたのは、森谷賢太郎の兄・周平さんである。弟のサッカー人生は、この兄の背中を追いかけて始まり、そしてともに歩んできたといっても過言ではないのかもしれない。周平さんは弟との思い出を懐かしそうに話してくれた。

「家の中でもボールを蹴っていたので、よくふすまが破けていましたね。押し入れをゴールに見立てて、兄弟で1対1もしてました。外では壁当ての練習を一人でよくしていた気がします。いろんな種類のキックを覚えるのが面白かったみたいです。止める、蹴るという動作は、他の子どもよりはうまかったのではないでしょうか」

 実は周平さんは、横浜F・マリノスの下部組織を経て、高校時代は川崎フロンターレユースに所属していたプレイヤーだった。大学卒業後には、フロンターレの育成普及部コーチをつとめていた経歴の持ち主でもある。現在は高校教師として部活でサッカーを教えているが、もともとは川崎フロンターレと馴染み深い人物だ。

「自分がユースの3年間、そしてコーチとして4年間、フロンターレには7年間お世話になりました。僕らがユースのときは等々力に1500人しかお客さんが入らなかったんですよ(苦笑)。今は等々力に20000人ぐらい入る。幸せですよね」

 こういった背景もあって、今年の2月にはフロンターレのクラブハウスや事務所に足を運び、武田社長やクラブスタッフに「弟をよろしくお願いします」と挨拶して回ったそうである。「世話焼きなんですよ」と弟は恥ずかしがっていたが、なんとも義理堅く、熱い兄ではないか。

 そんな兄から見て、少年時代の弟はどんな性格だったのだろうか。周平さんは「賢い弟でしたよ」と苦笑いして、その理由を続けた。

「僕が父親に怒られている姿をよく見ていたので、そうしないように行動していたと思います(笑)。父がサッカー少年団のコーチをしていて厳しかったんです。普段からもの静かであまり感情を出したりする子ではなかったですね。兄弟ゲンカもほとんどしなかったです」

 実際、サッカーボールさえあれば、あまり手のかからない子どもだったそうである。ボールをプレゼントされると、夜はそれを大事に抱えたまま眠り、初めてスパイクを買ってもらった日は、それを履いたまま布団に入るような子どもだった。欲しいおもちゃをねだって親を困らせることもなかったようだ。

 サッカーをするときは、4歳年上の兄についていき、その友達の輪に入って遊ぶことが日常だった。子供の頃の4歳差と言えば、体格的には相当のハンデがあるもので、そこには少年なりの工夫も必要となってくるはずだ。森谷はそこで「止める」、「蹴る」という足元の技術に磨きをかけて居場所を見いだしていった。

「まわりはみんな身体が大きいし、自分は小さい。そのなかでどうやるのか。それを通じて基本技術がうまくなっていったのかもしれませんね。マリノスでもいろんなコーチから教わったし、基礎技術が大事だとずっと言われていました。練習前にコーチともよく勝負してましたよ。負けると悔しくて泣いてましたけど」

 子どもの頃のアイドルは、イタリアの元祖ファンタジスタであるロベルト・バッジォ。ポジションはずっと中盤で、ゴールよりもアシストに喜びを見いだすパサーだった。そこは現在の森谷賢太郎のスタイルにも通じるところがある。

「小学生のときは点も取っていましたけど、アシストするほうが好きでした。奇麗にパスが通ったときが心地よかったんです」

 名門・横浜F・マリノスの下部組織育ち。それもプライマリー、ジュニアユース、ユースと進み続けた”生粋の生え抜き”である。端から見ると順調なサッカー人生を歩んできたエリートのようにも思える。しかしユースからトップには昇格できなかった。さぞかしショックだったと思うのだが、それほどのショックはなかったと淡々とした口調で明かす。

「トップには上がれないだろうな、と思っていましたから。というのも、プライマリーからズバ抜けてうまいやつが一人いたんです。幸田一亮という選手なのですが、自分はいつもその2番目、3番目でしたから。でも彼がいたから、負けていられないと思って頑張ってきた部分もありました。僕は自分のことを巧いと思ったことは一度もないんです。もともと一人で打開できるタイプではなかったし、それは今もそう。だから大学に行こう、と素直に思ってました」

コンバートとターニングポイント

FW18 PATRIC Anderson Patric Aguiar Oliveira パトリック

 筑波大学に進学した森谷は、一年生のときから試合に出ていたが、チームとしての成績は芳しくなかった。だが二年生のときにサッカー人生最大の転機が訪れる。そう、監督としてやって来た風間八宏との出会いである。

「前日に『風間八宏が監督になる』という噂が流れてきて、みんながザワつきました(笑)。当日は、本当に来たよという感じでしたね」

 有名なサッカー解説者であったOBの監督就任に、みなが半信半疑だったというのが大学生らしい。当時Aチームには約40名が所属しており、2試合に分けて紅白戦を実施した。そしてその翌日の練習で森谷は風間監督からサイドバックへのコンバートを言い渡されている。もちろん、自身にとっては初めてのポジションである。

「正直、できないと思いました。サイドバックというと、1対1で負けないことだったり、しっかりとした守備、そしてゴール前に上がってクロスをする仕事のイメージでしたから。でも風間監督は『やれるだろ』の一言だけ。だったら、自分のプレーでやれば良いのかな、と。それでちょっと気持ちが楽になりました」

 風間監督が選手のポジションをコンバートすることは何ら珍しいことではない。Jリーグ公式戦で初めて指揮を執った昨年の広島戦でボランチの稲本潤一をセンターバックに抜擢して周囲を驚かせたのは記憶にも新しいところだろう。まったくの未経験だったサイドバックを命じられた森谷も、次第にその意図がわかってきたという。

「風間監督は、『わからないやつがいたほうが思い切ってやれるんだ』と言っていました。あるとき、フォワードの選手をセンターバックとして起用したことがあったんです。全てにおいてプレーが怖いことで、逆に大胆にできることもある。もしそれで失敗しても、ダメだったんだと反省すれば良い。だから自分も思い切ってやってました。守備でやられても、その分、攻撃で崩せば良いと思ってプレーしていました」

 この出会いとポジションのコンバートが、その後のターニングポイントになったことは兄・周平さんも同意する。

「賢太郎の人生が変わったのは風間さんに出会ってからだと思います。大学二年生のときにサイドバックになったのですが、守備もできない、身体も強くないアイツに一体何を求めているのか。そのときは僕自身も指導者だったのですが、正直、風間さんの意図がわからなかったんです。ただ『これからはサイドバックがゲームを作っていくんだ』ということをおっしゃっていて、なるほどと。そしていろいろ聞いているうちに僕のサッカー観もずいぶん変わりました(笑)。そのぐらい僕も指導者として影響を受けましたね」

 風間監督は、慣れないサイドバックに取り組む森谷をとことん試合で起用し続けた。ケガで離脱していた時期もあったが、プレーできる状態であれば、何があっても先発で起用し続けたという。例えば、その年のインカレ決勝当日、森谷は体調を崩し高熱があったにもかかわらず、風間監督は先発で起用したというエピソードまであるぐらいだ。この試合は森谷のサッカー人生で過去一番ともいえる散々な出来だったが、生涯忘れられない試合となった。この出来事をきっかけに、自分の中で「もう一回本気でやってプロにいこう」という覚悟と責任感がより強くなったからである。

「意識が変わりましたね。あれから自分はもっとできるんじゃないかと本気で練習に打ち込み始めました。生活もサッカー中心になったし、そこから自分でも成長できたと実感できるようにもなりました」

 意識が変われば行動が変わる。まずプレーに対する自信がついてきた。ボールを扱いながらどう動くかを体得すると、簡単にはボールを奪われなくなり、自分のイメージ通りにボールが動くようになった。大学リーグだけではなく、Jリーグのチームと練習試合をしても自分のプレーができるようになってきた。三年生になってからはポジションを中盤に戻し、ボールをたくさん触るポジションになってきたことで、よりサッカーが楽しくなってきた。

 実は森谷が三年生のときに入学してきたのが、現在のチームメートである山越享太郎である。そして山越も大学時代に風間監督からサイドバックにコンバートされた選手だ。それまではボランチをつとめていたという。山越は先輩である森谷のプレーをどう見ていたのだろうか。

「ボランチとしてのタイプが違いましたからね。賢くんは前を狙って縦パスを出すタイプで、自分はシンプルにボールをさばくタイプだったんです。でも風間監督からは『前に出すのではなく、横に出すだけなら誰でもできる。散らすタイプなんていらない』と言われました(笑)。賢くんはボールタッチを多くしてリズムを掴むタイプですね。自分がサイドバックをやっているときは、ボランチの賢くんが近くに寄ってボールを受けてくれるので、プレーもやりやすかったです」

 なお余談だが、森谷の山越評も面白かったので紹介しておく。
「覚えているのが、大臣杯(総理大臣杯関東代表決定戦)の決勝ですね。前半始まってすぐ享太郎がもの凄いミドルを決めたんですよ。本当にエグいシュートで、まわりもビックリしたんです。でもその後、あまりにもプレーにミスが多すぎて、前半途中で監督に交代させられた(笑)。試合は享太郎のそのゴールのおかげで勝ったんですけどね。享太郎ってどこか力を抜いているように見えますよね。でも必死にやっていないように見えて、ちゃんとやってますよ。それがあいつのスタイルなんだと思います」

「日本代表になれよ」

 中盤でプレーしていた森谷は、四年生の頃には自信を持って自分のスタイルを確立していた。すると練習参加をしていた複数のJクラブからオファーが届く。横浜F・マリノスからも声がかかった。

「うれしかったですね。ずっと育ててもらったクラブですし、マリノスに戻りたいと思ってサッカーをしてきましたから。両親も喜んでくれました。でも実はかなり悩んでました。プロに行った先輩をみていても、試合に出ていなければ意味がないわけで、マリノスという強豪クラブに行っても、自分が試合に出られる保証はない。それだったら、出場機会を得られるかもしれない他クラブに行き、そこで試合に出て成長することもひとつの選択なのかなと考えていました」

 森谷は人生の岐路に立ったとき、たくさんの人にアドバイスを聞くほうだという。いろいろな考え方を知ることができるからだ。でも最後は自分の判断で決めることにしている。そして競争の厳しい横浜F・マリノスに飛び込むことを決断した。

「結局は、自分次第だと思ったんです。J1だろうとJ2だろうと、試合に出れる保証なんてどこにもない。だったら、マリノスで勝負してみたいと思ったんです。それに昔からどっちを選んでも後悔するほうだったので、それなら自分がやりたいほうに進んでいこうと。実際、マリノスに入ってから後悔する時期もありましたよ。でも他のクラブに行ってうまくいかなかったら、同じように『マリノスに行っていたら・・・』と後悔していたと思うんです。結局、そういうことですよね」

 マリノス入りが決まり、大学四年生最後の公式戦となった後、そのお別れの場で風間監督は森谷に言葉をかけてくれた。プロ入りを報告した際も、喜ぶそぶりを見せていなかった指揮官は、おそらく「試合に出ろ」や「レギュラーを取れ」といった言葉をかけてくれるものだと思っていた。だが口から出てきたフレーズは意外なものだった。

 「日本代表になれよ」

 森谷はこの言葉を今も大事にしているという。

「あれだけサッカーを知っている人にそういう言葉をかけてもらったことが自分の中ですごくうれしかったんです。目指す場所をもっと高く見ていかないといけないと、気持ちを新たにしたのを覚えています。今でもつらいときにはよく思い出してます。マリノスで試合に出れないときも、もっと上を見据えて取り組まないといけないと自分を奮い立たせていました」

 プロとして横浜F・マリノスに所属すると、筑波時代とはまるで違うサッカースタイルにとまどった部分はあった。だが風間監督から指導を受けた3年間が自分の支えになっていたという。

「風間監督のサッカーって、いわば原点なんですよ。例えば筑波のときは、味方の足元に速くて強いパスを出すことを要求されましたが、マリノスではスペースに流すようなパスを求められる。だったら、自分は足元にパスを出すイメージでスペースに流すようにすればいい。でもスペースに流すパスしかできない人は、足元に速いボールを出せと言われてもできない。逆には戻れないんです。同じように、ロングボールを蹴るだけのチームは、そこからショートパスをつなぐサッカーはできないですよね?でも今のフロンターレのようにショートパスをつなぐチームなら、ロングボールを蹴るサッカーもできるわけじゃないですか。大は小を兼ねると言いますけど、パスの選択肢をとってみても、風間監督の場合は、応用ができるサッカーなんだと感じていました」

移籍へ

 横浜F・マリノス時代の11年と12年、森谷のリーグ戦出場機会はともに4試合ずつだった。満足できる数字ではないのは確かだろう。だが貪欲にサッカーと向き合い続けたことは、自らの糧になっていると胸を張って言い切る。

「まわりから見たら試合には出てない選手と見られるかもしれません。でも自分と向き合ってサッカーに取り組んでいたし、充実していました。自分にはないスタイルのサッカーをやることもプレーに幅が広がると思っていました。そればかりに捉われずに、大学のときのプレーを観てもらってマリノスに誘われたのだから、そこも大事にしようと思ってやってました。サッカー選手としてどうなっていくのかを考えながらやっていましたね」

 そして12年のシーズンオフ、川崎フロンターレからオファーが届いた。尊敬してやまない恩師から声をかけてもらったことは嬉しかった。だがその反面、マリノスに対する愛着も人一倍あったため、すぐに決断することはできなかった。

「12月の半ばに、樋口監督や強化部に呼ばれて、『期待しているぞ』と声をかけてもらっていたんです。マリノスでどういう駒になればいいのか。自分なりに居場所はできてきたと感じていましたし、クラブも自分を必要としてくれている。なによりマリノスにずっと育ててもらってきたのに、何も残さないまま、ライバルチームであるフロンターレに行っていいのか。1週間ぐらいずっと悩んでいました」

FW18 PATRIC Anderson Patric Aguiar Oliveira パトリック

 ただ川崎フロンターレに惹かれる理由もあった。監督が風間八宏だから自分にオファーが来たというのは重々承知していたが、交渉の場で庄子強化部長から言われた「中村憲剛と中盤で一緒にプレーして欲しい」という言葉も魅力的だった。最初は、漠然としたイメージだったが、自分が中村憲剛と中盤でプレーしていくイメージを膨らませていくと、気持ちが高まっていくものを感じたからだ。

 マリノスの先輩達にもアドバイスを多くもらった。フロンターレに在籍経験のあるチームメートの谷口博之(現在:柏レイソル)に相談すると、「絶対に憲剛さんと一緒にプレーしたほうがいいよ」と強く背中を押された。

 日本代表・中村憲剛のプレースタイルは自分が目指しているところでもある。それ以外にもさまざま理由が重なり、森谷は川崎フロンターレの移籍を決めた。多くは語らないが、それは彼にとって、これまでにない強い覚悟による決断であった。

 2013年1月20日、川崎市の洗足学園音楽大学で開催された新体制発表会で、森谷賢太郎は晴れ晴れとした表情でサポーターに挨拶している。

「話をもらったとき、フロンターレをよく知る頭がデカくて足の遅いマリノスの先輩に話を聞きました(笑)。フロンターレは素晴らしいクラブで、サポーターの方も温かい方ばかりだと聞きました。1日でも早くフロンターレの一員として認めてもらえるようにがんばります」

相談に乗ってもらった先輩の特徴を掴みにして笑いを誘っていたのは、密かなファインプレーだったかもしれない。

覚悟

「なんだか不思議な縁ですよね」

 兄・周平さんがしみじみとつぶやく。

「自分がフロンターレのコーチを辞めたのは去年なんですよ。その直後の4月に風間さんが監督になって…だから、僕は風間さんとはすれ違いでした。でも今度は賢太郎がフロンターレに行って風間さんのお世話になる。アイツは人生を風間さんに一度変えてもらって、プロになってからもまた呼んでもらうわけですから」

 兄とサッカーを結び続けていた川崎フロンターレというクラブ。そして弟の転機には、風間八宏という存在があった。兄はフロンターレを離れたが、今度は弟とフロンターレを風間八宏が結びつけてくれた。そこに不思議な巡り合わせを感じているようだった。

「もちろん、賢太郎に対するまわりの目はすごく厳しいと思います。でも本人もそれをわかって相当な覚悟を持ってフロンターレに移籍したはず。風間さんのためにも、自分自身のためにも頑張って欲しい」

シーズン開幕を控えたある日の練習後のことだ。風間監督のもとで久しぶりにプレーしている感想を聞くと、森谷はこんな風に話していた。

「監督からはよく『思い出せ』と言われてます。大学時代よりも高い精度を求められていますが、そこは技術ではなく、頭の意識だから『思い出せ』と言っているのだと思います。今はまだ怒られっぱなしなので、まだ意識を高めないといけない。パスひとつにしても精度、ボールの受け方もまだまだです」

 彼もまた、失ったものをフロンターレで取り戻そうとしているのだろう。

 開幕戦となった柏レイソル戦。
森谷はスタメンとしてピッチに立っている。チームキャプテン・中村憲剛が体調不良で欠場したため、中盤をタクトする役目を期待されたが、十分に機能させることはできなかった。開始5分には失点につながるボールロストをしたこともあり、ハーフタイムには交代させられている。1-3で敗戦を喫するなど、その船出は厳しいものとなった。第2節大分戦では、スタメンでは無くベンチから90分間を試合を見守り続けている。

 だがシーズンは始まったばかりだ。

「自分の信念を持ってやっていきたい」とフロンターレで戦い抜くという気概を力強く口にしている。

 覚悟を決めた人間は強い。

 プロ3年目、森谷賢太郎は川崎フロンターレが悲願とするタイトル獲得のために全力を尽くす。

マッチデー

   

profile
[もりや・けんたろう]

横浜F・マリノスから加入したテクニシャンタイプのMF。センターでもサイドでもプレーできる柔軟性もウリ。繊細なボールタッチと動き出しの質の高さは、フロンターレが目指している攻撃サッカーにもフィットするはず。新たな挑戦の場でステップアップを狙う。

1988年9月21日/神奈川県横浜市生まれ
173cm/63kg
ニックネーム:ケンタロウ、モリモリ

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